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チートなしで敗戦国家を救うことになりました。  作者: 浅咲夏茶
最終章 現実世界編 《The last mission》
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紫姫「これはゴールでスタートライン」

 電車を降りるという頃になって、俺は繋いでいた手を解いた。紫姫は突然の行動にびっくりしたようで、えっ、と口に出しそうになる。だが、彼女の本心はそこになかった。ほんの一瞬、残念そうにしている様子を見てしまって、俺は紫姫がどうして欲しいのかなんとなく理解する。


「……降りるぞ」


 やはり俺はこういうことに慣れていないのだと痛感した。泣き出しそうといえば語弊があるが、自分の行動で楽しませようとしている相手が悲しんでいる様子を見てしまったら、自分がやろうとしている行為が相手の恋愛感情をおちょくるような行為であると知っていても、相手のためなんて言葉で後退りしないように上手い具合に取り繕って、行動に出てしまう。こんな優しさで紫姫を救うことなんて出来ないのに。――電車に乗った時とは逆に、今度は紫姫が優しく手を握り返した。


 八景島の駅を出た後、そのまま直進して海の方へ案内した。階段を降りて遊歩道に出ると、松の木々を掻き分けてパッと目の前に立派な砂浜が広がる。沢山の海水浴客が思い思いに楽しんでいるのが見える。紫姫は砂浜の様子を珍しそうに眺めていた。


「――こういう様子は素晴らしいな」


 紫姫が意味深な言葉をポッと出した。砂浜で大人も子供も誰も彼もわいわい楽しんでいる様子が、彼女の目には平和な海を連想させるものとして刻まれていたのだろう。戦争末期に開発され、思うように活躍できず、ただ苦しんでいる民衆の姿をのみ見てきた彼女にとってみれば、こうした姿はかけがえのない大切なものに映るのかもしれない。


「そろそろ水族館に行くぞ。遊園地っぽい要素もあるけど、アトラクションも楽しむか?」

「貴台に任せる」

「じゃあ、アトラクションオプションありで決まりだな」


 手を繋いだまま、ゴツゴツとした岩を右手に見て松の木々を抜けた太陽の光を浴びながら遊歩道を進んでいく。端から見れば自分達が「友達」という括りで見られない振る舞いをしているということは分かりきっていたが、俺は目的のためにそれを止めることはしなかった。



 二人分のワンデーパスを購入し、まず紫姫が行きたがっていた水族館に向かう。まずは四つのうち最もメジャーだと思われるアクアミュージアムに入った。外で太陽光がギラギラと照りつけていることも相まって、水族館の黒を基調とした照明が非日常感を感じさせてくれる。


「おおお……」


 紫姫がしいたけのように目をキラキラさせているのを見ていると、とても微笑ましかった。はじめは子供を世話する親のような気分もあったのだが、巨大水槽の前で沢山の魚が泳ぐ光景に圧倒されたり、水槽の中をエスカレーターで進んでいったりした時には、お互い圧巻の光景に息を呑んでいた。


 水槽から水に棲む生き物たちを観察した後、時間的にも良い頃合いだということで、俺は紫姫を連れてアクアスタジアムに向かった。イルカやアシカのショーを見るためである。紫姫にそういったショーを見たことがあるか聞いてみると案の定「ない」と答えたので、これは行かねばと少し足取りを早めて進んでいく。


 飼育員と海の動物達による華麗なショーを見ていく中で、「水族館といえば」といっていいほどの体験型イベントの時間がやってきた。笑顔を振りまきながら、女性飼育員がアナウンスをする。


「それでは、アシカちゃんと輪投げをしてみたいという方は手を挙げてください!」

「はい!はい!」


 活発系の子供たちが手を挙げるのに紛れて、紫姫もその色白な手を高く上げた。「こんな活発な奴だったか?」と思いつつも、楽しんでいるうちに彼女を悪い意味で拘束していた鎖が解錠されてきたのだろうと捉えて、紫姫の行動を止めない。


