3-31 対帝国政府-Ⅸ
ラクトは稔の方へ倒れてきたが、彼女には「倒れた」という認識の一つもなくなっている。それだけでうつ病を引き起こしてしまうくらいの、とてつもない大ダメージを負ったのだ。けれど、まだ諦めてはならない。母親が記憶喪失しているなら治療で治る事も有る。稔は直後、心理的な苦痛を背負ってしまって彼女が立ち向かえないのなら、その逆境に自分が向かってやろうと決意した。
「ラクト。泣きたいなら泣けばいい。誰も『泣くな』とは言わねえよ」
感情を露わにすることも時には重要なのだ。たとえ発作的なうつ症状であろうと、引きこもって暗い方向へ流れていくことがある。だからこそ、稔はラクトの背中を擦って嫌なことを告白させることにした。時間など関係あるまい。急ぐ必要なんか無いのだ。――心は人それぞれなのだから。そんな自分の思いを強く心に刻み、稔は続けて唾を呑んだ。
稔の熱心な介抱もあって、発作的なうつ症状に見舞われたラクトは快方へと向かってきた。数十秒の間に消えてしまった悲しみの感情を露わにしたのである。無論、涙を堪えることが出来ずに彼女は泣き始めた。でも、稔は決して泣き始めたラクトのことを馬鹿にしたりすることはない。むしろ、「いっぱい泣け」と反復させて二回ワンセットで言っていた。ふと見れば、ラクトの涙の粒で服にシミが付き始めている。
「ラクト。顔、上げてみろ」
「上げたくない」
「んじゃ、無理矢理でも上げるからな」
稔はそう言ったが、強引に首を上げることは骨折を招きかねない。首を折ってもらっては困るから、司令官は謎の優しさをもって左右の手を使でラクトの顔を上げることにした。そして、擦っていた手で後頭部、もう一方の手で顎を下から支える。見えた顔は言わずもがな泣きじゃくった状態だったけど、稔は決して笑ったりしなかった。
「泣き顔、俺以外に見せんなよ」
「それってどういう……」
「俺には主人っていう責任があるからな。召使に指示を出すかわり、俺はお前らの不満を一身に受ける」
「その……、具体的に出来ない?」
ラクトは近くにあった彼氏の顔に心臓の鼓動を早める。同時に起こった顔の紅潮は稔からしてもバレバレだったが、バレていないことを祈って彼女はそっぽを向こうとした。けれど今、ラクトは両手で首が抑えられている状況だ。目の前の彼氏から逃れることは出来なくて、彼女は視線を稔方向へ向けるよう戻された。
「俺が一生懸命守ってやるって言ってんだよ。……言わせんな、恥ずかしい」
そんな時である。稔が照れくさいことを言い捨てたのだ。ラクトがそっぽを向いた時に戻したくせに、彼は自分勝手ながら右斜め下の方向を見て視線を逸らす。そんなことを見て矛盾を感じ、ラクトは腹に手を当てて稔を貶す笑みを浮かべる。でも、そうやって稔が足場になって彼女は笑うことを取り戻せた。そんな時、監禁されていたラクトの母親の言動が一変する。
「ブラ……ド?」
促音こそ言えていなかったが、ラクトの母親は我が子の姿を認識した。それと同時に彼女の脳内で再生されていく我が子との記憶。同じく意識が回復してきて、監禁されていた自分が哀れな裸体を見せていることに恥ずかしさを覚えた。ラクトの母親の年齢は、外見だけなら四〇代前半。熟女好きの政府関係者に何発も性交渉を求められたのだろう。周囲には白濁としたドロドロの液が広がっている。
「処理道具として使われていたってことは、閉経前は確定だよな。――となると、四二歳くらいか?」
「+1。お母さんの身体に平均的な衰えがあるのは確かだから、年齢バレが起こっても不思議じゃないか」
稔の予想をラクトは「間違い」と遠回しに言ってから訂正した。正しくは『42+1』歳とのことである。彼は同時、どこか数学のような感じを覚えて毎度苦しめられていた見直し忘れを思い出した。詠唱して紙面を聖剣で斬るなんて出来やしなかったから、返ってきたプリントに付けられた赤色の数字ほど殺意の芽生えるものはないと、過去の自分と今の自分の変わっていない部分を見つけて頷く。
