5-66 クレイジー・サイコ・レズビアン
河川敷で下らない話をしたり、自販機で買ったジュースを飲みながら歩いたり、公園のベンチでぐでーっとしたり、ヴァリナットの街を十分に堪能して俺とラクトは家に戻った。まだ日は沈みそうにないが、西から差さる太陽の光は傾いていた。インターホンを押すことなく堂々と敷地へ入り、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「た、ただいま……」
「照れてる?」
「慣れてないだけだ」
俺はそう言うと咳払いして照れを隠した。相手の親が許してくれているとはいえ、「お邪魔します」から「ただいま」に切り替えるのは勇気がいることである。時間差があって、リビングの方からハイトではない女性の声が聞こえた。玄関に赤いヒール靴が出ていたので、俺はお客さんが来たのだと思って話を進める。
「誰かお客さん来てるみたいだな」
「お姉ちゃんの声だと思うんだけどなー。ま、上がろう」
靴を脱いで上がるが、二人とも靴を下駄箱に仕舞うことはない。家の住人との適当な距離感を二人とも掴めていないのである。
リビングに向かう途中、中の様子がぼかされた部屋の電気が点いていたいるのが分かった。大体予想はつくがラクトに一応確認してみる。無論、予想通りそこは風呂場だった。先程返事が無かったことを考えれば恐らくハイトが入浴しているのだろう。「使用中」と書かれた木札が掛かっていた。
風呂場前を通過してリビングに向かうと、カースが血のような色のジュースを飲んでいた。ラクトに続いて俺も「ただいま」と言うのだが、その鮮紅色に体を震え上がらせてしまって挨拶が曖昧なものになってしまう。その動揺を感じ取った彼女は、軽く笑って言った。
「あれは血じゃないよ。ブラッドオレンジジュース」
「良かった……」
ラクトはさらに、カースやハイトは吸血鬼の血が強めに出ているため、年に数回血を欲しくなってしまうのだと話を続けた。一度気を起こすと何をしでかすか分からないということで、定期的に血に模したものを摂取することで心の安定を保っているのだという。ラクトの場合は淫魔と吸血鬼の血の濃さが同じくらいで性質を打ち消しあった状態であるため、衝動は起きないそうだ。
「お姉ちゃんこれから仕事なの?」
「ええ。もうお風呂に入ったので、あとは夕食を摂るだけです」
「わかった。稔、風呂は夕ご飯の後でいいよね?」
「ああ。もうハイトが入ってるみたいだから盛り付けするか」
「温め直しておいたのですぐにでも盛り付けできますよ」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
ラクトの言葉にカースはニッコリと笑みを浮かべた。一方、赤髪を追って俺が口にした「ありがとう」という言葉にはそこまで嬉しそうな反応を見せない。俺はそんな義姉の様子を見て、初対面ではないにしても会ってすぐに嫌な態度を見せてしまったのはまずかったと軽く後悔した。
カースが温め直してくれた上にスプーンや箸の準備をしてくれたおかげもあって、盛り付けはものの数分で終わる。しかし、思っていた以上に簡単に終わったことを喜ぶべきところで、俺の心の中は真っ黒に染まってしまっていた。鍋敷きを片付け、フライパンを流しに置いて、大きな溜息を吐き捨てる。
「(前途多難だなあ……)」
溜息の原因はただ一つだった。ラクトと話す時はすごく嬉しそうにしていた一方で、俺が指示を出した時は事務的な返事しかしてくれなかったのである。今日で顔を合わせたのが二回目で、まだ適切な距離感が掴めていないのだろうと思っても、まるで嫌っているかのような態度を取られるのはつらかった。あまり浮かばない顔をしている俺を見てラクトが話しかける。
「具合悪い?」
「いや全然。疲れが一気にドーンって来てるだけだ」
「そっか。一時間歩きながら話してたわけだし仕方ないよ。でも無理はしないでね?」