「それでは――、一番手を挙げるのが早かった、そちらの白いワンピースの女性!」

「えっ!」


 喜ぶ紫姫の裏で俺は驚愕していた。子供達を差し置いて紫姫を選ぶか……と少し飼育員の価値観が気になったのである。だが、紫姫以外の体験者には全員十歳にも満たないような子供ばかりを選んでいるところを見ると、心配は一瞬で晴れた。


 飼育員の隣に選ばれた三人が並び、ついさっき使っていた輪っかを渡される。トップバッターは紫姫だった。「どこから来ましたか」とかそういう質問は一切なく、「皆さん応援よろしくお願いします」という飼育員の一言だけがスタジアムに響いた。


「では、どうぞ!」

「えいっ!」

「とおっ!」


 アシカを目掛けて投げた輪っかは綺麗なアーチを描いた。アシカはこれを難なく取り、紫姫の出番は終了する。続く二人の子供は少し緊張していたが、アシカに輪っかを届けさせることができた。観客達の大きな拍手を浴びて、紫姫と二人の子供はステージを後にする。



 子供のようにはしゃいでアシカショーに参加して、降り注ぐ太陽に照らされた水槽を泳ぐイルカを真下から見て、釣ったアジを唐揚げにしてもらって食べて――。子供の頃に親と一緒に来た時とは明らかに違うベクトルで、俺は水族館を楽しむことが出来た。紫姫は初めてづくしだったこともあり、俺よりも楽しんでいるように思える。


 お互いはしゃぎ疲れたところで時計を確認すると、既に時刻は軽食を摂るにはもってこいのところまで進んでいた。勢いそのままにアトラクションに進んでも良かったが、その前にエアコンの効いたカフェで少し休憩をとることにする。対面座席に着いて開口一番に紫姫が言った。


「貴台は楽しかったか?」

「水族館か? もちろん楽しかったぞ。あそこまで張り切る紫姫の様子が見れるとは思わなかったし」

「あっ、あれは早く忘れてくれ! あんな子供じみた――」

「むしろそれが良いと思うんだけどなあ。いつもとのギャップで」


 人間誰しも、いつもなら絶対に見せることがない様子を見ると良くも悪くも脳裏に焼き付いてしまうものだ。だから、紫姫の忘れて欲しいなんて願いは無理な話だった。エピソードの破壊力が強ければ余計に脳裏から離れる可能性は薄くなっていく。


「まあ、それはそれとして。これからアトラクションに乗り込んでいくわけだが、何か苦手なやつとかあるか?」

「お化け屋敷でなければなんでもいい」

「あいにく、ここにお化け屋敷は無いんだ」

「『生憎』だと? 人の悲鳴を聞いて喜ぶつもりか?」

「いいや。驚いた時の様子が可愛いから、ついつい」

「かわ――」


 突然の褒め言葉にびっくりして、紫姫は飲んでいたリンゴジュースを思わずリバースしそうになった。だがそんなことをしてしまっては一生の恥に違いないと、ぐっと堪えてその液体を奥に向かわせる。中を空にしたところで口を開くと思いがけず咳が出た。その後でふと我に返って紫姫は思い出した。


