1-69 メッセ行き臨時列車-Ⅸ
その笑顔はとてつもない破壊力を持っていた。そんな笑顔に稔が対抗できるはずない。「可愛すぎる」などの言葉が稔の脳裏をよぎる一方、ラクトは稔から感じる体温で顔を真っ赤にしていく。
「立ち上がらなくちゃ駄目だろ?」
「でも――」
このままの状態で居たい――。それが、ラクトの心の中で思っていたことだった。鼻腔の奥に感じる稔の匂いが、彼女をそうさせたのである。男が女の艶かしい声や色気にノックアウトされるように、例えば低い声であるとか、そういうものにノックアウトされるのである。
もっとも、昨今の日本のアイドルがそうであるように、声が本当に低すぎる男性よりも少し低い程度が女性ウケしやすいと言えなくもないのだが、それはあくまで応援したいだとか、そういう気持ちである。
ラクトは稔を応援したかったが、現在は応援したいという気持ちが上には来ていなかった。「がんばれ♡がんばれ♡」などとは思っていなかったのである。稔を想う気持ちが上であったから、応援したいという気持ちは後方に隠れていた。
「……俺の顔に何かついてる?」
「ちがっ――」
「血が付いてんの?」
「そっ、そういう意味じゃ――」
稔は鈍感なように振る舞う。けれど、稔は策士であった。内面では、ラクトが『違う』と言っていることに気がついていた。でも、ラクトが若干照れ顔で自分のほうを見ていることに気がついて、少しいじってやろうと思ったのだ。
「なーんてな」
「なっ……」
稔がネタばらしして、ラクトの頭の頂点に手を置いた。稔も、ここまで来て自分が何をしているのかを大体把握した。けれど、何故かこの時は照れることはなかった。一方で、ラクトはとてもじゃないが顔を上げられない程に顔を赤く染めていた。
「意外と意地悪なことするんだね、稔」
「なんだよ。幻滅したか?」
「馴れ合いの上でならいいけど、そうでなかったら――」
ラクトが心配そうな顔を稔に向ける。そんな顔を向けられ、稔はラクトが思っていたその『心配』という二文字を解除するべく、置いていた手を上下に動かし、ポンポンと優しくその部分を叩く。
「さっきも言ったじゃん。お前は大切な召使なんだから、俺がお前を大切にしないわけ無いじゃん」
「あー、言ってたね」
ラクトはいつも通りの言葉遣いに戻った。何度も――と言っても数回であるが、一応稔は言ってきている言葉であった。ただ、何度も言えと言われるのは鬱陶しいため、この程度にしておいて欲しかった。
「まあ、これが最後にしてくれよホント。俺はお前を大切に思ってるってこと。心を覗けば分かるだろうから、もう聞くな」
「じゃあ、『その台詞を聞きたいから』って言っても言ってくれないの?」
「それは――」
稔は口籠る。確かに、ラクトに言われて断ろうと思えば断れなくはない。ただ、それはラクトが普通の態度、普通の顔をしている時である。稔には、彼女が誘惑してきた時に断る自信なんてものはなかった。それは、彼女がサキュバスであるからというのが一番の理由である。数々の男を手玉に取ってきた女だからこそ、稔は恐れた。
「上目遣いすんなっ! 俺に何をさせたいのか見え見え――」
ラクトは稔の心の中を覗いた。だからこそ、彼が何を考えているかを認知することが出来た。そしてそれを理解したからこそ、彼女は稔をいじることが出来た。考え様によっては先程の仕返しとも見て取れるが、ラクトはそのようなことを考えてはいなかった。
「だめ……?」
「――」
稔の心に、一つの男としての心が芽生えた。アダルト系の感情をラクトに抱いたり出来ないわけではない。性欲が相当な量である中高生であれば、姿を見て欲情してしまうこともあるだろう。
ただ、稔の心の中に芽生えたのはそれではなかった。上目遣いに加えて目を蕩けさせている上に、稔の顔のすぐ近くでそれをやったのである。そのため、アダルト系の感情を抱きはしなくてもテンションは上がった。心の中で、相当な高揚感が生まれていた。
「そんな顔されて駄目って言えるかよおおおっ!」
稔は本心を露わにした。聞いたラクトは近づいていた稔の胸に右手を置き、そこと電車と電車を繋ぐ上で生まれた、電車の外面の一部に左手を置いた。そして、クスクスとそれを笑って言う。
「意外と可愛いよね、そういうところ」
「可愛いって言われても、俺は喜ばないぞ」
「そっか」
ラクトはそう言うと、笑顔を見せて稔に近づけていた顔を遠ざけていった。稔は、そんなことをされてもあまり特異な感情は抱かなかった。けれど、ラクトにもう少し近くにいて欲しいかな、とか思った。もっとも、今後また歩く時に近づく訳だが。
「ハプニングで近づいちゃったけど、悪い気はしなかったじゃん?」
「俺は『悪い気はしない』なんか言った気はしないぞ」
「でも、嫌じゃなかったでしょ?」
「そりゃそうだろ。近づかれて、いい匂い撒き散らかされて、誰が嫌だっていうんだよ?」
「素直だね」
