エースト「最初で最後の思い出づくり」
異世界から戻ってきて三日目の朝を迎えた俺の顔には、やはり笑顔など無かった。昨日と同じように食事を摂って身支度をしていくが、その途中に表情が緩むことは無い。せめてエーストに会う前までには表情をいつものように戻そうとしたが、テレポートした後でさえも俺の表情筋は硬いままだった。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
集合場所に着いて時計に目をやると五時半すぎを指していた。紫姫、アイテイル、エーストと契約解除を進めていくのとは反比例するように、ラクトの家に俺が到着する時間はどんどん遅くなっているのが分かる。だが、茶髪精霊に怒りの感情は見えない。
「悪いな、ちょっと遅刻してしまった」
「遅刻? 面白いことを言うね。まだ三十分前じゃないか」
俺が謝るとエーストはクスッと笑って言った。確かに茶髪が言うように元の集合時間は朝六時である。しかし俺は、楽しませる側が遅れるのは好ましいことではないと思ってしまうので、やはり三十分前くらいに到着していないと遅れた気分になってしまう。そんな思いを吐こうとすると、俺の内心を知ってか知らずかエーストが遮るように口を挟んだ。
「さて。唐突だけどさ」
「どうした?」
「契約を解除してから遊ばないかい?」
「……どういう風の吹き回しだ?」
エーストは「察しろ」と言わんばかりに大きな嘆息を吐いて言った。
「帰り間際に悲しむのは嫌なんだ。確かに私は女の子が好きだけど、君を嫌っているわけではないし、むしろ好きだからね。要は、この思いが『ライク』から『ラヴ』に変わらないようにしたいんだ。昨日の一件もあったし」
エーストの言う「昨日の一件」が何を表すか俺には一発で分かってしまった。そして、その言葉を起点に昨日の様々な出来事が蘇っていく。最初のうちは楽しそうにはしゃぐアイテイルの顔も多く見えたが、やはり最後の最後に起きたイベントの印象が強すぎて、結局そこに帰着してしまう。茶髪精霊は追い打ちをかけるかのごとく俺に問うた。
「……ダメかい?」
俺は質問を受けると即座に首を横に振った。しかし、彼女の家で彼女以外とキスを交わすという罰当たりにも程がある行為は慎みたかったので、場所だけは変えさせてもらう。その旨を告げた後、エーストの手をぎゅっと握ると俺は現実世界に向けてテレポートを使用した。
風景が現実世界のものに完全に切り替わったところでエーストが言う。普段照れた様子など微塵も見せない彼女だが、いざするとなると恥ずかしいようで頬はほんのりと紅潮していた。
「じゃあ、お願いしていいかな?」
「ああ」
俺が返答するとエーストは目を閉じた。少しずつ顔を近づけていって、彼女の唇に自分の唇を触れさせる。十秒くらいで顔を離すとエーストが目を開けたのだが、彼女の瞳は劣情を誘いかねないトロンとしたものになっていた。俺はここで一つ咳払いを入れて、心の平静を取り戻してから本題に戻る。
「エーストはどこに行きたいんだ?」
「海軍に縁があるところとか見てみたいな」
「じゃあ、横須賀だな。昼飯はカレーでいいか?」
「素晴らしいチョイスだね。『エースト』はカレーが美味いことで有名だったんだ」
「へえ」
海軍らしいといえば海軍らしい。エースト曰く、金曜日には必ずカレーが出たそうだ。空母『エースト』は海軍主催のカレーコンテストでは堂々の一位を獲得することも多く、魔改造の結果として生み出された艦内の豪華過ぎる設備も相まって、「エーストホテル」など呼ばれることもあったらしい。
「他にはあるか?」
「楽しみたいことはいっぱいあるけど、時間には限りがあるからね。とりあえず基軸となるものだけにしておくよ。そのほうが案内する側も楽だと思うからね」
「んじゃ、エーストに心ゆくまで楽しんでもらえるように俺も頑張らなきゃな」
俺が楽しませます宣言のようなものをすると、エーストはニコッとして「頼んだよ」と一言口にした。その後、お互い忘れ物が無いか確認したところで家を出る。
一昨日と同じように東横線で横浜へ出ると、そこからは京急本線で横須賀中央駅を目指した。昨日ほどの猛暑にはなっていないものの、気温は既に三十度を超えて真夏日の記録がついており、列車内でガンガンに効いた冷房はいつものように心地よさを与えてくれた。
横須賀中央駅を出たところで時刻は一一三〇を回っていた。昼食を摂るにはちょうどいい時間ということで、エーストの望み通りカレー屋へと入店する。この暑さの中を五分も十分も歩いていられないと海に生きた少女が主張したので、俺は駅に近いお店を選んだ。
