5-43 走れ少年
その翌日から告白後三週間が経過したところまでは流れるように再生が進んだ。稔の心中にあったモヤモヤは会話をしていくうちに解消され、そして、ライク以下の感情で始まった恋愛とは思えないほど、彼は理乃に対して本当の意味での恋愛感情を持つようになっていた。
しかし、順調に愛を育んでいると思ったのは少年だけだった。十一月中旬のある日、久しぶりに別々に帰宅することとなった放課後。彼は、学校近くの小さな公園で理乃の姿を見てしまった。それだけならまだしも、物置の影に居た少女は乳房も陰部も丸見えだった。
「(嘘、だろ……)」
理乃は、彼氏でない男と淫らな行為をしていた。お世辞にも稔より格好いいとはいえぬ絶望的な容姿のその男は、小太りで、毛むくじゃらで、縁のない眼鏡を掛けていた。年齢は三十代といったところか。少女の着ていた制服の胸ポケットからは一万円札が顔を覗かせている。
稔は逃げるようにその場を去った。
「(なんでだよ! なんでなんだよ! 俺が悪いのかよ!)」
俺に隠れて違法行為をしていたなんて、稔は裏切られた気分だった。しかし、彼だって理乃を責めているだけではいられない。告白を受けた際、彼が抱いていた感情は恋愛感情ではなかった。あのときの少女がどれほど真剣だったかは分かるまい。でも、少なくとも黒髪の少年には、相手の非のみを責めるためにはあってはならないものが存在している。
「なんで俺、逃げてんだろ……」
走って、走って、走って、少年は歩行者用の信号機が赤くなったところでやっと足を止めた。我に返って、彼は自分の情けなさを強く感じる。友達ならば、ダメなものはダメと言えるはずだ。彼氏彼女ならなおさらのことである。稔はゴクリと唾を呑んで、一八〇度後ろを向いた。
歩道を駆け抜け、ついさっき止まっていることのできなかった場所へ戻っていく。全力疾走だった。突発的に吹いた北風を、すれ違ったトラックが生んだ生暖かな風が相殺する。前だけを見て、彼は走った。ひたすらに走った。激怒し、竹馬の友を人質に出し、妹の結婚式を見届けて街の戻ってきた男のように。
呼吸を整え、一切の音を立てないように公園の敷地内へ入っていく。物置の裏から聞こえる淫靡な声に腸を煮えくり返らせながら、しかし、事情を聞くことを最優先にするべく冷静さを意識しながら、物置の方向へ近づいていく。少年は、彼女の顔を捉えたところでその名を叫んだ。
「理乃!」
少女はビクッとした。もちろん性的興奮に因る反応ではない。ヤバい、まずい、どうしよう。焦りから来る反応だった。理乃は震えながら稔に問う。だが、視線は合わせなかった。お金儲けのために性を売っている自分には、一途に自分のことを思ってくれた相手に向ける顔がないと思ったからだ。
「お、おじさんはこれで……」
「てめえはそこで立ってろ!」
こういう時に冷静でいられるほど、中学二年の稔は大人でなかった。抑えようとしていたのにもかかわらず、彼は激昂の衝動に任せて酷い言葉使いになる。物置小屋の裏、わずかなスペースに一列に三人が並ぶ異様な光景。公園全体が静まり返ったところで、少年は口を開いた。
「単刀直入に聞く。ーーこういうこと、いつからやってたんだ?」
理乃は言いたく無さそうに斜め下を向いた。しかし、その顔に涙はない。彼女は、涙を流して感情に訴えかけて許してもらうのは許されない行為だと考えていた。しかし、自分の口からありのままを曝け出す勇気など彼女は有しておらず、口を閉ざしたままの状態がいくらか続く。
「……三ヶ月前からさ」
後方から先程まで理乃と楽しんでいた男の声が聞こえた。勇気がなく言うことが出来ない少女を見かねて、理乃の相手をしていた男が、稔の目をしっかりと見て重要事項を伝え始める。まだまだ聞きたいことがたくさんあったので、稔は後方を向いて男に質問した。
「いくら払ったんだ?」
「ざっと三十万円くらいさ」
「三十万……」
中学生が手にするには巨額過ぎる値を聞き、稔は首を左右に振って信じたくない素振りを見せる。しかし、簡単に一万円札が残念な見た目の男から理乃に渡っていることを考えれば、三日に一回のペースでやれば三十万円に届くわけだから、現実味がない話ではない。
「なんでそんな大金が欲しいんだ?」
稔は理乃の方を見て言った。少女はそれまで下を向いて逃げ腰で来ていたが、援交相手が稔に色々話しているのを見て決心と言う名の諦めが付いたらしい。理乃は、堅く閉じていた口を開いて言った。
