4-51 サイカクニン
ラクトのムスッとした表情を見て、弥乃梨は悪いことをした気分になった。だが、頬を膨らましている彼女の姿を見ると、偽りの黒髪の中のいじめたい気持ちが増大してしまう。二人の座っている場所はテーブルで隔てられているが、手を伸ばせば届く距離に顔があった。しかし、ここはぐっと我慢する。
「ラクトの可愛い表情が見たかったんだ」
「股間を執拗に撫で回されることに反抗しないくらいに?」
「一切の抵抗をしていない訳じゃないから、その言い方には語弊があるぞ。まあその、お前の嫉妬した表情や論破できずに苦戦する表情が見てみたかったんだ。普段と違う一面を見てみたくてさ」
「だからって見放すことはないじゃん! お互いが足りないところを補う関係でここまで来たのに、なんで変に乱そうとするのさ! 確かに新鮮味が欲しいのはわかるけど、だからって、こういう突き放すようなやり方を何の告げも無しにするとかないよ!」
普段は論理的かつ冷静に話すラクトが感情的になっていた。端から見れば痴話喧嘩のように見えるかも知れない。でも弥乃梨は、彼女が普段の様子と異なっていることに気付いた。もう一言二言、自分の叫びたいことを思いのままに口から発せば、おそらく、ラクトは涙腺のコントロールが出来なくなるだろう。
「それ以上言うな、ラクト。俺はお前に泣いて欲しい訳じゃない」
「なら命令すればいいじゃん! 一言、『泣くな』って言えばいいじゃん!」
「俺にお前の感情をコントロールする権利はない」
「人の表情見て嗤ってた癖に!」
事実だった。ラクトが普段見せない表情を見たいが故に、弥乃梨は赤髪に相当なストレスを掛けていた。偽りの黒髪がいくら正論を主張したとしても、そこに至るまでの経緯の中で主張を台無しにするようなシーンが無いわけではない。そういった相手の失言は、思いがけない武器となる。
「大体、いつも偉そうなんだよ! 新参の癖に綺麗事ほざいて私たちの思考回路を掌握しやがって! 私が居るのに他の女の頭撫でてニヤけてんじゃねえよ! 嫉妬しないとか真っ赤な嘘に決まってるだろ! キスだけならいいとか、そんなこと微塵も思っちゃいない。キスした時点で浮気と同義なんだよ!」
弥乃梨が何も言えない雰囲気を作り出した後、ラクトは胸の奥に秘めていた自身の本当の気持ちを全て曝け出した。「嫌われたって構わない」という強い決意のもとで、ことあるごとに座っている椅子の目の前の机を手で叩く。
「……言いたいことはそれだけか?」
「もう言い切ったから、無いよ。嫌いになるならどうぞご自由に」
「そっか」
怒りの感情を急速に鎮め、ラクトはそっぽを向く。弥乃梨は同情するわけでも反論するわけでもなく、相槌の一環として言った。でも、それから三秒くらいして、偽りの黒髪が赤髪のことを鼻で笑う。
「嫌いになんかなれねえよ、馬鹿が。なにせ、俺は非電解質だからな」
「……非電解質?」
「水に溶けても電流が流れない物質のように、たとえどんなイベントがあろうとも気持ちが一つのままである人のことを、俺は勝手に非電解質の人間と呼ぶ」
「矛盾してない? 弥乃梨、前に一人――」
「たとえば砂糖水は、加熱すると水が蒸発して焦げた物質だけが残るだろ?」
非電解質の砂糖水にしたってエタノール水溶液にしたって、その物質が水と手を取り合っているから水溶液として成り立っているのであって、どちらか片方の物質に不利益な事が行われれば関係は崩壊してしまう。人間社会で起こる恋愛も同じで、一方に不利益なことがあれば大半はそれまでの関係が崩れ去る。
「そういうことか」
化学好きの彼女に自身の使った比喩表現を分かってもらったところで、弥乃梨は咳払いをした。間を開けず、彼は次の行動に移る。起立して見下げるのは詫びの印としてまずいので、かといって土下座すると彼女の下着を見ることになるので、弥乃梨は椅子からさほど動かずに詫びの気持ちを示した。
「お前をいじめたのは大好きの裏返しだ。けど、傷つけてしまったのは事実だから謝る。本当に申し訳なかった。今後は、お前の気持ちをより大切にする」
「謝罪の言葉は要らないよ。だから、行動で気持ちを示してほしいな」
「分かった」
弥乃梨は精霊と親密な関係であるが、そうなる過程で、あまりにも過剰なスキンシップを働かせすぎていた。しかし、偽りの黒髪の精霊に対する過剰なスキンシップがなければ、今の地位が無かったのも事実である。ラクトに対して行ったような突き放す作戦を取るのは、過去を否定することに繋がりかねない。
