3-92 出国
まずい状況に置かれた。稔はそう思い、顔面を蒼白させる。トイレに向かって間もないラクトに戻ってきてもらいたいと強く願う。座った女が何を言っているのか分からないわけではない。だが返答を言葉にできないため、黒髪は硬い口を閉ざしたままだ。
しかし、時間さえ与えて貰えれば無問題なのもまた事実。稔は動揺する心を抑え、覚悟して言った。ラクトほどネイティブに近い発音では無いものの、単語一つ一つを意識して述べたことで、隣に座った肉付きの良い女性に届いたらしい。稔の問いを受けて、しっかりとした返答をしてくれた。
「Who are you?」
「I am Jasmine Marmot. Please call me "Jasmine"」
「Okay, Jasmine. Where are you from?」
「I'm from Sateldeta. So, I speak English」
「I understand」
稔がそう返答すると、そこでピタッと会話が止まった。通路側の席に座った女性がヘットホンを装着したのである。袋を雑に破いたあと、ジュースなどを置く場所の隣に設置されていたイヤホンジャックに挿し、聞きたいチャンネルに変化させて耳に音を伝わす。一方稔も、ラクトが居なければ話す相手が居ないも同然。彼も同じようにヘッドホンを装着して操作し、音楽を聴き始めた。
時間にしておよそ二分くらいが経った頃。ラクトがトイレから帰ってきた。もちろん彼女は、自分が離席して空いたはずの席までの経路の途中が明らかに先程から変化していることに気づく。稔の内心を読んで通路側の席に座った豊満な女性の情報を収集すると、一時的にどいてもらうために赤髪はこう話しかけた。
「Could you open the passage?」
日本語訳すれば、「通路を開けてくださいませんか?」と言う旨の話だ。しかし、ラクトの声は女性に届かない。彼女は音楽を聴きすぎたせいで耳を悪くしたようで、表示されていた音量は稔からしたら常人とは思えない大きさだったのだ。しかし、ラクトはめげずに依頼を続ける。
「Do you listen to my request? If so, please remove the headphones. Do you understand?」
必死に話すラクト。しかし、ジャスミンと名乗る耳の悪い女性は一向にヘッドホンを外そうとしなかった。言うまでもない。それは、彼女が音量が大きくして耳にヘッドホンを当てているせいだ。ここまでくると、ラクトの怒りも爆発寸前である。右拳をプルプルと震わせ、頭に血がのぼるのを必死に我慢しながら赤髪は言った。
「Jasmine, Remove the headphones」
丁寧に依頼しても無理だとわかり、敬意を表す度を下げて軽い命令文を言っても無駄となれば、やることは一つしか無かった。やることとは、相手に対して強い反抗心を抱いた時でも使える方の命令文を使用することである。キレる寸前の赤髪は相手から理解を示されなければどうしようかと思ったが、ようやくラクトの訴えがジャスミンの耳に届いた。――が、本意は理解していないらしい。
「What wrong?」
「Could you open the passage?」
「Sure」
ラクトが必死にヘッドホンを外せと言っていたことに全く気づいていなかったジャスミンは、装着していた機器を外した開口一番、「どうかしましたか?」と挑発に近い言葉を投げかけた。もちろん耳の悪い女性からすれば、頭に血がのぼってそうだったからそれを心配しただけに過ぎない。しかし、ラクトは内心で思った。
「(なら、早くそうしろし!)」
耳が悪いことを考慮して良心を効かせるラクト。だが、それでも苛立ちは残る。障害者に暴力を振るうなんて言う人道的に頭の狂った行為をしたりはしないが、そのストッパーが無ければ確実に手が出ていた。何度も聞いていた事柄に対して、あたかも旧来からの友達というふうに「Sure」と陽気な返答をしてくれたのである。これで怒らないわけがない。
「And, there is a request from me. Don't use headphones, Jasmine」
「It is a difficult request」
「But, you should do it.」
ラクトはそう言い、ジャスミンにヘッドホンを外すよう命令した。とはいえ、そこまで親しい間柄でもない。だから、自分の話に彼女は聞く耳を持ってくれないことも赤髪は考えた。だが、その予想は大きく外れる。
「All right」
女はそう返答し、イヤホンジャックに挿していたのを取った。しかし袋は雑に破かれている。どう努力しようが、そこに仕舞うことは出来ない。そこでジャスミンは、ラクトに対してこう話した。もちろん、赤髪の返答は決まっている。
「Here you are」
「No thank you. You should use it」
廃棄処分に困っている様子は見て取れたが、ラクトはゴミ捨て場でない。自身が魔法を用いて得た物を資源として戻すために分解することは出来るが、様々なことを科学で証明できる物体を戻すことは不可能だった。加えて、ヘッドホンなど自分で作れる。余計な手荷物は要らないと、ラクトは皮肉るように感謝して断った。翻り、ジャスミンの顔には困った様子が浮かぶ。
