1-80 帝国最終空母エルダ Ⅲ
「何してくれんのさ」
「いいじゃん、いいじゃん」
稔は、主人という立場を利用して召使をいじめてみる。ハニトラを仕掛けられ、「試してみました」と言われたのだ。どう考えても煽っているようにしか思えず、稔はその仕返しに顔を左右に引っ張った。だが、ラクトはスキンシップとして行っていると最初思っていた。
ただ、心の中を読んだことによって、ラクトはスキンシップではないことを把握した。
「仕返しかよ」
「悪かったな。俺にはこれくらいしか出来ねえから、仕方ないだろ」
去勢するぞ、と言われても逆らえない稔。そんな稔が、仕返しとして出来る事は頬を左右に引っ張ることくらい。腹パンを食らわせることには躊躇いを感じていたし、そもそも暴力を振りたくなかった。
「でも、こうやって頬を引っ張るのは嫌じゃないんだね。暴力じゃないから?」
「仕返しだからだろ」
稔はそう言う。『仕返し』と括っておけば暴力だって振るうのではないかと思えるが、それは違った。頬を左右に引っ張る行為は、頬に少しつねる痛みが有ったとしても、暴力クラスの激痛が襲ってくることはない。それが、稔の『仕返し』という言葉の意味だった。
「……パン買ったぞ、愚弟たち」
丁度、稔とラクトがハニトラの件について話を進めていた時、そんなことを知りもしない織桜がパン屋から出てきた。彼女は稔の分だけではなく、自分の分とラクトの分も購入していた。
「何パン買ってきた?」
「私はチョコパン。愚弟はエルフィリアカレーパン」
「エルフィリアカレーパンっていうか、マドーロムカレーパンっていうべきじゃ――」
「だって、商品表示では『マドーロム』とは書いてないし……」
エルフィリアで独自の味付けがなされたカレーパンという事かもしれない、と稔は思った。パン屋、ビーリードに入店していない以上、織桜の言った情報を信じる事しか出来ない。入ろうにもリートから頼まれた事があるので、それを遂行する必要があるから時間制限が掛かる。
「こんなことで時間を潰すのなら、早く向かおう」
心の中で思ったことをすぐに口にした稔。織桜がパンを渡して答える。
「そうだね」
受け取ったパンからは香辛料の匂い。激しい辛みを帯びた匂いという訳ではなく優しい辛さ、言うならば中辛程度の匂いが鼻にきていた。そして、当然ながらパンは温かい。特に寒いわけではないからしないが、寒かったら頬に当てておきたいほどだ。
「ごめんね。アイスパン無かったんだ」
「無いでしょ普通……」
「常識的だね」
「人の事を貶しやがって……」
織桜は社会人である。常識や社会一般のマナー、そういったものを身につけている量は織桜のほうが多いと言っていいだろう。けれどそれは、永遠の一七歳たるラクトの常識が無いことを示す理由にはならない。いくら年齢が下だとしても、ラクトも常識はそれなりに有った。
「そう怒らないでよ。ほら、これ食べてほんわかして」
「これは……」
ラクトに渡されたのは白色のパンだった。ただ、これは外見が白色というだけであって、何故そうなったのかといえば白色の粉を掛けたためである。息を吹きかけて粉を飛ばせば、きつね色のパンの表面が見える。
「これ何パン?」
「食べてみてよ」
「毒味しろって言ってるの?」
「いやそれ、私が製造したパンじゃないし」
「毒味じゃないんだね。安全性は確保されてるってことならいいや」
食の安全を重視したラクト。ここまで白色の粉が大量に付けられていると、何か変な物を使っているのではないかと疑問にならないこともない。でも、粉を飛ばして見えたきつね色のパンの表面を見て、ひとまず心配は払拭された。
「美味しそうじゃん」
「毒味とかほざいた人が何を言う」
「……」
ラクトは織桜に対して無言の苛つきを見せる。女同士の争いは怖いため、稔は少し遠めに居ることにした。もちろんそれは、ラクトと織桜から距離を取るわけではない。話の中に入らないようにしようということだ。
(争い起こすんじゃねえぞ……)
内心で祈るように思う稔。まずは、心を読んでくれるラクトにそれが伝わってくれることを期待した。
けれど、そんな期待をする必要はなかった。稔がラクトの事を心配しているその裏、ラクトが口にした白色の粉が付いたパンがとても美味しく、争いなんて発生しないくらいほんわかした空気になったのである。
