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チートなしで敗戦国家を救うことになりました。  作者: 浅咲夏茶
四章 ギレリアル編 《The nation which has only women.》
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4-87 解放計画

 弥乃梨の背筋に電撃が走る。ニコルはラクトと違って他人の心を読むことこそ不可能だが、指定した相手と身体機能の全てを入れ替えることができた。というか、陸軍大将のほうが効果を考えると赤髪よりも上になる。理由は単純。身体を入れ替えることで、相手の弱点や魔法を体感しつつ把握できるからだ。


「秘密を守ってくれるなら、話す」

「おいおい。稔くん、上官に対してその口の聞き方は無くないかい?」

「地位は保障されているとはいえ、この国じゃ一歩間違えたら終わるからな」

「確かにそうだね。ところで、国民投票っていうのは――」

「なんだ、聞かれていたのか。なら、俺が渋っても何にもならないな」


 逃げても無駄だと分かると、弥乃梨は深呼吸した。咳払いして、説明に入る。


「俺は強制収容所を開放したい。でも、震災時の混乱に乗じたくはない」

「君は優しい心の持ち主だ。でも、戦闘中に情けを掛けるのは御法度だぞ?」

「だとしても、相手への気配りは揺るがない。それが俺の信条だから」


 弥乃梨の声はニコルの心に響いたが、軍隊の長を務める彼女からすると実に滑稽で、陸軍大将は思わず鼻で笑ってしまった。しかし、すぐに笑みを浮かばせるのをやめて真面目な顔にする。一度下を向いた後、ニコルは弥乃梨に言った。


「君の考えは僕が直々に大統領へ伝えるよ」

「ありがとう」


 弥乃梨は深々と頭を下げた。しかし、偽りの黒髪が果たさなければならないことも存在する。


「でも、もし強制収容所が解放できたとしても、彼らをギレリアル連邦に住まわせておくことはできないんだ。我が国の憲法、法律並びに条例では、性別を意味する語句に『男性』が含まれていないからね。今のままだと動物愛護に関する法律が適用されるから、大抵のことがお咎め無しになってしまう。仮に法律等が改正されたとしても、来年度から施行されるのは必至だから、来年度までは他国に住んでもらうことになる」


 現行法が適用されている中で、もしパートナーもなしに男性がギレリアルで暮らすとなると、人権が適用されないため、社会的にどうしても圧倒的不利な地位になってしまう。収容所から解放できただけでは終わらない根本的な問題があるのだ。ニコルの話を重く受け止めると、弥乃梨は悩まずに即決した。


「エルフィリアで保護すればいいんじゃないか?」

「それについて僕は干渉しないよ。ただ一つ、現在収容所に匿われてる人数が二千人近いってことだけは把握しておいてね」

「わかった」

「辛いかもしれないが、今日も一日、頑張ってくれたまえ」


 ニコルは弥乃梨の首の後ろに腕を回した。欧米でよく見られる友人間でのハグである。もっとも、二人は軍人同士――大統領に対する反逆者同士であり、慰めというより結束という意味合いが強い。ポンポンと左肩の辺りを二度叩くと、陸軍大将は偽りの黒髪から離れる。挨拶の後、ニコルは静かに去っていった。


「おやすみ、稔くん」

「ああ、おやすみ」


 ニコルが来たことで収容所の解放計画が進んだため、弥乃梨らは急遽予定を変更して作戦を錬るのをやめた。もちろん、陸軍大将が言い残していったことはきちんと実行する。偽りの黒髪はスマホから織桜に電話を掛けた。当然、向こうは午前四時十分頃だから起きていないだろうと思った。しかし――。


「もしもし。この電話番号は愚弟だな?」

「ああ、そうだ。久しぶりだな、織桜。元気か?」

「元気だよ。これでもバリバリの二十代だしね。それで、どういう用件かな?」

「もし難民を受け入れるって言ったら、問題ないか?」

「住居の手配は問題ない。ただ、食費が問題だな」

「食費?」


 織桜の説明に弥乃梨は思わず聞き返す。エルフィリア王国の国土は最盛期の十六分の一になったとはいえど、人口が著しく減少したことで食料自給率が上がっているため、食べ物に困ることは余程のことが起こらぬ限り無いはずだ。しかし、財政面では憲法や法律があるため、そう簡単にはいかないらしい。