稔にも、本音と建前くらい分けることは出来るし、上手く使ってやることだって出来なくはない。先程、ラクトを弄ろうとした時がそうだった。最終的には稔の方が弄られた回数が多いように見えたが、それは仕方が無い。彼女のほうが一枚上手を行くのだから。
でも、稔だって出来る限りを演じて建前を演出した。だから、出来ないことはない。
「てか、起き上がるの遅すぎ」
「悪かったな。掴む場所がねえんだよ」
ラクトは容易に掴めるようであったが、稔が掴もうとしても掴む場所はない。
「胸を貸そうか」
「俺と同じことをしようとしてくれるのは有りがたいが、お前の場合は柔らかい感触が有るからパスだ」
「強情なのはつれないぞ。――しゃーないな」
「わっ……」
ラクトは特に力自慢とか、そういうような女の子ではない。けれど今、ラクトは稔の事を立たせてあげた。稔は自分でこんなことくらい出来ると意地を張っていたが、内心では感謝していた。起き上がれるかが分からなかったことも影響して、意地を張ったから感謝が有ったのだ。だから、生まれて当然である。
「ほら、行こうよ。手を繋ぐと恥ずかしいけど、少し近くにいるくらいだとあんまり恥ずかしくないから、これで稔は右側、私は左側を探そう」
「なんか、お前に先導されると情けない主人に見えるな」
「いいじゃん。頼っていいんだぞ」
使われなかった胸の下に手を組み、それを強調するようにしてラクトはそう言った。「ふんす」と付けてもいいだろうが、彼女にその元ネタは稔の心を覗かない限りわからないわけで、自分から言うことはなかった。
「お前がドジしそうだからパス」
「じゃあ、ヘルとかスルトとか紫姫とかは――」
「余裕で許可出すわ」
「そんなにドジしないよ! 偏見やめろ!」
「なら、今度料理作ってみてよ」
「のっ、臨むところだっ!」
ラクトにそう言ったはいいものの、稔はいつ作ってもらうかなんか決めてはいなかった。というより、冒険している訳でもない今、稔がラクトにそう指示を出したところで、料理を作る場面や場所なんか無い。時間は有っても、残り二つが無いからTPOは完成しないし、作らなくてもさほど問題がない以上、稔はラクトにこう告げた。
「やっぱり無しで頼む」
「……わかった」
ラクトはあまり悲しい顔をしていない。よっしゃ、と喜んだりもしていないが。
「でも、ドジじゃないって思える根拠が無いとなぁ……」
「これでも繊細なんだよ? あっ、分かったっ!」
「どうした?」
「折り紙! 折り紙を折ってみればいいんだ!」
「好きにしてくれ」
「うん」
ラクトは元気の良い返事をした。ただ、稔は具体的に何を折るのかを聞いた。何を折るのか聞いていたほうが評価を下しやすい為だ。突然、「どーだー」とか言われても、それが細部までこだわって作られているとは限らない。
無論、隠そうと思えば折り紙なんて隠れる面が存在するわけだから、容易――とまではいかないし完全にできる訳じゃないが、何も出来なくはない。
「稔は何を作って欲しい?」
「なんでもいい」
「駄目だよそんなの。どんな物を作ってくれたら評価してくれるのかって聞いてるのに」
「んじゃ、鶴を折れ」
「つっ、鶴……?」
ラクトは鶴の折り方なんか知らなかった。稔の脳裏に折り方が刻まれていないか探るも、ラクトはそこまでの能力を発揮できず、稔の脳裏には鶴の折り方が刻まれていないとしか認識できなかった。特別魔法ではないから、限られているのだ。
「折り方知らないのか?」
「いっ、いや、そんな訳――」
「俺の召使だもんな。知らないわけ無いよな」
稔はラクトを煽る。ラクトは、煽られるとすぐに反応するような女の子だ。だから、稔からの煽りに屈することが出来ずに反応し、結果として折り紙を、全く知らない鶴を折ることになった。
ただ、そんなのは後だ。まずは織桜とマモンを探すことが最優先だ。――といっても、ここまでの稔とラクトの絡みを見ていれば、本気でやろうと思っているだなんて感じ取ろうとしても感じ取れないが。
「さあ、いざ五号車へ!」
カウンター席のような座席が大量に有る五号車へと入る稔とラクト。ただ、丁度その時、また列車が動き出した。故に、稔とラクトがまた揺らされて大変な目に遭うのではないかという心配沙汰にならなくもないのだが、今回は特にそれといって問題はなかった。
「危ねーなっ!」
車掌に一言言いたくなる感じだったが、稔は車内で言うに留めた。何しろ、列車と列車を繋ぐ通路に居たのだ。そんなところに居たような奴が車掌にあーだこーだ言ったところで、「それはお客様が悪いのでは――」となりかねない。
時刻通りに発車しているということを考慮せずに、自分を中心に世界が回っているのだとか勝手な幻想をいだいて現実だと思っていれば、そんなのはなんの躊躇いもなく言うことが出来る。けれど、自分を中心に世界が回っているのだとか思わなければ躊躇いが生まれて当然だ。
「入ってすぐには特に変わったものもないね」
