3-89 三日目の朝
会話を始めて一分も経たずして、ラクトの口から「大富豪」という言葉が飛び出した。その後、すぐに彼女は他者の話を遮るようにトランプ五四枚を作り上げる。特に話すべき話題があったわけでないため反論する理由もなく、使用した布団を畳んだ後で、そこから小一時間に渡って称号の戦いが繰り広げられた。
時刻は五時四〇分を回る。すっかり夜は明けているものの、部屋の窓には小粒の雨が見えていた。このままでは移動に支障が出る事態になる可能性が否定出来ないと思って、稔は大富豪終了後、すぐさまテレビをつける。すると、ちょうど天気予報が放送されていた。
「天気予報見るのはいいけど、稔、地名分かるの?」
「西の方に行くとは聞いているから、大雑把に捉えることは出来ると思うけど」
「それじゃダメだよ」
「なら、ラクトは分かるのか?」
「もちろん。まあ、その場所の情景とかはテレビで見たくらいで、実際に見た訳じゃないんだけど」
「旅行する分にはそれで十分だと思うけどな」
向かう先の情報を知りすぎていることは、軍事面では敵地攻略に有利になるなど利点しかない。だが、旅行では異なる。先に調べてから旅行に乗り出すべきなのは確かだけれど、かといって情報を収集することに楽しさを見出してしまうようでは、旅行本来の冒険的な楽しみが薄れてしまう。
「そうかな? まあ、たまには行き当たりばったりも良いと思うけどね」
「俺はそっちのほうが旅行っぽいと思うが」
「冒険心に溢れるのは子供が出来た時には効果を発揮しそうだけど、今は封印してほしいな」
「子供って言っても男の子の場合な気がするけどな」
「だからこそ父親が必要なんだよ」
「父親、か……」
目の前に居る赤髪の女も将来的には母親となる。稔もラクトも至って健常な身体であるから、子供を作ろうと思えば作ることが可能だ。――が、やはり子供を育てるにはそれなりの覚悟が要るわけで、金銭的な余裕や相互の協力関係も必要だ。作ろうと思えば簡単に作れるからこそ、将来設計なしで作ってはいけない。それが子供というものだ。
「昨日、アニタのお姉さんの子供を触らせてもらったけど、すごく可愛かったじゃん?」
「昨日は傍観する感じだったから、そういうふうには感じなかったな」
「そっか。まあでも、子供が生まれて心境が変化するってこともあるし」
「知ってる。でもそれは、当事者になってみないと分からないことだから何とも言えない。ただ――」
稔は間を置く。深呼吸して心を整えると、真面目な表情を顔に浮かべて彼は言った。
「もし、俺が子育てに参加しない最低な父親になったなら、嫁を傷つけてしまう最低な男になったら、その時は俺の顔をぶん殴ってくれ」
「そういうところでの覚悟はあるんだね」
「ああ、痛みに耐えて生んでもらった恩を仇で返す真似は絶対にしたくない」
子育てをしていく上で母親が果たす役割はスポットライトが当てられやすいが、それは父親が子育てに参加しなくてもいいと言っている訳ではない。基本的には思春期に子供と喧嘩する相手というポジションになるが、父親にだって子育てに参加しなければならない理由がある。だから、生んでもらった母親に敬意を表さず育児に参加しないなど愚の骨頂極まりないのだ。
「となると、結局はお金の問題か……」
「そうだね。でも、金銭的な余裕はこれから確保すればいいじゃん。だから、それほど心配すんな。もっと楽観的になれ」
「ああ、お前の言うとおりだ、ラクト」
稔はそう言うと、ラクトの右肩を二回軽く叩いた。間もなく二人は、話の本題から大いに逸れたことを痛感する。それは、テレビの画面に映しだされていた情報が天気予報とは到底思えない情報だったからだ。放送されていたのは、俗にいうワイドショー番組。生活情報を放送内容としていた。
