3-68 母と娘の確執
自然体で居れば稔もラクトも話に困るようなことはないのだが、コーヒーカップの中に入っていた液体全てを飲み干した後に静かな空気がお互いを包んだこともあって、両者は口を重く閉ざしてしまった。けれど、話をしなければ面白く無いということも事実である。自分より右に出ることを許さない訳ではなかったが、ラクトが話すのを阻止するように咳払いして稔がこう言った。
「珈琲、美味しかったか?」
「うん。でも、稔が淹れた訳じゃないよね」
赤髪は笑い混じりに言った。稔は「そうだな」と返すことしか出来なかったが、これは照れているせいである。別にメディアミックスされている某アダルトゲームを意識して言ったわけでは無い。黒髪男の脳内辞書にはそれ以外の言葉もしっかりと記載されている。だが、変に何かを意識することによって失われるものは多くあり、稔もラクトも互いに納得のいく適切な会話が出来ていなかった。
だが、バリスタが二階へと上がって二十秒程度が経過した頃だ。二人は静まり返った珈琲店の一階でガラスの砕けるような音を聞いた。それによって、彼らの内心に動揺が走る。同じくして二階から女の怒号が発せられ、稔とラクトはバリスタが謝る声を聞いた。涙ながらに客からクレームを聞いているようにも聞こえる。
自分たちが出る幕ではないと分かってはいたが、客様が店員に何でも言っていいとは限らない。強固な絆を持っていた二人は何も言わずに頷き、それを合図に稔が『瞬時転移』を用いる。指定した場所は喫茶店スターバックの二階だ。旧政府の暴走をストップさせたこともあって正義感に駆られ、少し格好付けて稔は魔法使用宣言をした。
「――テレポート、喫茶店スターバック、セカンドフロア――」
『スターバック』という語が出た時にラクトは自身の右肩を稔の右肩に付けていたから、二人とも魔法の効力を発揮できる態勢を整えていた。だが、魔法使用宣言は受け入れられていない。稔は目を見開いて「なんで?」と口を閉ざしてラクトに問う。赤髪は吐き捨てるように笑うと、彼氏の問いに謦咳した後でこう答えた。
「稔。英語ってどこの言葉?」
「イギリスだろ?」
「うん。まあ、マドーロムに英語って概念は無いんだけど――」
ラクトは言いながら自身の特別魔法を使用し、メモ用紙らしき紙片を一つ作った。続いて今度はシャープペンシルを作成すると、それを右手に持ってメモ用紙に文字を書いていく。店員が危ない目に遭う可能性が否定出来ない以上は早急に二階へ行くべきだと稔は考えたのだが、一方で悲鳴が聞こえてこなかったために行かなくてもいいのではないかと次第に考える。結果、ラクトの話に付き合う方向で意思を固めた。
「その英国では、『一階』の事を『ground floor』、『二階』のことを『first floor』って言うんだ。合衆国では『first floor』が『一階』なんだけどね」
「つまり……」
「魔法の名称が識別できなかったってことだね」
ラクトの説明を聞いて稔は大きく首を上下に振る。英語と言っても本国仕様のと合衆国仕様のものが有るから、魔法使用宣言の原則にある「意味が伝われば名称を変更しても大丈夫」に違反してしまったのだ。急ぎの時に意味が伝わらないなんていうハプニングに見舞われてしまい、稔は大きく嘆息を吐く。
「そんなに落ち込むな、厨二病。普通に日本語で言い表わせばよかったのに」
「落ち込んでいる奴の心の傷を癒やさないパートナーって……酷くね?」
「ごめんごめん。じゃ、『二階』って言葉にしてどうぞ」
彼女の言い分も納得できないものではないが、自分のプライドがズタズタに貶されるような気がして気に食わず、歯を食いしばって稔はラクトに反抗心を持った。とはいえ、異世界人が現地人の話を呑まないのは暴走に過ぎない。稔は屈するような気がしたが、それでも店員を救う本軸を忘れていなかったため、黒髪男は魔法使用を行う。息を大きく吸って吐いて言い放った。
