4-55 サンキューモーニング
「置きて下さい、先輩」
「……今、何時だ?」
カーテンを閉じたことで朝日の光は完全にシャットアウトされていた。ろくな睡眠時間を確保できていなかったラクト爆睡状態で、並大抵の起こし方では置きないほど深い眠りに入っている。それに比べ、飛行機内で仮眠を取ることに成功した弥乃梨はさっと起きることが出来た。少しずつ少しずつ目を開け、周りの状況を確認する。だいたい八割くらい開いたところで、事態が動いた。
「おはようございます」
「……いつからそこに座ってたんだ?」
「ざっと一時間くらい前からですかね」
「寝顔観察か?」
「先輩、私はそこまで悪趣味じゃありませんよ。寝ている人の髪の毛をいじるなんて、そんな」
「この近さだと十分有り得そうだが……」
弥乃梨はパッとそんな言葉を漏らした刹那、自分の左横にあるものを見つけた。数十センチはある黒色の細長い人工の髪の毛である。右手を頭のてっぺんに動かしてみると、確かに昨日の髪質と大きく異なっていた。チラっとサタンのほうを見ると、彼女はぷいっと主人の方から視線をそらす。
「隠す必要はないぞ」
「どうして気付くんですか、先輩」
「不自然に置かれた物体を見て疑問を抱かないほうがおかしいと思うんだが?」
「今回については私の敗北ということですね……」
「そうだな」
カツラを取った張本人はサタンだった。不自然に置かれていた理由について弥乃梨は問いたださなかったが、それは、ベッド上で横になっている両名が寝たのを確認したと同時に行動を取ったから。つまるところ、サタンは真夜中に主人の着けていたカツラを取り外したのである。
「先輩、人生相談していいですか?」
「唐突だな! まあいい、どんとこい」
「ありがとうございます」
長い間座っていたことで疲れたらしい。サタンはそう言って座り直した。一方、弥乃梨は布団を出る。それまで自分が横になっていたのと同じ位置の掛け布団上に座り、聞き手として静かに話し手が話し出すのを待つ。精霊罪源は、深呼吸をしてから人生相談を始めた。
「まず、昨日はありがとうございました。先輩なしではオスティン退治が出来なかったと思いますし」
「あれは俺じゃなくて紫姫の功績だと思うが。ていうか、『退治』ってお前……」
「いいんです。私があの男を嫌っているという証拠ですから」
従順な仲間に対して攻撃的になるのは、好きの裏返しというのが大半だろう。現に弥乃梨はラクトを誂っているが、それは相手を貶したいからではなく、愛情表現の一種として行っているだけにすぎない。誂われる側も嫌な顔をしている訳ではないので、相手が悲しまないように配慮しながらならば攻撃的になっても問題はないだろう。
しかし、オスティンとサタンはそういう夫婦喧嘩に近い争いごとが起こる関係ではなかった。エーストを仲間として見ず、まるで奴隷のように扱おうとしたのである。これにはサタンもカチンと来た。でも、精霊が主人に勝てるわけがない。その結果、今のような魂石に罪源が住まう状況が作られてしまった。
「先輩。なんで『稔さん』ではなく『先輩』と私が呼ぶか分かりますか?」
「主人とかマスターって呼ぶのが嫌だからか?」
「バレバレですね、私の考えてること……」
「今のはまぐれだから落ち込む必要はないぞ、サタン」
弥乃梨はまさか質問の答えを一発で言ってしまうとは思っていなかったから、深く考えずぱっと思いついたことを口に出していた。だから、正解したのはまぐれである。偽りの黒髪は精霊罪源に対し、「気にするな」と慰めの言葉を送った。
「正直、先輩とラクトさんの関係は羨ましいです。呼び捨てだけならまだしも、先輩の思いやりを見ていると、主従の関係が本当に結ばれているのかと疑問を抱いてしまうほどです」
「俺、主従関係とか好きじゃねえしな。むしろ、言いたいことはどんどん言って欲しいタイプ」
「でもそれ、上に立つ者の考え方じゃないですよね」
「同じ目線で話さなきゃ相手から反感買うだけだろ」
「先輩。それ、ラクトさんに言ってあげてくださいよ」
「論戦の場合は怒らせたほうが効果的だから、あれでいい。暴力を振ったほうが負けだからな」
「そうなんですか」
論戦とは論理的思考のぶつけあいである。だから、発展する場合は口喧嘩になるべきだ。それなのに暴力を行うなど言語道断だし、もちろん許されてはならない。試合を放棄することは負けと同義だ。これはスポーツにも言える。自ら戦いの土俵を降りたのだから、負けと捉えていけないわけがない。
「高圧的な態度を取り、失言の引用を積極的に行い、自分の意見を発言する。並行して相手の失言を自分の意見に取り込むことで、相手は主張の場を失う。正論に対抗できるのは正論しかなく、正論以外は感情論になるからな。相手が感情的になった時にこちら側が冷静さを貫ければ、こちら側の勝利だ」