「嘘だろ……」
稔はそう言い、目を手で覆う。だが、後悔したって始まらない。そのため、取りあえずもう見る必要はないと思ってテレビの電源を切った。リモコンを机の上に置くと、彼の言葉にラクトが言う。
「いや、普通でしょ。なんであんなに長く子育ての話をしてたのさ」
「本当にそうだな……」
天気情報を収集出来なかったことへの悲しみや悔しさから、そう言って稔が大きな嘆息を吐く。つられてラクトもため息を吐いた。すると、そんな二人の隣で紫姫が咳払いする。そして天気予報に関しての話をし出すのだが、まず飛んできたのは仕える主人とその最愛の召使がバカップルである点への批判だった。
「貴様らはなぜそこまで否応無しにイチャコラ出来るんだ? バカップルは爆発の刑に処したいものだ。まるで挑発しているようにしか受け取れないのだが」
胸の下で手を組み、紫姫は大きく嘆息を漏らす。それから再び謦咳を入れて、彼女は稔とラクトに天気の話を始めた。黒髪には意味不明な話に聞こえたが、それは地名を知っていないためであって、ラクトには必要価値の高い情報だった。
「まず、サテルデイタは晴後雨。フルンティは曇で、ハルパは晴れだ」
「なるほど。じゃ、フルンティかサテルデイタ行きの飛行機に乗ればいいってことか。でも、その前にロパンリの空港から出られない可能性もあるね」
「うむ。だが、昨日調理したカレーを食さないということは、それだけで金銭的損失が生じる。故、食事をして速やかに宿から出て行けば良いと考える」
「了解。そういうことなら、早めに温めて食べちゃおう」
今後の方針が決まったらしく、ラクトと紫姫は息を合わせて頷いていた。一方稔は、彼女らが何のことを話しているのかさっぱり分からない。それはアイテイルも同じらしく、銀髪を揺らして首を傾げている。一括りに『精霊』と言っても、彼女らの中で他国の情報を知っているか否か差が生じるようだ。
とはいえ、これからすることは決まったも同然である。朝早くから起きて遊んだせいで空腹も限界に到達しようとしていた。なれば、朝飯を六時に食べても問題無い。朝ごはんを食べても足らなければ、空港で購入すればいい話だ。
「じゃ。二人には戻ってもらって、朝ごはん作って食べちゃおう」
「そうだな。西側の国が晴れなら、小康状態から晴れに変わるだろうし」
「まったく、その通りだね」
ラクトも同意見だと話す。その寸秒、彼女は話題を切り替えて稔の手首を柔らかく強く握りしめた。紫姫とアイテイルがそれぞれの魂石に帰還したのを確認すると、赤髪は握っていない方の手の人差し指を稔の鼻尖に軽く当てて言う。
「ご飯を温める作業は任せた。私はカレーを温める」
「分かった」
提案に納得して稔が頷いた。それを見て、ラクトは彼氏のことをぐっと自分の方に引っ張る。突然の行動に多少の動揺を見せるが、稔はすぐに冷静さを取り戻した。そして彼女が取った行動の意味を察することに務めるのだが、言いたいことが他にあったので黒髪は先にそれを言うことにする。
「俺が心配するのもどうかと思うんだが……。ラクト、基礎体温測ったか?」
「測ってるわけ無いじゃん。あの展開の中で測る時間なんか無いよ」
「ごめん」
「心配しないくていいよ。それなりに把握してるから」
ホッと一安心する稔。しかし、彼に安堵する時間は与えられなかった。これから何をするのか考えていたところで私欲に駆られ、話題を変えたからである。本題に戻し、再びラクトの行いたいことを察して彼は行動を取った。
「荷物関係は問題ないよな?」
「財布だけあれば問題ないよ。布団も畳んであるし、問題ない」
「よし。じゃ、昨日と同様に台所に行こう」
「そうしよう」