「――テレポート、喫茶店スターバック、二階へ――」
稔が息を吐いた時、ラクトが先程と同様にして左肩を彼氏の右肩に付けていたから、ファーストフロアの意味に関する一連の流れで学んだこと以外の理由で『瞬時転移』が成功しないようになることは無い。ゆえに、見事に魔法の効力が発動して喫茶店の中を一階から二階へと刹那の時間で移動することが出来た。
「……」
稔の予想上では店員に女が暴行を働いていると思ったのだが、目の前に現れた光景はそれを凌駕していた。思わず黒髪男は目を大きくして言葉を失う。ラクトは口を右手で抑えて左右に首を振り始める。なぜならそこには――。
「さっき監禁されてた時に居た、あの、元気が取り柄の子じゃないか」
ロパンリの旧帝国政府庁舎の一角、女献上によって性奴隷とされた女達が貧相な暮らしを迫られていた場所から稔が救い出した一人の少女。名を聞いていなかったが、教育を行うと言って席に着かせた時にハイテンションだったのは事実である。少女は態度にこそ現さなかったものの、恩人を前にして動揺していた。
「お兄さん達、なんでここに……」
「君こそなんでここに居るんだ? それに、グラスを割るなんて……」
稔の眼中に移りこんできた情景には、一階にまで届いた例の音の正体が移りこんでいた。机上に置かれた透明なガラス製のグラスが見るも無残なまでに粉々となって砕け散っている。バリスタの皮膚をガラスが突き刺した形跡は無かったが、店員の肉体を傷つけるような真似は客様として有り得ない行為だ。
「ごめんなさい。つい、かっとなって母を傷つけてしまったんです……」
「そっか。でもさ、謝ってくれているところ申し訳ないんだけど――俺、君に自白して欲しくて言ったんだよね。というかさ、バリスタさんは君の母親なの?」
「はい、そうです。私の母親です」
ガラス張りの喫茶店外からバリスタに視線を注いだのに続き、またも彼女から反感を買うような真似をする稔。表面に態度を出さなかったが、ラクトの内心では憤りがどんどんと溜まっていっていた。「もっと厨二病と罵ってやろうか」と思ってしまう程だ。一方、稔はそんな赤髪の内心など構いなしに話を進めた。
「母親だったら尚更のこと、なんで破壊行為なんか行ったんだ?」
「母が稔さん達を恩人だと認めてくれなくて、頭に血が上ってしまったんです。『カップルの言うことやることを信じるな』とか言って、聞く耳を持たなくて」
稔は少女の心を癒やそうと、話を聞きながら頷く。ラクトは自分の対応と全くもって異なることに更なる苛立ちを覚えたが、相手は子供だ。弱い者に対して拳を振り下ろすことは出来なかった。加えて、「母親から信じてもらえない」と主張されたことによって、ラクトの中に眠っていた母性が刺激されて動き出す。
「仕事で忙しくてイライラする大人も居るから一概には評価できないんだけど、でも、もし日頃から親御さんが貴方の言い分を無視するようなら、私は酷い親としか思えないかな。それで衝動に駆られた貴方も貴方だけど」
ラクトはそう話して場の雰囲気を静まり返らせた。自身の主人も言葉を発さない。実力行使の論者でこそ無くなったが、やはり論戦には強い赤髪。そういった面もあって、稔から論破戦で強い信頼を得ていたのである。
「まあ、これ以上ケンカしてもどうにもならないし、双方謝ったほうが得策なんじゃないかなって私は思う。あと、バリスタさんは自己暗示を解いた方がいい」
父親を亡くしているラクトは、母子家庭の可能性が否めない少女のことを人一倍に抱擁したいと考えていた。だが、抱擁は指導と同時に行わなければ意味を成さない。年齢的には一括りされるラクトと少女だったが、一応は先輩後輩の関係が成り立つため、赤髪は先輩として少女とその母親に提案をしていた。
