5-69 帰還
「ここは――」
その交差点には見覚えが合った。じりじりと暑い日照り、トラックの騒音、沢山の人混み、そして普段と変わらぬ大都会で狂った黒髪の少女が数々の人間を殺しているという光景は、確かに彼の記憶の中に刻み込まれていた。
妊婦は首を切られてもなお血だらけになりながらまだ生きている乳飲み子を抱きかかえている。SNSに惨状を上げようとした女子大生は腹部を引き裂かれた。誰もが警察を呼ぶが、信号は赤信号のまま。まっすぐ市街地を貫く道路の北の方を見ると、警官が何か見えないものでこの惨状を見ることを妨害されているのが分かった。
「あれは……俺?」
鮮血を道路に散らかす自分に似た顔をした男。まだピクピクとして生き長らえようとしていたが、既に呼吸は荒く生死を彷徨っているのはすぐに分かった。少女は新幹線の高架橋に飛び移ってそこを疾走すると、天高く飛んで通行人をどんどんと滅多刺ししていく。
「にひっ」
次はお前だ。黒髪の少女はただ笑うだけだったが、彼はその不気味な笑みをそうとしか汲み取れなかった。手も足も顔も震えそうになったが、ぐっと足を地につけて踏ん張り、戦線から退くことがないように気持ちを引き締める。そして彼は魔法の使用を宣言した。
「終焉ノ剣!」
「ひひっ」
少女は魔法使用宣言などしない。彼女は殺そうと思った対象物に次々と剣を振り下ろしていくだけだ。彼は自身の紫色の光を放つ剣でこれを防ぐが、とんでもない力を前に体力の消耗が著しい。こんな攻撃をたくさん喰らってしまったらすぐに限界を迎えてしまう。だが目の前の狂気に満ちた人間に打ち勝たなければ、閉鎖空間での猟奇殺人は続く。
「やるんじゃない、やるしかないんだ!」
彼は覚悟を決めて少女の方へ向かって駆けていった。相手ほど超人的な跳躍力はない。相手のように思っていることと見せる様子を別にすることをいつもいつもやることはできない。だが、やるしかない。ここでやらないでいつやるんだ。強い決心が彼の回避能力を高めた。
「チッ!」
「はッ!」
虫を叩くように少女を上から勢い良く叩く。紫色の剣先には一瞬で血飛沫が付着した。目の前では黒髪の少女が白目を剥いてその場に倒れる。彼は勝利を確信した。少女が落とした剣を取り上げて自身の剣で刃の中央部を一刀両断する。
「にひひひひっ!」
刹那。彼の背後から大きな振動が伝わった。振り向けば笑顔を浮かべる黒髪の少女。しかし、それは先程戦っていた少女と姿形は一緒でも個体としては違っていた。新たに作られた黒髪の少女は自分の屍を食べて個体としての存在を保っていた。常に笑みを浮かばせて剣を振りかざす少女に対し、彼は戦慄せずにいられなかった。しかし、このままではダメだと首を横に振って立ち上がる。
「ふあああああッ!」
殺しても生き返るなら徹底的に殺せばいい。そう思うとすぐに彼の中の理性はバニラみたく溶けていった。少女の首を飛ばし、内臓に何度も何度も剣を突き刺す。眼球や腸や子宮を引き抜くほど猟奇的なことはしなかったが、少女の肌を赤く濡らすほどの殺意を向けたのは確かだった。
何度少女を刺したかなんて彼には分かりっこないことだった。ただ剣を何度も突き刺して傷を負わせたという事実だけがそこにあったのみで、彼は自分という存在を見失っていた。だが、黒髪の少女が本当に命を亡くした時に彼は目の前にいる存在を知る。
「理乃……?」
佐倉理乃。それは彼が中学時代に付き合っていた少女だった。息を引き取ってから少女の名を思い出し、彼はついに曖昧だった自分という存在を確定させる。忘れようとしていた思い出が一気に蘇ってきた。彼は理乃の鮮血に濡れた剣を彼女のそばに置く。
「ごめんな……」
彼の言葉など届くはずが無かった。死人に口は無い。耳も無ければ目も無ければ鼻も無いのだ。彼女にはもう何かを伝えることも受け取ることも出来ない。けれど、不思議だった。そうであるはずの理乃がニッコリとしていたのだ。そして脳内に響く何かが伝わる。聞き覚えのある声だった。