こういうときには逆転の発想が必要不可欠だ。彼女への接し方と精霊への接し方が似たり寄ったりで、加えて精霊との距離を開けるようなことが出来ないのなら、彼女の地位を今より上げればそれでいい。他に手を回す必要などないのだ。弥乃梨は返答から少し経てテレポートし、彼女の座席の後ろで立ち、そして。
「きゃっ」
「気持ち良いか?」
「う、うん……」
初っ端から両肩に手を掛けるのも一手だったが、弥乃梨はまず、後頭部の髪の生え際にある窪んだ部分を親指で軽く押した。耳を手で覆うようにすると、親指以外の四本指で手の置き場所が固定され、マッサージしやすくなる。
「緩急つけられると、頭が……」
「眠気を誘うツボじゃないんだが? まあ、それだけ疲れてるってことか」
ラクトはよく頑張ってくれている。仮眠を取ることもせず、時差の影響でそのように見えないかもしれないが、彼女はほぼ二四時間起きっぱなしだ。カフェインを摂取しなければ普通、睡魔が襲ってくる。しかし赤髪はそれに耐え、皆のために働いてきた。それが顕著に現れたものこそ、彼女の眠気であろう。
「次は手のツボだ」
弥乃梨は一歩前に出ると、手のひらが下になるようにラクトの手を勝手にいじった。その下に自身の手を潜りこませると、偽りの黒髪は再びツボを刺激し始める。だが、赤髪の頭の真上から下に視線を向けた時のことだ。
「普段正面から見てても大きいけど、真上から見ると結構……」
「でも私、肩こりはあんまり起こらないよ?」
「今押してるツボ、全部肩こりに効くやつなんだが?」
「知らず知らずのうちに、私は肩をこらせてたんだね」
頷きながら自分の身体を労るラクトと、それをサポートするように親指と人差し指の間にある『合谷』と呼ばれる部分を刺激する弥乃梨。彼は人差し指が上になるように親指とでツボを挟み、緩急を効かせて圧力を掛けていく。
「どう?」
「気持ちいいよ」
「ここは万能ツボって呼ばれてて、押すと色んなことに効く。視力低下とか頭痛とか生理痛とかな。眠気覚ましにも効くツボだ」
「まだ私に起き続けろと?」
「いいや、眠たかったら寝ていい。マッサージは続けるけどな」
決意表明のようなものが終わった頃、弥乃梨はラクトの両手の『合谷』を指圧し終えた。しかし、手のツボは他にもある。『手三里』と呼ばれる、腕を曲げた時に出来る横ジワから指三本分離れた場所にあるツボだ。
「そのツボすごく気持ちいい」
手のひらが自然に机と触れるのは、肘から下が机と着いている時などだ。弥乃梨は手を動かすときに意識してそうしていたので、曲げる指示を出すことなく、簡単に『手三里』を探しだすことが出来た。呼吸を整えたりはせず、弥乃梨はすぐに緩急を付けて刺激する。今度は中指と薬指でツボを押した。
「いい柔らかさだな。ぷにぷにしてて気持ちいい」
「弥乃梨が気持ちよくなったら本末転倒だよ!」
まったくの正論であった。しかし、弥乃梨は女性特有の柔らかな肉質を堪能することをやめない。それどころか、むしろ悪化していた。緩急をつけて揉むのをやめ、もはやマッサージとは呼べない程の弱さで揉んでいるのである。
「おいこら」
「すべすべで気持ち良いのが悪いんだぞ」
「意味分かんないよ!」
「……と言いつつ、触られることを許容しているお前が居る」
「まあ、そうなんだけど」
マッサージと呼べないレベルなのは確かだったが、しかし、そもそも弥乃梨がマッサージを始めた理由はラクトの肩こりを治すためではない。彼女としての特権を増やすためにマッサージを始めたのだ。つまるところ、仲違いから立ち直るための通過点として始めたのである。
「あれ、戻った」
「リクエストもらっちゃったら、応えないわけにはいかないだろ」
弥乃梨は愛情をぶつける一環でラクトをいじめていたので、いじめっ子のようにいじめ続けることはしない。要望通り、『手三里』のマッサージを再開する。
「なんか、弥乃梨の手のひらの上で転がされてる気がする……」
「弱みを利用しているだけだ」
「本質的には同じだよ!」
「けど、お前が論戦で使う手法も『相手の弱みを利用する』だろ?」
「だとしても、そういうのは彼氏彼女の間柄でやることじゃないと思うよ」
「いいや、彼氏彼女の間柄なら必要なことだ」
弥乃梨の言葉に、ラクトは「いやいや」と口走ってしまう。しかし、彼氏の話は正論でもあった。話は、『彼氏彼女の関係』が『相互補完の関係』と同義であることを前提として進められる。
