5-51 黒の属性神・ティアマト
アイテイルが属性神の待つ部屋に入ると、キィィと背筋をゾワゾワさせるような音を立てながらドアが閉まった。壁と百八十度になったところで施錠されたような効果音が鳴らされると、バッと音を立てて赤白青の三色の眩しい照明が光った。まるでライブ会場のようである。
「ようこそ。私は黒の属性神をしているティアマトです。以後、お見知りおきを」
ティアマトはキラキラ輝く装飾物の付いた真っ黒なドレスを着ていた。手には同じような黒色の手袋をしている。凝った化粧をしているというわけではないが、おそらく長いであろう髪の毛はまとめられて団子になっていた。アイテイルと張り合えそうな豊満なバストと長い髪の毛が特徴的な女神は、自己紹介をした後で笑みを浮かべる。
「さて。ここに来たということは、バトル参加に同意するというのと同義なわけですが」
「そうですね」
「案外あっさりとした返事ですね。あれほど暴れ狂っていた貴女がここまで大人しくなるとは」
「それがお褒めの言葉だとしたら光栄です」
アイテイルは笑うこともなく、塩と言われない程度に口を開かないで対応した。一方のティアマトは銀髪の余裕っぷりを見て眉間をピクッとさせている。若干の苛立ちがあることを頑張って抑えているのだ。しかし、それを露わにすること無く、女神は咳払いしてこう言った。
「まあ、いいでしょう。時間は待ってくれません。バトルフィールドへ移動します」
刹那、紫色の光がアイテイルとティアマトの周囲に展開された。目を覆いたくなるようなピカッという閃光があったので咄嗟に銀髪は目を閉じたのだが、一秒も経たないうちに自分が違う場所へと移動していることに気がついて思わず口を開けてしまう。
「ここはどこかの都市の河川敷ですか?」
「間違いではありませんが、バトルフィールドなので安心してください」
自分が今一体どこに居るのか、アイテイルはよく分からなかった。そこで地形を調査してみようと物質調査魔法を使ってみるが、自分の脳内にあるデータと照合しても合うような街は無い。だが、今いる街が仮想空間にある街ようには見えなかった。
「今回のバトルは、HP形式で行います。やり方は……わかりますよね?」
「はい」
「そうですか。では、……行かせてもらいますッ!」
力のこもった宣戦布告の後、ティアマトは目を瞑って手を合わせた。狙ってくれと言っているかのようであるが、アイテイルはこれを罠だと思って前に出ない。だが、それは銀髪の計算ミスだった。結果から言えば、自分優位のバトルフィールドにするための行為でしかなかったからだ。
「双河の泉!」
女神が目を開くと、その背後には大きな泉が形成されていた。そこから二つの大河が流れ出し、アイテイルのすぐ後ろで合流する。川から溢れ出した水は大地を潤わせたが、挑戦者にとってはろくなことがなかった。ただの泥濘んだエリアが形成されただけだと思いこんでいた銀髪が踏んだ土に違和感を覚えたところから、ティアマトの本当の目的が判明する。
「(足が動かない……!)」
足は壊死したわけではない。肌色のままだったし体温も残っていた。しかし、アイテイルの足はアイテイルの脳の司令を完全に無視した。いくら動こうとしても動かなかった。鎖で繋がれているかのごとく銀髪は暴れまわるが、どうあがいても絶望の二文字からは逃れられない。
「さて、アイテイルさん。早く抜け出さないとーー死んじゃいますよ?」
不吉な笑みを浮かべて、ティアマトは魔法の使用を宣言した。
「神の停止」
アイテイルは声を漏らしたはずだったが、銀髪は自らの声を聞けなかった。声帯は震えている。口も開いている。声を出そうとしている。けれど、声は出ない。
「(くっ……)」
「声が出なければ応援を呼ぶことは出来ない。それが、精霊の弱点ですよね」
「(ぐはっ……)」