お土産コーナーは店を出る前に物色しようということになって、一直線にレストランのある二階へと足を進めていく。士官室をイメージした店内にエーストはビビッと来たようで、一気にテンションが上がったようだった。流石に昨日メイド喫茶で暴走した銀髪精霊ほどではなかったが。
席に着いてメニューを取ると、これがまたイカしていた。「軍極秘」と印の押された表紙をめくっていくと、カレーの写真とともにそれにちなんだ史実の文章が掲載されているページを見つける。国は違うものの、かつての仕事柄かエーストもこれには釘付けだった。二人して品書きを凝視しているところに店員がやってくる。
「ご注文お決まりですか?」
「はい。スペシャルビーフでお願いします」
「スペシャルチキンで。あと、珈琲を紅茶に変えてください」
「珈琲、紅茶はアイスとホットとございますが?」
「「アイスで」」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
メニュー表に見えた「島風」や「金剛」といった漢字艦名で、艦艇ではなく擬人化された少女を連想してしまった俺はもう末期なのかもしれない。もっとも、そんなことを言えば俺の右隣に座っているこの精霊はどうなるんだという話になるわけだが。それはさておき、店員がオーダーを伝えに行ったところで珈琲紅茶戦争が幕を開けた。
「珈琲ってそんなに美味しいものなのかい?」
「コーヒーで苦いとか言っているようじゃ子供だろ」
「珈琲の苦味も美味しいと思うけど、やっぱり紅茶の方が美味しいじゃないか」
「シェアは圧倒的に珈琲だけどな。……それともあれか? 珈琲が苦すぎて飲めないみたいな」
「そっ、そんなわけないじゃないか! いっ、いいさ、飲んでやる!」
「分かった。まあ、こうやってお互い上手い具合に噛み合わないチョイスをしたのも何かの運だと思うし、カレーも紅茶もちょこっと貰おうと思うんだが、いいか?」
「……大丈夫だよ」
はじめは許可に躊躇していたが、エーストは俺の頼みを断らなかった。何か後ろめたいことを想像してしまったのか顔がほのかに赤くなっている。俺達がガヤガヤとしているうちにどんどん席が埋まっていき、平日の昼間だというのにカレーを受け取る頃には八割近くが埋まっていた。
注文から五分くらいして、牛乳、サラダ、福神漬、カレー、と栄養バランスが考慮された彩り豊かな料理が並べられ始める。最後に珈琲と紅茶がそれぞれ置かれると、繁忙時ということもあり、店員は「ごゆっくり」と一言残すとすぐに厨房の方へ戻っていった。
「「いただきます」」
声を合わせて言った後、俺は真っ先に相手のカレーにスプーンを向けた。エーストが紅潮していた原因が間接キスにあるのではないかと考えたからだ。注文した本人よりも先に頂くのは如何なものかとも思ったが、それで恥ずかしさを少しでも軽減できるならと否応無しにパクっといく。エーストは驚いていたが、対抗心から俺のカレーにスプーンを近づけてきた。
「美味しいじゃないか。結構辛めなんだな」
「そんなに辛いか?」
「その言い草だと、まるで私が辛いものに敏感だと言ってるようにも取れるなあ」
「珈琲が苦手なだけあって辛いのも苦手なんだな、と思っただけだが」
「子供扱いしやがって! 子供っぽいのは体格だけなんだぞ!」
「知るか!」
唐突にぶっこまれた自虐ネタに俺は思わずツッコミを入れてしまった。もしかしたら、自分よりも身長の低い紫姫と比べて胸囲が小さいのが本人的にはショックなのかもしれないが、個人的には、別に異性だと思えない容姿ではないと思う。自虐に対する返し言葉の後、昼間に話すのには不適切な毒を抜いた上で個人的な感想を述べてみると、エーストは少し恥ずかしそうにしていた。
海軍カレーを完食した後、下らない話を交えながら嗜好飲料をお互いに飲み進めているうちに時間はどんどん経過して、レストランを後にした頃には一二三〇をとっくに過ぎていた。まだ急ぐ時間ではないが、ここまでスローペースで良いのかと俺は少し不安になる。一方のエーストは俺の心境など露知らず、海軍カレーが気に入ったようで、階段を降りるとすぐさま二階に行く前に目星をつけていたお土産屋のレトルトカレーコーナーへ直行していた。
「レトルトカレーなんて、食べる機会あるのか?」
「いっぱいあるよ」
「ラクトの家に居るなら料理なんて出されるだろ?」
「あー、そういえば言ってなかったね」
「何か変わったのか?」
「うん。サタンの働いていたホテルで従業員として働くことにしたんだ。ラクトの家でいつまでもヒモ生活をしているのは嫌だったからね」
