3-7 ラーメン店と駅の地下
だが、歩き出した束の間だった。稔は左肩をトントンと叩かれてしまったのである。振り返ってみれば、そこに居たのは店長。「瞬間移動でもしたのか?」と思うくらいのスピードで厨房から稔の居た喫煙席付近に飛んでくると、笑顔のままに言った。もちろん、その『笑顔』というのは怖い意味での話だ。
「――代金の御支払い、済んでいませんが?」
「……」
低い声のトーンで、店長は笑みを浮かばせながら話す。笑顔は絶え間なく続いており、稔は内心で多少の恐怖心を抱いていた。けれど、稔がマドーロムに来てから成長したのも確かな話だ。チキンと馬鹿にされる要素は未だに残っているとはいえ、既に頼れるリーダーとして自分の立場を理解していた。笑顔という霧を割くように、彼は話す。
「幾らの支払いですか?」
「一〇〇〇レイトです」
「フィクスの変換すると、金額的にはどれぐらいですかね?」
「一三〇〇フィクスでしょうか」
誰が金額を操作しているのかは目に見えていた。そう、何と言っても金額をプラスしていたのである。稔はそれを頼んだ女に対して冷淡な視線を向ける。だが一方、「『+500』なんて文字を見て見ぬふりをしたバチが当たったのか……」とも自分を責め、稔は酷く落胆した。
「(アニタが支払う約束だし、まあいいか)」
稔はそう思い、落胆から一変して安堵する。アニタと稔は、主人同士が召使の分も支払おうという口約束を交わしていたのだ。ラクトに金銭の管理は一任させている以上、彼女が居る限りは金額的な問題は浮上していない稔サイド。一方でアニタサイドはどうなるのかなんて考えても居なかった。
「すみません。一二〇〇フィクスって全員含めてですよね? 醤油の並盛二つは何フィクスですか?」
「四三〇フィクスになります」
「意外と安いな……」
稔の近所のラーメン屋であれば、その金額は一人前と言っても過言ではなかった。何か裏があるのではないかと稔は疑いの目を店長に向けるが、直後にラクトが彼の耳元でこう話した。
「(このお店、ネット通販で儲けているみたいだよ。そっちは二倍で届けてるんだとか)」
悪徳な業者という訳では有るまい。ネット通販といえば『送料』という言葉が存在するのだ。現実に存在する店舗での販売金額が平均二〇〇フィクスということは、即ち自販機で販売されている飲料より少し割高程度である。ネットで二倍の値段+送料で稼ごうが、赤字経営なのかと心配せざるを得ない。
「釣り、要りません」
稔は言い、五〇〇フィクス硬貨を店長に渡した。一方でレシートに関しては欲しくあり、その旨を告げようとする。だが、店長は稔の思っていたとおりの『赤字経営』という店の事情を話すとその場で号泣した。強情な感じの店長が泣いたのだ。店員のリリス含め、笑みに怯えていた全員が号泣した店長に驚いてしまった。
「ありがとう、ございます。レシートのお返しです……」
涙ぐみながら店長が渡したレシートには、感謝の文字が綴られていた。僅か数秒で二〇〇文字も綴られたから魔法を用いたのかと思ったが、バーコードで読み取って文字を表示させる既存の機能を活かしただけだと思い、特にそれといった質問をすることはなかった。
「八七〇フィクスですか、分かりました」
自分が食べたラーメンの金額が大きく響いているとアニタは感じたが、それは自分の責任である。誰に押し付けるわけでもなく、彼女は持っていた財布から札を一つ取り出して提示した。アニタは出身地を明かしていなかったが、エルフィリアの紙幣を持っているということもあってエルフィリア人の可能性が高くなる。けれど、それは本人が言った話ではあるまい。稔はあくまで参考程度に留めておいた。
「お釣りは……」
「要りませんよ。ピンチのお店を少しでも救ってあげたいので」
「ありがとうございます」
店長はまた文字を綴らせたレシートを手渡した。添えて出された釣り銭はゼロである。先程よりも文字数の増えた文章が書かれていたが、やはり言うことはない。特に何を思うこともなく、稔は早めに支払い作業を終わらせようとしてラクトを連れて移動し始めた。
