3-69 「親になる」とは何か
だが、ストッパーを掛けた刹那のことだ。赤髪は養子として出された活発娘を見て自分を悲しく思ってしまった。理由は至って単純である。彼女が親の居る状況で育てられているからだ。親の金を使うことに拒否感を覚えて自ら処女という貞操を犠牲にした自分の過去を振り返り、ラクトをトラウマが襲う。
「どうした、ラクト」
「い、いや? なんでもないよ。本当、なんでもな――」
赤髪が額に手を当てて何かの悩みに襲われたことを知ると、それが何であろうと慰めようと考えた稔が早急に対話相手を務め始めた。しかしラクトは、自分がトラウマによって壊されそうである状況なのを隠そうとする。でも、それは分かりやすすぎる嘘と言っても過言では無かった。「自分に干渉するな」と言わんばかりのラクトの態度を見て、稔は低めの声で言い放つ。
「嘘を言うな」
けれど、低い声は男性特有のものである。女性でも稀に発声することが出来る人物が居るが、稔が言った当時その場に居た人物の中で男声を発声可能なのは稔だけ。無論、彼氏から慰められていると知ってはいた。だが、完治まで少しとなった男性恐怖症を再び発症してしまうラクト。凄まじい震え様に、喫茶店の店員やその義理の娘は一切の対応が取れない。つまり、この場の全てが稔に任されたのである。
「ブラッド。安心してくれ、俺だ。稔だ」
「来ないで、来ないで……」
しかし。稔に全てが任されたと言っても、主人だって召使がトラウマに溺れてしまう姿なんか見たことが無かった。当然ながら、どのような対応が適切なのか悩んでしまう。そんな中で一番最初に行ったのが人物確認だったのだが、稔の言葉など聞く耳を持たず。ラクトは耳を抑え、目を強く瞑って震え上がる。
「(一か八か、賭けに出るか……)」
面倒な状況に陥ったなんて思わなかった稔だが、心の奥底では早くトラウマ問題を解決したい気で満々だった。基本的に温厚で彼氏を必死になってサポートしようとするから、その恩を早く返してしまおうと考えていたのだ。だからといって雑な作戦は許されないわけだが――稔はそんなことお構いなしだった。震え上がったラクトに対して後ろから抱きついたのである。
「嫌、嫌、嫌……」
言葉では現せないような憂鬱に陥った赤髪。しかし、続いて稔が取った行動によって多少ばかし解消の方向へと動き出した。凄まじい勢いで狂っていくラクトの頭を黒髪男が優しく撫でたのである。一方の赤髪は首を左右に振って自分が堕ちそうになることを否定するに走ったが、撫で続けて十秒が経過した頃、遂に努力が実った。
「あれ……」
まるで魔女に全てを奪われていたかのような状況から我を取り戻したラクト。彼氏が背後に居ることを考えると思わず顔面を紅潮させてしまった。そんな一方で、トラウマが一気に消えたことは素直に褒めるべきことでも、その代わりにイチャラブシーンを見せられて余りいい気分にならないバリスタ。口を固く閉ざしていても、彼女の拳は強く握られている。
「ラクト。お前、ついさっきまでトラウマに支配されてたんだぞ?」
「ごめん、困らせちゃって」
「謝らなくていい。俺としては、ラクトが平常心を持てただけで十分だ」
稔は言って笑みを浮かばせた。並行してラクトの頭を撫でるなど、彼はバリスタから怒りを買うと分かっていても嫌がらせを続ける。「この野郎……」とメラメラ怒りの炎がバリスタの内心に燃え盛る中、リア充二名は互いに顔を赤くしていた。赤みはピンクがかった色だったから燃える程でない。だが、違いを訴えようが店員に言わせれば「燃やしてやろうか」と一蹴されるに違いないのは事実だ。
そんな時。本来であればバリスタから一蹴されている対象の稔が、ラクトに踏み込んだ質問を行った。
「落ち着いたようだから聞きたいんだが、どんなトラウマを思い出したんだ?」
「親子の関係に関して……かな」
頷きながらラクトの回答を聞くと、稔は「そうか」と冷たい対応を取った。何しろ、他人の親子関係にとやかく言うことは出来ない。子供を突き放すように冷たい躾をする親も居れば、躾を極力避けて友達関係のような親子関係を構築する親も居る。結局は千差万別なのだ。だから、他人の親子関係に口を出すことは無駄な争いを生むだけでしか無い。たとえカップル同士だろうが、これは変わらないのだ。
