0-2 08月06日 後
「ここは――」
再び稔が目を開けた時、映ったのは見ず知らずの空間だった。どこを切り取っても真っ白な色で染まっている。惨たらしい光景を見た後だったこともあり、まるで自分が天国にでも来たのではないかと興味半分であからさまな呼吸をする。そこに漂う空気は彼を現実逃避させるには十分すぎた。
「こんにちは」
目の前に金髪の中性的な顔立ちをした人間――というには少々躊躇ってしまう存在が現れた。彼とも彼女ともいえる存在は、パタパタと髪の毛に似た色の翼を動かしている。稔が物珍しさからじっとそれを見ていると、その存在はサービス精神旺盛なのか、はたまた恥ずかしさを紛らわすためか、ニコッと笑みを浮かべてその場で一回転した。
「お前は誰だ?」
その言葉はもちろん稔だけが言える台詞ではない。だが、その中性的な顔立ちをした存在は、聞き返さず、問いに答えた。
「落ち着いてくれ。ボクはレアだ。キミは?」
レアは目を輝かせて少しずつ稔の方向へ近づいていく。鼻に漂う劣情を誘う芳香を嗅ぎ続けては大変なことになると察して、彼は気持ちを落ち着かせるとすぐに名乗った。
「俺は夜城稔だ」
「ミノル。うん、いい名前だね」
「ありがとう。ところで、レアの性別はどっちだ?」
「ボクはこういう一人称だけど、れっきとした女さ」
「そうか」
「ところでキミ。突然だが、トランプをしてみないかい?」
「え?」
レアは笑顔を見せてトランプを出した。少々唐突な展開ではあるが、この眼の前のレアなる女をどうにかして言い包めない限りは先に進めないと思って、仕方ない精神で参加することにする。
彼女が提示したのは至って普通のトランプカードだった。計五枚で、スペードのエース、ダイヤのエース、ハートのエース、クラブのエース、それに赤ピエロ――もとい、赤のジョーカー。変な工作をしていないことを示した後で、レアは言った。
「ボクがこれからこのカードをシャッフルする。キミは、好きなカードを二枚引くんだ」
「わかった」
「これで成功すれば、キミは天国でウハウハ出来るよ」
「天国でウハウハ? ここ天国じゃないのか?」
「天国ではないね」
ゼロ回答をうけてさらに質問が飛ぶ。
「じゃあ、この世界は何なんだ?」
「ここは真っ白な部屋だよ。艦船の上の、真っ白な部屋」
「どういうことだ?」
「難しい話になるけど、説明させてもらっていいかな?」
「ああ。丁寧な説明が欲しい」
レアは一度大きく深呼吸して説明に入った。
「ここは、『マドーロム』という世界の上空二万メートルを走行する空中空母『ノート』さ。この部屋はその艦船の一室で、私の部屋なんだ。何もかもを想像できる真っ白な部屋だから、『空白世界』って別名もある」
「空白世界?」
「ああ」
レアは誇らしげに言った。そして、意味不明なことを話す。
「この真っ白な世界を君は何色に染めるんだろうね。紅か蒼か碧か輝か闇か――。考えるだけでゾクゾクするよ」
恐らく今のは独り言だろうと思って、少し戻って質問を続ける。
「『マドーロム』っていうのはなんだ?」
「悪いけど、ボクの口からそれは言えないね」
「なぜだ?」
少し強い声で、稔は言った。
「だけど、トランプは引いてもらえないかな?」
「拒否したら?」
「キミを去勢する」
「なっ――」
稔はそれはもう嫌としか言えなかった。男として、シンボルが消えてしまうのは御免であった。まだ『童貞』だというのに、まだ子供の顔も孫の顔も見ていないというのに、それは避けて通りたいところであった。
「さあ、どうする?」
レアはクスッと笑みを浮かべる。稔は自分としての答えを導く以前に、有る者と無い者では前提とするところが違うために響く言葉や抱く感想に差があるのだなあとつくづく思った。
「ボクだってキミの汚いモノを見たい訳じゃないんだ。だから、選んでくれないかな?」
レアの冷たい声は稔を戦慄させるには十分すぎた。男と比べれば女の声は高いものであるが、女が低い声で何か言うと非常に怖い。いよいよ何をされるかわからないという感じが強まって、稔は急いで回答を口にする。
「分かった。トランプを引くよ」
怖い者には無抵抗。生きてきた中で稔はそう教わっていた。
「ありがとう、ミノル。キミはとても素晴らしい観察力の持ち主だ。マドーロムで冒険するのに必要な物を多く持っているような気がするよ」
「冒険?」
「悪い。それは忘れてくれ」
「そうか」
稔は、去勢されてしまう可能性が拭えないということもあり、「忘れろ」というレアの言葉に逆らうような真似はしなかった。
「ちょっと待ってくれ、ミノル」
稔がそんなことを考えてため息を付いている裏で、レアはそう言って丁寧に五枚のカードを裏向きにしてシャッフルしていた。そして、用意が付いたようで稔がため息を付かなくなると同時に、レアがため息を付いた。
「それじゃ、ミノル。ここから二枚カードを引いて欲しい」
レアがそう言った直後、稔は深呼吸をして目を閉じた。
「ミノル、君はボクとキスでもしたいのかい?」
