3-36 資料作成-Ⅱ
「わざわざ机をまたぐ必要はないだろうに……」
ここでいう『またぐ』というのは、何も足偏の『跨ぐ』ではない。『越えてくる』という方の『またぐ』だ。同音異義語が複雑な事を再び知る場面であるが、実際問題として稔は特に気にしていない。どうせ、それは自分の本心でしか無いし、言ったところで泣いている。なれば、こんな独り言に耳を傾けるとは思えない。稔の導き出した結論はそれだった。
そんな中である。自分の彼女が居るという状況の中、稔は膝の上に尻を置かれてしまった。誰かと言えば他でもない。アカウサギを頭上に乗せた紫姫である。彼女は口頭で言う言葉こそ堅苦しいが、そういう物を崩した先にあるのは甘えん坊な一面。稔はそんな彼女の一面を見て、我が子を見るような対応を取った。
「貴台、我に何か言わなくても良いのか? 後で叱られるぞ?」
「分かっていてやってんのかよ」
「うむ。実際、心を許した相手を後ろに置いておくと心が和むのだ」
「そうか。けど、俺は道具じゃねえぞ?」
「そんなのは知っている。貴台が我々の行動を制限しないことも知っている」
「『悪用しろ』って言った覚えはないからな?」
あからさまに紫姫の匂いを嗅ぐ行為はしなかったが、稔は漂う匂いに悪意を感じていた。香水の香りは一切しないし、風呂上がりに漂う匂いでもない。だが、それは至極いい匂いだった。もちろん、思ったことを紫姫に言うことはない。彼女にバレるのは目に見えているのにも関わらず、謎の抵抗をしていたのだ。
「まあ、なんだ。配下に居る者共を洗脳しない限りは、リーダーの統率力には限りがある。要するに、リーダーが指揮する以上は『統率』と『暴走』は紙一重なんだわ。それで、『暴走』をしないためには配下の奴をコントロールしなければいい。……簡単な話だろ?」
「だが、それは配下の者達の忠誠心を持って実現できる事柄だと思うぞ?」
「そうだな。でも、今のところは問題ないから方針は大丈夫だろ」
稔は言い、紫姫を納得させようとする。けれど、彼女の心配は尽きていない。
「しかし――、貴台の力が弱いということは、配下の中から台頭する人物が現れるということを意味していると考えられると思うぞ? 首を狙われると思うが」
「そうなったなら、確かに最悪の展開だわな。けど、俺には『絶対権力』があるのを忘れるな。使ってないだけで、その気になればお前らの忠誠なしで従わせられる。でも、借りている精霊達は無理なんだよな……」
頬を膨らまして考え込もうとする稔。そんな彼の一方、紫姫は勇気づけた。
「しかし、彼女らは貴台と敵として戦った過去が有るではないか。無かったとしても、既に貴台と共に戦っている。だから、無理でも心配は無いと思う」
「戦を交えたから堕ちてる理論、か。一理あるな」
「その理論で行くと、我も該当するな」
「当てはまらないの、ラクトとティアとサタンだけじゃん。――戦いすぎだろ」
そんなふうな自虐を入れると、稔は自分を嘲笑した。馬鹿馬鹿しい過去であると、自分を否定しない程度に笑ってやったのである。そうやって笑うことでネタが生まれ、悲観しない程度に「あの時はこうだったなあ……」と傷を負わずして振り返ることができる。今でも未来でも役立つため、まさに一石二鳥だ。
「まあ、そんなことはどうでもいいのだ。仕事を再開しなければならない」
「席、戻るか?」
「貴台が怒られたいのならば、我は此処に留まるが?」
「お前の好きにしろよ」
「了解だ。そういうことならば、この席に留まらせてもらおう」
紫姫は言い、稔が紫姫の出現前まで視線を送っていた書類へと目を通した。一人でやったほうが作業効率が良いと判断したらしく、彼女は書類を左手に持って作っていた書類を机の向こう側から取る。それに続けて、紫姫はペンを右手に文字をスラスラと書いていく。けれど、これでは稔の仕事の一切が無い。