『謝らなきゃいけないのは私の方だよ。君の恋心を弄んだんだから』
「もういいよ、そのことは」
『私はあれから悩んだんだ。あれだけ君のことを傷つけたのに逃げてるだけでいいのかなって。でも、君は絶対に私と会うことを望まなかった。私の話さえ聞いてくれなかった』
「それでこんなことをしたのか?」
『それが、私にもわからないんだ。なんでこんなことになってしまったのか』
「お前は今生きているのか?」
『死んでるよ。私は君が高校に入ったのを見届けて死んだ』
「そうか」
脳内に確かに死んだはずの理乃の声が聞こえてきた。彼女は彼と距離を取ろうとして「君」と呼ぶに留めた。目の前にいる相手の本名は四年前から知っているし、下の名でお互い呼んでいた時期もある。けれど、理乃は今の自分にそんなことをする資格などないと考えていた。沢山の人を巻き込み、沢山の人を傷つけ、沢山の人に迷惑をかけたせいで一番大きな被害に遭った相手には、よそよそしく接するほか無かったのである。
「言い残したことはあるか?」
『無いよ』
「なら、これでお互いきっぱりと別れよう。で、お前はちゃんと成仏しろ」
『あれだけ怒号を浴びせていたのに、優しい言葉をかけてくれるんだね』
「俺はそういう人間だ」
『そっか。……じゃあ、お元気で』
そう言うと理乃は静かに白い光に包まれて消えていった。彼女の存在が閉鎖空間から消失するとともに、警察を妨害していたバリアが解除される。彼が理乃の近くに置いた剣は閉鎖空間に置き去りにされた。ついさっきまで死ぬ一歩手前を彷徨っていた人間達は何事もなかったかのように歩道を歩いている。だが、もう一つだけ理乃と同じように過去に葬り去られた存在もあった。
「……銀行、行かなきゃな」
俺は消えた存在からバッグを継承した。中には一万円くらいが入った財布、満タンに入っているモバイルバッテリー、充電用USBケーブル、イヤホン、判子、身分証明書と外出するのに必要最低限のものが入っている。彼が一歩前に足を踏み出すと新たな曲が始まった。テンションがあがる電波曲だ。俺はそれを聞きながらノリノリになって銀行に足を踏み入れる。
万一のために貯金していた口座から五万円を下ろした後、俺は駅周辺に行って家電量販店巡りを始めた。もちろんそこで買う気はさらさら無い。粗悪品を押し付ける店員に遭遇する可能性があるからだ。家電製品――特にパソコンは安いことと自分にとって必要な機能がびっしり詰まっていることの二つが満たされれば大体使っていて不便に思うことはない。
製品カタログを入手し、値段を確認し、家に戻る。暑い中を歩くのは苦痛以外の何物でもなかった。早くエアコンの聞いた自室に戻りたい。その一心で彼は家に戻った。だが、いざ自分の部屋に入ってみるとそこは熱帯雨林もいいところ。エアコンを運転したまま外出したのが親の癪に障ったらしく止められていた。俺はすぐさまリモコンを本体に向かわせて運転を再開させる。
時刻は昼の三時。ネット通販サイトで格安パソコンを検索しようとしたが、あくまでも現実世界とマドーロムを行き来できるかどうかを調べることが目的である。それだけで一時間半費やすのは正当性がない。絶対に何か隠していることがあると疑われる。俺は何か言われるんだろうな、と思いながらテレポートを使用した。
だが、ラクトの家に戻った時に聞こえてきた声は俺の予想をいい意味で裏切ってくれた。リビングに姿を表すと、おちょくるだろうと思っていたラクトが泣く寸前の顔で出迎えたのである。
「えっ、ちょ、なんで泣いて――」
「見てくるだけとか言いながら長すぎるんだよ! もしかしたら行ったっきりでもう戻ってくるこないんじゃないかって心配したんだからね!」
「本当にごめん。自分勝手に一時間半も使って」
「反省するなら態度で示して欲しいな」
「わかった」
新しいパソコンを買っている場合ではない。俺は自分がしでかした罪の重さを理解して彼女の頼みに即答する。また、見渡すと自分達以外がまるで居ないかのような静けさだったので俺はそれについても聞いた。