「弥乃梨が避難させた男性たち皆痩せ細ってたから一杯ご飯食べさせたんだけど、そしたら食べる食べるで大騒ぎで、『おかわり自由』を取りやめるほどだったんだよ。国王が戻ってきたってことでリートが喜んでて、彼女の慈悲で食費は王室の財産から出てるんだけど、国会承認もなしに始まったから――」

「なるほど。つまり、もしバレた時の対処が大変だってことか?」

「そういうことだ。まあ、リートの一存で政令なんて簡単に出来るんだけどさ」

「立憲君主政体なのに?」


 弥乃梨は、「それは政令ではなく勅令では?」とツッコミを入れたくなったが、やめておいた。王国軍のトップに在る織桜と政治に関する話をしている中で無知を晒すことが、すごく恥ずかしいと思ったからである。まずは情報を知ることから始めようとして、偽りの黒髪は王国軍の指揮官に質問した。


「エルフィリア王国はちょっと特殊でね。憲法上、『国王は立法、行政、司法の三権を行使する権利を持ってるけど、臣民の支持を得た代理人に委託します』ってことになってるんだよ。日本でいうところの、幕府と朝廷みたいな感じ」

「つまり、首相が大政奉還をした、と?」

「ちょっと違うけど、意味的にはそういうこと。国民投票で大政奉還が現実的になったんだ。しかも、首相の独断とかじゃなく、憲法で定められた、れっきとした国民の権利を行使したまでなんだよ」

「憲法にそういう規定があるのか。面白いな」


 弥乃梨はそう言いつつも、「王族に行政権を渡してしまっていいのか」という疑問が頭に残った。でも、ボン・クローネで見たエルフィリア王国の臣民が王族の訪問に熱狂していた光景は記憶に新しい。憲法には国柄が現れるということを考えると、良かれ悪しかれ、エルフィリア王国の国民性に合ったものであるのは間違いないのだろう。


「ところで、今のエルフィリア王国の首相って誰か分かるかな?」

「王族か?」

「王族だね。性別は、同じ染色体を二つ持っている方だね」

「なるほど。――王妃とか?」

「国王はまだ若いんだ。王妃はまだ居ないよ。リートのお兄さんが国王だ」

「となると……第一王女?」

「いいや。先代国王の妹の子供ーー要は従姉妹だね。リートが摂政で、リーゼルは首相になっている」


 弥乃梨は「リーゼル」という人物が誰であるか判断するのに戸惑ったが、それまでの台詞からなんとなく理解できた。そして、国王のように振る舞っているリートが、実際には摂政だったということも知る。もっとも、摂政は代理国王だから、第二王女の振る舞いは当然とも言えよう。


「さて、雑談は程々にして。愚弟の注文は難民の受け入れでいいのかい?」

「そうだな。それ以外に要望することはない」

「わかった。じゃあ、最後に私から連絡がある」

「どうした?」


 嫌な予感は無かったが、だからといって良い予感がしたわけでもない。織桜は深呼吸した後、弥乃梨に明日の予定について話した。


明日みょうじつ一九〇〇(いちきゅうまるまる)より、王宮にて国王陛下の帰還を祝う会を開催する。費用並びに衣装は、これを不要とする。愚弟は速やかに上官に休む旨を伝えよ」

「軍隊の長らしい台詞だが、なんかアニメのワンシーンみたいだな」

「声優をしていたんだから、当然じゃないか」

「確かに。じゃあ、明日の夕方五時頃から休みを貰っておくことにする」

「よろしく頼む。では、よい眠りを」


 織桜は言ってすぐに電話を切った。しかし、弥乃梨がそれに気がついたのは「おやすみ」と返した後のこと。静まり返った部屋に自分の声が独り言となって響く様は、実に悲しいものだった。同時、偽りの黒髪は心の奥底から恥ずかしさが込み上げてくるのを感じる。頬を赤くすることはなかったが、彼は平然を装うのでやっとだった。


「……あれ?」


 弥乃梨は前方を見るやいなや、思っていたことそっくりそのままを声に出してしまった。さっきまで居たはずのサタンとアイテイルの姿がなかったのである。さっきまであった円形テーブルやパソコンは既に無くなっていて、偽りの黒髪の目の前には紫姫が礼儀正しく正座していただけだった。


