ラクト「大好きは、ただ一人のために」
屋内アトラクションを攻略して建物を出ると既に日は沈んでいた。西には薄っすらと橙色の空が見える。スマホの時刻は閉園時間まで残り五十分を切ったことを告げた。最後にバタバタするのはみっともないし格好も付かないので、まだ余裕があるからとあっちこっち行かずに、一点に絞ってそこへ歩いて行く。
向かった先は観覧車だった。ド定番ではあったが、小学生の頃来たっきりで遊園地は久しぶりのラクトには少なくとも陳腐な提案には思えなかったらしい。少なくとも早く出たくなるような重たいムードで乗り込むという最悪の展開だけは回避に成功する。後に乗った俺がラクトの隣に座り、係員さんがドアを閉めたところで十三分間の強制密室体験が始まった。
「今日一日、その、どうだった?」
「楽しかったよ。騙されたなりに印象深い思い出も出来たし」
「……騙したこと、謝らなくていいのか?」
「あれはサプライズの一種だと思うから、へーき!」
「よ、よかった……」
「でも、その、わ、悪いサプライズはやめてね? それだけは約束! 泣かしに来てもらっても全然構わないけど、悪い冗談だけは勘弁して!」
「もちろんだ」
ラクトが言う悪いサプライズは、「別れる系ドッキリ」とか「物隠し」とか、そういう「楽しませる目的とは反対にまず受け取り手が傷ついてしまうようなもの」を指すのだろう。俺は具体的な説明が無いなりにしっかりと想像を膨らまして、そんなサプライズは絶対にしないようにしようと肝に銘じた。
「ねえ」
「なんだ?」
「……膝の上、いい?」
「えっ」
心臓に悪いサプライズが飛んできた。
「嫌ならいいんだけど――」
「だ、大丈夫だ……」
唾を呑み込んで自分の体に意識を集中させると、昼間のウォータースライダーで密着した時のようにどんどん心拍数が上がっていくのが分かった。そんなところへ、自分から密着するような提案をしておきながらラクトが照れた表情で近づいてくる。
「……」
「……」
恥ずかしそうな素振りを見せていたこともあり、きっと背中をこちらに向けて座るのだろうと思っていたら、予想のさらに斜め上をいく回答が返ってきた。ラクトがこちらを見て座ったのである。その目はトロンとしていた。もう目の前の想い人以外に送る目はない。
「……ダメ?」
俺は何も考えずにただ首を横に振った。
それは俺からのOKサイン。その刹那に、お互いの唇が重なる。
「ん……んむっ……」
軽いキスではなかった。
契約を交わすためでも解除するためのものでも、慰めのためのものでもない。
ただ、お互いの思いを相手に伝えるためのキスだった。
「んちゅっ、んむっ、んん、ちゅっ……。ぷはっ……」
西から差していた陽光は東から差す月光に取って変わられた。
息を求めて触れ合っていた唇が離れると、月の光が二人の間に透明な糸を映す。
それを見て彼女は妖艶な笑みを浮かべた。
「……」
「――」
お互いに言葉はない。でも、お互いにやろうとしていることは同じだった。
まもなく最高点に達する。それが分かって、よりいっそう激しくなる。
「んっ……はむっ……んちゅっ……じゅるっ……ちゅっ……」
淫靡な笑みの中に、
漂う芳香の中に、
アイスクリームの味がする唾の中に、
密室に響く水音の中に、
ザラザラと当たる歯の中に、
彼女を感じる。
――俺はラクトのことが本当に好きなんだ。
「んじゅっ、むじゅっ、ちゅっ……。ふあっ――」
俺は受け入れるだけの体勢をやめて力強く彼女の背中に手を回した。
抱きしめる形になって、柔らかな感触が体の前方に伝わる。
「……最後は、目、閉じよ?」
「……わかった」
頂上に達する直前になって、お互いの目が閉じる。再び触れた唇を破って入れた舌はそのまま、苦しくなるのが分かってもなかなか解かない。息を求めてお互いの呼吸が生きてきた中で一番荒くなるまで、ずっと同じ体勢のままでいた。
「ぷはっ……。へへへ……」
唇を離した後、ラクトは恥ずかしいのを隠すように顔を綻ばせた。まだ心臓のバクバクが収まらない。最高点を過ぎて数十秒。まだ地上に着くには数分あると思って、今度はこちらから迫る。だが、それはお預けとなった。彼女は人差し指を俺の唇に触れさせて言う。
「続きは夜……ね?」