「母と姉が強姦された後ぐらいから、私は水商売に手を染めた。その方がお金が貰えるし、なにより拒絶反応を示していた野蛮な雄共を駆逐できると思ったからね。まあ、今は正反対だけどさ」
ラクトはクスっと笑みを浮かべて過去の自分を嘲笑すると、更に話を続ける。
「落ち込んだ母に守られることもなく、希望を失った姉を助けることも出来ず。私は仕事に明け暮れるだけで、学業なんかそっちのけだった。だから、養子として貰われただけでも羨ましいんだよね……」
言った後で大きな嘆息を吐くラクト。色々と考えさせられる意見に場が静まり返る。誰かを世から抹消する形で殺したわけではなかったが、彼女の心の中では殺してしまったも同然だった。そういうことを理解した者が続々と言葉を失い、どんどんと場の空気が重くなっていく。
「貞操は簡単に捨てられる。でも、早すぎない方がいい。私はそう学んだ」
遅すぎず早すぎず。どんな物事にも適用されることではないが、要は冷静さが必要ということだ。緊急の発作を起こした場合にそんなことを言ったら場違いであるが、それでも冷静さが問われるのは言うまでもないこと。結局のところ、冷静さというのは常日頃から持ち合わせていなければならないのである。
「……早々と貞操を捨てた女を好きになってくれて、ありがとう」
「レスにならない容姿してんだから、処女かどうかなんて関係ねえよ。バーカ」
「抓るなっ」
稔は照れ隠しに彼女の頬を摘まんだ。多少の時間が経過して冷静になると、ラクトは彼氏が取った行動の所為を内心を探って理解する。弱みを握る絶好の機会ではあったが、たとえ情報を得ても、赤髪は「へへーん」なんて分かりやすい態度を取らない。自分を慰めてくれた彼氏に言うべきでは無いと判断したのだ。
「すみません、レスってなんですか?」
「……君にはまだ早いと思う」
「それって変な意味の事柄ですか?」
「変な意味って訳じゃない。医学的な――精神的な事と言ったほうがいいかな」
「なら教えて下さいよ。放送禁止用語じゃ無いんですよね?」
テンションの高い子に逆らう術は無いかと探るものの、中々見つけられなかった稔。日本においては『病気でもないのに一定期間身体を交えないこと』がセックスレスの定義とされているし、陥りやすい人はストレスなどを抱えていることが多い。病気というと正常な解釈がしづらくなるが、かといって、放送禁止用語かと言われればそうでは無いから教えるべきか悩んでしまう。
「私は教えてもいいと思います」
そんな時である。稔が頭を悩ませていた時、ハイテンションガールの養母が手を挙げるように言ったのだ。当初彼女の台詞に驚いてしまったが、稔は自分に任されたのだと感じて教える方向にシフトした。その後、咳を払って説明に入る。
「レスってのは略称だ。『less』な」
「これだから日本人は。『ress』じゃなくて『less』だ。『ress』なんて単語は存在しない。マイナー言語も覚えられるくせに、舌の使い方習わなかったの?」
「う、うるさい……」
この場合、マイナー言語とは『ドイツ語』のことを指す。まだ稔が厨二病だった頃、「英語よりも格好いい!」と感じて積極的に覚えた経緯があった。今でも彼が覚えている単語は多い。もちろん、メジャー言語である『英語』の学習も欠かさなかったのだが、やはり欧州圏の言語の発音なんて日本人には難しい訳で。なかでも、特に『r』と『l』は躓くところだった。
「話を戻す」
稔は咳払いして言う。頻繁に謦咳を入れている姿勢を見ると何かの病気に掛かっているのではないかと心配してしまうが、別にそんなことは無い。自分のターンを明確にするためにと、少し大きな態度を見せているだけだ。
「君の年齢で性教育が行われているかは知らんが――、健康体なら近く初潮が訪れるだろう。そうすることで子を授かることが出来るようになる」
「二度目以降は『生理』や『月経』とも言って、周期は一ヶ月くらい」
「それで、その子供を作る行為が出来るのにしないことを『セックスレス』と言って、それを略そうとすると『レス』ってなるわけだ」