「私は母子家庭に生まれた身なんだ。母の儲けは少ないわけではないけど、一人で過ごすのが普通の暮らしを送ってる。だから、大人の男性の持つ温かみを感じたかったんだ」
理乃の本意を彼女の話を通して知るごとに、稔はなぜ自分が告白されたのか分からなくなってきた。理乃が援交を始めたのは、稔が理乃の告白を呑む二ヶ月も前の話であり、お楽しみ行為を続けている裏で、大人の男の温かみを完全に有していない少年に告白する理由はほぼ無いはずだ。
「なら、なんで俺に告白したんだ?」
「罰ゲームの一環として告白しただけだよ」
「……」
理乃の言葉を聞いた瞬間、稔の中にあった理乃を更生させようという感情がなきものに成り果てた。わずかに残っていた希望が消失し、稔の中にあった理乃に対する恋愛感情もそれに比例して崩れ去っていく。そうして、稔の腸が再燃しだした頃、理乃は彼をさらに追い詰めるためにこんなことを言った。
「そんな鬼みたいな形相しないでよ。大体、アンタみたいなフツメンの貧乏人が、ミスコンでグランプリ取る女と釣り合うわけ無いじゃん。まあ、そこら辺分かってたみたいで、最初の頃は割り切って付き合ってたみたいだけど。それなのに、なんで真剣な恋心持っちゃったのかな?」
「悪いかよ! 俺にとって理乃は、これまでの人生で初めての彼女だったんだよ! 突然過ぎて最初は乗り気になれなかったけど、どうすればいいのかなって模索しながら一緒に居るうちに段々と好意が芽生えてきたんだよ!」
「激情剥き出しにして話してるあたり、やっぱガキだね、やしろんって」
「中古女の分際で、俺の名前を呼ぶな!」
稔の目には涙があった。後悔と嫉妬と苛立ちが、彼の心をズタズタにしていく。「そもそも告白を呑んだ時に弱みを残したのがマズかった。だから今、しっかりと言い返せないで居るんだ」「俺みたいな男じゃなくてなんであの男を選ぶんだ。所詮は金なのか」「自分が優位になった途端に笑顔になりやがって」
そうして、彼は一つの結論に辿り着いた。「無垢で愛嬌のある自分だからいけないのだ」という結論に。自分の思っている感情が相手に伝わらなければ、こんな悔しい思いをすることは無かったのに。優しい自分で無ければ、この中古のクソアマを好きにならなくて済んだのに。
「なに涙目になってんの? 負けを認めたくないから泣くんだ?」
「……もういい。この関係は今日でお終いにしよう。お前ら二人まとめて刑務所行きにしてやる」
「残念! 私は恐喝してるわけじゃないから補導で済むんだよ。そんなのも知らないの?」
「……」
「あれー? 黙ったってことは論破されたってことでいいのかな?」
理乃は笑顔で言った。稔が押され気味になり、そのまま口籠ったことがたいそうお気に召したらしい。だが、稔が口を閉ざしたのにはわけがあった。彼は自分のバッグの中からスマートフォンを取り出すと、ロック画面から「緊急電話」を開き、躊躇うこと無く一一〇番通報した。
「……警察、呼ぶから」
「やめてくれよ! 頼む! それじゃおじさん捕まっちゃう!」
「ア、アンタ正気なの? 止めてよ! 親に迷惑が掛かるのだけはーー」
「真剣に理乃のことを心配してやった俺の気持ちも知らないで!」
稔が怒鳴ったのと同時、電話が繋がった。
『事件ですか、事故ですか』
「おそらく事件だと思います。援交現場を目撃しました」
『それは、いつのことですか?』
「今から五分ほど前だと思います。当事者二名は私の近くに居ます」
『それは、どこで起きましたか?』
「ーー区のーーにあるーー公園です」
稔が具体的な場所を言った瞬間、本当に一一〇番通報したということが冗談ではないことが分かったらしく、理乃とその援交相手は物置の裏から逃げるための準備を始めた。
『犯人も近くに居ますか? 顔や所持品など、詳細が分かれば伝えてください』
「犯人は危険物を持っていません。三十歳代で、眼鏡を掛けたくせ毛の男です」
『貴方の名前と住所、この携帯電話の番号を教えてください』
「横浜市ーー区ーーの夜城稔です。携帯電話の番号は、ーーです」
『わかりました。至急向かいますので、貴方は身の危険を感じない限り、その公園の近くに居て下さい』
通話はそこで切れた。着信が来た時に気づきやすいようにと、稔はスマホをズボンの右ポケットに入れる。その頃にはもう、公園の物置裏に理乃とその援交相手の姿はなかった。ふと空を見上げると、晴れた空が、少しずつ鉛色に変わっている。稔は警察の「あまり離れないで」という言葉を受け、取り敢えず物置裏から離れて、公園のベンチに腰掛けていようと考えた。