ラクトはあとほんの数センチで唇を合わせられそうな距離まで顔を近づけてはにかんだ。その言葉が意図するところは確認の問いをしなくたって分かる。俺は湧き上がってくる欲望を縛り付けて小さく頷いた。その様子を見て赤髪はニコッと笑みを浮かばせる。
「その代わり――」
膝の上を移動して乗り込んだ時の場所に戻ると、ラクトは肌が触れ合うほど距離を詰めて俺にもたれかかってきた。目を閉じ、心を許した状態で支えを求めて俺の右腕に手を絡ませてくる。自分から攻めてくるくせに顔を真っ赤にして弱々しく掴んでくる仕草が男心をくすぐった。
「……これで、お願い」
「……わかった」
観覧車が下に戻るまで俺とラクトはその状態でいた。劣情を誘う展開も無く、上がりっぱなしだった心拍数も観覧車に比例して通常の値まで下がっていく。
係員さんにドアが開けられた状態でラクトは観覧車が出発地点に戻ってきたことを知り、咄嗟に俺の腕から離れようとしたが、思いの外絡み合っていて解くのに時間がかかった。もちろんそれは偶然ではない。俺からの最高点付近で焦らされたことに対する些細な仕返しだった。
夕方の時間帯は王道展開を求めてやってくるカップル客も多いようで、係員はそんなバカップルの行動を見ても馬鹿にせず、「お幸せに」と激励の声を掛けてくれる。上であれだけ情熱的なことをやったというのに、慣れない第三者からの言葉には俺もラクトも顔を赤らめてしまった。
「それじゃ、帰るぞ。忘れ物とか無いか?」
「大丈夫! 帰りも普通に帰るの?」
「それは、ラクトが帰りも電車に乗りたいか否かによるな」
「じゃあ、乗る。もう少ししたら、こっちに生活の拠点を移すわけだし」
「魔法の無い生活に慣れなきゃダメってか?」
「そういうこと」
「わかった。じゃあ、とりあえず来たルートを戻るぞ」
ゲートをくぐり、遊園地側の駅からゴンドラに乗り込んで最寄りの駅を目指す。観覧車でベッタベタに絡んだこともあり、同じ密室空間とはいえゴンドラの中でお互いに大人しくしていた。もちろん重たい空気があったわけではない。
駅で電車を待っていると、ちょうど親から通知が来た。「帰還!」というメッセージとともに出張先で撮った写真を送り付けてきた。夏を連想させる海や山などの風景ならまだしも、夫婦が楽しそうに水着姿ではしゃぐ写真を見せつけられても困る。というか、なぜ母は無駄に露出度高めのビキニを着ているんだ。そんなのを送り付けられたらゲロ吐くぞ。
ただ、そんな息子をドン引きさせる写真を送付した後で母が親らしいメッセージを送ってきた。内容は「夕飯外で食べるの?」というもの。そういえば聞いていなかったな、と思ってラクトの背中をトントンと叩く。
「ん」
「夕飯外で食べてくるかって母さんからライン来たんだけど、どうする?」
「まだ完成してないなら稔の家でご馳走になりたいなー、なんて」
「じゃ、そういうふうに送る」
なんだ、ラクトも結構馴れ馴れしくしてんじゃん。そんなふうに思いながら母親に彼女の発言を踏まえた回答を送る。同頃、まるでそれを合図にするかのごとく赤髪が焦りだした。
「ちょっと待って。『母さん』って、稔のってことだよね……?」
「そうだけど?」
「……送った?」
「送った。でも、向こうは俺が言ったって思ってるだろ」
「そ、そっか……」
初めて会う彼氏の親に失礼な態度は見せられないと思って万が一を考え、ラクトは火消し作業すらも頭に浮かべる。「ラクトが言った」と自分以外の名前を出して要求することはしないことを告げると、赤髪は胸を撫で下ろして大きく息を吐いた。
どうせこれから会うのだから両親の顔写真でも見せてあげようと思って話をそのまま親紹介に繋げていく。そんなところに電車が来たが、たとえば踏切の遮断機が下りてきて列車が通過し二人の関係が途切れるような、そういう感じで会話が途切れること無く、それについての会話はそっくりそのまま電車に乗っている間も続いた。
京王相模原線、南武線、東横線、と乗り継ぎ、行きと同じくざっと一時間かけて自宅に戻る。サタンはファストフード店でドリンクを注文して駄弁ることを高校生らしさの象徴と話していたが、ラクトは隣に座って電車に乗るだけで高校生っぽいと語っていた。「まだ高校生じゃないじゃん」と俺がボソッと口にすると、彼女は頬を膨らませて「絶対なるし!」と声を荒げて主張する。