目と口を大きく開け、体全体で受けた痛みを感情に表す。傷は銀髪の涙腺をなぞって数滴の涙が流させようとしたが、流れるはずの涙は流れなかった。声を出せなければ泣くことさえ許されない。銀髪少女への拷問はさらに酷くなっていく。
「ざまあないですね。最弱の精霊の無様な虐められようを見ていると」
「(いぎっ……)」
足が動かなくなってから一分くらいが経った頃、ついに手も動かなくなってしまった。心臓は動いているし体温も保たれているけれど、HPや魔力については相手の思うがまま。そうして拷問は最終ステージに入った。肉体のコントロールの次は、精神のコントロールだ。
「誰のために戦っているんでしたっけ、アイテイルさん?」
「(み……あれ? 誰のために私は、こんな痛い目を……?)」
少女は感情の表し方を忘れさせられ、魔法を奪われ、そして、記憶を消されていった。それは銀髪の抵抗する力を奪うこととイコールだった。それは、稔が現実世界へ戻るために必要な要素の未達成を意味した。そして、アイテイルという存在のリセットを意味した。
「まったく。こんな簡単に倒せる奴が精霊で本当に良いのか疑問です」
「(精……霊……?)」
大切な主人との思い出の大半は無くなっていた。けれど、まだ、黒髪の青年との出会いだけは消えていなかった。ティアマトが「精霊」と口にしたことで、アイテイルは自分自身を取り戻していく。そして、青年の名前が忘却されていなかったことで、少女はこの戦いの意味を思い出した。
「散華ッ!」
「なっ……」
その言葉は、アイテイルの束縛を解いた。声帯の震えはしっかりと声を生み出し、流そうにも流せなかった涙がしっかりと頬を伝う。動かなかった両手両足の感覚は行動と一体化し、止まっていた時計の針が再び回り始める。銀髪少女の背後に展開された桜の花びらの一つが砕けて散ると、周囲は真っ白な閃光に包まれた。
「(どうしてこんな強力な詠唱魔法がいとも容易く使用できるの……?)」
相性抜群の攻撃により、ティアマトのHPは50%以下まで減少した。魔力が減少しているためにアイテイルの全力とはいえぬ火力であったけれど、その詠唱魔法は相手が驚くには十分すぎた。四つの花びらを自身の背後に展開しながら、銀髪は言う。
「よくも私のことを最弱の精霊だとか、精霊に相応しくないとか言ってくれましたね。そんなに罵りたいのなら、一単語で詠唱できるくらいの実力を身に着けて下さい。もしくはーーこんな感じで」
下に見ていた相手によって負かされそうな状況を前にして、ティアマトは全身を震わせながらアイテイルの話を聞いていた。腰を抜かさないように注意するのがやっとなくらいだった。しかし、侮辱された側の少女は容赦なく攻撃を行う。
「バーン」
アイテイルはティアマトの方に人差し指を向けてそう言った。刹那、青色の雷が少女の人差し指の先端から発射され、一瞬にして震えることしかできない女神を襲う。本来必要な詠唱と使用宣言をすっ飛ばした上で放たれた詠唱魔法だったが、通常の方法で使用した場合と大差ないかむしろ強いくらいの火力で使用されていた。
「詠唱だとか、使用宣言だとか、そんな決まった形でしか戦えない相手なんて、私からしてみれば、クソザコでしかないので」
「ひっ!」
ただの台詞が詠唱だった。ティアマトは逃れることが出来ず、わずか三発の攻撃でHPがゼロになる。女神は腰を抜かして膝をつくと、空を仰いで笑い始めた。少ししてから女神は、無様だの弱いだの言っていた自分が無様で弱く、属性神としての相応しくないのではないかと考える。けれど、女神は諦めてはいなかった。
「勝ったと思ってるところ申し訳ないですけど、まだ続きますからね?」
女神はバトルの最初の方でアイテイルから吸収していた分のHPを使用し、ゼロになった自分のHPを回復させた。全回復とまではいかなかったが、二つの大河にあった分の全てを使い、残りHPを七割ほどにする。ティアマトは空を仰ぐのをやめ、アイテイルの方を見た。
