5-63 たった一つの願い
最終決戦と冠された殺し合いは、稔とレアが地に伏せたところで一応の幕引きとなった。しかし、周囲のどこを見渡しても、「WINNER」も「LOSER」も表示されていない。ただ一つそこに現実としてあったのは、気絶していた一人の赤髪の少女が目を覚ましたということであった。
「え? う、嘘……でしょ? 嘘だって言ってよ! ねえ、何か返事を――」
ラクトは倒れている稔を見るとすぐに駆け寄って声をかけた。もしや、と思って黒髪が持っていた魂石を見てみると、いずれもロックされているのが確認できる。「これはまずい」と思った彼女は、すぐに回復の薬の生産に移った。今、稔が息絶えれば、最悪精霊という存在そのものが永遠になりかねないということを、ラクトは知っていた。
「なんで……」
折角見つけた幸せをまた奪われる。そんなのは絶対に嫌だった。ラクトは、頬に心の汗を伝わらせながら必死になって薬を作る。もう遅いかもしれないなんて、本当にそうだとしても絶対に思いたくなかった。愛する人に死んでほしくない。ただその一心だけで彼女は動いていた。
「――水、作らなきゃ」
元々衣類を短い時間で製作する魔法を転用し、今のように様々な物体を生成できるようにしたわけであるが、ラクトはその魔法を使って口に含むものを作ったことは習得した後に使用したっきりであった。使う場面が無かったからといえばそれまでであるが、赤髪の中に、一度他のものに変化させた物質を食料化することへの抵抗があったのも大きかった。
だが、本当の緊急事態になるとそんな信念は崩壊する。ラクトは「その程度の信念だったのだ」と卑下することもなく、使命感に駆られて水を生成し、それをこれまた生成したペットボトルの中に詰めた。五百ミリリットル容器の半分くらいまで満たすと、彼女は稔の右肩の横に膝をついて座った。
「……」
助かって欲しい、という思いのための言葉は要らなかった。ラクトは稔の口を強引に開け、そこに回復の薬を注ぐ。しかし、彼は飲み込まなかった。薬が溶けた水溶液が彼の口の辺りを散らし、微かに手に当たる鼻息が彼女の心配を募らせる。
「生きてよ! お願いだから……! ねえってば!」
涙が止まらなかった。ラクトは冷静になれず稔の体を揺らす。鼓動も呼吸も止まっていない。赤髪は、その事実だけに希望を懸けていた。どれだけ時間が掛かったっていい。もう記憶だって消えてしまってもいい。でも、大切な存在だけは絶対に、絶対に、絶対に消えてほしくなかった。
「起きてよ!」
ラクトの頬を伝って一粒の涙が稔の瞼に落ちる。その時、ほんの一瞬だけ彼が笑った。希望は消えていなかった。赤髪は黒髪の右手をそっと、ぎゅっと、かたく両手で握って神に祈る。もう悪魔も属性も関係ない。たった一つ、救いが欲しかった。
「!」
握り返す力を、ラクトは確かに感じた。決して強くはない。でも、そこには本人の意志があった。こんなんで終わるなんて出来ない。まだ生きなきゃいけないんだ。そんな背負った運命に対する彼の必死の抵抗が、確かにあった。
「(神様! 大悪魔様! お願いします! 救ってやってください!)」
ラクトは口を結んで自分の両手に額を当て、稔の回復を祈った。心なしか、さっきよりも彼の手には温もりが宿っている。黒髪が生死を彷徨っていることに変わりはないが、少なくとも数分前より快方へ向かってきていることは確かだった。
「ラクト……か?」
「え?」
聞き覚えのある声を聞くやいなやラクトは閉じていた眼を剥き、彼の方を見た。稔は、小さく目を開けていた。刹那、パーッと赤髪の表情が明るくなる。涙がぶり返してきた。今度は嬉し涙だった。黒髪の口の動きはまだおぼつかないでいたが、回復の薬の効果は確かに現れてきていた。
「……私のこと、わかる?」
「ああ」
稔は小さく頷いて答えた。彼の記憶は消えていなかった。話すことが出来るというだけのことなのに、ラクトは心の底からの笑顔を浮かべた。いつもと変わらぬ何気ない動作が出来るという実感があるだけで、彼女の心に出来かけていた絶望が薄まっていったのだ。
「――俺は、勝ったのか?」