「あ! それ実質、人の悲鳴を聞いて喜んでいるようなものではないか!」

「まあまあ、落ち着けって。お化け屋敷以外『なんでも』いいんだよな?」

「大丈夫だ」

「わかった」

「……あえて聞いてくるあたり妙に怪しいが、まあ、乗ろうとしよう」

「そう神経尖らせんなって。嫌なことをするほど鬼畜じゃないから安心してくれ」

「ついさっき貴台がポロッと口にした『生憎』という言葉は忘れないからな」

「チッ」


 俺が紫姫のはしゃいだ様子を忘れないように、紫姫は俺がポロッと漏らしてしまった本音を忘れないようにする。


「それはそれとして。飲み終わったら、ブルーフォールに行くぞ」

「どんなアトラクションなんだ?」

「フリーフォール、要は垂直落下だ。向こうの遊園地じゃそういうの体験しなかったから良いかなって思ったんだが」

「あれか。だが、ワンピース装備相手にそれを提案するのはどうかと思うぞ」

「――」

「まあ、こんな時のために……よっと」


 紫姫は一瞬で衣装を変えた。衣装を変えるといえばラクトの魔法であるが、紫髪曰く赤髪から伝授してもらったわけではなく、もらった魔導書の中に書かれていたものを使っただけだという。白いキャミソールに青のショートパンツは、色白な紫姫の肌とサラサラとした紫髪と上手いコントラストを作っていた。イメチェンした紫髪少女相手に、俺はイタリア人男性ばりに巧言を弄する。


「やっぱり何を着ても可愛いものなのな」


 しかし、流石は誇り高き戦闘機の魂を継ぐ者、もう陳腐な言葉には釣られない。紫姫はコップに残っていた分のジュースをグビグビと飲んで空にすると、その場に立って「行くぞ」と言うのみだった。彼女の表情に照れている感じは窺えない。使った道具を片し、俺は紫姫と一緒にブルーフォールへ向かう。



「結構並んでいるな」

「夏休みだしな。まあ、所要時間短いからすぐ順番が来るだろ」


 実際にアトラクションに乗っている時間よりも並ぶ時間のほうがはるかに長いなんて遊園地やレジャーパークではよくあることだ。そんなことを過去の体験談を交えて力説しているうちに、順番が回ってくる。垂直落下一本勝負であるがゆえに、人を効率的に捌いていくことができているのだろう。


 俺は靴を脱いだ方がより恐怖感が増すということで、あえて生足になって乗り込んだ。スリリングな方の恐怖体験は全然オッケーなようで、紫姫も靴を脱んで席に座る。定員人数分の席が埋まり安全確認が取れたところで、マシンが動き出した。


「おお……」


 久しぶりに垂直落下のアトラクションに乗ってまず感じたのは恐怖ではなかった。今となっては、下を見てもさほど怖くはない。向こうの世界で自分の体を使って空を飛んだ経験が恐怖感を取り除いてくれているのだろう。ふと左横を見てみると、空を飛ぶことに慣れている紫姫は何の恐怖感も見せていなかった。


「うおおおお!」

「きゃあああ!」


 だが、勢い良く急降下するのは空を飛ぶことに慣れている者にしても怖いことらしく、紫姫も叫んでいた。俺は手を挙げ足を突き出し、海の風を一身に受けながら叫ぶ。ジェットコースターとはまた違ったスリルを味わえるところが素晴らしい。


「次はバイキングに行くぞ」

「また絶叫系か?」

「『また』も何も、ここは絶叫系が多くある上に、ブルーフォールにリヴァイアサンと国内で有名なアトラクションが二つもあるからな。もう飽きたか?」

「いいや、飽きてなどいない。お化け屋敷でないことを確認したいだけだ」

「紫姫はお化けを怖がりすぎなんだよ……」


 靴を履いてブルーフォールに別れを告げ、海辺の遊歩道を進んで振り子と化した巨大船のところへ向かう。「これだ」と言ってアトラクションを指差すと、紫姫は視線をその方向に向けて「これか」と答える。来た時に見ているため、見て驚くというようなことは無かった。こういったアトラクションは大なり小なり色々な遊園地にあるため、形状を見て驚くようなものでもない。


 結構な時間待ってようやく乗り込むことが出来た。しかも取れたのが、最も無重力感を味わえることが出来て、気持ち悪さを覚える人もいるようなポジションである先端の座席ときた。これは運がいい。乗り込んだゲスト達が一通りの準備を終えたところで、海賊船が振り子のように動き始めた。


「うっぷ……」


 高さがどんどん上がっていくにつれ、無重力感も大きくなっていく。紫姫は慣れない感覚に叫び声を上げて楽しんでいた。一方俺は、小さい頃のとは明らかに違う感覚を覚える。昔は笑顔で楽しんでいたアトラクションであるというのに、振れ幅が大きくなるにつれて気持ち悪さがちょっとずつ込み上がってきたのだ。このままでは大変だと思って、少しでも気を紛らわせようと大声を出す。


