3-96 入国審査
音楽に飽きて新聞を読み、今度はそれに飽きて元通りに戻した稔。そんなこんなで時計の針が進み、時刻は十三時五十分を回る。同じ頃、表示された時間を合図とするかのようにキャビンアテンダントが通路から消えた。すると、機内にアナウンスが入った。
「We've started our descent. The captain has turned on the fasten seat belt sign in preparation for our descent. We will now have to discontinue our in flight service」
主任客室乗務員であるリサの声。彼女は、飛行機が降下し始めたことを告げる。それとともに、各乗客がシートベルトをする姿が見受けられた。左斜め前方に居た乗客は、余っていた飲料をぐびぐびとビールを飲むかのごとく口に運ぶ。それに並行して、リサが客が行っている動作に勢いをつけさせようと言った。
「Please make sure that your seat belt is securely fastened and your carry-on baggage is stowed in the overhead bins or under the seat in front of you. All seat backs and tray tables must be in their full upright position」
背もたれを元の位置に戻せという指示が入ったので、それに従って初めに座った時の位置に戻す稔。翻って、ラクトは彼がその動作をしている間に黒髪からスマホを借用した。パスコードをタイプし、機内モードに設定して返却する。刹那、リサがそれを見計らったかのようにアナウンスを入れた。
「Please keep all electronic devices turned off until the aircraft is parked at the gate. The flight attendants will be passing through the cabin in a few minutes to pick up any remaining trash」
キャビンアテンダント全員が客室乗務員の待機する部屋に戻ったのは、ビニール袋を持ってくる為だったらしい。大きな透明の袋をそれぞれの客室乗務員が手に持ち、客席のミニテーブル上に置かれた紙コップを回収している。
「Please look around your seat for any newspapers, magazines, or other items you would like to throw away. And, if you need to use the lavatory, please do so now.」
客室乗務員が移動しながらリサの声が流れた。まるで、駅のプラットホームに降りてから改札口を抜けるまでのようである。内容としては、新聞や雑誌も含め片付けてくださいということ、また捨てるものがないか確認して下さいというものだった。加えて、化粧室を今のうちに利用しておいた方がいいと忠告が入る。
「ラクト。行った方がいい。女性は唯でさえ溜め込める量が少ないからな」
「……言いたいことはわかるけど、ストレート過ぎない?」
「それはごめん。でもお前、冷水飲んだだろ? 今から一時間持つのか?」
「そ、それは……」
男性の場合、やろうと思えば二時間映画が終わるまで尿意を我慢することが出来る。だが、女性は難しい。終わってからトイレ前に長蛇の列が出来る可能性すら存在する。ターミナル空港のトイレなんてその典型的な例だ。それゆえ稔は、言葉に不備はあったものの、ラクトを思って考えたことを口に出した。
「備えあれば憂いなし。そういう諺がある。だから、行け」
「……真面目な顔して言うな、バカ」
ボソッと吐き捨てると、ラクトは顔を少し赤くして離席する。他の乗客の迷惑になる可能性を考えて歩き方は謙虚さを滲ませていた。赤髪がトイレに足を進ませる一方、座席では稔が窓のほうを見る。外に広がる光景は朝の景色だ。時差が気になったので、稔は端末を使用して問う。
「お……」
端末を使用しないでくださいと指示があり、稔は操作する前に弄れるか心配になった。けれど、機内に取り付けられている端末は飛行機の運行に支障をきたすような迷惑機器ではない。客室乗務員が待機している部屋と回線が繋がっているだけでしかなく、機外――すなわち外部と通信をする訳ではないためだ。
「Do you know what time it is?」
こうなると、もう聞かざるを得ない。機長室との境界を示す扉の上に設置された時計が午後一時半を示していても、サテルデイタの時間が分からないためだ。けれど、客室乗務員は場に居る訳ではない。もちろん、内心を読むことなんて不可能だ。そのため、質問を受けたキャビンアテンダントはこう返した。
「Do you want to know the current time in Satel data?」
「Yes, I do」