「わかってるさ」
俺は心の中にある感情とは明らかに正反対の表情を顔に出して答えるだけで精一杯だった。ふとカースの方を見ると不機嫌そうな顔をしているのが分かる。感情表現が苦手なら誰にでも不機嫌そうな顔や強面の顔を見せるわけで、人によって態度を変えているあたり、本当に嫌われているんじゃないかと俺は思うようになった。
「(聞いてみようかな)」
そんな時にラクトがリビングを出ていった。俺はこのタイミングを逃す訳にはいかないと思って意を決し、視線を合わせまいとするカースの方へ少し近づいて結んでいた口を開く。俺は堂々と構えて端的に質問した。
「カースはなんで俺とラクトが話している時、あんなに不機嫌なんだ?」
カースは俺のことを鼻であしらって答える。
「あの子を本当に理解しているのは私だけなの。あの子と親しくしていいのは私と母様だけなの。どうせ、貴方はあの子を弄んでいるんでしょう? 悪いことは言わないわ、さっさと別れなさい」
「嫌に決まってるだろ」
「そう、まあいいわ。あなたのことなんて私も母様も歓迎していないから」
「カース!」
突然リビングのドアが開いたと思うと、次の瞬間ハイトが怒鳴り声を上げた。
「あなた、まだそんなこと言っているの? あの子とは血が繋がっている上に女同士じゃない! 私は絶対に認めないわ」
「誰も人の恋を止める資格なんてないのよ、母様」
「私はあなたの母親だもの。あなたを正しい道に導く義務があるわ」
「母親だから? ふざけるのもいい加減にして! この家を回してるのは私よ。お金を稼いでいるのは私なの。あなたは何もしていないじゃない! 金を使うだけの存在が、よくもまあいけしゃあしゃあと金を稼ぐ存在に指図できるわね!」
ハイトは何も言えなくなってしまった。性奴隷として政府に連行され、様々な部分がズタズタにされてしまったこともあり、彼女には母親であるということくらいしかアイデンティティを成すものがなかった。自分が自分である骨格を外され、ハイトは顔を下に向けることしか出来なくなる。
「あの子はもう死んだのよ。永遠の存在なの。それなのにあなたはそれを生き返らせた。しかも恋愛関係を持ってしまった。あの子のパートナーは永遠に私だけなのに!」
「ラクトとカースが恋愛関係を持っていた証拠はあるのか?」
「あるわ。あの子が死ぬ直前に書いた手紙に『お姉ちゃん大好き』とあったもの」
カースの発言を聞いた刹那、俺は何も考えないまま衝動に駆られてラクトの元へ走り出した。無我夢中で一階の至るところを探すが、赤髪はどこにも居ない。リビングからは大きな笑い声と俺を見下す言葉が発され続いている。
二分ほど一階を駆け回ってから俺は二階へ進んだ。下階に比べれば差し込む陽光の量は少なく静かで暗い。上階の通路は一つしかないため、手当たり次第にドアノブを回しながら突き当たりに向かって進んでいたた。どこもかしこも人影などなかったが、最後の部屋のドアノブに手を掛けた時、小さな泣き声が確かに聞こえた。
俺がそれを幻聴だと疑うことは無かった。一心不乱になっていたから、ドアノブを開けることに抵抗なんて無かった。彼女の名前を呼んで中へ入ると、部屋の真ん中でドアに背を向けて泣きじゃくるラクトが居た。俺は思わずそれを抱きしめる。彼女が泣いている姿を見過ごしておくことなど出来るはずがなかった。
「下での話、聞こえてたか?」
ラクトは小さく頷くと俺の方を見て泣きながらに口を開く。
「私、どうすればいいの? お姉ちゃんが『好き』っていうのは『ライク』の意味なのに……」
「それをラクトの口でカースに伝えてくれ。そうすれば変わってくれるはずだ」
「わかった。あ、も、もうちょっとこうしてて……」
「ほんの少しだけだからな?」
「ん」
俺は時々彼女が見せる弱々しい姿に負かされ強めにラクトを抱きしめる。胸の下に手を回すと赤髪は軽くそれを優しく掴んでくれた。左頬とラクトの右頬が軽く擦れてほんのり熱い。
