5-25 王宮
店内に飾られていたメルヘンチックな時計は夕方五時五〇分を指していた。ラクトは、退店する頃にはすっかり気分を元通りにしていて、笑顔を取り戻している。稔とともに伝票を持ってレジへ向かった赤髪が支払いをする際に対面したのは、彼女が助けた店員本人だった。
「ブラックコーヒーとカフェラテプラスそれぞれ一点で、七五〇フィクスになります」
ドリップコーヒー(ブラック)が三一〇フィクスと、カフェラテ(アート付)が四五〇フィクスであることはメニューを見た際に分かりきっていたはずなのだが、「ここまで高く付くものを飲んだ覚えはないのに」と思うのは、喫茶店での会計時によくあることだ。日頃から自販機で売られているような格安珈琲を常飲していると、金銭感覚が狂うのだろう。
「千と五〇フィクス御預かり致します。……、お釣りの三〇〇フィクスです」
レジ打ちの後に聞こえる特有の機械音。小さく区切られたエリアから一〇〇フィクス硬貨を三枚取り出し、印刷された感熱紙を敷いた上に乗せる。
「本当に有難うございました」
ラクトはお釣りを貰うとすぐさま財布に仕舞うと、助けた店員が深々と礼をした。傷を抉られるようで、しかし傷を癒やされるようで、赤髪は複雑な心境になる。でも彼女は、助けられた相手からの感謝の気持ちに、一々論理立てて自分の気持ちを言うような女ではない。軽く一礼すると、ラクトは言った。
「どういたしまして」
その後ろで稔も軽く頭を下げていた。「連れがお世話になりました」と店員に言うと、彼は赤髪の手を引く。ラクトはその力に逆らわず、二人はそのまま喫茶店を後にした。ショッピングモールを出て自由通路を進むと、改札口が見えてくる。でも、彼女はその方向を絶対に見ようとしなかった。見たらおかしくなる。その思いが赤髪にそうさせた。
稔は何も言わず手を握る力を強め、歩く速度を上げてラクトを改札口から離れさせようとする。落ち込んだ表情はパーティーに合わない。せっかくの楽しみを台無しにする要素は出来るだけ排除したかった。臭いものに蓋をしているようにしか見えなくても、姑息な手段だと分かっていても、黒髪は止めない。
午後六時前ということもあり、自由通路は帰宅しようという人達でごった返していた。そんな中を離れないように進んでいく。自由通路の突き当たると右に進み、つい一時間前も使ったエスカレーターで一階まで降りる。方向を変えて王宮の正面へ向かおうとした時、黒髪は背中をトントンと叩かれた。
「やあ、愚弟。久しぶりだな。顔を見る限り、相当疲れが溜まっているようだが」
風が金色の髪を揺らす。見覚えのある顔と容姿。織桜だ。
「その疲れさせる指示を出したのはお前だろうに」
「仕方ないだろう。災害時に人を助けるのも我が軍の重要な任務なんだ」
「エルフィリア王国軍に入った覚えなんて無いけどな」
「無論、王国軍は志願制の軍隊だ。だから、愚弟が災害救助に携わる必要は無かったんだよ」
「それなら尚の事、なぜ俺達をギレリアルに向かわせたんだ?」
織桜は意味深長に数回頷いてから言った。
「愚弟にとって居心地の悪いところで、コミュニケーション能力と問題解決能力を養ってほしいと思ったんだよ。そういう『開拓能力』は、今後の役に立つはずだ」
「余計なお節介だと思うが、でも、経験値が増やせたのは確かだ。ありがとう」
「こちらこそ」
稔が手を前に出すと、織桜は迷わずにそれをがっちりと掴んだ。お互いに軽く頭を下げる。手を離したところで、金髪は問うた。
「それで、君達も『国王陛下帰還祭』に招待されたんだろう?」
「いや、招待したの織桜じゃん。だから、言われたとおり六時に来たんだけど」
「まあ、忘れていれば王都すら来てないか。……それじゃ、案内するよ」
織桜は二人の前に出ると、稔とラクトが喫茶店に入る前に通った道と同じところを通って、まず王宮前まで案内した。王宮前で黒髪達の方を見た時、愚弟が赤髪と手を繋いで仲睦まじい様子だったことに苛立ちを覚える。「リア充爆発しろ」と内心で思った後、金髪は王宮正面に立っていた警備に一礼し、そのまま敷地内へと進んだ。二人も追って進む。
「大きな堀で囲われてるのか」
「帝国時代に要塞として作られたからな」
王宮の成り立ちを織桜から聞きながら、三人は堀を跨ぐ石橋を渡る。王宮の敷地内で生活する人はそう多くないにも関わらず、掛かっていた橋は、車がすれ違うことができる程度の幅があった。事実、帰還祭に招待された王国の指導者層や各界の重鎮達の中には、車で王宮まで来ている人も居るらしい。
「夜も綺麗だから、帰りに見ていくといい。普段は街灯だけだが、今日はパーティーもあるということで橋がライトアップされるそうだ」
「見てみるよ」
堀の岸に植えられた桜の木の列を横切ると、目の前に一際大きな桜の大木が映った。右手を見ると、たいそう立派な門がある。王宮の「正門」だ。織桜曰く、警備隊が居たのは「正門口」と呼ばれるポイントだという。桜の大木の向こうには白く塗られた壁があって、要塞としての存在を意識させる。
