1-81 帝国最終空母エルダ Ⅳ
「美味しい?」
「一口だけどな。美味しいぞ」
一口。口に運べばもう残りがなくなる程度のピーナッツバターパンを、稔は口に運んだ。ピーナッツバターが残っているのはわずかだが、味に変化は見られない。
「久しぶりだなあ、カレーパンなんて……」
ラクトは言う。クチャクチャと音を立てて食べていないところに、ラクトの素質が悪くないことが分かる。列車内での食事中もそうだったが、彼女はマナー違反となるような行動はそうしていないし、箸だって持ち方が悪いわけでもなかった。稔も唸らせるほど……とはいかなかったが、驚いたのは事実だ。
「何見てんのさ?」
「本当、ラクトは食べることだけは上手だよな」
「酷い言い様だな。早着替えもだろ」
「悪い悪い……」
笑い混じりに謝る。稔の心を読まずとも、軽い謝りだとすぐにラクトは気づいたが、稔に深い謝罪を求めることはなかった。そこまで傷つけられた訳でもなかったし、ラクト自身もそこまでナイーブでは無い。
「それで、ここから戦争祈念館まではどれくらいなの?」
「パン屋が――ここだから、もう少しだ」
カレーパンの中身はドロドロとした液体だ。強く押し潰せば最悪、カレーの飛沫が飛び出てきて服を汚してしまう可能性、パンフレットを汚してしまう可能性だって有る。もっとも、ラクトの魔法を使えば同じものをコピー出来なくないが、パンフレットのカレーが付着した部分はコピー時に汚くなってしまう。
口に加えたままだと不安定であると考えた。そのため、稔は織桜が渡した時に付属で付いてきた袋に一部を入れながら、それを左手に持ってパンフレットを右手に持つ。ある程度は、カレーパンの中身が飛び出しても問題ないようになった。
「そっか。でも、そうなってくると――」
「……」
ラクトが織桜の方向を見る。続けて稔も織桜の方向を見た。見れば彼女は、美味しそうに他人から巻き上げたパンを食べていたではないか。距離的に考えれば、稔もラクトも戦争祈念館まで辿り着く頃にはもう、パンは原型を留めていないだろう。だが、織桜は異なる。
「織桜?」
「ん?」
「ここから写真撮影するために向かうところまでは、もうすぐなんだけど――」
「パン食べたいのか、愚弟?」
「そういう訳じゃ無いんだが……」
稔はどういった会話をするかは脳裏に浮かんでいて、その通りにしようと考えてはいた。ただ、織桜が自分を馬鹿にしてくる状況を打破しなければならない。それは、一七歳と二四歳の攻防戦であるが、そんなことをしていたら戦争祈念館についてしまう可能性が否めない。
「じゃあなに?」
「えっと――」
「さっき怒ったのがそんなに怖かったの?」
「違う! その……」
えっと、あの、その、だから、そうじゃなくて――。何とか話そうとして中々タイミングが掴めなかったり、その場を凌ごうとして言ってみたりする事がある。今の稔はどちらかというと前者な訳だが、ここまでタイミングが掴めないとなると、ラクトもため息を付いてしまった。
「度胸なし……」
声の大きさはとても小さかった。耳元で囁かれなければ聞こえないレベルだ。もちろん、難聴というわけではない稔も聞こえなかったし、稔が話そうとしている相手である織桜も聞こえなかった。
けれど、ラクトが小声でそう言ったくらいで、織桜は稔の事を馬鹿にしないようにした。何かを話そうとしているのは見え見えだったからだ。そして、ラクトがそんな織桜の内心を読むと口を開く。だが、ラクトだけが口を開いたわけではなかった。
「食べ終わらないってことだ」
ラクトは心の中を読める。だから、主人である稔が言おうとしていた言葉を先に言おうとしたのだが――結果的には稔と同じ時間に言うことになった。最後の語尾まで読んでいたから、終了時のズレもゼロコンマ。そんな召使と主人の親密さだけでは決して描けないそれに、織桜は一種の感動を覚える。
「……凄いね。心を読めるって素晴らしい」
ラクトを褒めると、織桜はこう続けた。