「茶化さないでくれ」
「……悪かったね」
謝ることを知らないわけではないようだ。
「じゃあ、気を取り直して。さあ、選んでくれ」
理不尽なことを言ってくる輩ではないと分かって稔の緊張も少しだけ解れる。
「これと、これで」
「分かったよ。これとこれだね」
レアは青年の手に触れて選んだカードに相違が無いか確認した。稔が大きく首を上下に振るとすぐに裏返っているトランプを表に返し、先に自分が見た後で「目を開けてくれ」と声をかけて柄を示す。
「ダイヤのエースとクラブのエースか。じゃあ、キミをこの世界の何処かに飛ばすね?」
「は?」
「まあ、キミが何処に飛ばされるのか、神であるボクには見えているんだけどね」
「ちょっと待て。飛ばされるってどういうことだよ。つか、神って、レアは神なのか?」
「何を驚く。ボクはこの世界を創りだした神の子孫さ」
驚くも何も説明してないじゃん。そう稔は思ったが、あえて口に出すことはしない。
「もしかして、ミノルの世界では神は実在しないかったのかい?」
「ああ」
「そうか」
「ちょ――」
レアは稔の返答に冷たく反応すると、その刹那、魔力で彼の体を浮かせた。自分の意志で身動きが取れない状況におどおどしている稔をよそに、金髪少女は髪の毛をなびかせながら低いトーンで続ける。
「ボクはこの世界を支配する神で、この世界はボクの母親であるガイアが創りだした。カオスが支配していた全世界が、いつのまにかガイアの支配する世界に変わっていったんだ」
「おい! レア、お前、俺をどこへ飛ばす気――」
体が空中空母ノートよりも上の位置に放り出され、ただでさえ現実世界で死んだかもしれないというのにこの世界に来てまた死ぬのは御免だ、と稔は様々な質問を投げる。だが、レアは無視を決め込んで自分語りだけを行った。
「ボクは、創世の地母神である『ガイア』が創りだしたこの世界の全てを握っているわけじゃない。けれど、いつかボクがこの世界のすべてを支配すると心に決めた」
レアは呼吸を整えて続ける。
「神族も、魔族も、人族も、妖族も、隷族も、今はなき龍族も。そしてキミをも――」
「自分語りをやめて質問に答え――ひっ!」
稔は眼下に広がる大地を見てしまった。もはや自分の足は地に付く場所にない。
「この世界の全ての神になるこのボクを止められるのは、キミのような異世界からの入植者――いや、冒険者のみだ」
「おい馬鹿、やめろ!」
しかし、稔の叫びは届かなかった。
「――キミはこの世界の悲しき真実を知った時、恐らくボクへの復讐を誓うだろう。けれどボクは君に殺されるほど弱くない」
「やめ――」
その言葉が稔の耳に届いた刹那、彼の体は急降下を始めた。レアが語った言葉のすべてを理解できぬまま、トランプの意味する言葉の意味を理解できぬまま、状況に流されて飛ばされていく。保たれていた酸素は上空二万メートル準拠のものに切り替わり、呼吸は不可能に近くなる。
あまりの寒さに体の機能が停止する寸前まで追い詰められたほか、あまりの強風に顔がめちゃくちゃになったが、降下するスピードは息絶えるそれよりもわずかに早く、なんとか新鮮な空気にありつくことができた。荒げた息を少しずつ落ち着かせる中で、レアがしていた自分語りの内容を思い返す。
(君に殺されるほど弱くない、か。いいなそれ、乗ってやろうじゃねえか。俺がレアを倒す事、お前が倒されるのを望んでいるのなら――)
眼下に広がる光景さえ見なければ、これから始まるであろう異世界での冒険譚に胸を高鳴らせるのは容易だった。しかしながら、死の恐怖は残っている。
「死にたくない!」
稔は強制降下を止める方法を知らなかった。どんどん勢いづいていく自分の体は、刻々と衝突先の森林地帯に近づいている。ただ叫んで助けを求めることだけが、彼に残された唯一の選択肢だった。しかし、どれだけ強い思いを抱いても、助けの手は訪れてくれない。
「この世界でも死ぬのか! 出落ちで死ぬとかどんなゲームだよ!」
稔はついに現実逃避を始めた。キレ芸で心を落ち着かせようとするが、迫りくる恐怖が強すぎて冷静になることなど出来ない。
「誰か助けてくれ! 頼む! 頼むから!」
稔はもう絶叫することしかできなかった。
「嫌だァァァァ!」
最悪の事態を想像し、歯を食いしばる。今までに感じたことのないような衝撃が全身に伝わって、向こうの世界で見た電車に轢かれた少女のような木端微塵の死体になるに違いないとしか思えなかった。
「いだっ――ん?」
稔の頭の中は混乱状態で思わず痛みの表現を先走り、目も瞑って、迫りくる恐怖に耐えようとしているうちに体が防御一辺倒に機能するようになる。だが、予想していたような大きな衝撃はなかった。冷静になって周りを見渡してみると、地上まで二メートルくらいのところで浮いているのがわかる。
「あ……」
稔が正常な意識を取り戻したところで謎の力が働いて、体がゆっくりと地面に向かって高度を落としていく。そして、彼は死ぬこと無しに異世界の足を踏むことができた。