「(出来れば、極力話しかけないでほしいな……)」
ラクトは切にそう願う。七時間もフライト時間があるなら、途中で睡眠を取ることが可能だ。時差ボケを防止するためにも、睡眠確保は必要である。枕など寝るために必要なもの一式はすぐに用意できるし、それこそ、あとは寝るだけという時に話しかけて欲しくない。
ヘッドホンのコードが通路上から無くなり、また会話が一段落ついたことからラクトは自分の座席へと進んだ。そうして窓際の席に腰掛けると、開口一番に稔に対して批判を述べる。
「というか稔、なんで助けてくれないのさ」
「いや、流石にボディタッチしたらマズいだろ。機内で痴漢とか話にならない」
「深く考え過ぎだって。というか、そもそもジャスミンさん自身が馴れ馴れしいんだし、稔も馴れ馴れしくしていいと思うんだけどな」
「そうか?」
「そうだよ。もちろん、やりすぎはアウトだけどね」
ラクトは稔を見ながら言うが、それらは全て当たり前のこと。常識人である稔は、分かりきったことに返答するのは思わず拒みたくなった。だが一応、「そうだな」と言っておく。それと同時に二重確認が飛んでくる可能性を考えたが、稔の考えとは裏腹に、ラクトが彼氏の言動の意を理解しようと尽力してくれたおかげでそんなことはなかった。
だが、会話は終わらない。一段落がついた五秒後、稔はラクトにこう言った。
「なあ、ラクト。ジャスミンさんをハブるのやめないか?」
「いや、そんな意図ないよ」
「本当か?」
「うん。だから、トランプとかで遊べればいいなとは思う」
流石にボードゲームを機内でするのは難しい。いくら物を置くスペースが有ると言っても、ボードゲームを遊ぶための十分な広さとイコールでは無いためだ。そうなってくると、手にカードを持たなければならないカードゲームが有利となる。もちろん、やるなら他人の迷惑にならない進め方が必要だが――。
「スピード、するか」
「いやいや、迷惑でしょ。だったらババ抜きジジ抜きした方が――」
ラクトはそう言いながら、なぜ稔がそう言ったのか理解した。その理由は単純である。稔の隣の席で、ジャスミンが寝ようとしていたのだ。彼女は手荷物としてアイマスクを持ち込んでいる。それを着けていることから、彼女が睡眠態勢に入ろうとしているのが確認できた。
「私のせい……なのかな?」
「いや、お前のせいって訳でもないと思うぞ。馴れ馴れしいことがジャスミンの特徴なのは確かだが、馴れ馴れしく接して欲しくない人だって居るわけだろ? だから、双方とも悪くない。会話が噛み合わなかった、ただそれだけのことだ」
稔はラクトを慰めるように、かつ自分を責めないように導いた。だがそれは、ラクトを擁護しているわけではない。ジャスミンが全て悪いなんて、稔は微塵たりとも思っていなかった。台詞中にあるように、彼は『会話が噛み合わなかっただけ』という立場。話しかけた側も柔軟にこたえられなかった側も悪くない。
「起こさない程度にやればいいさ」
「そうだね」
何もせず、ただ時間の経過を待つだけというのは退屈ほかならないのは言うまでもないだろう。もちろん、寝ていれば話は別だ。しかし、話をしていれば睡魔など自分から去っていってしまう。加えて、七時三〇分まではまだ十分以上もあった。特にやるべきこともそう無いので、二人はトランプをすることにする。
「つか、スピードでいいのか?」
「うん。五時台にやった時、凄く面白かったから」
「そっか。でも、あんまり大きな声上げるなよ? 迷惑だから」
「わかってるって」
ラクトはそう言うと、すぐに五四枚のトランプカードを作り出した。本来であればジョーカーを除いた1から13までのカードでするのだが、今回はローカルルール採用。『ジョーカーは全ての数字の代用として使用できる』ということになった。もちろん、使用できる回数は一回のみ。それ以上の使用は反則である。
作られたカードを受け取ると、稔は畳まれていた物を置く小さな机のようなものを広げた。ラクトも同様の行動を取る。それから黒髪は、揺れないのを確認してジョーカー二枚を一枚ずつ左右に置いた。続いてラクトに声を掛け、赤いピエロか黒いピエロのどちらを使うか決めてもらう。
「ラクト、一枚取れ」
「分かった」
赤髪が取ったのは黒色ピエロだった。もっとも、スピードでは描かれている絵など一切関係ない。ゲームする上で必要なのは、数字が書かれているか否かだ。稔は下らないことを考えた後、残った五二枚をシャッフルする。そして、それぞれ二六枚ずつになるよう分けた。それを稔の机の左端、ラクトの机の右端に落ちないよう配置し、まずは四枚引いて表向きに出す。
「準備、整ったな」
「そうだね。じゃ、やろう」
「おう」
双方がプレイすることに合意を示した。それを受け、掛け声が入る。どちらか一人が言うのはフェアじゃないということで、声を合わせて二人は言う。長い間一緒に居て相思相愛の仲であった稔とラクトは、何も言わなくとも、心を読まずとも、声を合わせることが出来た。
「「せーのっ!」」
残り二二枚のうちの一枚が場の中央に出る。必死になってトランプを置いていくので、双方の手がぶつかり合う。しかし、譲り合いの精神など無い。これはゲームだ。『真剣勝負』と書いて『ゲーム』である。
「やった、三連勝だ!」
「なん……だと……?」
