1-1 王女の命令
「……ここは?」
上空から見る分には素晴らしい眺望だと思っていたのだが、いざ地に足をつけてみると実感は全く違った。町外れという言葉では到底形容しきれないとんでもない木が生い茂った山奥は、見渡すだけでも圧倒されてしまう。
現実世界から転送されたスマホがあるとはいえ、この世界へ来る前に顔を合わせた神様から特殊な操作がなされたわけではない。今の稔の所持物では正確な時間を知ることは出来なかった。でも、原始的な方法で何となくの時間はわかる。太陽の位置から推測するに、まだ正午は回っていない。
それに息切れを来すこともなかった。高山病の症状が出そうなほどの標高に身を置いているわけではないらしいと気づいて、ちょうど青空を伝ってきた風に乗せて黒髪は安堵の息を吹いた。
「……ん?」
心の中で「まさか自分が空から降ってくるテンプレヒロイン的存在になるとは」と、ちょうど持ち合わせたアニメの知識を混ぜ合わせながら自身の現況を振り返っている時だった。――何者かの物音が聞こえた。
「(……誰だ?)」
稔は唾をゆっくりと飲み込んで本能的に耳を澄ませた。ジャリジャリと敷かれた小石を踏む音が聞こえる。息を殺し、身を震わせ、鋭い視線を何者かに向ける。
「誰か、いらっしゃるんですか?」
声の主は女性だった。どう見ても貧しい身分階級に有るとは思えぬ華美なドレスは、彼女が登山家ではないことの証拠にも思える。
少しすると金色の髪が揺れて、顔が動いて、顔が見えた。
とても美麗だった。どこかの国の王族か貴族と言われても何ら不思議はない。
「「!」」
視線が噛み合ったのはそれから間もなくのことだった。それを理解するための数秒の間を経て、互いにぴくっと顔を震わせる。稔は草叢に隠れているような格好で居続けるのは流石に格好がつくまいと思って、自分からその女性の方へ足を進めていった。
「俺に、何か用か?」
鋭い視線に、冷たい声と尖った言葉。明らかな敵意が彼にあることは、端から見た誰もが汲み取ることができる。
「――こちらのカードを、引かれましたね?」
金髪女は後ろから二枚のトランプカードを取り出した。描かれていたのは、ダイヤのエースとクラブのエース。ついさっき、このはるか上空でレアに引かされた二枚の柄に等しかった。
「……それが、どうした?」
稔はなおも抗戦的な態度を改めない。片や金髪女は彼を煽るかのように返答した。
「ようこそ、エルフィリア王国へ」
「は、はぁ……?」
素敵な笑顔だと思ったが、突然始まった説明に黒髪は出だしからついていけなかった。
「私はエルフィリア王国第一二五代国王の摂政位に在ります、リート=ファッハ=シュテプラーと申します。またの名を『第二王女』と称します」
金髪女の自己紹介の中盤くらいから、稔は冷や汗が止まらなくなった。
「すみません! あまりに無礼なことを――」
「気にしてないので大丈夫です。というよりむしろ、下の名前を呼び捨てしてください」
「そんな無茶な!」
「駄目です。諦めてください」
金髪女――もといリートは、稔に満面の笑顔で受け答えした。
「……なんで、そんなに呼び捨てに拘るんだ?」
外見だけで判断すれば、第二王女は稔と同じかちょっと上くらい。多感なお年頃という言葉が通用しなくなりつつあるくらいの年齢だった。黒髪はこのまま会話を平行線にするのも如何なものかと思って、どこぞの古典作品に倣い、まだ仕える身ではないにしろ、いかにも鬼が出そうな恐ろしい闇夜の中でも上様の命令とあれば大極殿まで行く覚悟で渋々要望を呑むことにした。
「おっ、譲歩してくださいましたね。では、返礼としてお答えしましょう」
リートは嬉しそうに返答して、さらに話を続けた。
「ついさっき、あなたに呼び捨てされたのがぐっと来たんです。今まで崇め奉られ続けてきたのでちょっと新鮮で。やっぱり、百二十五代も続いてきた――それも、神話の世界から続く家の血筋ですから」
「なるほど」
「まあ、自分語りはこれくらいにして」
その言葉を境に天真爛漫なんて言葉がしっくり来そうなリートは一旦どこかへ消えてしまった。金髪女は、稔が向けていた鋭い眼差しから抗いの意思を除いた刃物のような視線を向けて大きく深呼吸する。
「あなたに一つ、ミッションを与えます」
「ミッション?」
「はい」
若干の間を挟んでから、じっと稔の方を見てリートは口を開いた。
「私の国を――いえ、私の民を救ってください」
稔は驚きのあまり返答することが出来なかった。ここがどこで、この国がどんな国で、この世界がどんな世界であるのかは、まだ彼の知るところでない。言うまでもなく、この世界にはどんな人が――いや、どんな種族がいて、どんなことが出来るのかなんて何一つとして知らない。