俺が抱擁を止めたのは始めてから一分ほど経った頃だった。赤髪の目は薄っすら赤かったが、瞳に涙はもう映っていない。俺は彼女が落ち着いたと踏んで一緒にリビングへ向かう。
「チッ」
リビングに入るやいなやカースの舌打ちが聞こえた。彼女はもはや自分の本性がバレても構わないと思うようになっており、ラクトの姿が見えても俺に対する嫉妬心やらを隠す気を起こさない。ドアを閉めた後、赤髪はカースの方へ近づいて声をかけた。
「お姉ちゃん」
「なにかしら?」
「私はお姉ちゃんのことが『大好き』だよ。――家族として」
カースはニコニコしながらラクトの話を聞いていた。俺は赤髪の後ろで彼女の告白を見守る。義姉は妹から「大好き」と言われた時には思わずガッツポーズを上げたが、続く一言を聞くとすぐにそれを下ろした。それでも笑い続けているのが不気味だと思ったのは俺もラクトも同じで、次手に何が飛んで来るか分からない恐怖から赤髪はブルブル震えていた。
「『家族』として? じゃあ、あの手紙は? 処刑される前に送りつけてきた手紙に書かれていた『大好き』はそういう意味だったの?」
「うん、そうだけど」
「ふーん……」
ラクトは声に震えを見せていないものの足のガクつきは確かなものになってきていた。カースがなおも笑顔を貫いていることに恐怖を覚えているのである。会話が途切れて少し静寂が入った後、鳶色の髪の義姉はポケットの中から一枚の紙を取り出した。用紙は茶色の枠線で形作られている。左上には同じ色の字で衝撃の三文字が書かれていた。
「酷いことを言うんですね。これ書いたのに」
「お姉ちゃんが勝手に書いたんじゃん! そんなの無効だよ!」
ついに俺はカースに対して「ヤバイ奴」という烙印を押さざるを得なくなった。婚姻届に自分と妹の名前を記入し、本籍地や続柄といった提出時に必要となる最低限の部分を埋めていたのである。しかも、届出人や証人欄には印が押されていた。俺はラクトが主張していることを信じつつ、見せつけられた光景に唖然とするしかなかった。
「これを役所に提出すれば私達は結婚できるの。ふふふ……」
「こんなのおかしいよ! 正気に戻ってよ、お姉ちゃん!」
「全てはあなたがあんな文言を手紙に綴ったから悪いのよ。あなたが私を本気にさせたの」
「それでも近親婚なんて認められないから! 同性婚だってダメなんだよ!」
「あなたがやろうとしたようにこの国を変えればいいだけのことじゃない。それに、私はこの書類が役所で受理されなかったとしてもいいのよ。この書類の存在があればいいの。だって、これがあれば私とあなたが結婚したことを示せるじゃない」
後ろで唖然として何も言えなかった俺も、ハイトに続いてラクトまで意気消沈しかけていることを察して行動に出ることにした。もちろんカースという存在を消すつもりは無いが、彼女の中にある重すぎる愛をどうにか解消してやらなければ、この一家は確実に不幸になる。実の姉に恐れ慄いている妹のサポートのため、俺はラクトの前に立って説得を始めた。
「結婚も恋愛も友人関係も、お互いの思いなしに成り立たないって知ってるか?」
「当然じゃない。だから、こうして婚姻届を書いているの。相思相愛の仲だもの」
「なら、なんでその書類に書かれている筆跡が酷似しているんだ?」
「なんて気持ち悪いの! この婚姻届を舐め回すように見ていたなんて!」
「茶を濁さずに答えろ! なんで筆跡が似てるんだよ! 少なくともラクトは――いや、『ブラッド』はそんな字を書かない」
「証拠は?」
そんなものは無かった。俺はラクトの手書き文字を見た覚えなどない。だから、その質問に対する答えで詰まってしまった。カースはこの勝負貰ったと言わんばかり清々しいまでの笑顔で言う。
「ほら、やっぱり無いんじゃない!」
「証拠ならあるよ」