「待ってください」
レシートを財布の中に仕舞うと、アニタはそう言って早足で稔とラクトを追った。既にリリスは扉の前に居り、稔とラクトも近くまで来ていた。自分が一番遅いと自覚して二人を追い越す勢いでリリスの居る方向へアニタは足を進めていった。
合流した後、直後にアニタがベルゼブブを魔法陣の中へ戻した。人数が多すぎるのも厄介ということである。しかし、それは稔も同意だった。ラクトで精一杯という訳ではないのだが、確かに厄介なのである。
召使との交流を深めたい気持ちは確かに存在するのだが、増えると比例して責任を負う量も増えるため、中々魔法陣や精霊魂石から出す機会が無くなってしまうのだ。もっとも、そこらは稔も考えがあった。それが『放任』である。難しいように聞こえるが、好きなときに魔法陣から出させるという簡単な話だ。もちろん、主人の呼び出しには応じてもらうが。
「それで、風俗街へはどうやって行くの?」
「おいおい、人が歩いているかもしれない場所で言うなよ」
駅は確かに閑散としていたが、かと言って汚い言葉を言って良いというのは話が違う。けれども、稔はラクトの前世を思い出して頷いた。昼間から風俗という言葉を簡単に言ってしまうのは、低年齢でその職に就いたが故の結果ということにしたのである。
「駅の地下から通路を抜けて風俗街へ行くだけの話。昔と線対称の場所かな」
「なるほど……」
臨時政府が置かれている旧風俗街の線対称ということで、ラクトはどの辺りに有るのか察しがついた。一方で稔は、エルダレアの現状を知ったとはいえ未だに土地勘無しだったから珍紛漢紛だ。アニタは稔よりも土地を理解していなかったけれど、必死に話についていこうとする姿勢を見せていた。取材しなければいけないのだし、当然である。
「ところでさ、地下街ってどの辺りだっけ?」
「会社の寮で暮らしてたもんなあ、ラクトは。それじゃ駅になんて来ないだろうから知らなくて当然か」
「馬鹿にしてんの?」
「してないから」
笑顔を見せるリリスと、言葉とは正反対に怒っているように見えないラクト、それに必死についていこうとするアニタ。稔は話に参加できない立場だが、ラクトが誰かと話しているからといって変に嫉妬することはなかった。かつての上司と楽しく会話しているのだし、それこそ同性。心配する必要は皆無に等しいだろう。
ラクトとリリスが雑談を交えて先へ先へと進み、その後ろでアニタが頷きながら話を理解する。そんな状況が続いていく中、ずば抜けてロパンリの風俗街へ続く道を知っている女が立ち止まった。
「ここから地下に降りる」
「結構急な階段だな……」
稔がコメントを述べると、ラクトは「そうだね」と彼の意見と同じ事を思ったと言う。一方でリリスは二人の意見に耳を貸すことはなく、他の三人を先導する者として前へ前へと歩んでいった。特に薄暗いわけではないが、階段は何処か気味が悪い。でもそれは単純な話で、昼間の時間から人々が行き交っていないのが原因である。
「まあ、私も久しぶりに使うんだけどさ」
三十路のピンク髪のババアと共に階段を降りていくと、そこには地下街が広がっていた。デパ地下に近い構成だが、いまいち繁盛している訳では無さそうだ。店員も戦争から恐怖を感じており、笑顔を見せている訳ではない。臨時政府が置かれた以上、真っ先に狙われる民だと見限っているのである。
「戦争の被害は深刻なんだな」
「そうだね。けどさ、人間が戦争を起こすのは人口を抑制するためなんだ。劣等者を殺し、優秀者を生かすだけの簡単な話。経済にしろ、武力行使にしろ、魔法を用いるにしても。――それが世界の常識なんだよ」
リリスが稔の言葉に対して言った。平和を訴える者からしたら発狂してしまう可能性しか無い台詞だ。でも、稔はそれを一理ある話だと受け止めた。人口が増えすぎたところで食糧危機が起こるだけだ。意見の食い違いで政策も思うように進まない。人口を多く抱えれば消耗戦では有利だろうが、それは食糧ありきの話。主人になれる者は即ち『動物』であり、食い物がなければ生きていけないのだ。