「これでも私は剣道五段の実力者。だから、基本的に食べる量は多いんだ。あの昼飯の量で足らせろと言われたら無理でもないけど、足りると言わないことも無理じゃないんだ。まあ、貰ったからには早急に平らげるよ」
「よろしく頼む」
ラクトがそう言うと、織桜は笑顔を見せて返答を返す。「わかったよ」という単純な一言だったが、織桜が食べなくてはいけないということが明確化した。
「歩きながら食べるから、気にせず歩いていいぞ」
「ああ、分かった」
歩かないままで居るのは、時間がただ過ぎていくだけで何も変わりはしない。それを狙っているのなら話は別だが、これからやらなくてはいけないことが有る以上、急ぎで進んでいく必要があった。
「稔。あと五〇メートルくらいだって」
「えっ……」
稔は驚きの声を上げた。思わずだったが、僅か五〇メートルしか無いのである。駅と駅の区間距離だって一〇〇メートルはざらに超えているから、それくらいであればパンは余裕で食べられるかもしれない。けれど、五〇メートルというのは流石に終わらない気がしたのだ。
「織桜、あと五〇メートルだってよ」
「――ったく。んじゃ、ここで人員増加といきますか」
そう言うと織桜は自分の精霊魂石、即ちペリドットの方に視線をまず送る。ラクトは何をするのかすぐに分かったが、稔ははじめ分からなかった。けれど、織桜が目を瞑って精霊魂石を優しく握ったことによって、稔にも何をするのか理解できた。
「――裁きを与えし剣と天秤の女神、我が精霊としてこの地に君臨せよ――」
通路に人は稔とラクトしかおらず、精霊を召喚する場所としては非常に最適な場所だった。理解者しか居ないのだから特に何も言われる必要もないし、『失われた七人の騎士』とちやほやされることも無い。
「……織桜さん。どうされましたか?」
「ユースティティア。このパンを食べてもらえないかな?」
「餌付け……では無いですよね?」
ユースティティアが織桜に聞くが、もちろんそんなことは無い。間に合わない可能性が生じたので食べてもらおうというだけであって、それ以外にこれといった意味はなかった。
「それで……。どちらのパンを食べればいいんでしょうか、織桜さん?」
織桜はどちらのパンを食べ終えてはいなかった。チョコパンにしても食べた部分はそれほど多くなく、カレーパンだって、貰ったほとんどを食べ終えていない。だからこそ召喚したわけだが、今さら織桜は悩む。どちらを渡すか決めておくべきだったとここまでの過程を軽く反省しつつ、どうするか決めていく。
「よし――」
即決とはいかなかった。けれど判断は下され、それが主人から精霊に対して通達される。
「カレーパンの残りを食べていいよ。それと、私より先に食べ終えたら、チョコパンもある程度あげる」
「分かりました」
ユースティティアは織桜の意向に沿った形でパンを食べることになった。織桜は、ユースティティアに負けない前提で食べ進めていたわけではなく、多少あげようと思ってゆっくりめに食べ進める。対してユースティティアは、主人に勝たせようと思ってゆっくりめに食べ進めていく。
「稔」
「どうした?」
「あの二人、絶対早く食べようとしてないよね?」
「お前の言うとおりだ……」
ユースティティアは主人の心を覗けるかと言ったら、決して無理なわけではない。召使であるから、覗けないことはないのだ。だが、互いにゆっくりとパンを食べていくことに夢中になり、双方を見ながら食べていた。そのため、心を覗く余裕が無かった。
「織桜、ユースティティア。早く食べてくれないか?」
「……」
「――」
稔が織桜とユースティティアに言った刹那、織桜が猛スピードでパンを食べ進めていった。接待をする必要がないと言うことを告げられ、それまでの自分を捨てるような形でどんどんとパンを食べ進める。
一方のユースティティアも、主人が食べ進めていくスピードの早さに一時は見とれるような形になったが、最後には猛スピードで食べ進めていった。
「床にカレーを飛ばすんじゃねえぞ、ユースティティア。チョコチップを飛ばすのも許さねえからな、織桜」