「紫姫達は出かけたのか?」
「うん。服を買いにね。お姉ちゃんは寝てる。お母さんからは昼ご飯居らないって連絡きたけど、お昼ごはん何作る?」
「ラクトの手料理食べてみたい」
「それじゃあ、スパゲティでも作ろうかな? おかずは朝の残りがあるし」
朝ごはんのおかずで昼に持ち越すことを予測して作っていると考えられるのはただ一つ、ポテトサラダくらいである。目玉焼きもウインナーも昼の分まで作るとは思えない。前提を作って俺は聞いた。
「サタン、そんなにポテサラ作ったのか」
「うん、じゃがいも全部使ってくれてた」
「いいのかそれ?」
「サタン曰くお母さんがそう言ったみたいだよ。てことで、スーパー行こ!」
「お金はお前持ちか?」
「うん。最終的にはお母さんが出してくれるっぽいけど」
そうして俺とラクトはスーパーへ向かった。時刻は朝十時すぎ。日本時間では午後三時くらいだから、ロパンリがある地域はそれよりも五時間遅いことになる。昼食の買い物に出るのには少し早いかもしれないが、彼女と外出することへの嬉しさに近いもので一杯だった俺は何も気にしていなかった。
「なあ、ラクト」
「なに?」
「呼んでみただけだ」
「へへー、そっかー」
お互いニコニコしながらヴァリナット駅のすぐ近くにあるスーパーへ向かう。ラクトの家からの所要時間は歩いて五分足らず。駅に向かってメインストリートを進むだけだった。スーパーでハイトから頼まれた分の食材を買った後、二人はすぐに家に戻った。終わってみると相当な量を手に持っており、寄り道する暇など無かったのである。
「ねえ、稔」
「どうした? 呼んだだけか?」
「なんで心の中読んじゃうかな! 面白くないじゃん!」
スパゲティが出来るのを待ちながら、俺はラクトをいじって遊んでいた。ちょくちょく仕返しされることもあったが、お互いに激高することも無く笑顔で終わる。彼女が料理している最中に帰ってきた居候組は、そんな二人の様子を見て溜息をついたりイライラしたりしていた。だが、いざ調理を終えて昼飯の時間になると皆笑顔になっていた。
昼食後、ショッピングで疲れたのかサタンが昼寝に一番乗りした。徹夜の疲れが一気に襲ってきたらしく、寝て数分後に様子を見に行ったエーストがつついても何も反応しなかったと証言する。
昼二時を回った頃、俺はラクトに現実世界へと戻ることを告げた。精霊三人もそれを見ていて俺はさながら卒業式で後輩に囲まれる先輩のようになったが、泣いている者は居ない。行って帰ってきたという実績が既にあるというだけで、彼女らは安心して彼を送り出すことが出来た。そんな帰りの間際に、俺はポッと思い出したように一つ質問をする。
「そういや、例の俺と一緒に現実世界で遊ぶ話は誰かトップバッターなんだ?」
「我だ。明日の朝九時にここに来てくれ」
「こっちの時間ってことだよな?」
「そうだ」
ロパンリの時間で朝九時ということは日本時間で昼の二時ということである。それでは回れる場所も回れないだろう。紫姫が考えてくれたプランに則って進ませたい気持ちも山々だったが、遊ぶ時間を少しでも長く確保したかった俺は計画の変更を要求した。
「明日の朝六時じゃだめか? 向こうだと少し早い昼飯の時間に重なるんだが」
「分かった。では、明日の六時にこの部屋で待っている」
「おう。そんじゃ改めて、ラクト、紫姫、アイテイル、エースト、また明日!」
こうして俺は、一週間の異世界生活にひと区切りをつけた。テレポートをする際に一度も後ろを見なかったのは、絶対にまたここへ戻ってくるという気持ちの現れに他ならない。
黒髪の姿が見えなくなった後、精霊三人が参加してラクトを先生とするお菓子作り講習会が始まった。それが意味するところは言うまでもない。
そんな精霊達の努力など露知らず。稔は本人的には久しぶりの我が家で艦艇育成ゲームを楽しみ、アラームを八時にセットして丑三つ刻の頃に床に就いた。