少しして、警察官と婦警が一人ずつ公園に現れた。近くを自転車でパトロールしていたところに連絡が入ったらしい。二人は公園敷地内のアスファルト部に自転車を止め、稔の方へ近づいていく。ベンチの前まで来ると、胸ポケットから警察手帳を取り出し、顔写真と警察官であることを意味する紋章を稔に示した。
「あなたが、通報者の夜城さんですか?」
「はい」
「犯人はどこに居ますか?」
「ついさっきまでこの公園に居たんですが、電話中にどこかへ逃げました」
「どの方角へ逃げたか分かりますか?」
「わかりません。しかし、車、自転車、バイクの類では逃走していません」
「情報提供ありがとうございます」
婦警は、無線機で周囲の交番や警察署に一斉に情報を伝えた。一方、警察官は止めておいた自転車の方へ向かい、乗るやいなや公園付近の捜索を始める。サイレンが鳴っていないため、まだ殆どの住民は気づいていないようだが、警察官が自転車で疾走する姿を見た主婦や高齢者数名が家から出ていた。
無線で近くの警察署に詳細な情報を伝えた婦警は、自分より年下の少年に高圧的な態度で接するわけには行くまいと思い、稔の座っていたベンチの空いていた場所に座った。
「でも、よく援交現場だと分かりましたね」
「行為の真っ最中でしたし、何より、援交していた少女が僕の彼女でしたから。それに、近くに紙幣がありましたし」
「なるほど。……あなたは、そんな屑な男性にならないでくださいね」
「もちろんです」
警官の採用ページに載っていてもおかしくないような美人婦警の言葉を聞いて、稔の心は揺れてしまった。純粋な自分は今日で終わりだとついさっき決意したにも関わらずだ。稔は婦警の言葉に対する対応を通じて、その道のりが長いということに気づいた。
『ーー付近にて被疑者に似た男を発見!』
そんな時、婦警の無線機から自転車で犯人探しを始めた男性警官の声が聞こえた。しかし、理乃とその援交相手は一緒に居ないらしい。あの男は捕まる覚悟を決めたのか、はたまた理乃の安全を確保する目的なのか、一人で逃走していたようだ。もちろん、そんな優しさを見せたところで罪が消せるわけではないのだが。
「確認しに行きましょう」
「はい」
稔は婦警の後について、公園で待機していた二人は連絡のあった場所へ向かった。その道中、保護対象である理乃がその援交相手と一緒に居ない理由について、婦警が、「保護対象の少女が見つからなければ自分の罪が軽くなると思っているんでしょう」と言った。確かに、理乃がいくら未成年者であるからとは言え、検察に援交をした事実に関する情報が行かなければ、いくらかあの男の罪が軽くなる可能性はある。
「ちなみに、援交していた少女の名前はご存知ですか?」
「ーー中学校三年A組、佐倉理乃です」
「そういえば、その少女の彼氏さんでいらっしゃいましたね」
「……もう、分かれましたけど」
「あら、ごめんなさい。古傷を抉るようなこと言ってしまって……」
「気にしないでください。今日の一件で見限っただけなので」
そんな会話をしながら、稔と婦警は住宅街の道を進む。
それから間もなくして、自転車で公園を出ていった男性警官が連絡を入れた場所に差し掛かった。そこはちょうど曲がり角で、左手を見るとあの男が居た。被疑者には抵抗したり逃走したりする気配がなく、自分の非を認めているように見える。
警察官同士で着帽時の敬礼を行った後、男性警官が婦警に言った。
「被疑者によれば、被害女性は『佐倉理乃』だそうです」
「同じ名前が彼の口からも出ているから、間違い無さそうね」
理乃の身元の詳細は、無線機によって初動の二人以外の他の警察官達にも伝えられた。その情報を元に警察署では、理乃が援交していたという話は彼女が通う中学校、そして彼女の母親に伝えられる。一報を聞いた母親は会社のトイレから何度も理乃に電話を掛けた。だが、理乃は既に着信拒否を行っており、母親は娘の居場所を知ることが出来ないまま、中学校から来た電話に対応することとなった。
一方その頃、住宅街では被疑者の確認が行われていた。婦警の「通報した時に見た人と同じ人ですか?」という問いに、稔は迷うこと無く「はい、そうです」と返答する。理乃の援交相手の男の顔が一気に青ざめていくのが分かった。
「被害女性と思しき女子学生を確認。補導に向かう」
被疑者が絶望する中、警官二人の無線機に連絡が入った。まだ稔が通報してから十分しか経過していない。好意の差こそあれど、形式的なものであれど、「彼女」という特別な立場だったからこそ実現した圧倒的なスピードだった。