「おいこら。人の仕事を奪えって指示を出した覚えはないぞ」
「良いではないか。というより、仕事を延ばそうとする悪魔は黙っていやがれ」
「『真剣モード』のスイッチが入ったのか。うむ、いい傾向だ」
紫姫が真剣な表情でペンを走らせていく姿を面白くなく思ったわけではないが、稔は「黙っていろ」と紫姫からクレームを受けても口を閉じることはなかった。むしろ口は開いていく一方である。流石にここまで来ると、『集中する』という動詞が稔の脳内には無いのではないかと印象を受けてしまいかねない。だが、高校生にもなって分からないはずがなかろう。
「(しかし、こう見ると程よい肉付きだよなあ……。ホント、恥ずかしさを持って欲しいものだ)」
この精霊が独り立ちする頃には色々と教えなければならないな、と稔は思う。背後に男を置いておいて安心するという証言に、「こいつ頭大丈夫か?」と思ってしまったのだ。バスト九十超えの赤髪ほど主張するわけではないにしても、出るところは出ている。だからこそ、稔は紫姫に『危機感』を持って欲しかった。
「終わったぞ」
「早いな。流石は俺の精霊だ」
「バカを言うな。貴台が作業効率の悪い方向へと持っていきすぎなだけだ」
「けど、お前はそれを反面教師にしたわけじゃん。それだけでも褒めるべきことじゃないか?」
「……馬鹿にしているのか?」
稔の言葉に紫姫が一つ疑問を抱く。それに続き、彼女は自分が馬鹿にされている可能性を思って稔に解答を要求した。しかし、返ってきた答えは「んなわけ無いだろ」というもの。稔は馬鹿にしている気持ちなんざ一切なかったのである。また、軽い返答で疑問を更に強くさせてしまう恐れがあったため、彼は続けてこう話した。
「手本となる奴を越そう、って気持ちは人間なら誰だって持ってる。けど、その手本が善か悪か判断を付けることは人間誰しも出来るわけじゃない。でも紫姫は、『戦闘狂』にならなければ出来る。だったら、とことん悪いところを見せて『こうなるな』って示したほうが、ならないために試行錯誤する力も付くだろ?」
「確かに……」
紫姫は頷き、同時に稔の意見を理解した。難しい話ではあったが、『反面教師』と『試行錯誤』が同じ土台の上に立っていることを主張したかったのである。それ意外にも、『悪い部分も見せたほうが力になる』と主張したかったのである。
「ああ。話を逸らすようで悪いが、そういう点でお前に言うべきことが有るんだ。聞いてくれ」
紫姫が稔の言い分をほぼ理解した頃、先程の話をした人物がそう言って紫姫の注意を向けさせた。彼は咳払いをし、深く呼吸をして心身を整える。直後、稔は先程思っていたこと――『紫姫の行動』に対しての指摘を入れた。とはいえ、変な感情を持っていると誤解されては困る。そのため、前置きを置いておいた。
「話を進めていく前に言っておく。お前は可愛い。身体の肉付きも素晴らしい」
「何を言っているんだ! 実の精霊に対してセクハラをするとは悪趣味だぞ!」
「やっぱ、恥ずかしさが無いわけではないんだな。……いや、ほら、さっき、紫姫が俺の太もも辺りに腰掛けただろ。その時に発した台詞覚えてるか? 『心が和む』って言ったはずだが、あれは止めるべきだぞ」
「貴台への敬意を表した台詞だったが。もしや、特別扱いをしてはいけないということか?」
紫姫が言うと、稔は首を横に振った。続けて彼は口を開き、否定の言葉を始めに置いた後に紫姫を肯定して自分の言い分を主張する。
「違う。俺も男だ。変な目で見られてるかもしれないって頭に入れておけ」
「貴台なら別に構わぬ。我は貴台の彼女ではないが、既に心を許している。もちろんのことだが、今ここで、貴台以外に寄り添う事は無いと誓っておこう」