「論争は強いかもしんないけど、私、理系じゃないんで」
「そうなんだ」
「でもさ。社会生活においてなら、四則演算できれば問題無いと思わない?」
「馬鹿か。『算数』と『数学』は似て非なるものだぞ」
「そう? 『数学』って『算数』の発展形じゃないの?」
ラクトは首を傾げて問う。その一方、稔は苦しめられていた教科だっただけに恩師に言われた言葉は明々と記憶されていた。だから、それを思い出すことは当然ながら容易いもの。時間にして三秒くらいである。「人間、強く印象づけられたものは基本的に忘れないものだ」と、その時改めて稔は思った。それから、彼はラクトへ『数学』と『算数』の違いについて説明していく。
「発展形なのはあってる。でも、内容はまるっきり違うぞ?」
稔は取り敢えず言い、ラクトの反応を窺った。翻って赤髪は、「へ、へえ」と反応に困っている様子だ。もちろん話し手なのだから、気まずい空気が監禁部屋の中に漂っていることくらい稔は分かっていた。けれども足踏みして話すことに至らないのはマズイ。だから稔は、ラクトを気にせず話を進めた。
「『算数』は図形の角度や四則演算を中心とした、言わば『計算と解答』に重きを置いた学問だ。早く正しく正確に答えへ導くことが求められる。一方で『数学』は、早く正しく正確に『説明して』答えへ導くことが求められる。だから『有効数字』とか『証明』とか、一般人が普段の生活で使わないようなものも出てくるんだ」
「……ごめん、長い」
必死に説明した努力は水の泡となって消えていった。ラクトからクレームを浴びてしまって悔しい思いを抱いたが、稔が自分の悔しい気持ちを晴らす機会は与えられていない。
「まあまあ、そう悲しむなって」
「誰のせいだ、誰の!」
稔は怒号を散らす。それでもツッコミのようなものと言ってよく、声の大きさが大きいだけだ。けれども、ツッコミを入れるようなもので悲しみは拭えた。そもそも独断で説明を始めたのは自分自身だから、怒りの感情をラクトに押し付けようなど言語道断なのだ。
「まあいいや。それで、この部屋の施錠はどうやって解除すればいいんだ?」
「見りゃ分かるでしょ。何のためにデバイスがあると思ってんのさ」
「なるほど……」
稔は視線を取り付けられたデバイスの方向へと移す。先程は気が付かなかったが、書かれていたのは捕虜となっている女性らの情報だけではなかった。画面の右端に『施錠解除』と『基本設定』が、それぞれ上から並んで書かれていたのである。どのような機能が搭載されているかは不明として、やるべきことは理解したので思うままに稔は進めることにした。
デバイスの右上、『施錠解除』と書かれたボタンを初手としてタップする。続いて、画面に見えたのは『パスワードキー入力画面』。電話機のように『1』から『9』まで三の倍数ごとに行を変えていて、下端には【Enter】のキーがあった。
「これは……」
とはいえ、何もわからない状況で無闇にパスワードキーを入力して成功する確率は僅かな確率でしかない。それこそスマートフォンなどは、盗難対策として一定回数入力ミスすると一定期間時間を開けなくてはならなかったり、データが消去されたりすることがある。
稔がそんなふうに内心で色々と考えていると、ラクトは小さく挙手した。「はい」と当てられた訳ではなかったが、彼女は稔のように独断で話を進める。似たもの同士というより、これは『蛙の子は蛙』という諺に近い。
「今更なんだけど、――なんでテレポートしないの?」
「拘束を解除するために鍵が手元に無いんだ。流石のラクトでも、鍵穴を見ただけで作るべき鍵を判断するような知能があると思えなくてな」
「ごめん、力になれなくて……」
「批判してるわけじゃないから安心しろ」