 終わってみれば気持ち悪さは一瞬のことであったが、隣に座っていた紫姫は変化に気がついていたらしく、バイキングから降りた後に何度もその件で俺をいじってきた。非常に腹立たしくプライドが傷つけられたものの、俺も紫姫を怖がらせたりして笑っているような人間なので彼女を怒鳴りつけるなんて考えもしなかった。むしろ、お化けが苦手という以外の弱点を見つけてやろうという気持ちのほうが強かった。


「次、行くぞ」

「そんな状態で大丈夫か?」

「大丈夫だ、問題ない」


 吐きそうな感じは既に無くなっていると主張しても、紫姫がクスクスと笑って揚げ足を取り続ける。この調子だと各種アトラクションの前で「吐くなよ?」と言われる羽目になるのだろうと思って、とりあえず身構えておく。


「次は何のアトラクションに乗るんだ?」

「リヴァイアサンだ。日本唯一の海上ジェットコースターだな」

「ジェットコースターか、楽しみだな」


 ニヤリと笑いながら言う紫姫の裏にどんな言葉が隠されているのか想像するのは容易だった。それはそれとして、これ以上この少女に弱みを晒していてはいくら時間があっても足らないとと判断し、会話をぶち切って紫姫をリヴァイアサンの方へ行くことにする。


 数個のアトラクションを通過し、右手に松林を見ながら歩道を進んでいくと、大きくカーブしたところでジェットコースターのフォルムが映った。そのまま進み、自販機コーナーのある交差点を右に曲がって始まりの場所へと続く階段を上っていく。


 少しだけ待って、今回もまた先頭の座席を確保することになった。発進してから最高地点へ行くまでの間、絶対に紫姫にいじられかねない話を渡すもんかと強い決意を持って俺は身構えていた。本来ならそんなことしなくてもジェットコースターなど乗れるのに、先程の一件があったので念には念を入れてしまう。そうこうしているうちに、マシンは最高地点に到達した。


「うおおおおおお!」


 降車して階段を降りた後、俺は右の拳をぐっと握った。流石にジェットコースターで吐くほど身体能力に難があるわけでもガタが来ているわけでもない。別に何も誇ることの出来ないことを誇れることのように思って、俺は「ふっ」と少し勝ち誇ったような態度を見せてしまった。もちろんそんな態度は長く続かないので、区切りの良いところで謦咳を一つ入れてから口を開いた。


「次はどこに行く?」

「さっき通過した、あの水でダーッと坂を下る感じのところに行きたい」

「おう」


 ここまで来たらいっそ予約無しで行くことの出来るアトラクションや施設を全部回ろうなんて意気込んで、俺は紫姫とともに八景島の中をぐるぐる回った。



 八月半ば。太陽が出ている時間は他の季節に比べたらずっと長いはずなのに、あっちへこっちへ行っているうちに日没まで三十分を切っていた。二つの影は相変わらずくっきりと映っているが、空のメインカラーは着々と水色から橙色に移っている。


「そろそろ戻るか?」

「うむ。ここから向こうの世界に行けない可能性もあるからな」

「夕食はこっちで食べていくか?」

「どちらでも構わない。だが、もし許されるのであれば、貴台の手料理を頂きたい」

「わかった。じゃあ、とりあえず島を出て駅の方へ戻ろう」


 そう言って島を出る。本土へ続く橋を渡る最中、左肩の向こうに視線を落としてみると何とも言えない表情の紫姫がいた。


「……」


 沈黙が続く。俺だってわかっているんだ。こんなエゴイズムを働かせて紫姫に傷を負わせていいはずがない。しかし、あの世界で死ぬまでずっとのうのうと暮らしていいとも思えない。最初から誰の助けも借りないで、それでいてあの世界の統一神を下すことができたなら、きっと……。