「彼氏と彼女っていうか、ペアっていうのは、互いの足りないところを支え合う関係だと俺は思うんだ。だから、足りないところを知る必要がある。相手の弱みを知るのは、自分にとっても相手にとっても有益なことだ」
「でも正直、弥乃梨が出来ることは基本的に私も出来るような気が――」
「馬鹿」
「あうっ」
弥乃梨は右手を動かし、ラクトの頬をつまんだ。
「な、なにすんのさ!」
「確かに、俺は持っている技術も知識も体格もセンスもラクトに負けてる。これは紛れも無い事実だ。だけど、俺がお前の傍に居る意義はあると思ってる」
「たとえば?」
「お前の心の拠り所になることだ」
「……」
弥乃梨の話を聞いたラクトは口篭った。
「言っちゃ悪いが、正論を話す奴は嫌われる。それに、ラクトは男に好まれる体格だ。俺と出会うまではそういう出会いを拒んでいたから親しい関係だった男は居なかったんだろうが、悲しいことに、男からモテる女は女から嫌われる。女の敵は女ってやつだ」
「……」
「なあ、ラクト。気に障らなければ教えてくれ」
弥乃梨はそう言うと、ラクトにしていたマッサージをやめた。偽りの黒髪はそれぞれの手をラクトの手の外側に来るように置き、深呼吸してさらに彼女のほうに近づく。これ以上行けないというところまで出てきた後、彼氏は彼女の耳元に顔を近づけた。そして、優しい声で質問する。
「――俺と出会う前、友達は居たか?」
だが、弥乃梨の優しさは逆効果だった。彼氏の優しさがこれまでの自分の歩みを想起させ、ラクトは思わず下を向いてしまう。感情を露わに出来れば素直に泣けたが、赤髪は感情の抑制が得意だった。数々の論戦で培ってきた心を偽る力を使って、彼女は涙を堪える。でも、想起は止まらない。
「ラクト、もしかして……」
質問から十五秒くらい経った頃、ラクトの頬を透明な叫びが通過した。彼女は自分の泣き顔を隠そうとしたが、それは諦めた。「彼氏と彼女の関係は相互補完の関係である」という弥乃梨の言葉を脳内で再生し、自分に甘えてきた偽りの黒髪のように、今度は自分が彼氏に甘えてやろうという考えになったのである。
「――私の初めての友達は、私の初めての彼氏だよ」
ラクトは席を立つと、弥乃梨のほうを見た。彼女は涙を流しながら笑みを浮かべる。普段見せない弱々しい態度を見せる赤髪を見た偽りの黒髪は、気持ちを抑えきれなくなった。躊躇うことなく、彼氏は彼女を抱き寄せる。
「無理してまで笑わなくていいんだぞ?」
「泣き顔見られるの恥ずかしいし」
「不器用な奴め」
「それはお互い様じゃん」
ラクトが言うと、弥乃梨は「そうかもな」と返した。泣くのを必死に我慢する彼女を応援するべく、偽りの黒髪は赤髪の心を慰めるためにラクトの頭を撫でる。作戦は功を奏し、彼女は笑顔を取り戻した。しばらしくして、赤髪は思っていたことを吐き出した。
「もっとも、仲間は居たんだよね。けど、それは『戦友』で『友達』とは別。もしかしたら、そういう苦しい状況が過激な思想を生んだのかもね」
「貧しい暮らしをしている人は保守になりやすいらしいが、お前は逆だな」
「でも私、厳密には革新派じゃないよ? 平等を壊すことに吠えただけで」
「まあでも、お前の主張は左にも右にも一貫してないから分かりづらいかもな」
「そうかもね」
ラクトは女性の人権に吠えたが、彼女は、もともと男女平等だったのに女性のほうだけレベルを引き下げることに反対しただけだ。女性解放を掲げるフェミニスト達と手を組まない理由はそこにある。
「あのさ」
「どうした?」
理解できない話という訳ではなかったが、自由とか平等とかを扱う社会科は専門用語が多くなりがちだ。せっかく笑顔を取り戻したのに小難しい話ばかりしていては面白くない。そう考えて、ラクトは話を切り替えた。でも、雑だった。
「これからもよろしくね、稔」
「なんだよ改まって。こちらこそよろしくな」
「たまになら私をいじめてもいいけど、基本的に甘く接してもらえると嬉しいな」
「今のはお前の本音か?」
「うん」
口角を上げ、ラクトは顔の表情を綻ばせた。身長差約十センチだと、近すぎず遠すぎずの丁度いい上目遣いが見れる。赤髪の頭を撫でると彼女は嬉しい気持ちを抑えきれなくなって「へへ」と可愛い声を出す。まるで小動物のようだ。でも、そんなときのこと。
「ごめんください」