「二人は警備に向かったぞ。貴台を戦闘に引きずり出したくない一心でな」

「でも、サタンもアイテイルも調査で疲弊してるだろ?」

「精霊の回復スピードを侮ってもらっては困る。携帯端末のフル充電が完了するのと同じくらいの時間があれば、精霊は瀕死から完全復活する」

「じゃあ、今後の予定が狂わないのか」

「否、全ての部面で問題ないという訳ではない。今日の予定が崩れるリスクはある。サタンはパーティーのバックアップ、アイテイルは救出作戦のキーマンだ」


 弥乃梨は紫姫の説明を頷きながら聞いた。出来ることなら二人とも警備作業から離れさせたいが、無能力者である第二小隊の隊長が一人で龍王のような強敵を倒せるとは思えない。何が起こるか分からない以上、強力な防衛力を有する精霊を警備の相棒に据えるのは実に妥当な判断だ。しかし、二人も精霊を配置するのは過剰対応である。


「アイテイル」

「何ですか?」

「今すぐ魂石に戻れ。アイテイルには、万全の状態で構成物質の調査に臨んでもらいたい。お前は存命者を救うキーマンなんだ」


 アイテイルよりもサタンのほうが使用可能な魔法の種類が多いことを理由に、弥乃梨は銀髪を魂石に帰らせようと説得を始めた。偽りの黒髪は命令口調だったが、これは『指示』である。言うまでもないが、魂石の向こう側で警備にあたっている精霊は、主人の主張について意見を述べる権利を有している。


「その配慮だけ受け取ります。もう、物質調査は終わっていますから」

「嘘を言うな。夕方にはまだやり残したエリアが――」

「弥乃梨さん。日付が変わってから、どれほど時間が経ったと思います?」

「まさか、調査の帰りにおまけでしてきたんじゃ……」

「察しがいいですね。弥乃梨さんが仰られたことのまさに通りです」


 被災地域の全てで土地と存命者データを収集して発表できたということは、アイテイルが果たすべき役割は当面の間なくなったも同然である。銀髪がまるで仕事をしていないかのような言いっぷりで弥乃梨が帰還を呼びかけたということもり、第六の精霊は笑顔を浮かべていた。一方で、偽りの黒髪はすぐに謝罪する。


「前言撤回だ。サタンと一緒に警備活動を続けてくれ。それに、まるでお前が気配りのできない精霊であるかのような言い回しをして悪かった」

「気にしてません。私、弱い方の精霊なので、そういうのには慣れてるんです」

「大丈夫だ、お前は弱くない。それに、ラクトみたいに評価が一転することもある。アイテイルの詠唱魔法を見てからじゃないと、強弱は判断できない」

「見せられませんが、簡潔に話すと一撃必殺技です」

「一撃必殺技だと? 十分強いじゃないか。それだけでアイテイルは一線級だ」


 一撃必殺技だけではロマン砲になってしまうかもしれない。しかし、弥乃梨のパーティーにはラクトが居る。蒼龍王を倒した時のように相手を束縛して動けなくすれば、一撃必殺技はロマン砲ではなく確定砲となり、最強技が完成する。


「三時間、頑張れよ。じゃ、おやすみな」

「おやすみなさい」


 弥乃梨が激励した後、お互いに挨拶を交わすと魂石越しの会話が終わった。アイテイルが胸の内で抱えていた所謂『地雷』を踏み抜いた感が否めなかったけれど、偽りの黒髪の弛まぬ努力が功を奏したようで、銀髪はいつもの様子に戻っている。彼が目を閉じて安堵の溜息を吐くと、紫姫は少し顔を綻ばせた。


「折れたのか、弥乃梨」

「今日の予定を終えた以上、そいつの自由意志を尊重しないわけにはいかない」

「もっともだ」


 精霊はロボットと違って自然な心を持っている。それが戦争末期に構成されたものだとしても、データとしての心しか入っていないロボットとは違うのだ。指示を聞いて行動を開始する機械とは違い、指示を経ずとも行動できるのである。ゆえに、精霊自らの意思に主人が必要以上に干渉するのは不適当といえよう。


「ところで、弥乃梨はこれから寝るのか?」

「何か用事でもあったか?」

「用を足したいのだが、暗くて怖いから不可能というか、要するに――」

「……わかった。ほら、行くぞ」


 嘆息を吐くと、弥乃梨は強引に紫姫の手を握った。もちろん、彼の心はカーテンの向こうで寝ているラクトに申し訳ない気持ちで一杯になる。しかし、それでも良心は揺らがなかった。偽りの黒髪は周囲にバリアを展開して、紫髪の要望通りトイレの目の前にテレポートする。