サタンが働いていたホテルは少なくともラクトの家がある場所から百キロ以上は離れている。テレポートは一般魔法なので誰でも使うことが出来るが――いや、ヒモ生活をすることに繋がる可能性を排したいエーストとしては、そもそもテレポートして戻るという選択肢自体が無いか。
「てことは、皆仕事に就こうとしてるってことか?」
「大体そうだね。私とサタンはホテル従業員になることになったし、アイテイルは遊園地勤務を再開したし。紫姫もアイテイルの勤務していた遊園地で働くことにしたみたいだよ。『遊園地で働くのいいなあ』って本人も言ってたし」
「もう働いてるのか?」
「うん。紫姫は昨日から働いてるよ。面接行ったら一発OKだったみたいでさ。やっぱり、君と一緒に暴れまわったせいで知名度上がっちゃったんだろうね」
「俺のせいかよ」
向こうの遊園地で暴れまわった記憶は無いが、やはり、あのバトルタワーで銀髪精霊の待つ階層まで行くのは並大抵の者には出来ないことらしい。流石に俺が初では無いそうだが。だからこそアイテイルがあそこまで『友達』とか『仲間』とか絆を感じさせる言葉に敏感だったのだ。
「アイテイルは?」
「今日から働いているよ。紫姫と君がデートしてる時に根回ししていたらしいから、実質一昨日から勤務ってことになると思うけどね」
やはり、普通の人にはエーストが形容した言葉に聞こえるのだろう。だが、俺はその言葉で表現されるのが嫌だったのであえて彼女の話を膨らませない。
「ラクトは?」
「学校に行きたがってるよ。君が在籍している学校にね」
「学力的な意味なら大丈夫だと思うが、それ、可能なのか?」
「大丈夫なんじゃないかい? というか、君は『一応』向こうの世界の最高指導者じゃないか。執行役員達に掛け合ってみたらどうだい? きっと凄い喜んでくれるプレゼントになると思うよ」
「そうかもな。ところで、エーストは何か欲しいプレゼントとかあるか?」
「まだ十二時半じゃないか。後々のためにとっておくよ」
エーストは俺の質問に笑いながら返した。俺は「そうか」とだけ言っておく。彼女が言うとおり、まだまだタイムリミットまで時間は余りまくっている。急ぐ時間ではない。そんなことを心の中で言って思うがままに店内を物色する。結局、海軍に縁のある三笠公園へと歩き始めたのは、エーストが味の違うレトルトカレーを五個購入した後だった。
二十分ほど歩いて目的地に到着する。公園が近づくにつれて鎮座する戦艦の姿が見えるようになると、エーストは子供のように無邪気な瞳で公園の方をじっと見て、その好奇心を溢れさせていた。公園に入って少し進んだところで、東郷平八郎元帥の尊像と戦艦「三笠」の姿がはっきりと映し出される。向こうで見た海に浮かぶ巨大戦艦の中に鉄道が通っている光景も去ることながら、潮風を浴びながら見守るように陸上で戦艦が鎮座しているのもまた趣があって素晴らしい。
「中に入れるけど、入るか?」
「ここまで来て入らないわけないじゃないか」
近くの売店で入場券を購入し、俺とエーストは戦艦の中へ入る。旗艦として運用されていた期間もあった彼女は共鳴するところも多いようで、甲板の上や船内をアゲなテンションで回っていく。昨日のメイド喫茶の時とは違い、今日は俺も始めからテンションを上げて回ることが出来た。甲板に出て東京湾を眺めてすぐに、エーストが目と鼻の先に見える島を興味深そうに聞いてくる。
「あの島はなんなんだい?」
「あそこは旧海軍が要塞にしてた『猿島』だ。今は誰でも行けるけどな」
「そうなのかい? じゃあ、行こう!」
「お前、本当そういうのに目がないな。まあ、俺もそういう人間だけどさ」
甲板を見た後は船内をじっくりと見て、十分に堪能したところで記念艦を出る。俺は余韻に浸るエーストにフェリーに乗り遅れるからと急がせて、来た道を戻り、猿島行きのフェリー乗り場へ向かう。
チケットを見せることができたのは出港五分前だった。乗船時刻も去ることながら定員も超過すれすれで、俺達はダブルでギリギリを達成してしまった。夏休み真っ盛りということもあり、そもそも乗れない可能性も考えていたので本当に幸運だった。もしかしたら、エーストに憑いていた幸運の女神が味方してくれたのかもしれない。
フェリーは一三三〇に定刻通り出港した。何を思ったか、出港に合わせてエーストが「抜錨します」なんて言うものだから、俺は思わずスマホの画面を見てしまった。もしかしたらゲーム画面をつけっぱなしにしていたかもしれないと慌ててロックを解除するが、当然そんなことはなかった。