俺が口を結んでどうしようかと悩み始めた時、もう何を言っても無駄なんだと思って意気消沈しかけていたラクトが意を決して俺のスマホを奪い、メモ帳アプリを開いて手書きでそこに自分の名前を書いた。そこに書かれていた文字は明らかに婚姻届に書かれたものとは違っている。
「年月が経てば自分の字体は変わるじゃない! そんなのは証拠にならないわ!」
「でも、その婚姻届に書かれてる届出日は未来の日付だよね?」
「……」
「その婚姻届が発行された日もつい最近だし、その日付から今日の午後三時半頃までの間に私はこの家を一度も訪れていないし。仮にお母さんの同意が得られているんだとしても、そういうアリバイがあるから私の名前をそこに記したのは私じゃない」
エルダレアでは役所が発行した文書には発行日と発行した場所を記述することが義務付けられている。カースが持っていた婚姻届はその両方を満たしていた。姉が自ら役所に赴いてその用紙を入手したという裏付けにもなるのでラクトは論破の途中で複雑な気持ちにもなったが、彼女はカースに対する負の感情を抑え込んで冷静でいようとする。
「だからさ、勝手に婚姻届を書きましたって認めなよ」
ラクトが家畜を見るような目つきでカースを見ながら強烈な一言を放つ。「嫌い」と言うわけでも「好き」と言うわけでもなく、ただ目的を達成するためだけにじっと見つめてくる妹を見て、鳶髪の義姉はついに折れた。婚姻届をその場で千切り散らかして土下座する。
「ごめんなさい」
「もうこんなことしないでね? ――『はい』って言わないとご飯抜きだから」
「はい! はい! もうこんなことしません、絶対!」
「えらいえらい」
ラクトはしゃがんでカースと同じ目線に立つと姉の頭を撫でた。その時に見せた赤髪の笑顔で鳶髪は思わず照れて下を向いてしまう。姉と妹の立場が逆転しているかのようであるが、カースは特段嫌そうではなく、「むしろこの方がいい」と今にも言いそうなほど喜んでいた。その様子を見て俺は思わず褒め言葉を漏らす。
「カースさん、ただ笑っていれば十分魅力的なのに」
「何か言いました?」
「いいえ。ほら、あそこで自分を失ってる人を助けてきてください」
「誰があなたみたいな泥棒猫の指示に従うもんですか」
「お母さんを助けてきて?」
「はい!」
カースはラクトの言葉に突き動かされてハイトの方に一目散に向かっていった。俺はその様子を見て思わず頭を抱える。赤髪はクスクスと笑っていたが、一瞬姉が離れた時に漏らした嘆息が彼女の心にあった負担を表していた。俺とラクトはカースの方を見ながら今回の一件を思い返す。
「これで一件落着……なのかな?」
「そうであってほしいけどな」
そんな会話をした後で二人はキッチン側の席に座る。杏仁豆腐がまだ冷蔵庫の中ということで、冷蔵庫に一番近い席をラクトが取った形だ。色々あったがクレイジーサイコレズの救済は成功に終わって良かった。そんなふうにひとまずの目的を達成したことで二人が喜んでいると、ハイトが正気を取り戻してカースの平謝りを止めさせたので、いよいよ夕食の席を始める。
だが、ここで予想外の事態が起こってしまった。ハイトがニコニコしながら「早く仲違いをやめてほしいから対面の席に座りなさい」と漏らしたために、俺の手前に義姉が座ることになってしまったのである。俺は嫌そうな態度を示さなかったが、カースの顔はどう見てもしかめっ面で、食事中に足を踏まれることも幾度かあった。もっとも、そんな姉の対応を見て妹が意味深な笑みを浮かべると攻撃は一時的に止んだが。
しかし、そんなカースも俺に感謝の気持ちを抱いてくれることはあった。杏仁豆腐まで食べ終えてカースがリビングから出ていこうとした時、夕食のメニューを考えたのが俺であることをラクトやハイトが紹介したのだが、その時に彼女が「ありがとう」と言ったのである。本人は誰にも聞こえないように言っていたらしかったが、その言葉はしっかりと届いていた。