 ――やはり俺の選択は間違っていたのか。


「稔」


 島から本土へ続く橋を渡って少し歩いたところで紫姫が歩みを止めた。続けざまに名前が呼ばれたので俺は思わず前に出そうとした足を引っ込める。視線が自分の方へ向かっていることがわかると、紫髪精霊は近くのベンチに腰掛けた。


「何かプレゼントを贈ると昨日言っていたな?」

「そうだな。何か欲しいものとか決まったのか?」

「……」


 ぽんぽん。


「ええっと――」


 紫姫は恥ずかしそうに自身の膝を軽く叩いた。それが何を示しているのかは何となく分かる。だが、確証がない。彼女の口から言わせるなんて苦だと冷静になればわかるのだろうが、ついさっきまで思いつめていたことが相まって、きちんとした対応に出られなかった。


「膝枕を……されてくれ」


 頬を照らす沈みそうな太陽が少女の頬を紅葉色に染め上げる。応じないなんてとんでもなかった。俺は「ああ」と一言だけ口にすると、紫姫の膝の上に頭を乗せた。嬉しかったのだろう、表情を隠そうとした裏にほんのりと笑みが浮かんでいた。


「……貴台は、本当に整った顔立ちをしているな」

「そうか?」

「少なくとも、貴台が従えていた者達は皆そう思っているはずだ」

「ありがとな。でも、その言葉はそっくりそのまま返しとく」


 また紫姫の顔が綻んだ。恥ずかしさを紛らわせようとしたようで俺の額へ手を伸ばしてくる。手から伝わる人肌の温もりは彼女が兵器でない証拠に他ならない。


「貴台――いや、マスター」

「どうした? 急に改まって」


 その呼び方は久しぶりだった。何か重大なことを口にしようとしているのだとわかって、俺は茶化さない程度に投げられたボールを返す。


「またいつの日か、こちらの世界に来てもいいだろうか?」

「いいに決まってる。でも、恋人関係みたいなのは無しな」

「……こういう行為は該当するか?」

「――今日限りだ」


 吐き捨てた俺の言葉を海を伝ってきた風が包み込んだ。明確に答えなかったこともあって若干の心配が生まれたが、返事が含意するところは伝わったらしい。紫姫は笑いながら大きく首を上下に振った。


「我の膝は硬かったりしないか?」

「全然。むしろ、ここまで柔らかいとは思わなかった。程よく筋肉がついてて寝っ転がりやすい。それにちっこくてやわっこい手も素晴らしい」

「……変態」

「紫姫もそんな言葉を口にするんだな。ラクト達に触発されたか?」

「……我の口が悪いのは元からだろう?」

「いや、口は悪くないだろ。口調はちょっとキツめかもしれないけどさ」

「――やはり、周囲に怖い印象を与えてしまうものだろうか?」


 そんなわけない――と言いたかったが、ここでお世辞を吐くのは間違いだろう。


「そうだな」

「……そうか」

「こうして見上げて見る分には凄く優しそうな顔をしてるんだがな」

「……」

「どうした?」


 真っ赤な顔で、至近距離でしか聞こえない声で、紫姫は呟いた。その表情には若干の怒りが含まれているように見える。


「……なぜ貴台はそう恥ずかしい言葉を照れることもなく言えるんだ」

「癪に障ったか?」

「……卑怯者」


 でも、苛立ちの感情はすぐに引いていった。


「ちょっと、わがまま入るぞ」

「わがままとは?」

「――嫌だったら拒否しろ」

「な、なな、ななななっ!」


 視線の行き先を紫姫の顔から腹部へ移す。こんなことして本当に彼女に殺されないかいよいよ心配になってきた。流石にこれは俺も恥ずかしい。でも、あえてしらばっくれることをやめはしない。


「うぅ……」

「嫌なら押しのけてくれてもいいんだからな?」

「そんなこと出来るわけないじゃないかっ! ……わかってやってるくせに」

「ん?」


 本当は聞こえている。でも、紫姫のからかわれてムスッとする表情が見たくて堪らなくて、俺は鈍感主人公みたく肝心な部分が聞こえていないような対応を続けた。



 膝枕を始めてからざっと十分くらい経ったところで紫姫は膝枕をやめた。起き上がると、防砂林の先の太陽に照らされてキラキラと光る海が視界に入る。いよいよ日の入り時刻を間近にした壮観な空を前にして、俺はその動きの一つ一つに思わず目を凝らしてしまった。


