5-42 PAST OF HIS.
眠ってからどれくらいたっただろうか。私は、久しぶりに夢の世界に足を踏み込んだ。けれど、その世界の主人公は私ではない。稔だ。顔つきは今よりちょっと幼く、名札付きの学ランを着ている。身長は今の私と同じ程度で、ちょっとダボダボ感がある。
二階の教室から外を見てみると、紅葉が赤く色づいていた。教室の黒板脇に掛かっていたカレンダーに視線を移してみると、でかでかと「10月」と書かれている。具体的な日付は不明だが、おそらく二学期の半ばくらいだろう。この時期は、大きな考査に阻まれた時期だと聞いたことがある。
「(中学か……)」
私は家庭の事情で中学校へは行っていない。悪く言えば小卒だ。けれど、いや、だからこそ、私は人一倍努力してきたと自負している。金を稼ぐ面でも、知識を増やす面でも、私の家庭をめちゃくちゃにしたあの男に勝つために頑張ってきたと自負している。まあ、誰かの過去の記憶で張り合ったところで何の意味もないわけだけれども。
中学時代、稔は帰宅部に属していたらしい。掃除を終えると、彼はささっと帰宅の支度をして生徒玄関へと向かっていった。でも、そう簡単には校舎から出られなかった。色んな所に彼の友達が居たのだ。色んな知り合いと出会っては下らない会話を交わしたことが影響し、予定よりはるかに遅れて自分の下駄箱の前に着く。
「(この頃は喜怒哀楽がしっかりしてたんだね)」
おそらく中学二年生と思われる稔は、今の稔とは明らかに違っていた。クールーーもとい感情を隠すような素振りをする様子はどこにもなく、自然体で先輩にも後輩にも接している。そこに性別は関係なく、男子からも女子からも好かれているようだった。……もちろん、ライク的な意味で。
「……ん?」
自分の下駄箱の扉を開けて中から靴を取り出して床に置いた際、手紙の入った白色の封筒が、ひらひらと靴の行方を追うように落ちてきた。動くものに視線を奪われた稔は、その手紙を認識するやいなや手に取って凝視する。
「ラブレターか?」
「(これ、稔が騙されたとか言ってたやつじゃ……)」
相思相愛だと思っていたら、壮大な罠に引っ掛かっていただけだった。以前、稔は私にそんな話をしてくれていた。もしかしたらこの夢は、その話の詳細なのではないかーー。私の勘はそう言って、他の考えや予想が入る隙を与えなかった。
さて、肝心の当事者は何をしていたかというと、彼はドキドキしながら白い封筒を開けて中身を確認していた。予想通りの内容物が中から出てきたことで彼の喜びはさらに増し、「ついに俺にも春が来たか」などとボソボソ吐き捨てるように言いながら、ニヤけ顔を浮かべる。
手紙をバッグに仕舞い、稔は文面にあった体育館裏へ向かう。こんなよくあるベタ展開で喜んじゃうピュアな時代があともう少しで終わることなど知らずに。
人目を避けるように道順を選んで体育館裏に向かうと、そこには、黒髪の少女が待っていた。バスケ部とバレー部の声、走ることで生じる靴の音が左方から聞こえてきたが、稔の脳はそれら一切をかき消し、目の前の少女の方向に全てを注がせた。秋の風がお互いの髪を揺らし始めた頃、少女が口を開く。
「手紙、読んでくれたんだ?」
「もちろんです。それで、何の呼び出しですか、理乃先輩?」
稔は目の前の少女が誰か分かっていた。佐倉理乃。彼女は文化祭で三年連続ミスコン一位を獲得してきた伝説の女子生徒で、その名前を知らない生徒は稔の学校にいない。だが、稔は体育祭の時に同じ軍の応援団員として戦ったことがあるくらいで、そこまで深い付き合いをしているわけではなかった。
「ーー私と、付き合ってくれるかな?」
理乃は振り返り、稔の目に視線を合わせて言う。ワイシャツに黒色のセータを身につけていた彼女は、その豊満な乳房と長い髪を揺らすことで純粋な少年を落とそうとした。
「(なんと豊満な乳房……)」