だが――いや、だからこそ、ファーストインプレッションで何となく稔は察した。リートの言葉が含意するところは、「救う」というだけではないのだろうと。願いの裏には、異邦人が触れるには大きすぎるバックグラウンドが待っているのだろうと。
「――俺に、それが出来るのか?」
逃れられないことは何となくわかった。少なくとも稔は現実の世界で刺し傷を負っており、もしかしたら命が絶えてしまっているかもしれない。もっとも、レアからの明確な言及がなかったためにそこのところの判定は難しいのだが。
けれども。確実に、仮に戻ったとしても待っているのは病院での生活であるに違いないということだけはいえる。今から始まる物語が壮大な夢オチで無い限り、その現実からは逃れられない。――であるならば、少しでも戻る時に優位に立てるようにしておくのが鉄則であろう。
「『出来るか?』ではありません。『出来る』のです」
「なぜ断言できる?」
「それは、あなたが『異邦人』だからです」
稔の疑問に対する王女の回答はどちらも抽象的だった。納得の行く答えが欲しかった黒髪は「どういうことだ?」と不服を含んだ質問を投げようとしたが、その手前でリートが説明を付け足した。
「実は、我が王国で異邦人を歓待するのはこれが二度目なんです。今から五年前くらいでしたか、そんな頃に貴方くらいの年齢の青年が一人、同じようにここに降り立ちました。確か名前は――オスティン」
黒髪の知らない名前だった。
「でもあの方は、初めからミッションを与えられていました。『《精霊》と《罪源》の融合に挑戦する』というものだったと思います。――ああ、《精霊》と《罪源》というのもわからないですよね? まあ、今は魔力が使える存在くらいに認識しておいてください。混乱してほしくないので」
異世界には魔力がある――すなわち、魔法を使用できる存在がある。それを知っただけで、稔の心の中にあったこの異世界に対する不安が少しは払拭できた。
「それで、そのオスティンという奴は実験に成功したのか?」
「実は、詳しい情報は私の知るところではないんです。ただ、噂では成功したということで聞いております。……すみません、説得力が急に落ちてしまいましたね。一応、貴方に提示したミッションは統一神様の命令権を私が代理で使用しただけですので、建前上はその法則に当てはまると思うんですが――」
リートは稔がミッションへの挑戦を承諾するように色々と説明をしたが、所々でボロが出てしまって、一分も経たないうちに最初に金髪女が想定していたものとはかけ離れたものになってしまった。王女の説明の詰めの甘さに年齢相応ともいうべき構成力の無さを理解しつつ、今度は黒髪が口を開く。
「『どうせ』なんて言葉を使うと投げ売りっぽくて気が引けるが、――つまるところ、俺はそのミッションをクリアしなければ現実世界に戻ることすら出来ないんだよな?」
「えっと、まあ、うーん、そうですね……」
「……断言できないのか?」
「すみません……」
リートは自分の至らなさから顔を下げて謝罪の言葉を口にした。だが、ほぼ時を同じくして彼女はとんでもないことも言い放ってくれた。
「で、でもっ! も、もも、もしも私のせいで貴方の身に不幸が起こったときには、なんでも私に命令してくれて構いませんからっ!」
「……落ち着いてください、王女殿下」
稔の言葉を受けてリートの動転した心情はちょっとずつ平生を取り戻していった。黒髪は落ち着いてくれてよかったという意味での嘆息が思わず出てしまう。
「じゃあ、逆に俺から提案したい」
「はい……」
暴走した自分を恥じているせいもあってリートの返し声は小さかった。
「さっき、レアと連絡が取れるみたいな感じで喋ってたよな? リートの願いを全部――は出来るか分からないが可能な限り叶えてやるから、かわりに俺が現実世界へ戻ることが出来るように手はずを整えてくれないか? 出会って早々、甚だ厚かましい願い事をしているのはわかっているんだが――」
「オー イッツァ サウングレイト アイディア……」
「ちょちょちょ! 王女殿下、お気を確かに!」
棒読みまで来ると笑えない冗談だった。稔は咄嗟に王女の背中に手を掛けてその体を揺らす。数秒くらいして意識を取り戻してくれたので、彼はほっと一息吐き捨てて彼女から離れた。
「さっきからすみません……」
「謝罪は要らん。きっと公務で疲れてるんだろ。たまには休むことも必要だぞ」
「ああ、そのことなんですが――」
ひょんなことから稔が転生してきた『エルフィリア王国』についての説明が始まった。何の前触れもなく始まったこともあり、まず吐露された衝撃の事実は黒髪に相当な衝撃を与える。
「実は兄が――いえ、今上陛下が行方不明なんです」
「え?」
「ですから――」
引き受けたミッションの内容は思っていたより難儀なものであった。