 新聞社の本社社屋ということもあり、トイレは個室一つだけとかこじんまりした感じではなく、学校や商業施設で目にするような個室がズラリと並ぶ感じのトイレだった。それは、弥乃梨が立ち入ったトイレが女子用であることも意味している。偽りの黒髪は通路に戻ろうと抵抗したが、紫姫がそれを許さなかった。


「頼むから戸の前で待機していてくれ。夜に一人で居るのは怖いんだ……」

「わかった。ちゃんとここで待っててやる」

「ありがとう……」


 紫姫が抱えていた怯えは、見張り役が居るという安心感だけで跡形もなく消えてしまった。その一方、紫髪の依頼を受け入れたことで心にあった余裕を全て失ったのが弥乃梨である。紫姫がすぐ近くで排尿しているという事実が「音を注意深く聞こう」という邪心を生み出し、しかも彼の脳を支配するまでに成長したため、煩悩と葛藤を始めざるを得なくなったのだ。


 イヤホンやヘッドホンがあればどれほど楽になるだろうか。気さくに話し合える仲の相手が自分の隣に居たらどれほど気を紛らわすことができるだろうか。しかし、考えこんでも辿り着く場所は同じだった。それは、言うまでもない。便器に液体が当たる時の音を聞くか聞かないかということである。


 こんなことで動揺する自分が馬鹿らしいと思った。音くらいなんだ。紫姫は彼女ではないんだ。パーティー内で主従関係にある相手というだけなのだから、悩む必要なんて皆無なはずだ――。でも、考えれば考えるほど背徳的な方向に妄想が膨らんでしまう。その時、弥乃梨は自分の本性を垣間見た気がした。


「(煩悩退散!)」


 目を閉じ、手を合わせ、内心で叫ぶ。しかし、それでも弥乃梨の脳内に居た悪魔は彼に排泄音を聞くよう指示した。対する偽りの黒髪は言うことを聞かず、次の一手として平方根が整数となる値を数えだした。


「(√1、√4、√9、√16、√25、√36……)」


 最初こそどうなるかと思ったが、意外にも作戦は実を結んだ。素数を数えるほうが面白みがあったかもしれないけれど、しかしながら、平方根が整数となる値を探すのも面白かった。もっとも、結局は二乗した数をどこまで覚えているかという話になって、素数を数える時と同様に暗記ゲーと化すのだが。


「(√484、√529、√576、√625、√676、√729、√784……)」


 計算はどんどん進んでいき、もうすぐ根号の中が四桁の大台を越えそうというところまで来た。しかし残念なことに、音に耳を澄まさず順調に理性を保守してきた弥乃梨は、ここにきて強烈な一撃を喰らってしまった。


「弥乃梨。戸に耳を当てて欲しい」


 弥乃梨の脳裏に電撃が走った。揺さぶりをかけられていると判断した偽りの黒髪は、まるで敵陣に飛び込むかの如く深く考え込んでしまう。とはいえ、紫姫はとても深刻そうに話していた。こうなってくれば、弥乃梨の脳内では「仲間を見捨てるかのようなやり方は如何なものか」という意見が強まってくるわけで。


「どうかしたか?」

「水が、流れない……」

「ちょっと待ってろ」


 弥乃梨はそう言って隣の個室に入ると、レバーを下げて水を流した。水槽に汚水がなくても流れたことを確認し、すぐさま紫姫が入っている個室の戸の前に戻る。唾を呑んで意を決し、偽りの黒髪は紫姫に問うた。


「個室に入って大丈夫か?」

「か、鍵を閉めるだけなら問題ない」

「約束する」

「は、入れ……」


 紫姫は弱々しく言った。入って早々、弥乃梨は見たことのないような紫髪の照れ顔に驚く。しかし、異性に見られたくない場所の上位にランクインするのがトイレ関係だから、仕方ないのかもしれない。改めて紫姫が女の子であることを実感した後、弥乃梨は約束通り個室の鍵を閉め、サタンと連絡を取った。