「身から出た錆ですね」
「そのとおり」
一貫性を失った主義主張を聞いてはくれるような人は少ない。このことを利用し、相手の弱みを突いていくのが論戦で勝利するための近道だ。もちろん、中には暴力を振らない人も居る。そういう場合は、自分がいかに失言しないかがカギ。妥協したところでまた論戦は起こるから、妥協はあくまで停戦協定の一つとして考えるべきだ。基本的には、妥協しないことが重要である。
「ところで、人生相談は?」
「それは先輩の注意を引く文句に過ぎません。なので、相談はないです」
「そっか」
するならそれ相応の心構えをしておこうと思ったが、しないということなので弥乃梨は途端に気を楽にした。顔には出さず、偽りの黒髪は落ち着いた表情を貫いている。そんな時、サタンが一時的に忘れていたことを思い出した。
「そういえば、先輩のスマートフォンに通知が来てました」
咄嗟に自身のスマホを手にすると、ロック画面には『新着メール』の文字があった。個人情報保護の観点から、パスコード入力前の画面では内容を知ることが出来ない。弥乃梨は、『新着メール』と書かれた場所を左から右にスライドして四字のパスコードを入力し、送られてきたメールを確認する。
「ヘル達か」
弥乃梨は、夜になったら一日の出来事を報告しろと言ったことを思い出した。メールの送り主はヘルで、スルトとともに偽りの黒髪と契約を交わす前の主人の下での暮らしを始めて一日目の様子が、圧縮されていない写真とともに文で綴られている。文面を読むと、弥乃梨は思わず顔を綻ばせた。
「どんなことが書かれていたんですか?」
「罪を犯してから更正した主人の姿を見て喜んだらしい。あとは……、ああ、俺の過保護っぷりをディスってるな。もっと外の様子が見たかったらしい」
「ヘルはあまり前に出る人じゃないですし、気持ちは分からなくないですね」
「そういや、サタンって、ヘル達をボン・クローネまで送ってたよな?」
「特に伝言は預かってません。ただ、変わった点を挙げるとしたら、別れ際に握手した時、『ありがとう』と特別な言葉遣いで話さなかったのとかありますね」
外国語の直訳風に『特別な』とサタンは話したが、つまり、「~っす」とか言っていたヘルがそういう口調をやめたことを言っているのである。ヘルと接していた時に普通の言葉遣いで話す場面など見ていなかったので、弥乃梨は自分の知らない元召使の一面を垣間見た。
「おそらく、ヘルは一区切り付けたかったんだろうな」
「思い出を消去することは病気とかじゃないと不可能ですからね」
思い出はできれば無いほうが気楽だ。でも、あると人としての成長を期待できる。もちろん、センスだけで生きていけなくもない。だが、経験値の積み重ねがあると余裕が生まれる。そうやって生まれた余裕が、今度は人の成長を助けてくれる。それらを何度も繰り返せば、好循環が形成される。
「ヘルには、俺らと過ごした記憶を糧に頑張ってほしいな」
「先輩に同じです」
会話が一段落する。だが、話題の供給は止まらない。ヘル達についての話しが終わって十秒も経たないうちに、通知音とともにメールが一通届いたのだ。上部にバーナーとして出てきたそれをタップすると、OS側が開いていたメールアプリを自動で更新してくれ、新たに受信したメールの文面を画面に写した。
『契ヲ破棄スル旨ヲ告ゲタイト思イ、コノメールヲ送信シマシタ。同意スル場合ハコノメールニ返信シ、ソノ旨ヲ告ゲテ下サイ。契ヲ破棄スル場合ハ何モセズニ召喚カラ四八時間後マデ御待チ下サイ』
漢字とひらがなの混じった文を基本とする文章に慣れている現代日本人には、漢字とカタカナで構成された文章は電報にしか見えなかった。もっとも、文面から意味を理解できてしまうようなものは軍事での電報には当たらないだろうが。
「また契約破棄の話か……」
「止めることも重要だと思いますよ、先輩」
「いいや、止めない。俺は、彼女らの意見を尊重する」
しかし、弥乃梨は、意見を尊重することと支援をすることをイコールで結ばなかった。応援要請があっても、急を要する場合でなければサポートをするつもりなんか毛頭ない。チームの総意を決定する身として対応の根幹を改めて考えた上で、弥乃梨はメールに書かれていた指示に従って送られてきた文面に返答した。
「先輩、フリック早いですね」
「こういうのは慣れだ。やればやるほど身についていく。……褒めてるのか?」
親指がすごいスピードで画面上を走り回るのを見ていたサタンは、褒めると同時にちょっと引いていた。弥乃梨は褒められていると思って笑顔で返していたが、その表情を見て気持ち悪がられている感じがし、思わず問うてしまう。