手を繋ぎ、稔とラクトは使用した宿泊部屋を後にした。階段を降り、物置部屋を抜け、渡り廊下を通り、縁側のような通路を進み、台所の扉を開ける。照明なしでも光は届くのだが、細心の注意を払う必要があるとして稔が灯りを点ける。
「手を洗って調理開始だ!」
「おう!」
繋いでいた手が離れたのを合図に、昨日のカレーを最大限に活かした朝飯の調理が始まった。担当は来るまでに話していた通り、稔が温める係、ラクトが熱を加える係だ。カレーが余っているから、特に別口で作るということはない。しいて別に作るとすれば、アニタの姉の子供用のカレーだ。
でも、昨晩の夕食中にラクトはアニタの姉から「明日の朝の分は要らない」と言われている。作ったところでそれは偽善にしかならないと思って、ラクトは作らないことにした。もちろん、子供以外の夫婦二人からは「作るな」と言われていないため、余った分から二人の分も作っておく。
朝六時。稔が温めたご飯とラクトが熱を加えたカレーが合わさり、計四皿のカレーライスが完成した。それでもまだ、おかわりする分は残っている。だが、皿洗いの面倒臭さを考え、ラクトはそれを盛らず鍋の中に入れておいた。
「盛り終わったことだし、食べようよ」
「そうだな。てか、二人で食べるのって新鮮だよな。今まで必ず誰かが居たし」
「確かに……」
一日目と二日目を合わせて考えると、これまで二人以上で食べたことは幾度とある。だがバカップルは、二人のみで面と面を向かって食べたことがない。だから稔は、少し新鮮な感じを覚えていた。それはラクトも同じである。
「おかわり、あるからね?」
「分かった。じゃ、食べよう」
「うん」
上下に首を振るラクト。赤髪が揺れたのを合図に、昨日言えなかった言葉を二人は口から発した。先導は稔。息を整えたあと、顎より下で手を合わせる。そして、口を揃えてバカップルは言った。
「「いただきます」」
箸――ではなくスプーンで調理した料理を口に運ぶ。料亭や屋外で食事をしても美味しいと感じることはあるが、でも、自分たちで作った料理のほうが格段で美味しく感じる。たとえアマチュアとプロを比較しようが、それは不動だ。味では勝てなくても、感情に訴えかけてくる点では確実に勝っている。
「美味しい?」
「ああ、美味しい」
「やっぱり、二日目カレーだよね」
カレーは作った直後に食べても美味しいが、一晩置いてから食べても美味しい料理だ。というか、その方が段違いに美味しい。でも、二日目カレーには知っておかなければならない真実がある。それは、『ウェルシュ菌』という腸で毒素を放つ細菌の数が数百兆倍にまで膨らみ、蔓延っているということだ。
「……ちゃんと熱したよな?」
「もちろん、ちゃんと煮込んでるよ。手料理で食中毒とか洒落にならないし」
「混ぜたよな?」
「当然。ウェルシュ菌が熱と空気に弱いってのは常識でしょ」
食べる途中で一安心する稔。一方ラクトは、それを見て嘆息を漏らした。それは当然の結果。なにせ、自分が丹精込めて煮込み直したカレーが食中毒の温床になるのではと疑われたからだ。「彼女の料理だから大丈夫」なんて神話的なことを考えてほしくはなかったが、心配されすぎても怒りが込み上げてきてしまう。
「心配するのは自由だけど、その……、もう少し楽しく食べよう?」
「そうだな。ちょっと言い過ぎたかもしれないな、悪かった」
稔はそう言って頭を下げた。しかし味には問題ないので、彼は再びライスの山を崩してカレーの海とともに口へ運ぶ。香辛料の刺激的な風味とミルクの優しく円やかな味わいが交差し、仄かな甘みとともに辛さがダイレクトに伝わった。
「まあ、なんだ。とりあえず『できる嫁』ってことは分かった」
「メシマズ嫁よりはマシだと思うよ。へへ……」