「サタン。マイナスドライバーとモンキーレンチを作って送ってくれ。頼む」

「まさか、ヤりすぎてベッド壊したわけじゃないですよね?」

「そんなわけあるか。取り敢えず、作って送れ。指示じゃなくて命令だ」

「都合のいい時だけ命令にするとか、先輩も鬼畜な一面があるんですね」


 指示から命令に引き上げなくても、サタンは自然な会話を続けている最中に頼んだ品物を送ってくれた。弥乃梨は精霊罪源に「ありがとう」と一言お礼の言葉を告げ、魂石越しの会話を終わらせる。間もなく、修理作業が始まった。トイレのタンクを開けて水位を確認し、得た情報を基にやるべきことを行っていく。



 およそ五分後、弥乃梨と紫姫はトイレの水槽内にあった汚水が完全に流れたことを確認した。紫髪は、昨日の昼間に修理を行った第二小隊の隊長の心を読み、水が詰まってしまった理由を確認する。どうやら、水位線まで水かあるかを確認していなかったものがあったらしい。実に根本的なミスだった。


「ありがとう」

「どういたしまして。それで、俺もトイレを使いたいわけだが……」

「バリアで防音壁を作れば良い。我は戸のほうを向いているから」

「個室から出る気は――」

「そんなのあるわけなかろう。恥ずかしさよりも怖さを優先する」

「……絶対にこっち見んなよ?」


 弥乃梨はバリアを展開すると、言われたとおりそれを防音壁と見立てて、修理したばかりのトイレを使った。最初こそ弥乃梨は紫姫の視線にビクビクしていたが、決心して行為を開始すると問題なく進んでいく。終えた後、入室時と同じ状態に衣服を戻してから汚物を流し、蓋を閉めてバリアを解除した。


「手洗って部屋に戻るぞ」

「うむ」


 施錠を解除し、二人は手洗い場へと進む。使用済みの手拭き紙がごみ箱に入っているのを見て、濡れた手については手拭き用の紙で拭くことにした。言うまでもないことが、弥乃梨も紫姫も使用した紙はごみ箱にポイしている。サタンに作ってもらった工具を返還した後で、偽りの黒髪は印刷室へテレポートした。



 印刷室に帰還してすぐ、紫姫が弥乃梨に深々と頭を下げた。自らが引き起こした事態を解決してくれた主人に感謝の言葉を言うだけでは、心の中のモヤモヤが取れなかったためである。トイレの修理は弥乃梨の自意で始めたことで紫髪が弁償する必要性はないにも関わらず、精霊は主人に奉仕することを告げた。


「先程我が犯した失態の詫びとして、夜が明けるまで貴台らの警備をする」

「まるで要人みたいな扱いだな」

「王族主催のパーティーに招かれている時点で要人だと思うが?」

「確かにそうかもな。じゃあ、紫姫の厚意に甘えようか」

「承知した」


 紫姫に三時間半も孤独に過ごさせるのはどうかと思ったが、寝ている間というのはトイレと並んでとても無防備な時間帯だ。今は性別を詐称できているが、たった一つの些細な出来事が引き金となって自分の首を絞める可能性は十分にありえる。万が一に対処できる心強い味方が居るだけで、弥乃梨は安心できた。


「じゃあ、お休み」

「お休み。良い眠りを」


 弥乃梨は挨拶してカーテンの向こうへと進んだ。開いた窓からは月の光が差し込んでいて、窓側で横になっていたラクトの容姿を照らしている。赤髪の顔の脇にはスマホと両耳用イヤホンが置いてあった。音楽が掛けてある可能性を考えると、偽りの黒髪はすぐさま両耳に装着した。案の定、音楽が聞こえてくる。


「これは――」


 弥乃梨はそれが誰の何の曲がすぐに理解した。しかし、音源は公式が配信しているものではなくて、ラクトが耳コピしながら楽曲制作アプリで作成したもので、本家版よりもより低音を強化したアレンジが加わっている。フルを作る予定なのだろうが、時間の制約から、フル版の一番しか完成していなかった。


「ありがとう。明日も頑張ろうな」


 完成していた部分を聞き終え、弥乃梨が感謝と労りの気持ちからラクトの頭を撫でると、赤髪は顔を綻ばせて頷いた。その笑みは弥乃梨に飛び火し、彼にも笑顔を浮かべさせる。偽りの黒髪は仕返しに彼女の耳元で「おやすみ」と言って、眠りについた。

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