「任務はまだ終わっていないぞ?」

「……ああ」


 既にベンチを立っていた紫姫の言葉に触発されて俺も腰を上げる。やってくる現実を前に心が逃避を選んだのだと理解した。今にも溜息を漏らしそうな顔を見せないように留意しつつ、道路の左右に立った街路灯を頼りに駅の方へ進んでいく。話題は今日一日のことばかりだった。


「(まだ、時間あるな……)」


 八景島の駅舎の目の前まで来て次の電車の発車時刻を確認すると、俺は覚悟を決めて重々しい話題を切り出した。ほんの数秒前までお互いに笑っていて良い雰囲気だったのを、自らのエゴイズムで破壊したのだ。


「紫姫」


 自分達以外は誰もいないことを確認して俺はその名前を口にする。強張った顔つきの俺とは反対に、振り向いた紫髪精霊の表情は穏やかだった。


 でも、それは偽物だった。少女は激しく湧き上がる思いを何とか表に出すまいと堪えていただけに過ぎなかった。彼女の顔に浮かんでいた笑みは心の底からのものではなかった。俺は最後の最後までこの少女に覆面を被せてしまった自分を、どうしようもなく情けないエゴイズムで薄情な人間だと思った。


「なぜ、貴台が涙を流すのだ……」


 俺は彼女を「ニセモノ」だと認定したはずだった。だが――いや、だからこそ、俺の心の中には持ってはいけないはずの申し訳無さが、一生涯に渡って消えることが無いようなしこりのごとく頑固にこびりついていた。


「あっ……」


 気がつくと、俺は紫姫を抱き寄せていた。涙腺は駆られた激情の意のままに動き、止まることのない心の汗がどんどんと頬を伝ってさらに体を震わせる。


「やめてくれ。それ以上、泣かないでくれ……」


 ラクトに頼んで召使の契約を解消してもらった時とは全然違っていた。サタンに頼んで精霊から罪源になってもらった時とも異なっていた。きっと、あの世界から離脱するときが近づいていることを、そしてその意味を理解したからなのだろう。


「彼女以外の前で涙を見せるんじゃない……」


 その声は震えていた。彼女の瞳には一つ、二つ――と涙の粒が浮かびつつある。


「我まで泣いてしまうじゃないか……」


 彼女の胸の奥にだって言葉で表せないような大きな痛みが広がっているのは言うまでもない。それでも彼女は耐えている。俺のために激しい感情に負けないでくれている。もう隣にいることが出来ない相手だというのに親身になって俺を支えてくれている。


「(本当に最低だ、俺……)」


 そんな少女の思いを蔑ろになんか出来なかった。


「紫姫……」


 心底に溜まった苛立ちが俺の頬を情けなく伝う涙をくるむ。それは、俺の留まるところを知らなかった衝動がきっぱりと晴らすことも意味した。つらそうだった紫姫は、俺の様子を見届けたからか、落ち着いているように見える。


「他に言葉ことのはは要らない。――さあ、最終任務(ラストミッション)だ」


 少女の言葉の後で、俺は小さく首を上下に動かした。そして、これまでよりもさらに斜め下に顔を向かわせていく。華奢な体を抱きしめたまま離さないでいたのはせめてもの感謝の現れだった。