「だな」
入ってすぐのところは、横一列になっている座席が左右にあるだけだった。右側の座席に、本を読みながら目を閉じている人が居た。一方で、左側の座席にはイヤホンを耳に当てながら寝ている人が居た。
そんな二人を横に見ながら、稔とラクトは前へと進んでいく。六号車へ進むのは面倒くさいのでやめてほしかったが、五号車に探している二人の姿がなければ行くしか無い。居てくれることを願いながら、稔とラクトは更に先へと進んでいく。
「居ないな」
「だね」
稔とラクトは念入りに担当の方向を見て探すが、確かに座っていて欲しかった女性二人はカウンター席の何処にも居なかった。一号車の方面に戻った方がいい気もしたが、今更戻るのにも躊躇いが有ったから、稔もラクトもその方向へ足は進めない。
「一体何処に居るんだ……?」
列車が動いているから、そんなところで立って歩けば酔いそうになる人も居るくらいである。互いに酔いには耐久が有ったが、結果として何が待ち構えているかなど分からない。故に万が一、酔う可能性がある事を稔は頭の片隅に置いておく事にした。
「……抜けちゃったよ」
結局、五号車にも二人の姿を見つけることは出来なかった。必ず何処かに居るはずだということを大前提としているが、これは七号車までのすべての列車で見つけられない限りはその大前提を崩そうにも崩す訳にはいかない。正確性がないからだ。
「まあ、こんなところで待機していても探す時間が伸びる一方だから急ごうじゃないか」
「分かった」
ラクトが最後、五号車全体を見渡した。織桜とマモンの探している二人の姿がないことを確認すると、ため息をつく。ただ、その場所にとどまっているわけにもいかないから、彼女の前に居た稔が五号車から六号車に繋がる通路の扉を開け、ラクトを先にその通路へと入れた。
「次も私が先だね」
「おう」
ラクトは一言言って、六号車へと繋がる通路の扉を開けた。同時、稔が五号車から通路に繋がる扉を閉じた。もちろん互いに出終わってから、稔は六号車から通路に繋がる扉を閉じた。そして、そこから捜索を再開した。
「――何処に居るんだろう?」
六号車まで来ている以上は、これほど車内を移動して迷惑沙汰にならないのがマシだと思えるくらい迷惑な事をしている以上は、織桜とマモンを見つけなくては大恥だ。
乗り込んでいないことを否定してきていた稔だったが、ここまでくるとそれを肯定したくなった。探しても探しても二人の姿は何処にも見えないのだから、そう思ってしまって問題はないだろう。共感する者が多いはずだ。
「あっ……」
「なっ――」
稔とラクトが必死に探そうかと奮闘し始めた時だった。ついに、二人が追い求めていた二人が腰掛けて座っていることを確認した。顔の見間違いかと思って名前を問おうとした稔だったが、流石に公衆の面前で聞けるような度胸は彼にはなくて、実行は無かった。
「なんでお前ら、弁当食べてんだよ!」
「稔とラクトがイチャイチャしている間に、全速力で買ってきてくれたんだよ。マモンがね」
「なん……だと……?」
カウンター席の中央にテーブルが有ったりするわけではない。なにせこれは一般列車で有るから、そのような物があってはおかしいと言っていい。だから無い。
「それと、感謝しなよ」
「え……?」
「ほらこれ。ちゃんと食べて栄養つけて魔法を使うんだぞ、愚弟」
「織桜……」
織桜からの軽いアドバイスのようなものを貰って、稔は首を一回振る。そして、それを確認してから織桜は弁当を渡した。ご飯が入っていたほうが良かったが――とか思う気にもならない。
「美味しく食べろよ。ほら、端やるから」
「割り箸も貰ってきたのか!」
「同じ割り箸で食べさせるとか、どんな拷問だよ」
拷問という言葉を使った織桜だったが、特に悪気はなく、文章中の一単語として覚えただけであった。その方が協調性が上がることも考慮しての判断だった。
「んじゃ、各自で頂きますしてね」
「分かった」
織桜から指示をもらうと、稔はすぐに手を合わせた。そして、あまり大きすぎず小さすぎずの声で、「いただきます」と言った。一方のラクトも自分の身支度が終わった時、ついにラクトも「いただきます」と言った。もちろん、ラクトがその言葉の意味を理解しているとは限らないため、稔は問いかける形で質問した。
「いただきますの意味分かる?」
「わからないや」
「作ってくれた人全員に感謝しましょうっていう、日本特有の文化なんだ。その方が、なんだかいい気分がすると思うんだけど――どうかな?」
「うん。確かにするね」
「そっか」
ラクトからの好評化を貰った『いただきます』という言葉。そこまでエルフィリアでは使われている言葉ではなかったが、ここは異世界人だった。異世界の文明を伝えることも、限られた異世界人の使命と言えた。だから稔は、そうして使命を全うした。
やっと見つけた二人とともに、稔とラクトは弁当を食べながら車窓を見る。




