5-19 六日目の朝
閉め切られたカーテンの向こう側に明かりは見えない。それでも寝坊すると悪いと思って、稔は頭の横にあった自分のスマートフォンの電源ボタンを押した。端末が発光して稔の顔を照らす。現在時刻は四時三十分。起床予定としていた時間よりも遅いが、どうせ料理店も開いていないことだ。急ぐ必要はない。
ふと右側を見ると、同じ布団で彼女が寝ていた。夜中に越してきたのだろうか。稔はクスッと笑い、第三者視点で考える。だが、赤髪の寝ている姿を目を凝らしてみてみると浴衣が開けていた。自分の浴衣も開けている。まさかと思って周囲を捜索してみると、確かにピンク色のゴム風船が破れていた。
「また記憶飛んでるのか……」
稔は嘆息を吐く。つらいことはあっても充実した生活を送れる時間が無いわけではないので、足して二で割ると疲れはさほど溜まっていないようにも思えたが、脳と体で導き出された結論は異なっていた。それはそうとして、洗濯物を畳んでアイロン掛けすることにする。黒髪は水回りの集まった部屋へ急いだ。
どうせならとトイレに立ち寄った後、洗面台で手を洗うと、真後ろにあった棚からアイロン台とアイロン、そしてあて布一枚も一緒に持って、彼は水回りの集まった部屋を出た。玄関とメインルームを繋ぐ通路の照明を最小の明るさで点け、干しておいた洗濯物を一つ一つ丁寧に取り込んでいく。
「……ん?」
耳に伝わる勢い良く水が流れる音。だが、トイレで水を流した時に出るそれとは違う。稔はもしやと思い、脱衣所の扉をノックしてみる。紫姫、サタン、アイテイルの少なくとも一人が浴室に居ると勘ぐったのだ。しかし、期待したようにいかない。トントントンと右拳をグーにして戸を叩いても、反応はなかったのだ。
幻聴かと思ってアイロンがけに戻ろうとするが、黒髪は「ちょっと待てよ」と脱衣所の鍵が開いているか確認する。無理に力を使うことなく容易に動かせた。右手に着替えの類があるか目線を向けると、女物の下着や衣服が畳まれて置いてあるものと畳まれずにおいてあるものとあった。
「え……」
使用者は誰かわからないが、取り敢えず誰かが利用しているのだと分かり、黒髪はアイロン掛けに戻ろうとした。その時である。黒髪の後ろの方から声が聞こえた。声で精霊の誰か聞き取り分けて後ろを向く。だが刹那、黒髪は思わず口を閉ざしてしまった。全裸の銀髪美少女が居たのである。
「ダメじゃないか。脱いだら畳まなくちゃ」
「残念ながら、私の家事スキルは壊滅的なので、無理です」
「畳むことすら出来ないのか……」
彼女の恥部のほとんど全ては目にしてしまったが、黒髪は冷静を貫き紳士的な対応を心掛けた。しかしこの女、一向に自身の胸部や凹部を隠そうとしない。頭のネジが数本外れているんじゃないかと稔は心配になってきた。
「てか、もっと恥ずかしがれよ。なんでどこも隠そうとしないんだよ」
「私、人に見せられないような粗末な体じゃないですもん」
「だとしても俺、男だぞ? ……いや、異性に対してだけ羞恥心があればいいって訳でもねえけど、少しくらいは恥ずかしがってくれよ」
「でも、稔さんってラクトさんに捧げてる感ありますし、どうせ私が裸体を見せたところで、手、出さないですよね?」
「出さないっていうか出せないってのが正答だな」
「ほら、恥ずかしがる理由ないじゃないですか。あ、裸を見せるために立ってるわけじゃないので、ここらで失礼しますね」
除外条件を挙げた上で「裸体を見ても手が出せない」と嘲笑顔で言われるのは、なんだかチキン扱いされているような気がして癇に障った。でも、アイテイルが言っている内容は全くの正論である。もっとも、導かれた結論については異論もあるが――否、辿り着くまでの段階を見るとそうも言えない。