ただ、そんな元気一杯なラクトも俺の住む家を見て萎縮してしまった。息子の視点では恐い親ではないと思うのだが、一度軽く外で顔を見せたことのある俺でさえ、彼女の家に上がってしっかりとハイトさんやカースさんに顔を見せる時は緊張していたので、「なに緊張してんの?」と人の心を持たないような発言はしない。縮こまる彼女の背中をポンポンと叩き、「大丈夫」と優しく声を掛けるに留めておく。
自分で踏み出す一歩が大事。少なくとも親からはそう教わっている。確かに悪い言い方をすれば「放任主義」かもしれない。だが「可愛い子には旅をさせよ」という格言もある。もっとも、ラクトは「可愛い子供」と言われたらムッとするのだろうが。
「……よし」
そんなことを考えている隣で彼女が小さく口にした。もう後戻りはしないとラクトが決めたところで、俺は玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「お、お邪魔しますっ!」
親は出てこなかったものの遠くから「おかえりー」と声が聞こえた。だが聞こえたのは母の声のみで、送り付けられた例の写真を見るに父が帰ってきていてもおかしくないのに、その声は耳に届かない。きっと自室で残業か何かをしているんだろう。
朝も来た家ながらラクトの足取りは重かった。俺の三歩くらい後を恐る恐る付いてくる。ラインで「リビングで野球観戦なう」などと送り付けてきたので、とりあえず玄関を上がって二桁は歩かないところにあるリビングへと向かう。中の方が見えないガラス窓の付いたドアを開けると、すぐに将来の嫁と姑の視線が合った。
「お、おお、お初にお目にかかりますっ!」
ラクトはキョドって深々と頭を下げる。いつもおちょくってくる少女とは別人に見えた。緊張して噛み噛みの言葉を口にしながらも礼儀正しく開口一番に挨拶をしたことは高い評価をもらえたらしい。もともと母は怒らない方なのだが、最近見たことがないくらいニッコリとしていた。
「最近の子なのに礼儀正しいのねぇ。とりあえず、顔を上げて?」
母親の言葉でラクトは顔を上げる。
「『朱月』ちゃんだっけ? 『ラクト』さんって呼んだほうがいいのかしら?」
「どど、どちらでも構いません……!」
「じゃあ、私も『ラクト』さん呼びでいかせもらおうかしら」
「は、はい……」
母はテレビを消して冷蔵庫の前に向かうと中からオレンジジュースを取り出してコップに注いだ。「構わないでください!」とラクトが謙遜する姿勢を見せると、「我が家のように寛いでもらっていいのに」と朗らかに笑う。我が家のように寛いでもらおうのにお茶を出すのか、と疑問を持ったが、そこは形式的なものとして割り切る。
「ごめんなさいね。テーブルに夕飯が乗ってて飲み物もお菓子も出せないから、そこのソファに座ってもらえる?」
「は、はい!」
ラクトが元気な返事をしたところで荷物を持ってリビング端のソファへ移動する。母は三人分のジュースを透明なテーブルの上に置いていくと俺達が座った対面のソファに座った。
「とりあえず、詳しい話は息子から色々と聞いてるわ」
「一緒の高校に通うために下宿させて欲しい、ということもですか?」
「そうね。まあ、結論から言うと――私も主人も歓迎するわ」
「え、い、いいんですか?」
こんな簡単に許可が下りるなんて俺としても驚きだった。ラクトのように俺も「そんなあっさりいいのかよ」と聞き返したくなる。母はそんな若者達を見てさらに深くにある自身の思いを口にした。
「うちは『可愛い子には旅をさせよ』を貫いてきたからねぇ。もちろん、ラクトちゃんが厳密には娘ではないことは分かっているけれど、おばさんからしたら君は娘みたいなもの。まあ、『会って数分で何言ってんだこのおばさん』って思うかもしれないけど、我が家としては、自分から進んで何かをしようとする子には精一杯の支援をさせてもらうよ」
「ありがとうございます!」
「うんうん、やっぱり女の子は笑顔が一番!」
嫁姑問題なんて将来的に起きそうにないくらい順調な出だしな気がする。――と思いきや、ラクトに激甘な反動か、母は俺に色々と重荷を積んできた。
「それはそうとして、アンタ!」
「は、はい!」
「この子を絶対に泣かさないこと。いい?」
「はい!」
「うん、言質ゲット」