「美味しい!」
「良かった。店長イチオシって書いてあったから買ったんだけど、気に入ってもらえたら嬉しいな」
笑顔を浮かばせながら織桜はそう言った。ラクトだけがパンを食べているのは、なんだか自分が悲しい思いをしているように見えてきたので、言ってすぐに自分の購入したチョコパンを口に運んだ。
「美味しい……」
ラクトが美味しそうにパンを頬張って食べている隣で、織桜も買ったチョコパンを美味しそうに食べる。こうなると、残った稔だけが食べていないことになる。もちろん「我が道を行く」と食べなくても良かったが、写真撮影が待っている以上は機材を汚すわけにはなるまい。
「食べますかね……」
そう言って稔も他の二人同様、カレーパンを口に運んだ。
「うっ、うめええっ!」
先程ラクトが言っていたように、カレーの色は赤色をしていた。一口二口程度では、辛さはほとんど無く、辛味と酸味がある程度打ち消し合って美味しさを醸し出していた。カレーに牛乳は使用しておらず、まろやかさはそれほどなかったが、まろやかさは最後に手を加える場所だ。基本的なカレーであれば牛乳は入らないから、それはそれで良かった。
「香辛料もちゃんと効いてるんだな……」
食べ始め、あまり辛さは感じなかった。ハンバーグソースに近い液体に香辛料を加えたものであるため、ある程度の酸味は有ったとしても、香辛料が多ければそれを打ち消すことは出来ない。だから、蓄積された辛味となって、それが舌に訪れた。けれど、酸味があるからそこまで辛くない。
「服汚すなよ、愚弟?」
「そんなガキであるまいし。むしろ、お前のほうこそ汚すなよ?」
「これでも社会人なんですが……」
織桜と稔が言い合っている裏、ラクトは黙々とパンを食べ進めていた。でも、食べ進めているだけでは面白みはない。そこで、稔はラクトにパンの味を聞いてみることにした。
「ラクトは何パンなんだ?」
「ピーナッツバターパンだよ。美味しい」
「ちょっと分けてもらっていい?」
「いいよ」
全員が同じパンを食べているとなれば、誰かのと交換する楽しみはない。けれど、全員が同じパンを食べていないとなれば、誰かとの交換する楽しみは生まれる。
交換時にパンの量が異なることで争いが起こらないこともない。だが、ラクトは食べ進めていて量も少なかったため、渡せる量は僅かだった。稔のパンの残りと比べれば、大体二倍近くの差がある。だから、稔が意地悪をしない限りは、ラクトと稔の間で交換の際に争いは起きない。
「待った!」
織桜が口を挟む。
「どうした?」
「間接キスをする気だったらここでするな!」
「しねーよ! ただ単に、ラクトのパンの味がどういうものなのかを知りたいだけだわ!」
「ならいいや」
間接キスをしないということを聞いて、織桜はまたチョコパンを口に運ぶ。自分の前でいちゃつかれる訳にはいかないと感じたために織桜は言ったのだが、それはラクトにネタを提供しただけだった。
「間接キスをする気かと聞いてくる辺り、稔を縛ろうとしてるね?」
「縛る?」
「私だけを見ていなさい、みたいな」
「なんでそうなるんだ!」
「ほら、言葉をうまく伝えられないツンデレみたいな? 金髪の貧乳ってそういう属性多いし……」
織桜に与えられた、自分では変えように変えられないコンプレックスに対しての攻撃によるダメージは相当だった。対して、ラクトは「淫魔」とか言われても無問題だった。何しろ、インキュバスに関すること以外の攻撃にはびくともしないのだから、もともと精神攻撃には強い。
「スレンダーさんは稔のことを縛ってやりたいヤンデレかな?」
「お前……」
怒りが爆発しそうになる織桜。コンプレックスに対する攻撃が続き、稔もそろそろ止めるべきだと感じてきた。そして、ラクトが三回目のコンプレックスに対する攻撃を行った時、ついに稔が動いた。
「ノーパイ先輩!」
「もう、それくらいにしておけ。織桜はいざという時に味方になってくれる、貴重な仲間だ。弄ってもいいが、いじめたらダメだ」
「……」
「人を弄ることは楽しいかもしれないが、ある程度は加減を知っておけ、馬鹿召使が」