スプーンでカレーを口に運びながら、ラクトは笑みを浮かべる。少し頬に赤らみがあるのはカレーの刺激のせいだ。しかし、そうとは思えない静まりがその直後に二人を襲う。無論、双方の頬は真っ赤だ。
「……てっ、照れること話すな!」
「それはラクトも同じだろ!」
互いに怒りを露わにする。――が、すぐにその感情は薄れた。二人は顔にあった紅潮を薄くしながら、互いに非があるという結論を出して笑い合う。「恥ずかしいこと禁止」というのを暗黙の了解として、稔とラクトは二人だけの朝食を世間話や昨日一日の話を中心に話し合いながら楽しんだ。
朝六時半。二人が朝食を食べ終わった頃、アニタの姉が台所を訪ねに来た。二歳児とともに歩く姿は、『ザ・母親』という感じを醸し出している。無論、ラクトはそんな立派な母としての姿を尊敬していた。一方の稔は、そんな一児の母を見てラクトを大切にしようという気持ちをいっそう強くさせる。
「朝ごはん作ってくれたんだー」
「はい、作っておきました。二人の分は冷蔵庫の中に仕舞ってあります」
「そっかー、ありがとねー」
アニタの姉はそう言って笑顔を顔に浮かばせる。魔の二歳児と言われるほど二歳の子供は行動能力が半端無いため、彼女は子を抱きかかえて冷蔵庫の前へと向かった。一方稔とラクトは、もう出かける用意が済んでいたことから台所から出ようとする。だが、そこで二人は止められた。
「もう行くのー?」
「はい」
「わかったー。じゃあ、気をつけて行ってらっしゃーい」
「はい、分かりました」
アニタの姉の話を激励の言葉と受け取ると、稔とラクトはそれを胸に台所の外へ出た。靴は家の入口に置いてあるので、二人はそのまま廊下を通って玄関に向かう。その時、自然とバカップルは手を繋いでいた。顔に紅潮は見られない。
足を進めて玄関の直前。そこにトイレが在るのだが、二人が来るのを待っていたかのように到達と同時に扉が開いた。見れば、そこにはアニタとベルゼブブの姿。何かされる雰囲気しかない中で、金髪の戦場カメラマンは銀髪の幼女に背中を押される形で一歩前に出る。数秒ばかし動揺すると、彼女はこう言った。
「この紙にメールアドレスと電話番号を記しておきました。登録お願いします」
「ありがとな。大切に貰っておく。もちろん、時間見つけて登録しておくぞ」
「お願いします」
知人にエルダレア帝国に蔓延っていた独裁政府とテロ組織を壊滅させた英雄が居る。それだけで自分の存在価値が高まると思い、アニタはメールアドレスを渡した。加えて、戦場カメラマンとして生き抜くためには情報を収集することが必要不可欠である。戦闘地域についつい赴いてしまう人材と交信するのは、アニタが自らの仕事存続のために必要なことだった。
翻り、稔は貰った紙片を胸のポケットの中にしまう。少し進んで靴を履き、隣に立っていた赤髪が靴を履き終えているのを確認すると、彼は再びラクトと手を繋いでアニタの実家を出た。その時、後方で金髪と銀髪の声が耳に届く。
「いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃい」
声を聞いて「このままではいられない」と思った二人は、出てすぐに振り返って手を振った。まるで君主のいる国家の王族のようだ。そんな公務らしい振る舞いをしたあと、ラクトが扉を閉め、そして二人は空港へ向けて歩き始める。しかし当然、こんな民家の密集地に空港がある訳ない。
「交通機関使う?」
「駅や停留所まで極力歩かないで済むなら、ぜひとも使いたいな」
「心配ないよ」
「なら、乗って行こう。……ところで、機関は?」
「駅に行ってからのお楽しみ」
「分かった」
稔は「バスじゃないのな」と内心で思った。だが、それを口には出さない。彼女が言うとおり、深く考えず楽しみとして取っておこうとしたためだ。