一回戦、二回戦、三回戦とやった結果、悲しいことに稔は全敗してしまった。一回目が接戦となったのは確かである。しかしその後の二回は、ジョーカーを上手いところで使用され場札のみにならない状態で最後を迎えてしまった。だが、真面目に勝負したのは事実だ。面と面を向かってやりあったので、悔いは無い。
「七時二七分か」
スマホを着けて時計を見る稔。同時に、機内モードに設定しておく。それと時を同じくして、機内にアナウンスが入った。使用言語は英語である。キャビンアテンダントは流暢に英語を発し、お願いをアナウンスした。
「This airplane will take off half past seven. We have some request for customer. Therefore, please listen to the announcement」
エルダレアの人々はラクトのように英語が出来る人が多い。文法がめちゃくちゃでも気にしない猛者だって居る。そんななかで、稔はリスニングが壊滅的というわけではなかった。会話しない分には、英語を使えているのである。言語本来の意味を失っているので、本末転倒と言えなくもないが。
稔たちが搭乗した飛行機が予定通り七時半に離陸すること、航空会社からのお願いが複数あること、アナウンスに耳を傾けて欲しいことが話されると、稔含め多くの人々がキャビンアテンダントの話に耳を傾けていった。客室乗務員は、搭乗客が自分の声に聴覚を集中させたのを感じると、続けて話す。
「First, Please fasten your seat belt tight and low around your hips. Second, Please make sure that your seat belt is securely fastened. Third, Please return your seat backs and tray tables to their full upright position.
I'll tell again. First――」
シートベルトを腰の低い位置でしっかりとすること、シートベルトをしっかりと締めること、テーブルと背もたれを元に戻すことがアナウンスとして入った。キャビンアテンダントはご親切に、その旨をもう一度繰り返す。
「Captain John Ellison is in command of our flight today, assisted by First Officer Clive Peel. and my name is Lisa Stride your chief flight attendant」
機長はジョン・エリソン、副操縦士はクライブ・ピール、主任客室乗務員はリサ・ストライドと言うそうだ。リサは、乗務員の説明を終えてもアナウンスを続ける。
「Your compliance with crew member instructions, lighted seat belt and no smoking signs, and posted placards is required」
搭乗客が乗務員の指示に従うことがアナウンスされた。また、シートベルト着用や禁煙の電光表示にも従う旨もアナウンスされる。それから時を追うようにして、座席の上の電光表示が光った。シートベルト着用のサインだ。音とともに点灯するので、嫌でも気がつく。禁煙表示は最初から点いていた。
「着けてるな」
稔の隣の席で依然アイマスクをしているジャスミンは、先を見越して寝る態勢を整えていた。シートベルトがしっかりと着けられており、机も仕舞ってある。離陸まであとほんの僅か。先程のアナウンスの後、客室乗務員は搭乗客がしっかりと指示に従っているかなど必要な点検をするため、見回りを始めた。指摘を恐れた稔とラクトは、即座に机をすぐに戻してトランプもすぐ手中へと戻す。
アナウンスから二〇秒が経過するかしないかぐらいで、再びリサがアナウンスを入れた。それと同時に、操縦室と客室を隔てる扉の上の電光時計が点灯する。
「Safety check was over. We will be taking off shortly」
安全確認が取れたことが話され、そしてこれから離陸する旨が告げられた。リサは急いで客室乗務員の待機部屋へと移動する。そして、乗客乗員が離陸を今か今かと待ち望む。もちろん、ラクトもその一人だ。身体をそわそわさせている。
「This airplane will take off」
操縦室から副操縦士の声で離陸する旨が告げられた。時刻は七時三一分。離陸許可が降りたらしい。遂に、飛行機は滑走路を動き始めた。
「おおお……」
「ガキかお前は。まあ、初めてならそういうものか」
滑走路を移動し、飛行機は飛び立つために必要な距離を確保出来る所へと向かう。そして、電光時計が一分進んだ頃。遂に飛行機は加速を始めた。エンジン音は次第に大きくなり、地面を走ることによってゴトゴトという振動が発生する。
「身体が痺れそうな振動だね」
「そりゃ、猛スピードで加速するわけだからな」
振動を一身に感じながら乗客は離陸の時を待つ。それから間もなくして、スピードが最頂点に達した。監禁されて拘束を受けているかのように身体の自由は効かない。しかし束縛は、すぐに解かれた。離陸した瞬間である。次第にロパンリの町並みが小さくなっていく。そんな光景を見て、初めて乗ったラクトは大いに喜んでいた。青空を横目に、飛行機は上昇を続ける。