「しぶといですね」
「諦めないのはお互い様じゃないですか。では、……本気でいかせてもらいますね」
ティアマトには無言詠唱なんて出来ないし、使用宣言の文言を変えることだって出来ない。アイテイルのように予測不可能なことをするのは無理だ。でも、勝てるだろうという自信を失うことはなかった。女神は右手を地につけ、自身の周囲に紫色の魔法陣を展開させる。
「天命よ、我の敵に天誅を下せ」
女神の声は魔法陣上に十一体の怪物を出現させた。魔法陣は結界というわけではなかったから、怪物たちは続々と魔法陣の外へ出ていく。アイテイルは嘆息を吐いた後で、背後の桜の花びらを散らせた。
「光線煌輝! 改ッ!」
アイテイルはその詠唱魔法の欠点を補って攻撃した。一回の使用で一方向にしか向かわない光線を十一方向に変更したのである。光が怪物に命中すると、彼らは呻き声を上げながら散っていった。沢山の閃光が立て続けに起こった後で目の前に視線をやると、ティアマトが銀髪の方に左の人差し指を向けている。しかし女神は、怪物達の姿がないのを見て左腕を下ろした。
「これで終わりです、ティアマトさん」
諦めた様子のティアマトだったが、銀髪の台詞には笑みを浮かばせていた。まだ何か策があるかのような顔だ。相手の罠に自ら嵌りに行く気はないけれど、高火力の魔法を撃たなければバトルは終わらない。アイテイルは同じように詠唱魔法を使用した。
ティアマトのHPゲージはどんどんと減って再びゼロとなる。吸い取ったHPと魔力が底をつきているということで、銀髪はついに勝利を確信した。しかし、女神はやはりしぶとい。魔法の使用を宣言し、自らのHPと魔力を全回復させたのである。ティアマトはニヤリとした後で大笑いした。
「まだまだ終わらせませんよ。属性神として、私は絶対に貴方を倒します」
火力三倍、HPも魔力も満タン。圧倒的に優位な状況に立った女神は、深呼吸して魔法の使用を宣言した。自分が自分の体を用いて行うたった一つの攻撃手段は、詠唱後すぐに実行される。
「神の停止!」
与えるダメージ量は全体HPの50%から150%となり、その攻撃は防御魔法を行使しなければ防ぎようのないものとなった。精霊について属性神であるティアマトが知らないはずがなく、アイテイルが使用できる魔法を把握した上での行使だったから、攻撃が命中した時には勝利したものだと思った。
「嘘……」
しかし、アイテイルのHPゲージは全く減らなかった。焦ったティアマトは火力三倍の効果が切れないうちに沢山の魔法を撃とうとし、自分の持っていた全ての魔法を使用する。けれど、どれも使用したような映像を周囲に見せるくせに効果は無かった。
「……私の負けです。魔法封印をされては太刀打ちできません」
ティアマトは首を左右に振って言った。HPゲージは満タンであったが、降伏を宣言したことでアイテイルの勝利が確定した。展開されていた魔法陣が消えた後、銀髪少女の目線の先にWINNERという赤文字とLOSERという青文字が見えた。同時にHPゲージが消える。
「まさか、新たに魔法を覚えていたとは思いませんでした。ですが、それだけでレア様に勝てるとは思わないほうが良いと思います。魔法封印の使い所を誤れば、貴方達が痛い目を見ることになるので」
「わかりました」
「それでは健闘を祈ります。同時に、私はこれで失礼します」
ティアマトはそう言って姿をくらませた。そのすぐ後で紫色の光に導かれ、アイテイルは女神の部屋まで飛ばされる。今度は部屋に入った時に浴びたライブハウスのような三色の光ではなく、一般的な住宅と同じような白色の光を受けた。消えた女神はまだ戻ってきていないようで部屋は無人だった。人の部屋に長時間居座るのは気がひけるので、銀髪はすぐにティアマトの部屋を出る。