それからわずかして、監禁されていた娘と母親であるバリスタの双方が頭を下げた。そして、互いに謝罪の気持ちを練り込んだ言葉を発する。暗い雰囲気が場に漂う一方で、その後には母親と少女が手を繋いでいるシーンが見れた。自分の提案で二人の確執が解けたと思うと、ラクトは破顔して一笑を浮かばす。
「ごめん」
「ごめんなさい」
言葉でこそ母親の謝罪は軽いように思えたが、それで互いに和解し合えたのだから問題は無い。それこそ部外者が干渉するのもおかしいと思って、ラクトは提案をした後で助言など一切を行わなかった。また、稔も同様の対応を取る。彼は恋愛分野では察することに疎い癖に、無駄なところで察する才能を見せていた。
しかしながら、赤髪の進めた事柄において解けなかったことも有る。バリスタがリア充に対して強い憤りと嫉妬を覚えていることだ。自分の子に謝って当然のことをしたのは頷けたバリスタだった。けれど、一方でその提案をしたのがラクトであったことに強い反抗心を持ったのである。
「ですが、現実を満喫している方に言われたく有りません」
「心の奥底、根毛の毛先からリア充を嫌ってるんだね、バリスタさん……」
「『リア充』とは食べ物でしょうか?」
「言葉を濁して言うなら、バリスタさんの思う殲滅対象かな。食べ物じゃない」
人間が人間を食べることが出来ない訳ではないが、共食いなんか滅多に発生しない人類という生き物。ネタが本気になることを少々ばかし恐れ、ラクトはしっかり「食べ物ではない」と否定した。論者が恐れたり手を焼いたりするのは大抵が敵対する人物からの妨害行為であるから、至って当然のことと言える。
「つまり、現実を謳歌している輩ということですか?」
「大正解」
ラクトはそう言って拍手を行う。一方で、リア充に対して強い反抗心を持っているバリスタ。無論、赤髪のそのような振る舞いに強い憤りを覚えてしまった。右手をグーにして拳を強く握る。目が充血していたりしないが、現在の店員に林檎を握らせたら一瞬でフルーツジュースが作られそうな勢いだ。
「馬鹿にしてるつもりは無いんですけど、誤解を生んだのなら申し訳ないです」
「別に構いません。また、私の辞書に言葉が追加されたので」
「バリスタさん、意外とポジティブな店員なんだ」
表面上はラクトもバリスタも、双方にこやかに振舞っていた。だが、女はそう単純な生き物ではない。内心を読んだりして適当な情報をバリスタから仕入れ、ラクトは彼女が何を思っているのかを知ってしまった。そこには黒い店員の内心が窺える。ストレスと隣合わせの接客業であることも考慮して深く干渉しないように赤髪は心掛けるが、それでも赤髪はバリスタに問いたくなってしまう。
「(リア充とかいう輩は本当に消えてほしいものだ。これまで彼氏が出来たことのない私の身にもなってみろ。というか、この傲慢なカップルを今すぐにでも駆逐してやりたい……)」
酷い言われようだが、それら全ては稔とラクトのせいだ。入店から苛立たせる行動を取ってきたのだから怒りを買っても仕方ない。でも、沸点の低い人物を刺激することが得策と考えられないのも事実だ。相手の感情を刺激するように反抗するのではなく、刺激せずに親身になって話を聞こうとラクトは考えた。
「そういえば、バリスタさんと娘さんの顔って似てないですよね」
「私、この子を引き取ったんです。幼い頃に虐待を受けて奴隷として売りに出されていたこの子を。ですが、女献上でヤリチン政府に送られてしまいました」
「つまり、娘さんとバリスタさんは養子縁組ということ?」
「簡単に言えばそうなりますね」
ラクトが要約して問うと、バリスタは正解だと言って頷いた。だが同時、養子縁組に関して深く聞き出そうとするのは止めておいたほうがいいと赤髪にストッパーが発動する。生活している以上は言いたくないことだってあるのだから、そういった個人の思いを尊重して話を進めようとの考えからだ。