告白の言葉の後、稔は揺れた乳房を見てそう思ったらしい。この夢は稔の脳とリンクしているのか、彼が思ったことも話を再生する際に一緒に描かれるようだ。汚れを知らぬ純粋無垢な少年の想像力にニヤけさせられた後、私は咳払いして彼氏の過去の体験と思しき物語を再び読み始める。
「でも先輩、今年受験生じゃないですか」
「受験なんて大したものじゃないって。私の学力なんて高が知れてるし」
「そんなことないですよ! 先輩、学年順位一桁が常連じゃないですか」
「バカの中の天才と、天才の中の天才は、全く違うんだよ」
稔と理乃は学年が異なる。学年順位については本人の了解を得た上で公開することになっているが、理乃の成績を県レベル、全国レベルで比較するための材料となる模試の点数については、学校の意向で公開することはできない。
まだ未熟だった少年には、冷静さを保つということが出来なかった。自分と釣り合うとかではなく、自分の将来のために時間を使って欲しい。稔はそんなふうに言いたかったが、現実は全く真逆。彼が選んだ言葉は、理乃が落ち込んだ表情にさせてしまった。
周囲が重たい空気に包まれ、お互いに言い出せない雰囲気が広がり始める。そんな中、ゴクリと唾を呑んで稔は言った。理乃の目をしっかりと捉え、真剣な眼差しを向ける。
「……なんで、俺なんですか?」
「弟みたいで可愛いなって思ったんだよ。私、一人っ子だからさ」
「先輩、一人っ子なんですね」
「やしろんは?」
「やしろん?」
「キミのことだよ」
「そんな可愛い名前、俺には合いませんって」
稔は照れている表情を隠すために笑って言った。中学時代の稔が、……いや、今もそうか。稔が、色々な人から好感を持たれる理由。話し方は今と昔じゃ変わったけれど、内容は変わっていない。誰に対しても真っ向から当たりにいく点だけは。
「俺も一人っ子ですよ」
「おお、仲間よ!」
咳払いして自分も同じであるということを告げると、理乃は稔の方に近づいて彼の右手をとった。彼女の髪が揺れた刹那、その周囲に芳香が舞う。さっきは遠かったから良かったものの、今回は鼻孔をダイレクトアタックしてきた。柔らかな感触に、少年は再びゴクリと唾を呑んでしまう。
「じゃあじゃあ、一人将棋とか、一人オセロとか、一人大富豪とか、一人ウノとかの面白み、分かるよね?」
仲間を見つけたことでノリノリになった理乃は、読点を挟むごとに稔の方に近づいていった。片や少年は、足を前に出す度に少女の口から溢れてくる単語に、「なんて可哀想な人なんだ」とギャップのようなものを感じる。でも、頭を抱えるような仕草はしなかった。
「全部一人でやるゲームじゃないじゃないですか!」
「一人でやるしかなかったんだよ……」
「もしかして、古傷えぐっちゃいましたかね?」
「傷でもなんでもないから大丈夫だよ。気にしないで」
「笑顔が逆に怖いですよ、先輩……」
壁に押し付けられている状況で相手に笑われたら、そこに悪意がなくとも、相手が、自分に対して悪い印象を持っているものとして受け取ってしまっても無理はない。
「それはそれとして」
そう言うと、理乃は稔の体から手を離した。彼との間に二歩分くらいの幅で空きスペースを取って、深呼吸する。その後で、少女は少年の目をじっと見た。
「……返事、決まったかな?」
稔は結論から遠ざかる為に話を逸していたわけではない。気が付けば話が逸れていただけである。もっとも、理乃と色々と話している中で導き出された結論は、どっち付かずのらしくない答えだったが。でも、答えを求められて拒む理由を思いつくことは出来なかった。
「最初に言ったとおり俺は、先輩に、受験で全力を尽くしてきてほしいです。だから、三年の一番大切な時期にそれを邪魔するような行動は取りたくない」
「じゃあ……」
「でも、もし、俺の手助けで少しでも前向きな考えになってくれるなら、落ち込みから解放されるなら、俺は、先輩と付き合いたいです」