本当は召使のことを馬鹿呼ばわりしたくなかった。だが、相手はラクト。ある程度強い言葉で言わなければと思い、稔は敢えて使った。魔法の転用だったりで色々とお世話になっていることもあって、使う前後は複雑な思いだった。
「ごめん」
それまでラクトはテンションが高かったのだが、一気に落ち込んでしまった。馬鹿呼ばわりされたことを怒ったりはせず、稔の言っていたことを真摯に受け止める。
「織桜。俺からも謝る。悪かった」
「ホントだよ。貧乳貧乳って、お前ら年下だろうが。年上を侮辱するとは何様だ」
「はい……」
織桜の説教じみた話が始まりそうな予感がした稔。ただ、織桜はそんな年寄り臭い真似はしなかった。
「まあ、謝ってくれたから許す。でももう二度と無いと思え」
「はい」
「分かりました……」
ラクトも稔も、『貧乳』という言葉がどれほどのダメージを与えるのかを知らずに多用してきたことを考え、これまでストレスを与えてきた織桜に対して深く謝った。そして二人共、言われている方の立場になって考えたほうが良かったと深く反省する。
「それじゃ、二人共残ったパンを私に――」
「全部あげる奴が居るか!」
声を揃わせて、パンをあげることは拒否する。しかし今、織桜に弱みはなくても、稔とラクトに弱みが有った。そこで織桜は、二人が謝罪をしてきたという弱みを握って言う。
「パンをくれないと許してあげないよ?」
「……」
パンをあげれば許してくれる。ただ、あげてしまうと貴重なおやつが無くなってしまう。
「半分だけだよな?」
「仕方ない。愚弟たちの為に、百歩譲って半分ということにしよう」
稔は自分自身がまだまだ食べ進めていなかったこともあって、半分で勘弁して欲しかった。だからこそ交渉したのだが、ラクトは半分といったって少しの量。全部あげても半分上げても変わらないと感じて、ラクトは交渉なんてする必要ないと思った。
「……んじゃ、これどうぞ」
「サンクス」
まず織桜は、残っている量の多い稔からパンを貰った。少ない量であれば一口で頬張ることができるから、多い方は温存して後で食べていこうと思ったのである。
「はい」
「ありがとう」
続いてラクトからパンを貰うと、織桜はすぐに口に運んだ。稔が織桜に与えた量と比べるととても僅かであるため、織桜の予想通り、一口で頬張って食べることが出来た。
「あむ……」
一方で、ラクトも残った量は僅かだったから一口で頬張って食べようとした。だが、待っていた事があった。
「俺へわけなさい」
「……」
織桜の先客者だった稔だ。織桜が特に何も言わなければ、頬張れるサイズクラスの一口ずつで分けることが出来たのだが、今ではもう無理だった。ラクトが手に持っていたピーナッツバターパンは、僅か少しのピーナッツバターがついている一切れしか無い。
「いいよ。全部食べていい」
「でも、それって間接キスをしてしまうんじゃ……?」
「召使と主人なんだよ? 男と女とか、話を勝手に複雑にしないでいいんだよ?」
ラクトはそう言う。
「でも、普通そういうところには躊躇いが有るだろ……」
「どういう躊躇い? どうせ、男と女で間接キスは駄目だろっていうことでしょ? それなら無問題だって」
話は一向に進む気配がない。どちらかが折れなければ、何時までたっても平行線のままだ。でも、ラクトが折れてくれるような理由を稔は考えることが出来なかった。要するに、稔が折れなければ何も始まらないということになる。
「わかったよ」
織桜は、稔とラクトから巻き上げたパンを美味しそうに食べており、間接キスという単語に反応することはなかった。そのため防ぐ人は誰もおらず、折れれば最後まで話は進んでいく。
「んじゃどうぞ」
ラクトは、持っていたパンを稔に渡す。ピーナッツバターは少ない量だったが、食べてみれば味は特に変わらず。拒否反応を示すことのない、美味しい味がそこにあった。
「稔の貰っていいかな?」
「等価交換ってか。加減は効かせてもらわないと困るけど、いっぱい持ってっていいぞ」
「加減とか言ってたら、いっぱいとか言えないじゃん」
「お前のことだから、パン全部持っていくかもしれないって思っただけだ」
「そんな子供じみたことしないよ!」
ラクトからツッコミのような返答を貰うと、稔はラクトにパンを持っていかせた。ラクトは、稔から加減を効かせてほしいと言われた為、残りの三分の一を持っていくことにした。