織桜は顔を見せるだけで警備隊を道路の中央から退かせた。正門を軽々と通過すると、目に映ったのは田畑と果樹園。国王が暮らす場所というと豪華なイメージがあるが、エルフィリアの場合はその逆をいっていた。
「これら全て、国王が管理してるのか?」
「もちろん。でも、国王はあまり暇でないから、大抵は使用人が世話しているよ」
豪華な造りの王宮とは正反対の光景を見て、稔は民に寄り添おうという国王の意思を受け取る。道路こそアスファルトで舗装されていたが、ほぼエルフィリアの原風景が再現されていた。そして、いよいよ王宮の正面玄関が見えてくる。ちょうど、黒光りの高級車からドレスを着た女性が降りていた。
「……君達は正面玄関からは入らないよ」
「裏玄関とかがあるのか?」
「正確には『東玄関』だ。そっちから行ったほうが、更衣室に近いんだ」
「更衣室……。つまり、ああいうドレスとか着ることになるのか」
「そうだね」
正面玄関前へと続く道を進むのをやめ、右に曲がって、農地区画に水を供給するために作られた用水路沿いの歩道に入る。少し歩くと、人工芝の生えた広場が見えた。中央には大きな木がある。横に広く縦に短いこの木も桜だそうだが、樹齢は正門の脇にあったものより数年だけ若いらしい。
「ここは?」
「東広場だ。王族達のプライベートエリアでもある」
ジャングルジムやブランコ、タイヤといった公園でよく見かける遊具が多く見かけられた。先帝の妹が自ら全国各地の工場を回って回収した廃材を先帝が貰って、暇な時を見つけては自作していったそうだ。一級建築士の資格と大工の才能を持ち合わせていた先帝だからこそ実現できたものといえる。
用水路沿いに進んでいたのを東広場の芝生があるところから左へ曲がり、家族の成長を見てきた東広場を右に見ながら王宮の建物の横を進んでいく。途中、一際目立つガラス張りの部屋が左手に見えた。今夜のパーティー会場である「迎賓館」だ。王宮の建物とは別の建物として作られていて、雨に当たらず行くには地下通路を通らなければならない。
迎賓館と東広場の間にはガーデンがあって、低木や綺麗な花々が植えられていた。それらを左手に見ながら進み、ようやく目的地に到着する。東玄関は高い塔の裏に隠されるように作られていた。二階の連絡通路の下にあって、玄関の右手には洋風建築の建物が見える。前方方向には池が見えた。
「ここが東玄関だ。もう少しで更衣室に着く」
「靴は脱ぐべきか?」
「建物に入ったらでいい」
織桜はそう言うと、稔達を玄関右手の建物に案内した。扉を開けて入ると豪華なシャンデリアが二人を出迎えする。床に段差は無かったが、カーペットの手前で黒髪らは靴を脱いだ。用意されていた蓋の開いた大きな白いケースからスリッパを二人分取り出し、代わってそれを履く。ラクトが袋を作ってくれたので、履いてきた靴はそこに入れた。
「それでは、二階まで案内する」
更衣室は二階にあるということで、シャンデリアが照らす一階ロビーを右に進み、三人は螺旋階段を上って二階に向かう。織桜、ラクト、稔の順番だったのだが、言うまでもなく、黒髪が視線を上に向けると揺れるスカートが見える。チラリズムと太もものコンボは強烈で、稔は衝動を抑えるのに苦労した。
「それじゃ、ここからは別行動だ。男子更衣室はここを左に、女子更衣室は右に進んだところにある。十八時四十五分、またここに集合だ」
「分かった。ところで、衣類は用意されているのか?」
「もちろん」
稔が問うと、織桜は頷いて答えた。続けてこう言う。
「では、楽しみにしているといい。彼女は素材としては十分すぎるからな。愚弟が彼女に惚れ直すほど美しい女性に仕立て上げることを約束しよう」
「期待して待ってる」
織桜はラクトを連れて女子更衣室の方へ去っていった。赤髪は褒められたことに対する嬉しさからか、はたまた階段で黒髪が考えていたことを汲み取ったからか、理由はともあれ顔を赤く染めている。女性陣と背を向けると、稔も男子更衣室の方へ向かった。
更衣室の前に着くと、黒髪はまず更衣室の扉をノックした。中から返答が無かったので、横へスライドさせて鍵が掛かっているかどうか確認する。スーッ、とドアは軽々と動いた。部屋の中では、執事服を着た使用人が一人、見るからに高そうな革製の椅子に足を組んで座っていた。
「織桜様から話は聞いております。稔様、ですね?」
「ああ、そうだ」
ドアを閉めながら頷くと、稔は執事の方へ近づいていった。無言で歩く様を見て異様に感じたらしく、執事が少しずつ警戒心を強め始める。不審者では無いことを証明する必要が出てきたので、執事の目の前まで近づくのを止め、黒髪はさっさと思っていたことをぶつけてしまうことにした。
「失礼ながら言わせてもらうと、……ここ、男子更衣室だぞ?」
「実に失礼な方ですね、あなたは」
稔の言葉を聞き、執事服を着た使用人は口角を上げる。
「まさか、一発で見抜かれるとは思いませんでした。ご指摘の通り、私は女です」