母親は笑みを振りまいていたが、垣間見えた鬼のような形相に俺は思わず震えてしまった。ここ最近は母親から叱られたことなんて無かったこともあり、なんだかんだ言っても母親の威厳はあるもんだと身震いする。同時進行でお決まりの文句も飛び出してきた。
「ラクトちゃん。うちのバカ息子は頼りないかもしれないけど、末永くお願いね」
「こ、こちらこそ! よ、よろしくお願いします……」
八月十二日午後八時前。外堀は完全に埋められた。
「ビール♪ ビール♪ 風呂上がりのビール♪ ふーふん……え?」
そんなところへ事情を知らない父親が入ってくる。真夏の夜の風呂上がり、流石に局部を露出してリビングに来るほど羞恥心が無いわけではなかったが、中年のおじさんがタンクトップと半パンで出て来るのは、父親を早くに失ったラクトには衝撃的に映ったらしい。
「……そちらの方はどなた様で?」
「きょ、今日から下宿させて頂く朱月と申します!」
父は突如として現れた美少女に動揺していたが、母が楽しそうに饗しているのを見て悪い人では無いのだと知り、断る素振りも見せずに「こちらこそよろしく」と明るく挨拶する。だが、日本人で下の名前しか言わない人なんてそうそう居ないわけで、仕事柄よく人と絡む父はすぐに疑問を持って質問してきた。
「名字はなんていうのかな?」
「……ヴァルプルギスです」
いかにもな外国人名が響いたところで両親は思わず口を開けた。ブラッドはラクトの本名だと聞いていたが、なるほど名字は「ヴァルプルギス」というのか。英字読みだと「ワルプルギス」などで某魔法少女を連想してしまうが、人の名前で遊ぶのは言語道断なので控えておく。父は続けて質問した。
「ヴァルプルギスさん……ってことは、ハーフなのかい?」
「い、いえ、『朱月』というのは和名で、本名は『ブラッド=ヴァルプルギス』と申します。よろしくお願いします……」
「よろしくね。ところでさっき、名字を名乗りたく無さそうに見えたんだけど」
父の質問をうけて、今一度あまり名字を名乗りたくない理由が説明される。
「その、ヴァルプルギス家は私の住む国で元々『公卿』身分だったのですが――」
「公卿ってそれ、公家のトップじゃないか!」
「アンタ、なんて高貴な女の子捕まえてきてんのよ……」
「だ、大丈夫です! もう、政争に敗れたお陰で平民なので――」
「なるほどねえ。そういうわけで、あまり名字を名乗りたくない感じなのね?」
「……すみません」
「じゃあ、うちの名字をミドルネームに入れたらどうだい?」
「い、いや、それは――」
結婚もしていないのに彼氏方の名字を貰うなんて烏滸がましいと思ったのか、それともクリスチャンネームを悪魔が貰うことに躊躇いがあったのか、ラクトが手を前に出して全力で左右に振る。そんなふうに興奮する中で彼女はつい本音をポロリとこぼしてしまった。
「むしろ、ファーストネームにしたいくらいで――って、あっ!」
「初々しいわねぇ」
「ち、ちが――くわないんですけど! いや、ちょっと語弊があるというか!」
「いいのよ、ふふふ」
「ちなみに、君の出身国はどこなんだい?」
「信じてもらえるかは分からないのですが、異世界にある国で――」
「異世界だと!」
「じゃあ、なおさら国際結婚第一号として頑張ってもらわなきゃねぇ」
そんな感じでラクトの生い立ちや故郷についての話が行われていく。始めのうちは話を逸らすことに躍起になっていた両親であったが、彼女が簡単には信じられないような生きてきた道を洗いざらい話しているうちに、自然と瞳に涙を浮かばせていた。
こんなに泣いちゃご飯食べられないということで、両親がクールタイムに入っているうちに風呂に入る。先にラクトを入れて、その後に俺が入って、いよいよ夕飯だという時にはもう夜九時になろうとしていた。家族総出(饗される人含む)で準備をして、ラクトの歓迎会を始める。
両親は仕事で北海道へ行ってきたそうで、食卓には海産物を中心としたお土産が並んでいた。両親はそれを肴に渇いた喉と乾いた瞳を酒で潤していく。飲んでいるうちに話の中心はラクトから両親に代わり、会社や上司への愚痴がどんどんこぼれてくる。彼女は義父母に自分の中の理想の家族像を重ねて、どぎつい話の内容にも参加していた。