スタイル抜群の銀髪美少女は毒を吐くと、その恵体を見せつけるかのごとく通路を堂々と横切って脱衣所へ入っていった。その後は戸も閉めずに脱衣所を通過し、浴室の扉を開ける。稔は首を横に振って心の底から溜まりに溜まった嘆きの息を放出した。咳払いして調子を取り戻し、作業に復帰する。
洗濯バサミで留めていた洗濯物を全て取ると、それらをアイロン台の上にまとめ、稔は必要な道具をメインルームへ運んだ。コンセントにアイロンのプラグを挿して温かくなるのを待ちつつ、その間に、アイロン台の上をシワを伸ばす対象一つのみにしておく。壁に取り付けられていたコントロールパネルを操作して、干し竿も収納しておいた。
通路の電気を消し、メインルームの照明を点ける。最大の明るさに近づけていくと、ラクトが起きた。別にサプライズ演出のためにコソコソやっていたわけではないので、稔は、スマホのロック画面を見て時刻を確認する赤髪に普通に話しかける。
「おはよう、ラクト」
「おはよ……。お、アイロンしてくれてたんだ、ありがと」
「俺が汚したパーカーとかはやっとくけど、そこまでの腕がないから、競技場の時に着てた服だけ任せていいか?」
「任せなさい!」
左肘を直角に曲げて、上腕部の最下点を逆の手で押さえる。チームの中で姉御的なポジションに居るので、最初の「お姉ちゃん」は言わなかった。その後、立ち上がってシーツと枕カバーを取り、布団、シーツ類を別個にして畳む。それが終わると、赤髪は水回りの集まった個室に消えていった。
アイロンする洗濯物リストにはワイシャツという名のアイロン界の中堅が居なかったので、稔は、馬鹿みたいに時間を取られることなくアイロンを掛けることが出来た。言ったとおりの衣類のみ残してアイロン掛けを終えた頃、水回りの集まった部屋からラクトが出てきた。
「何してたんだ? 十分以上も」
「私も女だよ? 朝の寝起き後はこれくらい要るって」
「まあ、大体察しはついてるけどな」
「概ね稔が考えてる通りだよ。良かった、列挙しなくても稔が理解してくれて。じゃあ予定通り、後は私が引き継ぐね」
「おう」
ラクトは少しだけ顔を綻ばせると、話題を変えて稔を立たせ、彼が座っていた場所に腰を下ろした。一方黒髪は一言発し、彼女が先程まで居た水回りの集まった部屋に向かう。入ってすぐに辺りを見渡してみて、洗濯機の上に洗顔用洗剤が置かれているのが分かった。隣には電気シェーバーが置かれている。
「シェーバー作ったのお前か、ラクト?」
「そうだよ。てか、ホテル側がそんな高額なもの用意するわけ無いと思う」
「確かにな。それはそうと、ありがとう。使うことにする」
「使い終わったら、ハンドソープで水洗いして持ってきて」
「わかった」
稔はラクトから聞いた指示を頭に叩き込んだ上で、顔面や口腔、髪の毛を整えていった。和服で身嗜みを整えていくのは新鮮だったが、だからこそ難しく感じる。水が飛んだりして浴衣にシミを作らないよういつも以上に気を使ってしまって、水回りの集まった部屋を出た頃には時計の針が十五分も進んでいた。
「おかえり」
「もう着替えたのか」
赤髪は、黒髪が個室で身嗜みを整えている最中に着替えていた。彼女は今、縦線の入った袖なしニットワンピを着ていている。浴衣姿でも強烈なインパクトを与えていたその胸は、縦ニットともなると、男数人を出血過多で死へ追いやりかねないほどの凄まじいインパクトを放つようになっていた。
「はい、服とズボン」
「よく分かってんじゃん。黒パーカーに黒ボトムスなんて」
「プリントTシャツとかジーンズとか色々悩んだんだけど、これが一番似合うかなと」
ラクトは一時的にアイロン掛けの手を止めて、用意した服とパーカー、ズボンとベルトを稔に渡した。赤髪が前髪をくるくるいじって照れているのは、彼氏に自分のセンスが褒められたからである。
「そういやラクトは、パーカー着ないんだな」
「気分転換みたいなやつだよ」