「……」

「――」


 互いの唇が軽く触れ合った。瞼はお互いに閉じられている。間もなくして、思いを離さないようにと紫姫が俺の背中に手を回してきた。伴って唇と唇の触れ合う面積が増える。


「……好きです」


 紫姫は敬語口調になっていた。それは、俺の前だけで見せてくれる特別な一面。


「ああ」


 けれど、俺はその純情きもちに答えることが出来ない。

 今の俺が出来ることは、さらに強い力で彼女を抱きしめ返すことくらいだった。


「初めて会ったときから、貴方のことが――」


 彼女の後頭部に回した右手で俺はその紫色の髪の毛を撫でる。


「……ありがとう、紫姫」

「う、うっ、ひぐっ――」


 泣いてしまう。紫姫が、泣いてしまう。

 折角、持っていかれそうな激情を何とか無くしたのに。


「ふぐっ……うぐっ……」


 紫姫は俺の服の裾をぎゅっと掴んで声を圧し殺しながら抑圧してきた本当の気持ちを爆発させた。俺は何も言わず、感じる強い力をただただ受け入れて、回した右手で彼女の後頭部を撫で続ける。


「思いを捨てようって貴台の彼女にあんな酷い言葉をかけて離れたのに、忘れられなかった。現実から逃げれば逃げるほど想う気持ちが高まってた。……こんなことになるくらいなら、初めから感情なんて持たなければよかった!」


 この結末は悲惨だ。でも、紫姫と会えない世界なんて考えたくない。


「嫌でもそんなこと言わないでくれ。紫姫と会えないなんて嫌だ」


 この気持ちは友情でも恋愛感情でもない。きっと、会えないなんて考えたくないという思いから来る言葉なんだろう。


「どうしてそんなに思わせぶりな言葉をぽんぽんと吐けるんだよぉ……」

「……済まない」


 吐き捨てられる涙声が大きくなった。弱々しく涙に倒れる少女は、あんな勇姿を戦闘時に見せる紫髪精霊と同一の存在だなんて到底思えない。でも俺は、それを「らしくない」で片さなかった。これも彼女の持つ一面なのだと理解を示した。


 ああだこうだとこの一週間のうちに募らせた思いをストレートな言葉に乗せて、休む暇もなく紫姫は俺にぶつけ続けた。最初は大きな痛みを伴ったが、涙に乗せられた本心が曝け出されていくにつれてダメージは下がっていった。それは暴言を吐かれることに慣れたからではない。少女の言葉に含まれる棘の量は明らかに少なくなっていた。


「……意志の弱い精霊(わたし)に、お仕置きの接吻キスをしてください」

「お仕置きって、そんな!」


 終いにはそんなことを口走る紫姫。言うまでもなく、儀式的な意味を持たないキスをしていいのか、という疑問は俺の中にすぐに生まれた。これ以上は契約解除を建前とした荒療治ではなく、ただただ俺がクズ行為を働くだけになってしまう。そんなのやっていいはずが――。


「……ダメですか?」

「――卑怯者」


 その表情には勝てなかった。俺はボソッと一言口にして、紫姫をぎゅっと抱き寄せてその唇を奪う。触れ合いはさっきよりも強かった。


「!」


 息が苦しくなって顔を離すと、呼吸したのも束の間、俺の唇めがけて背中に回していた手を肩に素早く移動させ、紫姫が俺の胸に飛び込むように口づけしてきた。


「「……」」


 何度もフレンチキスが重なる。自分が存在した歴史を残そうとして、忘れないでと口ではとても言えない感情を擦り付けようとして、本当はいつまでも寄り添いたかったと伝えたくて、紫姫は何度も何度も俺の唇に触れた。


「ありがとう」


 接吻を終えると、彼女は俺の目を見ながら感謝の言葉を口にした。その後で長く続いた抱擁をやめる。それは、俺と紫姫が本来の「友情」に基づく尊敬と信頼による強固な関係に戻ると心を決めたことの現れだった。もう手を繋ぐこともなければ膝枕をされることもない。もちろんキスなんてありえない。


「――貴台の精霊で居られて本当に嬉しかった」


 真っ赤に塗りたくられた瞳を閉じて、紫姫はこれまでで一番の笑顔を浮かべた。気持ちが揺らぐ前に行動に出なければなるまいと思って、俺は彼女の一歩前へ出る。


「じゃあ、帰ろうか」

「うむ。……あ、ふと思ったのだが、家に上がるのはどうなのだろう?」

「大丈夫だろ」


 本当の彼女よりも先に家に上げてしまうのは問題があるような気がしてならないが、異性を家に上げると言ってもリビングに通すだけである。恐らく彼女はわかってくれるだろうと思いつつも、一緒に寝るような真似をするつもりは皆無だと一応の理論武装をして、俺は話を切り替えた。