稔は頷き、ラクトが悪くないことを主張した。気の利く召使であることは確かなのだ。けれど、自分の実力以上の事を要求されて答えることが『気の利いたこと』というのには無理がある。
「それでなんだが、何か手掛かりになるような有力情報は無いか?」
「全然。拘束されてた時に敵の心を読んだけど、解放された後は着替えてたし」
「そうだよな。となると……紫姫か」
記憶喪失という観点から、ラクトの母親から情報を聞くことは後回しにした。記憶が戻るまでにはある程度時間が居るからだ。それまでにするべきことは、言わずもがな自分の召使や精霊から有力情報を入手することである。その第一弾として、稔は希望の精霊――もとい、紫姫を呼び出した。
「残念だが、有力情報は入手していない。我は戦闘に支配されていたからな」
「そうか。ありがとう、戻ってくれ」
「了解した」
紫姫は早過ぎる帰還に文句の一つも言わなかった。これは、彼女なりの配慮である。やっとの思いで自身の母親と再会出来たのに、隔てる檻があっては抱き合えるはずがない。これまでの悲しみの感情をチャラにすることは出来なくても、悲しみを分けあってお互いにいい関係を構築していってほしい。そんな思いで、紫姫は明言せずに配慮を行っていた。
「ブラッドのお義母さん」
「なんでしょうか」
「何か、パスキーに関して知っている情報はご存知ですか?」
「首輪か手に付けたバンダナに書かれた番号を先に、この監禁部屋の号室を後にして入力してみてください。この部屋の場合は『1214』『103』です」
ラクトの母親は自身の置かれている境遇を知っていて、政府関係者が檻の鍵の施錠を解除する時にどうしているのか探っていたらしい。カースと同様に重要な役人から情報を聞き出すことができるのは、さすが淫魔といったところだ。頷きながらそんなふうなことを考えた後、稔はデバイスのキーを打っていく。
「1,2,1,4,1,0,3,【Enter】……」
パソコンの操作に慣れていたこともあって、稔は初めて打つデバイスながら早いタイピングを見せてくれる。その一方、彼女は入力した数字が間違っていないことを確認していない。早く終わらせるため、【Enter】キーをなんの迷うこと無く押していたのだ。
と、その時だ。近代技術の詰まったデバイスは、まるで自販機のように物を上から下に落とす際に発生する衝撃音を鳴らした。音の根源は紛れも無く目の前のデバイスだが、稔は内部部品が壊れた可能性が拭えず動揺を隠せない。だが、それはラクトの発見で一転した。
「これって、鍵……だよね?」
自販機のような取り出し口から落ちてきた鍵を取り出し、ラクトは右手親指と人差し指で摘まんだ。続けて前後に揺らし、稔の視線を鍵の方向へと向けさせる努力をする。監禁部屋とは言えど灯のある部屋だったから、金属たる鍵は特有の光沢を発していた。
「ではそれを、施錠のための鍵穴に挿して下さい」
背中を向け、ラクトの母親は稔に指示を出した。裸の状態であるため恥ずかしさが拭えていないのである。それでも、彼女は早急に解決しようとしている稔達の思いを汲み取って行動に出ていた。しかし、今度は着るものがなくてくしゃみをしてしまう。
「へっくしゅ……」
気が戻って身体に感じる寒気も同時に感じたようだ。けれど、本来地下に在る訳でもないから日差しとかで何とか身体を温められるはずである。だが、希望はなく会議室の窓は締め切られていた。身体に冷気という刺激を与えるため、外光をシャットアウトしていたのだ。
「私だけじゃないんです。早くお願いします……」
ラクトの母親は鼻水を啜い、体を除けば女性らしさの欠片もない哀れな姿を見せた。無論、それは監禁生活がそれだけ酷なものだということを示している。また、同時に見たラクトの母親の背中に大量の痣が出来ていた。
「今、助けますから……」
稔は言って鍵穴の方向へと近づいていく。そして、挿す。