「でも、将来的に結婚とか……」
「稔はラクトから一切の情報を入手していないようだが、原則として精霊も罪源も主人が手放さない限りは付き添うぞ。また、『借りた』ないし『前に契約者が居た』という場合は儀式も単純なそうだが、初回の解除儀式は長引くそうだ」
稔が将来のことを持ち出すと、紫姫は首を振って言った。それは自らの結婚を否定する意思表示ではあるまい。「契約の反対をする際に必要な時間が初めての場合は桁違いだ」と訴えたかったのだ。ただ紫姫の場合、それよりも稔との間に結んだ精霊契約を解除したくなかったことが大きかった。
「我、ラクト、そしてレヴィア。この三人との解除は時間と力を要する」
「まあでも、契約を解除するには時期的にも早過ぎる。まだ先のことだろ」
「うむ。片隅に置いておくだけで結構だと思うぞ」
紫姫は「頭の片隅にでも」と相手への配慮からくる定番の台詞を付けておき、それで資料作成に関しての話を収束させた。その後、彼女は続けて作り上げた資料の雑な文字をペンの後ろに付いていた消しゴムで修正して加筆する。
「よし。データのみだから数字やら記号やらで溢れかえっていると思うが、ある程度は綺麗にまとめたつもりだ。何か気になった点があったら呼んでもらえれば幸いだ。――では、我は疲れを取るために精霊魂石の中へと戻ることにする」
「サンキューな。よい休暇を」
身近な会話を交わすと、稔の前に座っていた紫姫は魂石の中へと消えていった。そうして誰もいなくなる座席。紫姫が魂石の中へと戻ったことで、聞こえてくる声はラクトのものだけとなった。そういったことを知り、稔はどれだけ紫姫と共に大声を張り合っていたのか知って、痛切な思いで反省する。
だが、そんな稔を大歓迎するように迎えてくれたのがラクトだ。その裏に何が隠れているのかも知らず、稔はラクトから「こっち来なよ」と言われたので向かうことにした。
「じゃ、自己紹介を」
「俺が、か?」
「そうそう。だってそもそも、稔は『担任』って位置づけなんだしさ」
ラクトから背中を押され、言わない理由も無かったので稔は自己紹介を成り行きで始めた。文章なんか一切考えていなかったけれど、これが教師として必要な能力なのだと痛感し、稔は深呼吸して自己紹介に移る。
「夜城稔です。担当教科はこの赤髪が教えない教科を担当します。以後、よろしくお願いします。敬意があれば呼び方は気にしないので、好きなようにどうぞ」
稔は言い切ると躊躇いもなく一礼した。エルダレアの文化など知ったことか、と強気な態度で臨んでいたのである。社会科に関しては流石に教えることが出来ないわけで、多少の無礼があろうと俗にいう『ALT』の教師らしく振る舞えば無問題だという結論に落ち着いていた。
しかし。生徒たちの質問は稔の予想していなかった方向へと飛んできた。自己紹介の後に一礼することはエルダレアの方々に受け入れていただけたか――と思った矢先、馬鹿にされているように発せられたので戸惑ってしまう。
「先生二人はどういう関係なんですか?」
質問をしたのは見るからに成長中途の体型、最年少の女の子だ。酷い目に遭ったことから男に対して恨みを持っていたのは確かだったが、現れた新米教師はナメても危なく無さそうと思い、彼女は迷いの一切なしに聞いた。
「本来だと切り捨てるような質問だが――簡単にいえば彼氏と彼女かね」
「職場内恋愛っ、ふーふーっ!」
「職場内ってか、この授業って補修みたいなもんだけどな」
茶化されたが、稔は特に動じること無く授業を進めていく。それと同時、彼は冷酷な喋り口調の教師だと嫌われかねないから、生徒が話しやすい教師になろうと努力を始めた。