まるで母親の様な言い方をする稔だが、彼は決して潔癖症というわけではない。あくまで、『帝国最終空母エルダ』を改築して作られた、『巨大コンベンションセンター兼歴史資料館』に来る人が他にも居ることを考えての事だった。やはり、汚い施設には来たくないというのが実情だろうと思い、稔はそう言ったのである。
「稔は、ああいう子供っぽいことをする人が嫌いなの?」
「子供っぽいっていうか、ただ単に俺に言われて急いでいるだけな気もしなくないが……」
「そうかもね」
自分の意見を前説のような形で言ってから、ラクトに聞かれた質問に稔は答えた。
「まあ、ガキは嫌いじゃない」
「ロリコン?」
「何故そうなる! ……まあ、赤ちゃんの世話を職業体験でやったから、そのせいなのかも」
「職業体験?」
歩きながら、隣でパンを平らげようと頬張って食べている人たちが居ながら。そんな中で、稔は赤ちゃんの世話について話しだした。「ああ」と言って、こう続ける。
「本当は保育園なんか行きたくなかったんだけど、俺の行きたい場所は人数が多くてさ、第二希望も締め切られてて、第三希望も締め切られてた。それで、最後に残った保育園に行くことになったんだ」
「ほう」
「それでさ、保育園に行くと一杯居るじゃんか、幼年幼女が」
稔は保育園が有る前提で話を進めてしまっていたが、丁度そこまで来てラクトに聞いた。
「てか、保育園って施設はマドーロムに有るのか? さっきから相槌を打ってくれるのは有難いけど、意味を知らずにしてたら嫌なんだが」
「有るよ。私のお母さんが保育園で保母さんやってたもん」
「名称も同じなのか……」
「うん」
エルダレアで生まれ育ったラクトの母が保母だったと聞き、稔はそれ以上話すべきではないかと思った。彼女の母親は、彼女の幼なじみであるインキュバスという悪魔男の手によって犯され、孕まされたという事を言われていたためだ。
「気にすんな。それとこれとは別だよ」
ただ、ラクトはそう言う。「話すべきだ」と言ったのだ。保母で有る母がインキュバスに孕まされた話と、彼女の職業についての話は全くの別の話。母親に関して触れると、ラクトが悲しい過去を思い出してしまうかとも思ったが、ラクトが許可したのだと胸に刻むと、稔は続きの話を始めた。
「それでさ、職業体験で『オムツ替え』やったんだよね。もうね、やばかった。臭くて臭くて」
「そうなの?」
「そうなんだよ。おむつにシミが出来ている子も居てさ、『漏らしすぎだろ!』って言うと泣いちゃうし、だからって、替えている時に指二つで持ったりしたら悲しむだろうと思ってさ」
「臭くても言えないってか。可哀想に」
ラクトが少し笑みを見せながら言った。彼女は、稔が辛い思いをしているという『話をしているから』笑っているのだ。でも、本当にそれを『することになった時』は笑えなくなるはずだろうと稔は思った。
そして、稔はこう続ける。
「それに、保育園に行く仲間は俺以外全員女。別のクラスで話したこともない奴らばかりだったから、愚痴を零すにも独り言になるわけでさ」
「これまでろくに話しても居ないような異性の独り言には飛びつけないよね」
「そのとおり」
ラクトと稔は共感できるところが少なからずあった。生まれた国も育った国も違うけれど、一応は一七歳。価値観に少しくらい違いはあっても、全部が全部違うわけじゃない。男にしか分からないことや女にしか分からないことは共有できなくても、互いに経験してきた事は分かり合え、共有できた。
「そういうことがあったから、ガキは嫌いじゃないんだよね。子供じみた行動、手の掛かる行動を取られると流石に困るけど、それが個性ってもんだしね。まあ、そういうところに俺は文句言わない主義だから」
「迷惑かけられなきゃいいってこと?」
「そういうこと」
稔は自分がギャルゲが好きだという事があったから、いつの間にか、人の趣味に文句を言わないようになっていた。その趣味が何かに悪影響を及ぼさないのであれば、特に文句をいう理由はないと、稔はそういった立場を取ることにしたのである。