歓迎会を終えて軽く酔っ払った両親をよそに俺とラクトが食器を洗っていると、彼女の部屋についての話題が上がった。俺の部屋の隣に物置として使われている空き部屋があるのだが、掃除していない上に寝床を作るには狭すぎるということ、そしてどれだけ謙遜されても下宿生を預かる親としてしっかりとした寝床を与えなければいけないということで、急遽、ラクトは俺の部屋で寝ることになった。
上からの圧力ということもあって学生身分は頷くしか無かった。親の前で惚気けを爆発させたくはないが、本心を言わせてもらえば、彼女と同じ部屋で寝ること自体に異論は無い。だが、客人用の布団などそもそもない我が家でそれが意味するところは、それすなわち同じ場所で床に就くということ。となれば、何が起こるかは容易に想像がつく。だが、両親は最初の決定を曲げなかった。
夜十一時になって遊園地ではしゃいでクタクタに疲れていることが睡魔を通して分かった俺とラクトは、寝る準備をした後で「お楽しみに」「頑張ってね」などと意味不明なことを言われてから、二階へ上っていった。両親にマウントを取られる前に健全に寝てやろうと思ったのだが、部屋のドアを閉めた後もリビングの方から酒豪達の声が聞こえてくるので寝付くことが出来ない。
「……寝れねえ」
もはや安眠妨害だった。眠気がどんどん覚めていく。
「課題でもすれば?」
「あー、そういえばそんなのあったような」
「理数系は教えてあげるよ? 分かる範囲で、だけど」
「そっか、お前はガチガチの理系だもんな……」
一緒のクラスになる可能性は無い。そう思うと悲しくなった。
「そのかわりこっちの『社会』はわからないけど」
「社会なんてニュース見てれば一発だから、あえて教えるのは無いと思うけどな。国語も英語も余裕な理系とか、はや敵無しだろ」
「ま、まあ? ブラッド=ヴァルプルギスさんは天才ですから?」
「……まだその名前だと『誰だよ』感あるな」
「『ラクト』呼びに慣れたせいで、言ってる本人すらそれだから大丈夫だよ?」
「むしろダメだろ!」
そんな会話をしながら勉強机の上に置かれていた教科書群から課題を取り出す。一緒にやろうという雰囲気を出すためにあえて勉強机を使わないで、その横で畳まれていたちゃぶ台を取り出して部屋の中央に広げた。ファストフード店の対面で座る席のテーブルくらいの面積はあると思われる。
「これ分かる?」
「これ? あー、面積二等分問題か、結構定番じゃん。とりあえずyを消して変数xと定数kだけの方程式にして解いて、kの範囲を出しておくじゃん?」
「その発想がもう理系だな」
「そう? 照れるなぁ。そしたら、とりあえず放物線と直線の関係を見て面積S(k)を積分する。できれば『-{a(β-α)^3}/6』を使う感じで」
「交点はさっき求めたから――インテグラルの上端と下端はこうだよな?」
「そそ。で、S(0)はx軸と放物線が囲む面積だから、積分で出るじゃん?」
「あー、二等分ってことはS(0)=2S(k)か」
「そういうこと」
「これで答えあってる?」
「いや、そこは答え見ようよ……」
そんな感じで始まった夏休み課題攻略クエストだったが、俺の課題を解くことが編入試験対策に繋がると分かってきて、徐々にラクトの指導にも熱が入るようになる。導かれた回答の正誤は自己責任だったのに、いつの間にか連帯責任に変わっていた。
数学の課題に没頭して三時間くらい潰したところで入室時に感じた睡魔がようやく戻ってきた。既に俺達の部屋以外は消灯しており、耳を澄ますと濁音の混じった鼻息も聞こえてくる。ラクトにスネーク結果を報告すると、「じゃ、終わろうか」と勉強を始めた時のような軽い感じの返答が来た。すぐに、俺の部屋は出した課題と机を戻して入ってきた時と同じ風景が戻る。
だが、その刹那。何かを察したのか彼女の口が結ばれた。勉強の直後ということで「なぜ?」という疑問が最初に来たが、ものの数秒で俺も口を閉ざしてしまう。そのくせ俺は変に冒険心を働かせて部屋の明かりを落とした。照明光が漏れないようにしていたカーテンを開けると、立待月の光が差し込んでくる。
俺がベッドの端っこに座ると、少し時間をおいてゆっくりとラクトが近づいてきた。左隣に腰を下ろすと、ちょうど月明かりが彼女の紅潮した顔を照らして、何もかもを艶めかしく輝かせる。思わずゴクリと音を立てて俺が唾を呑み込むと同時、彼女が俺の右膝の上にそっと左手をおいた。色欲を昂ぶらせる芳香が鼻孔をくすぐると、俺の耳元に甘い囁き声が触れる。
「続き……しよ?」