「I understood. The current time of Satel data is seven o'clock」
「I got it. Thank you」
外は西日ではないので、明らかに朝である。それゆえ、サテルデイタが七時であることを告げられれば最後、そこから先に質問を発展させる必要は無い。だから、もう空港まで使わないと思って稔は端末をロック状態にしようとする。しかしラクトが戻ってきた頃、座席の端末が音を発した。それは稔の座席だけではない。他の座席でも同様のことが起こっていた。
画面には『Please fill in a necessary matters on immigration card.』と表示されている。それを見て、トイレから帰ってきたばかりのラクトが言った。稔が解読に後れを取っていることを見て、サポートに回った形だ。
「入国カードを記入しろだって。まあいいんだけど、なんで今書かせるかな」
「本当だよ。でも、きっと理由があるんだと思う」
「だな。必要書類の記入やらないと痛い目見る可能性上がるし、やろう」
それぞれ、稔とラクトは座席に取り付けられたディスプレイに触れる。一六対九の比率だと出来ることは多いが、記入しなければならない情報が多いことで必然的にスクロールが発生した。加えて打ち込み形式なので、面倒くささも生じている。けれど、やらねばならぬと気を引き締めて二人は取り掛かった。
最初に聞かれたのはラストネームだ。すなわち、姓である。パスポートを見ながら、稔とラクトは記入しようとするが――しかし、ここで問題が発生する。
「このパスポートには『ラクト』って書いてあるんだが……」
「そうだよね。召使とか、種族別に記入する欄は無いのかな?」
「あると思う。ほら、国籍とか――ん?」
稔は自分で口から言葉をこぼすと、すぐにスクロールして国籍を記入する欄を調べ始めた。しかし、それを意味する『Nationality』という欄が無い。だがそんなとき、稔は『種族』を意味する言葉『Race』を発見した。同頃、ラクトがパスポートに何の種族として記載されているか確認を取る。
「魔族ってなってるか。あ、稔は人族ね」
「分かった」
外来人なんていう言葉を使用したって、ラクト以外でそれが通じるのはリートや織桜くらいだ。エルフィリア政府はそういうところに抜かりを見せておらず、主な召使・主人などを記載する一方で種族名を併記していた。二人はそれに感謝し、入力欄に種族名を打つ。何度もスクロールするのが面倒なので、先に近くの欄も埋めておいた。生年月日とパスポート番号をタイプし、下に進む。
「職業は――無職でいいや」
「そうだね」
変に質問を受けないようにと、稔とラクトは『No occupation』と記入した。続く滞在先に関しては、ホテルを記入する欄に『Undecided』と入れる。電話番号など存在するはずもなく、当然下欄も上欄と同様に無記入だ。
「便名は――お、もう打ってある」
「親切だね」
航空会社のコードと便名は既に記入されていた。加えて、その下の出発地も同様に記入済み。その二つの欄を飛ばして、二人は続いて訪問目的を記入する。これもまた質問沙汰になることを恐れ、旅行を意味する『Sightseeing』とした。その枠より下にスクロールバーが進まないのを確認すると、稔とラクトは勢いをつけて指でディスプレイを上から下になぞった。
「これで問題ないな」
「そうだね」
上に戻ってきて姓名を記入する二人。ラクトは名だけだ。稔は『夜城』と苗字も入力している。ミドルネームなんて概念は二人に無いので、それで名前関連は終了だ。続いては、性別に関してである。――が、画面を見た刹那。
「――」
「……」
二人の動作が止まった。書かれていた文字は『Sex』。もちろん、やましいことを意味しているのではない。性別を意味しているだけだ。しかし、彼氏彼女という関係。そうだと分かっていても、稔とラクトは如何わしいほうで受け取ってしまう。でも、そんな初々しい状態は十秒も掛からず終結した。
「なに変な意味で受け取ってんだよ」
「稔こそ変な意味で受け取らないでよ」
お互いに同じことを言い合う。それから数秒、今度は二人ともクスっと笑みを浮かべた。すると、赤髪が途中で言葉を入れる。
「似たもの同士だね」
「本当だよ」
もう一度笑う稔とラクト。もちろん、こんなことに無駄な時間を割いている暇など無い。それからすぐ、二人は性別を入れる欄を埋めた。お互いにもう一度一番下までスクロールし、最下部中央に設置されていた『Enter』ボタンを押す。すると、画面には四桁の数字。表示されたのは、稔が『8931』、ラクトが『0758』だ。稔は即座にスマホを取り出してメモ帳を開き、それらを記入する。
「書き終わった?」
「ああ、大丈夫だ。」
「そっか。じゃ、ロック画面にしよう」
そう言い、ラクトが端末の電源ボタンを押す。それにより、ディスプレイが光を発しなくなった。着陸まで約一時間もあるため、まだまだ操作したいという気持ちで山々な二人。だが、稔とラクトはかわりに雑談を選択した。そのほうが関係をより親密に出来ると思ったからだ。
そうして二人は、空港まで周囲の迷惑にならない程度に世間話を楽しんだ。出す声量を抑えながらも、全身で喜怒哀楽を表現する。