ラクトは大きく頷いた。勝ち負けよりも自分の体のことを心配して欲しかったが、いざ彼が本気になって自分や紫姫達の為に戦ってくれたことを思い返すと、温かいようで実は心無い言葉を投げかけることになるのではないかと思って、――結局何も言えなかった。
「レアは?」
「どこかへ去ったみたいだよ」
「本当に俺は――いや、俺達は勝ったのか……?」
疑心暗鬼になられると確証がないので説得は困難となる。ラクトは最もそれを分かっていた。なにせ、レアが気絶していたことも姿をくらましたことも見ていたのは自分ひとりなのである。あの場には自分以外誰もいなかったのだ。ゆえに、推理の上で最も怪しまれても仕方ないし、たとえ信頼のおける相手であろうと、それが唯一の証拠ならば虚言の可能性も拭えず、やはり簡単には信じ切れない。
そんな時、一人の男の声が聞こえた。ラクトは周囲を見たが、どこにも変化は見られない。稔は彼女に協力しようとして立ち上がろうとしたが、まだ痛むようで渋い顔になる。見ていられず、赤髪は彼に対して横になっているよう強く言った。
「おいおい、そんな警戒が必要な存在というわけではないぞ、わしは」
「名乗れ!」
「おお、怖い怖い……」
ラクトが大声を上げると、ついに謎の男が正体を表した。全面黒の装いで肌の色が見える箇所はないことが更に彼の怪しさを引き立てていたが、男がなんの武器も持たず乗り込んできたことを強く主張し、両手を上げて近づいてきたので、赤髪もまた強く出ないよう自制に走った。もちろん、一切の警戒をやめたわけではない。ラクトの目と鼻の先まで進んだところで男は名乗った。
「わしの名はカオスじゃ。この度の統一神を撃破したことについては、本当にめでたい。それで――君の望みはなんじゃったかの?」
「この世界の統一神に彼を任命することです」
ラクトはそう言うと、右手を広げて稔の方を指した。カオスと名乗る真っ黒な装いの男は赤髪の話を頷きながら聞いていたが、彼の口から発せられた答えは今の状況を根底から覆すような話であった。
「ふむ。確かに統一神となれば、君の願いは幾らでも叶えることができる。だが、わしの血を引かなければ神にはなれない決まりでな」
「なら、その決まりを破棄することを――」
「内情も知らずによく言うのう。後継者と協力して実質的な統一神となる、という建設的な考え方は出ないものかね?」
ラクトは耳を疑った。聞き返そうとも思ったが、カオスが撤回しようとしないのを見てついに言葉を失ってしまう。今すぐにでも酷すぎる仕打ちに対して声を張り上げようとしていたが、一縷の自制心を以て何とか踏ん張り、感情を押し殺して問うた。
「あなたは、私達がこれだけの犠牲を払ったというのに、レアが『願いを叶える』と約束したというのに、その契約をまるで無かったかのように放棄させて、私達に『傀儡になれ』と言うんですか!」
「おいおい、君達が傀儡に堕ちるとまでは言っていないじゃろう」
いつもとは逆に、赤髪の背後で療養中の稔の方が黒ずくめの男の本意を見抜いていた。彼は彼女の足をつついて自分の方へ振り向かせようとしたが、その前にカオスが話を始める。赤髪があれやこれやと考えている間に、男がガサゴソと服の中を漁って取り出したのは、顔写真の貼られた名簿だった。
「これは?」
「次期統一神候補の一覧じゃ。錚々たる顔ぶれじゃろ?」
ヘスティア、デメテル、ヘラ、ハーデス、ポセイドン、ゼウス――。ギリシア神話の中心となる柱達の名がそこに記されていた。稔達は前半三柱とは既に会っているが、彼女らは継承順でいえば後半の方にあたる。男神優先なのは君主国家的だった。
「一体、何がしたいんですか?」
「参ったなあ、ここまでしても分からないものかのう」
カオスは溜息を吐いた後で言った。
「つまるところ、君達の本当の願いを叶えてやろうとわしらは考えておるんじゃよ」
「本当の願い?」
「精霊戦争の廃止、敗戦国エルフィリアの救済、異世界への帰還及び異世界との行き来の実現。そして何よりも、自らが従える精霊、罪源、元召使が幸せになること。――そうじゃな?」
「……自分の心の中を赤裸々にバラされると恥ずかしいものだな」