「皮肉込めて褒めてます」
「公言しちゃダメだろ、それ……」
「いいじゃないですか。私と先輩ってそこまで脆い関係じゃないですし」
「まあ、脆くはないかもな」
信頼関係で言えば、主人と精霊との間に発生するそれは弥乃梨とサタンの間でも同じように発生している。しかし、偽りの黒髪の視線は彼女に向いている。そうでなければ戦闘時、すなわち紫姫に向いている。
「でも、私はこれくらいがベストだと思います。好きなわけでも嫌いなわけでもなく、ただ単に互いを信頼しているだけの本当のシンプルな主従関係。主張をぶつけることもなく、相手を傷つけることもない関係」
弥乃梨とラクトまたは紫姫の関係を考えた時、そこには一方通行であれ相互通行であれ、恋愛感情が発生している。だが、サタンの場合はそれがない。相手の世界に干渉することはなく、かといって助け合いをしないわけでもなく、必要に応じて協力する関係。精霊罪源はそれを高評価した。
「そういうのを友達って言うんだが」
「私は先輩のことを『盟友』だと思っているので、間違いじゃないと思います」
「そういえば、そんなこと言ってたな」
必要に応じて協力する関係とは、まさしく盟友のことだ。たとえば、同盟関係にある国が攻撃を受けた時、同盟を結んでいる国は攻撃を受けた国を助ける。同じように、サタンが攻撃を受ければ弥乃梨は助ける。逆もしかりだ。もちろん、そこに主従の関係――すなわち上下の関係があるとは限らないが。
「よし」
サタンとの関係を考えながら指を動かしていたが、返信メールが打ち終わったため、弥乃梨は内容に誤りがないかをしっかりと確認した後でロパンリ組宛てに送った。送信完了を通知する音が鳴ると、偽りの黒髪はスマホをロックする。
「ところで先輩。これからどうしましょうか?」
「朝飯だろ」
「残念ながら食料がありません。あと、今更ですけど、現在時刻は八時です」
「なん……だと……?」
警察署の朝は早いような気がしたが、夜遅くまで一生懸命に掃除をしてくれた若人たちに感謝の気持ちを持った徹夜組の警察官二人が、弥乃梨とラクトを起こさないでくれた。しかし、捉え方を変えれば警察官からの試練でもある。
「いくらゲストとはいえ寝過ぎですわ! 起きて頂けませんかしら?」
二度ノックしたかと思うと、聞き覚えのある声が弥乃梨の耳に届いた。偽りの黒髪は、口調と声質からドアの向こうに居るのはイリスだと判断する。快適な睡眠への介入を防ぐために鍵を掛けた状態で部屋を使っていた、なんていう自己的な意見で理解されるとは思えず、弥乃梨は抗うこと無く部屋のドアを開けた。
「朝の八時まで寝ているとは何事ですの? まあいいですわ。これをどうぞ」
「朝から高カロリーなもんを……」
「必要ないのであれば与えませんが?」
「要る要る、絶対に必要だ!」
「選んだかいがありました。どうぞ、朝食をお楽しみ下さい」
イリスは言い、ドアの動く範囲と開閉時に重ならないところにハンバーガーの入った紙の容器を置いた。母国語で書かれていないため、ぱっと見ではわからない。でも、長くても三語か四語で一つの固有名詞は成立する。
「三倍バーガー……?」
差し入れは二つ。言わずもがな、弥乃梨の分とラクトの分だ。片方の容器は異様に大きく、もう片方の容器は標準仕様である。少食でも大食いでもない彼女にビッグサイズを食べさせるのは良心が傷つくので、偽りの黒髪は迷うことなく自分の食べる方を選択した。
「先輩、『Meat is larger than standard.』ってありますけど……」
「肉の量が三倍なだけだし、摂取して悪いことはないと思うが」
「太りますよ?」
「物事は一つの視野で語らないほうがいい。肉は筋肉にも脂肪にもなる栄養だ」
「……」
弥乃梨は怒ったつもりなどなかったが、サタンはそういうものだと思って言い返せなかった。紫姫が召喚されていないため、相手の心を読むことは出来ない。しかし、偽りの黒髪があたふたしている様子を見た精霊罪源は察した。
「私、感情論でごり押すタイプなんです」
「いや、今のはネタにマジレスした俺にも責任があると思う」
会話が止まる。ラクトとの会話に慣れすぎていた弥乃梨はサタンから何らかのコメントが来ることを期待したが、現実は非情だった。無言状態に陥るだけならまだしも、精霊罪源が行動を起こしたのである。
「ご、ごめんなさい、先輩!」
言っていた通り、サタンは感情論でごり押した。魂石にロックを掛け、指示程度では外に召喚されないようにする。翻り、弥乃梨は悪いことをした気分になった。しかし、起きて早々の人に俯いた表情を見せるわけにはいかない。
「ハンバーガー、食べようかな」
嘆息を吐いてから、弥乃梨はマドーロムに来て初めての一人飯を始めた。