「それにしても凄い格好チョイスしたな。街中歩くと、絶対男の視線が降り注ぐぞ」
「もしかして、似合ってない……かな?」
ラクトの問いに、稔は顔を左右に勢い良く振った。黒髪が褒めると、赤髪はすっかり笑顔になって彼氏に寄りかかる。温かく柔らかな二の腕が触れて以降、彼の心臓の鼓動は途端に早くなった。咳払いして平常心を取り戻した上で、冷たい反応を取る。
「いや、凄い似合っててエロい」
「なるほど。じゃ、ずっとくっついてないとダメだね」
「そ、そういうのは後でだ。まずはアイロン掛けろ。時間ないんだから」
「お、動揺してる。まあ、あと五分くらい見積もってくれれば終わるよ」
「じゃ、着替えてくる。どうせ五分経過前に終わると思うけど」
稔は受け取った衣類を手に再度水回りの集まった個室に入った。三分くらいで着替え終えると、黒髪は対岸の扉を開けて脱衣所に入る。ラクトが寝ていた頃ドタバタしていた部屋はすっかり静かになっていた。脚なし机で出来た衣服置き場の最下段には、使用済みのタオル二種が畳んで二段にしてある。
そのまま浴室を入って早々、浴槽の栓が外されているのに気付いた。洗濯で使われなかった分の水はとうに無くなっている。浴室も脱衣所も床や棚は綺麗に掃除されていて、水気の一つもなくなっていた。数十分前には使われていたとは到底思えない光景である。どうやら、精霊の中には家事スキルが神がかってる奴が居るらしい。
窓を開けたいところだが、不審者に入られてホテルがまた惨状と化すのはもう懲り懲りだ。浴場の外が見える窓の鍵を閉め、脱衣所と浴室を隔てる扉と脱衣所と通路を隔てるドアの二つを開ける。
通路を進んでメインルームに戻ると、赤髪が告げた時間にはあと一分届いていなかったが、彼女は既にアイロン掛けを終えていた。昨日着た衣装は、畳まれた状態でピッタリ入る程度の箱に収められている。箱が二つ分あるのは、そのクローズとパンツを着た人によって分けられているためだ。
「アイロン掛け終わったみたいだな。今五時くらいか?」
「そうだね。どうする? チェックアウトする?」
「ニューレ・イドーラで昼三時ならフルンティ周辺は正午くらいか」
「拠点で昼食を摂っていることを願って、行く?」
「そうだな。万が一、性別で文句言われることがあったら、その時は頼む」
「了解。それじゃ、アイロン台とか片付けて――」
ホテルに戻ってこないわけではないが、たとえほんの少しの間でも、火事の原因になりかねない物から目を離す訳にはいかない。そう思って稔はアイロン台に手を掛けた。その時である。魂石からサタンが出てきて、早々にラクトの特別魔法をコピーした。男装を済ませた後、長い方の紫髪は言う。
「先輩達が帰ってくるまで待機してますよ」
「ありがとう」
「後始末は任せたぞ」
「了解しました」
稔とラクトから激励の言葉を貰うと、サタンは軽く礼をした。痛みを訴えない程度に赤髪の手を掴み、黒髪は、学園都市から車で一時間ほどのところに位置するチーム・ベータの拠点が置かれた町へとテレポートする。
しかし着いて早々、二人を悲劇が襲った。ぽつりぽつりなんてものではない大粒の雨が降り注いでいたのである。息苦しくなるような圧迫感があるほどの豪雨だった。赤髪は濡れの度合いが小さいうちに傘を用意する。
「なんで、傘一本しか作らないんだ?」
「稔と相合傘してみたかっただけだよ」
「でも、そんなチンタラしてる暇はないぞ。傘が破れそうな音出してるからな」
「ちょっ……」
「急ぐぞ」
稔は傘の柄を持つと、ラクトが傘の中にすっぽり隠れるように彼女の後ろから腕を回した。右手の至る所に柔らかな肉感が伝わる。片や左手の至る所には大粒の雨が当たっている。大きな風が吹かないことを祈って、黒髪と赤髪はチームベータが拠点としている建物へ早歩きで向かった。