カオスは少し視線を移して稔を見た。まだ完全に回復しきってはいなかったが、稔は少しずつ立ち上がって言う。まだ稔の中の感情は大半がその心の中に閉じこもっているが、ほんの少し彼は顔を赤くしていた。なんだか仕込んでいたように進む展開に驚いてラクトがキョロキョロしていると、咳払いして黒ずくめの男が話を始める。
「レアは、おぬしらの本当の願いの実行を懸けて戦闘をしていたんじゃ。つまり、先に挙げた事柄の全て実行することを自らが負けた時の条件にしたのじゃ。普通なら一つしか叶えてやることが出来ないにもかかわらずな。要は奴も分かっていたんじゃ。おぬしらの建前上の願いを叶えてやれないことに」
一つだけ叶えてあげる。そう言われて稔達が取り繕った願いは、レアが実現させるには大きすぎた。自分含めカオスの血を継ぐ四柱で繋げてきた伝統をここで終わらせるわけにはいくまい。しかし、前三代の統一神は全て挑戦者が勝利した暁にはその願いを実現してきたわけで、叶えないわけにもいかない。どちらを取っても確実に後継の神に痛手を残す形となるのは確かだった。であるがゆえに、レアが稔達の心を覗いた時に本当の願いを把握できたのは双方にとって幸運なことであった。
稔達を贔屓していると言われようが、そもそもこの世界に呼び込んだのは自分であり、多少贔屓目に見ても許されるだろう。伝統を捨てないことは「前提」、願いを叶えることは「必要事項」だと考えれば問題はないだろう。レアはそんな風に考えて、本当の願いを叶えてやる決断を下した。
「少なくとも我がユベル=ディルマの臣民は、現在の体制が崩壊することを望んでいない。わしは、おぬしらの本当の願いを叶えることを誓う。じゃから、どうか統一神となる夢を棄ててくれ――」
カオスは一通りの話を終えて深く頭を下げた。同時にラクトは稔の方を見て小さく頷く。その意が「自分には判断が出来ないから任せるよ」だと理解することなど二人にとっては容易いことだった。黒髪は自身の体を労りながら少しずつ前に進み、希う姿勢をやめない黒ずくめの男に声をかける。
「わかった。統一神となる夢を棄てる。その代わり、俺達の要求に応えてほしい」
「もちろんじゃ。じゃあまずは、現実世界との行き来を可能にするとしようかの」
そう言うとカオスは稔の手をぎゅっと握った。まるで彼女が彼氏の手を握るかのように親しそうに接する男に対して怒りの感情を高めるラクト。これまで精霊や罪源が彼氏とキスするのを「仕方ない」と捉えて憤怒をコントロールしてきたが、同性愛が疑われてもおかしくないような親密さに対しては我慢し難いものがあった。
「どうしたんだ、ラクト? 気分すぐれないのか?」
「さっさとしろ!」
「なんで怒ってんだ?」
「さーね! なんででしょーね!」
らしくない、と言えばそれで一蹴できることだったが、稔はその言葉を使わなかった。まずはラクトに寄り添って対応しようとしたのである。一方カオスは、さっきはあれほど息の合っていた二人が見事にすれ違う様を見てクスクスと笑う。このまま愉悦に浸っていても良かったが、人間嫉妬心から何を起こすか分からない。神はそれを熟知していた。
「完了じゃ。早速戻るか?」
「まだ現実世界に戻るつもりはないが――そうだな、戻り方だけ教えてくれ」
「テレポートで『現実世界』を行き先に選べば一発じゃ」
「ありがとう。精霊や罪源も一緒に連れて行けるのか?」
「もちろん。もはや精霊戦争は歴史上のものとなったからのう」
「そうか。――やっと、終わったんだな」
稔はもう一度カオスとがっちりと握手を交わした。ラクトにもカオスと手を握るように提案したが、赤髪はへそを曲げてそっぽを向いていた。黒髪がどうしたものかと作り笑いを浮かべると、黒ずくめの男がハッハッハとこちらも作り笑いを起こしてアドバイスをくれた。
「わしに情事は分からぬが、まあ、粘り強く頑張りたまえ。少なくとも、想い人を自分のことのように心配してあげられることは素晴らしいことじゃからな。では、わしは君達の残りの願いを叶えるべく各所に働きかけることにするよ」
カオスはその場を去ろうとしたが、重要なことを思い出して立ち止まる。
「ああ、そういえば。この空母は一週間後に着陸態勢に入る予定だが――」
「大丈夫だ。もう少ししたら戻る」
「そうかい。では、お邪魔虫はさっさと消えるとしようかの」
カオスは笑いながら部屋を後にした。