理乃の目をしっかりと見て言い切ると、稔はまっすぐ前を見た。だが、発した言葉はきれいに整っていた一方、彼の心中は複雑で、自問自答が止まなかった。
手紙を渡されて、美少女から告白されて、それにOKを出して本当に良かったのか。体育祭で一緒に応援団となった時、少年は特に恋愛感情を抱いたわけではなかった。それなのに、まだ好きだという気持ちがはっきりしていないのに、相手に流されるようにOKを出して良いのだろうか。
「(優しさって、何だ?)」
優しさは人を包み込むためにあるのではない。時には突き放すことも優しさの中に含まれる。叱ることだって、励ますことだって、それが相手の為に役立てば、それは「優しさ」である。逆に、役立たないならば、それは偽善にほかならない。そんなものは自分勝手な優しさでしかなく、相手にとっては余計なお世話となる。
しかし、もし「優しさ」をそう定義するなら、稔が優しいことは間違いではなかった。少年が出したOKサインは、少女を喜ばせた。つまり、先程の定義で言えば、稔の優しさは理乃の役に立ったのである。
「……やしろん、大丈夫? 何かつらいこと抱えてるの?」
稔は心の中だけで「優しさ」について考えていたはずだったが、定義に当てはまっているのに感じる申し訳無さから来る葛藤は、彼の顔に出ていた。少女は、少年が何か重大な事柄を自分で抱え込もうとしているのだと感じ、近づいて質問する。
「いや、そういうわけではないですけど……」
「嘘だね。やしろんは嘘がつけなさそうだし」
「……」
「図星か。私で良ければ聞いてあげるよ?」
悩みの元凶たる人物に言っていいものか、と最初は気が引けた。だが、これまでの話を踏まえてみると、むしろ話さないほうが損なのではないか、と稔の考えは徐々に改まった。少年は唾を呑み、前置きをした上で話を始める。
「先輩が悩みの種なので、本当は言いづらいんですけど」
「うん」
「まだ好きだという気持ちが確定していないのに、OKサイン出して良かったのかと思って。そう考えたら、流されるように対応した俺って相当クズだなって」
「そんなことで悩んでたんだ」
稔の告白を聞いて、理乃はクスッと笑った。まるで弟を見ているような気分になったのと、「そんなことで悩んでいるのか」という思いが同時に襲ってきたのである。その後理乃は、「ちょっと威圧的に振る舞っちゃったかな?」と自分の告白のやり方に反省して、稔に励ましの言葉を送った。
「わっ、笑わないでくださいよ! 真面目に話してるのに……」
「ごめんごめん。でもさ、彼氏彼女っていう枠に囚われる必要は無いと思うよ? そこまで心理的に負担が大きいなら、友達の延長線とか、先輩と後輩っていう関係の延長線とか、もっと気楽に考えればいいじゃんか。何も、地続きではない関係のものになったと考える必要はないと思うよ?」
「なるほど」
恋愛関係が特別な関係であることは確かだが、だからといって堅く考える必要はない。理乃は稔にそう教えた。その上で、友達感覚を持ってもらうために、彼女は携帯電話をかばんの中から取り出す。
「堅い話はここまでにして、ライン交換しない?」
「いやいやいや、携帯器具の所持は校則違反ーー」
「真面目君だなあ。……まあいいや。体育祭の時のグループラインから申請送ればいいだけだし」
「やしろん、帰宅部だよね?」
「そうですけど……」
「一緒に帰らない? 家同じ方向だったよね?」
「でも、先輩と俺じゃ釣り合わないって言われるかもしれませんし……」
「そんなの気にする必要ないって。気楽にいこうよ、気楽に」
「ちょっ……」
理乃は置いておいたかばんの底についた砂利を払い、スマホを仕舞って肩に掛けた。そのまま稔の手首を握り、ぐいっと自分の方へ引っ張る。少年は少女になされるがまま、一緒に帰宅することとなった。だが、世間話をすることはあっても、途中寄り道をすることはあっても、付き合い始めた初日に二人が手を繋ぐことはなかった。