「ところで、紫姫は何が食べたい?」

「貴台の負担にならないものであれば、なんでもいい」

「わかった。じゃあ、冷蔵庫の中身見てすぐに作れるやつ作るぞ」

「うむ」


 スマホのロック画面に表示された時刻を見ればスーパーに寄って材料を調達するのは出来そうにない。冷蔵庫の中に何があったか思い出しつつ、来た時とは異なる金沢八景駅を経由する京急線のルートを選択して、予定通り八景島の駅から鉄路で帰宅することにした。


 家に着くとまず客人である紫姫をリビングへ通した。その後で、エアコンを起動して冷蔵庫の中にあるものを確認していく。そうめんや冷やし中華でも振る舞おうかと思っていたが、電車で予想した通り麺の袋は見つけられなかった。そんな時に俺は豆腐と挽肉を見つけたのだが、引き締まった体の持ち主とはいえ、やはり女性に肉料理を振る舞うことには躊躇いがあった。しかし時間的な拘束もあるので、足踏みを続けないで確認を取る方向に舵を切る。


 心配とは裏腹に返ってきたのはゴーサインだった。とりあえずお腹が満たされればそれでいいらしい。俺はレトルトご飯を電子レンジに放り込むと、目をつけておいた材料をパッパッパと並べて二人分の麻婆豆腐を作っていく。手の上で豆腐を切るのは達人技に見えたようで、その間少女は口を開けたままその様子を見ていた。


 紫姫は俺作の麻婆豆腐を美味しそうに食べてくれた。やはり女の子には心底からの笑顔が似合う。もちろん彼女だけが顔を綻ばせていたのではなくて、「ホンモノ」の笑顔は俺の顔にも浮かんでいた。もっとも、時折「これはいい父親になるぞ」とか「嫁が倒れても子供を任せられるな」と茶化しの言葉が挟まれたときには対抗する顔色に変化したが。



 食事を振る舞ってマドーロムに戻ると時刻はタイムリミットのわずか数分前だった。現実世界での契約解除を意味する行為が意味を成すのか確認するべく、真っ先に俺と紫姫の間に一切の契約がないことを確かめる。結論だけ言えば、俺の命令に少女はピクリともしなかった。


「最後に、我の心からの気持ちを伝えておく」

「なんだ?」


 目を瞑って大きく深呼吸してから、紫姫は笑顔で言った。


「あなたに出会ってから今まで、ずっとあなたのことが大好きでした。絶対に彼女さんと幸せな家庭を築いてください」


 家庭という言葉に「気が早すぎるのでは?」との思いもあったが、今はそうでも行き着く先はそれに違いない。親友からの激励の言葉だと捉えて、俺は頷いて「もちろん」と口にした。


「あと、早く子供の顔が見たい」

「まだ若いんだから親みたいなこと言うなよ……」

「建造年齢でいえばもうババアだぞ。流石に三桁ではないが」

「聞いてねえよ」


 最後の最後で台無しにしやがってと思っていると、続けざまに紫姫が意味深長な行動を取った。何を求めているのだろうと俺は少女に問う。


「どうしたんだ、小指立てて突き出して?」

「指切りげんまんをするんだ。知らないか?」

「知らないわけ無いだろ。――で、何を約束するんだ?」


 質問の刹那、紫姫の眼差しは先程までとは打って変わって真剣なものになった。


「『お互いに幸せになる』ことだ」

「わかった」


 手を同じ形にして俺は紫髪の方に出していった。小指と小指が交差したところで相手のを掴むと、互いに声を合わせて何百年と受け継がれてきたフレーズを口にする。


「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます! 指切った!」」


 心の底からの笑顔で俺と紫姫は別々のスタートラインを切った。

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