理乃は稔に対する苛立ちを覚えながらも、警察官には抵抗できず、しぶしぶパトカーの世話になることとなった。通報者には被害者の確認をしてもらう必要が、また、理乃には本当に淫行の相手であるか確認する必要があったのである。
パトカーが稔の居る方へ向かう旨が告げられて三分ほどで、理乃が淫行相手と通報者の目の前に姿を現した。少女はがむしゃらに走り続けて一キロ先まで逃げていたそうで、疲れているように見える。
「佐倉理乃さんですね? 貴方、この男性と援交をしたそうですがーー」
「私はしていません!」
「いいんだ。おじさんのことは気にしないで本当のことを話すんだ、理乃ちゃん……」
「ーー」
理乃は足掻くのを止めた。警官が改めて「この男性と援交しましたか?」と問うと、少女は躊躇うこと無く首を縦に振った。同頃、婦警が稔に「この女性が理乃さんで間違いないですよね?」と問うたので、少年は首を縦に振った。こうして、理乃の援交相手は「児童買春罪」の容疑で逮捕されることとなった。
稔は事情聴取の対象外となり、三十代くらいの男が手錠を掛けられたのを見てから家へ帰ることにした。理乃は事情聴取される対象となり、男の乗せられたものとは別のパトカーにのって警察署へ行くことになった。斯くして、稔は理乃との恋愛関係に終止符を打った。
だが、この理乃への復讐によって、稔はその後の学校生活で痛い目を見ることになった。理乃のファンクラブや不良系グループから、「彼女を売った男」とか「校内ミスコン三連覇の女を汚させた男」とか言いがかりをつけられたのである。呼び名だけならまだしも、「あの男が理乃に売春するよう指示を出した」など稔が真犯人であるかのような事実無根の噂までされた。その事件から理乃が不登校となったことも、稔を悪役に仕立て上げるのに一役買った。
人が一度焼き付けた印象を払い落とすまでは、それなりの年月が必要になる。悪役としてその名を学校内に知らない者が居ないまでに知れ渡らせた稔は、気がついた頃には、冷たい表情を変えることのない、クラスカースト最下級に属する友達ゼロ人の生徒になっていた。
そんな、リアル世界よりネット世界の方が好きになっていた中学二年の冬のこと。稔は、近所のレンタル店で借りてきたバンドアニメを視聴し、ドハマリし、少年はドラムというものに興味を持った。年を越してお年玉を貰うと、全額を叩いてドラムセットと入門書を購入。アニメ視聴くらいしか趣味がないという状況になっていた少年は、有名なアニメのオープニングテーマを叩いてみるなどして、着実に腕を上げていった。
その後、高校受験に合格するも、稔は友達作りに挫折し、前までと変わらずドラム漬け生活を送ることになった。ただ一つ変わったことがあるとすれば、高校入学と同時にDTMを始めたことだ。既存楽曲を演奏する楽しみだけでなく、自ら楽曲を作る楽しみも知りたいとようになったのである。
特に運命的な出会いがあるわけでもなく、衝撃的な出来事があるわけでもなく、稔は高校二年としての夏を迎えた。そろそろ受験生か、と思いながらも中々腰が入らずダラダラした日々を送る四週間の第一週が終わった、八月六日。稔が異世界へ行くこととなった日だ。その日彼が味わった一切を、その夢の中でラクトは知ることになった。
色々あって買い物に出かけようと家電量販店に向かう最中に、見ず知らずの少女によって殺された際に味わったあの鈍い痛みがフラッシュバックしたのである。腹部に感じる感じたことのない温かな感触。夢の世界では血として描かれている。しかも、痛みを伴って。
ラクトは思わず起き上がった。お化け屋敷は問題ない方であっても、恐怖体験のフラッシュバックには勝てない。目を開けると、ハアハア、と自分が恐怖から息を荒げているのがすぐに分かった。同時に、下腹部に妙な感触があることに気が付く。また、胸部にあった重みがなくなっていることにも気付いた。
「(えっ……)」
生えていた。
「(あれ……?)」
失っていた。
すっかり動揺したラクトは、部屋の照明を付け、スマホのインカメラ機能で自分の顔を見た。髪の毛も瞳も赤色から黒色になっている。試しに声を出してみると、聞き覚えのある男声を聞くことが出来た。後ろを振り返ってみると、赤髪の少女が寝ている。試しに胸や尻を触ってみると、昨晩、自分が自分の体に触れた時と同じ感触であることが確認できた。
仕上げに頬を叩いたところで、ラクトの中の疑惑が確信に変わる。
「私、入れ替わっちゃった……」