ラクトは稔の説明に一つ助言を入れたが、二度目は助言を入れなかった。一方で元気が良い女の子は、にこやかな表情を浮かばせて稔に喧嘩を売るようなことを言う。同時に、背筋が冷やりとするような笑みを浮かばしているハイテンションガールの姿が脳内で再生される。
「その点、お二人は仲良さそうですよね」
「そういうことは言わない方がいい。君の母を怒らせる火種でしかないからな」
「でも、そうやって話を逸らさないほうが男らしいと思います」
稔は言い返せなかった。「余計なお世話だ」と一蹴しようと考えたのだが、配慮が足りないと考えて喉から出かかっていた言葉を押し殺す。どこかから助け舟が出ていないか辺りを見渡してみるも、把握できたのはラクトが面白がっていることだけだ。もっとも、稔から慰められた恩は忘れていないようだが。
「男らしい……か。そういえば、君の養父さんって居ないのか?」
「居ませんよ、母子家庭ですからね。母も父を作ろうとしませんから」
「君は父親が欲しいと思うか?」
「年頃の娘に気配りが出来る方なら、欲しいですね」
年頃の娘への配慮が何を示しているのかなど即時に分かることだ。同じ籠に下着を入れないだとか、自己主張を激しくしないだとか。あまり高圧的な態度を取ってしまうと、娘……というか子供全般として会話したくない気分になる。そういう些細なところに気配りが出来れば完璧だ。
「将来的には父親になるんですし、今から学んでおいたほうが良いと思います」
「それを言ったら、君もだろ?」
「……壮大なブーメランでしたね」
自分の言ったことがそのまま自分に返される現象、つまり『ブーメラン』だ。意味合い的には「おまえが言うな」という感じなわけだが、その言葉で発狂したりすることが無いところで常識が有る人物だと分かる。頷いて言葉を噛みしめるハイテンションガールを見て話が途切れることを察した稔は、会話をする場所を変えることにした。
「バリスタさんも用事が済んだことだし、一階に戻ろうか」
「そうだね」
「黙れ。今はお前のターンじゃないぞ、ラクト」
「なんか、私にだけ妙にきつく当たってない?」
「愛情表現の一つだと思います」
「ははーん……」
バリスタを交えて稔とラクトは会話を進めたのだが、女性陣はチームを結成して三対一という構図を作り出した。もっとも、馬鹿にする程度の軽い気持ちであるから黒髪男に被害が及んだ訳ではない。むしろ、稔には恵みが訪れた。
「これはこれは、巨大なメロンをお持ちで」
「私なりの愛情表現ということさ」
既に身体の関係を持っていた二人。だが、どさくさ紛れに近い状態で「ふにゅっ」と柔らかな感触を背中に覚え、本能的に稔が反応してしまった。別に変な意味を孕んでいる訳ではない。意識がそちらへ向かったというだけだ。同じ頃、イチャラブシーンを見せつけられたバリスタが怒りから咳払いをしていた。
「落ち着いて下さい、お母様」
「慰めていただき有り難うございま――すいません、喧嘩売ってるんですか?」
「お母さん、そう怒らないで……」
バリスタの娘は首を左右に振って落ち着かせようと努力する。先程互いに怒りあったこともあって、バリスタの怒りが止んだ。それは親が子に弱いことの証明でもあった。ハイテンションガールは華奢な容姿をしていたし、外見の面においても可愛いと思える。育てる上で愛情が詰まりに詰まったことも相まって、やはり親には強烈な一撃となったらしい。
「分かりました。降りましょう。あと、返礼に珈琲アイスをプレゼントします」
「アイス……」
「貴方の名前と掛けて、ラクトアイスのを提供しましょう」
「お願いします!」
出処が何かまでは察しが付けられていなかったバリスタだが、彼女はそのすぐ近くまで触れるような話をしていた。一方、ラクトはバリスタの提案を一瞬にして呑んだ。言い換えれば、ラクトがアイスに弱いということの証明である。
「では、戻りましょう」
そう言ってバリスタが三人を先導する。二階から一階へ螺旋階段を降りて到着すると、バリスタに代わって、娘が四人席となっている場所に案内してくれた。そして共に座る。