「さてと。昔の話をしている間に、残り二〇メートルだってよ」
「着かないもんだね、意外と」
ラクトがそんな事を言った後、一旦稔はラクトとの会話を止めて織桜が付いてきているか確認した。見てみれば、後方にはしっかりと織桜の姿がある。パンは先程よりも減っており、稔とラクトが会話に夢中になっている間に、ユースティティアは精霊魂石の中へと入っていた。
「……カレーパンをユースティティアに渡していた気がするけど、食べ終わったのか?」
織桜までの距離がそう遠くない。だが、通常の会話で使う声では遠い気もして、若干ながら大きめの声で稔はそう言った。食べながらだったため、織桜は首を上下に振って返答する。それは、口の中にパンが有るため口を開くのは行儀が悪く、クチャクチャという音を発する可能性も否めなかったための行動だった。
「そうか」
織桜から言葉ではなく態度で返答を貰うと、稔は言って前を向いた。そして、戦争祈念館に向かって再度歩き出す。
自分の頭上、通路の天井から吊るされている看板には、『【直進】戦争祈念館まで一〇メートル』と横書きで書かれていた。文字は白色で書かれていたが、これは電気によって文字を見やすくするためである。それ以外の背景は、エルダの全体が斜めの構図から描かれたイラストと海だった。
「織桜、食べ終わるかな?」
「食べ終わるんじゃない? 信じないより信じたほうが、人生は楽しいぞ」
「同じ年齢のやつが人生を語るとは……」
稔はそう言うが、考えてみればラクトは苦労人だ。インキュバスによって家庭が崩壊し、その根源で有る男を嫌い、そしてその矛先を大元帥サディスティーアに向け、革命を起こそうとするも失敗。殺され、そして転生して今に至る。それが、ラクトという女、ブラッドという一人の女性だ。
対して、稔はゲーマーということだけが取り柄のようなものだ。だから、苦労人というわけではない。料理を作る必要もないし、小遣いだってバイトせずとも入手できる。そんなの、苦労人なんていうものとは全く違う。
「――ほら、着いたぞ」
稔はラクトが苦労人だということを考えこんでおり、ラクトが言ったその言葉に気付かなかった。ラクトから見れば無視したような構図になっており、それを気に食わなくなって彼女が頬を抓る。ただそれによって、稔は考えこむのを止めた。
「何を考えこんでるの?」
「悪い……」
稔は軽く謝ったが、それすらもラクトは望んでいなかった。
「謝るな!」
あくまで『デート』という解釈が行われている状態だったため、ラクトはヴェレナス・キャッスルでも言っていたことをここでも言った。
「じゃあなんて言えばいいんだよ……」
「何を考えていたのかを言えばよかったんだよ」
「そういうことか」
稔はラクトから言われると、ラクトが望んでいた展開にしてあげようと考えた。
「お前が苦労人だなって思ってたんだよ。それで、お前がこれまで言ってきたことを勝手に振り返ってた」
「そっか。ありがとね」
ラクトはそう言って笑みを浮かべる。そして、そんな笑みを浮かばせているラクトが稔に感謝の気持を伝えようとした時、丁度織桜が合流した。パンはもう食べ終わっており、稔の右肩を叩くことによって合流することを告げる。
「到着だな、愚弟!」
織桜の言葉に押されてラクトは口から発しなかったが、心の中で稔に感謝を伝えていた。ラクトは心を読めるが稔は心を読めるわけではないので、ラクトの心内で伝えられた言葉は、稔に伝わりはしなかった。
(私の過去で考えこむとか、ありがとう稔――)
ラクトがそう思って顔を少し赤くする裏、織桜は稔とラクトに伝わるように言った。これまでパンを食べてきて足を引っ張っているような感じに見えた織桜だったが、その時にはそう見えなかった。
「それじゃ、写真撮影だ」
「うむ」
織桜の言葉に稔がそう答えると、稔、織桜、ラクト――と、戦争祈念館に入っていった。入ってみればそこには、第一次世界大戦争、第二次世界大戦争で使用された軍用機などが展示されていた。