「でも、その『優秀』ってのは『ずる賢い』って意味だろ?」
「そうだね。司令部――要は上層部だけが生き残れる」
部下は部下、上司は上司なのだ。上に立つものが下を支配している構造は今も昔も変わっていない。下が上を選ぶ構造が少し参入してきただけで、結局は下の全員が上に従順しなければならないのだ。だからこそずる賢い者が生きれる。押し付けられた責任を誰かに押し付ける勇気のある者こそが生きれるのだ。
「もちろん、日常的にずる賢い最低な姿を見せていたら立場が危うくなるけどね」
「そう考えると、二面性の人間が最強なのかもな」
「コントロール出来れば最強だと思うよ。顔をたくさん持ったに越したことはないし」
リリスは三十路のババアとしての経験談を交える。しかし彼女は足を止めること無く進んでいた。地下に広がる夜の店が連なっているわけではない場所を通り、リリスに先導されてついてきた稔たちは照明が少なくなってきた場所へと到達する。所要時間は僅か一分だ。――と、その時である。
「ここは……」
照明が少なくなってきたところから更に進んで来たところで、稔が目の前に見た光景に驚いて声を上げてしまった。それは別にリリスに向けた質問ではない。だが、彼女はそれを質問だと捉えて答を話した。
「風俗街への入口ってところかな」
「入口がトイレってどういうことだよ!」
稔の言ったとおりであった。目の前に見た光景はトイレである。左に女性用が、右に男性用が有るわけだが、目の前は多目的トイレである。即ち行き止まりなのだ。だから何処か不吉な予感を覚えてしまう稔。そして、それは即座にフラグとして回収されてしまった。
「まあ、ここも風俗街の一角だしね。何に使うかはご想像にお任せってところだけど」
「おう、一〇代男子の妄想力ナメんな」
リリスが言おうとしないのは、つまりそういうことである。けれど、そんなお茶の濁し方で稔が引くはずがなかった。何故ならば、行き止まりに連れて来られたということは「謎しか残らない」ことと同義なのだ。彼はここから風俗街へ行く道順がどうなっているのか聞きたくなる。
「女子トイレを店員が、男子トイレを利用者が通る」
トイレという事で行き止まりだという訳ではないらしい。道が続いていることを知り、ラクトは即座に男装を開始した。三〇分にも満たないうちに着替えることになったが、衣服なんて簡単に作れる彼女からすれば然程の問題はない。ミディアムヘアーで結ぶ髪の毛が無いように見えるラクトだが、ほんの少しだけ髪の毛を結んでいた。胸にはサラシを投入し、その豊満な胸を隠している。
「スーツで風俗に入店する人って……」
「まあいいじゃん。てか、普通の服だと男装しづらい体型なんだし、これくらい許してよ」
「着るなとは言ってないって」
ラクトは「そう」と最後に言い、それでリリスとの会話を終わらせた。その一方、男子トイレを通らなければ風俗街へ迎えない事実を知ったアニタは猛抗議に出る。
「女子トイレから行きましょうよ! 私、男子トイレなんか入りたくないですって!」
「私を失禁させたのは誰かなぁ……。罪を償ってもらいたい気持ちが無いわけじゃないんだよ?」
リリスが言葉で押し返し、結局はアニタが男子トイレを通ることになって会話が収束した。
「でもさ、アニタって髪型変えればいけるよね」
「そうですか?」
「『隠れ』なら問題無いさ。――自己主張が激しいと大変なんだぞ」
男装経験がアニタは無いようで、自分に素質が有るのか引っ掛かりを感じてしまう。しかし、経験する事は悪いことではないと考えていたから男装に踏み切ることが出来た。彼女が着ていた服が質素なものであったことも相まって、サラシを入れて髪の毛を縛るだけですぐに男装アニタが完成した。
「これが……私?」
ラクトは男装作業を終了させると続けて鏡を作り出し、そこにアニタを映した。見えたのは自分とは思えないような豹変っぷりのイケメンだ。しかしラクトはそれで留まれず、知的なイケメンに仕上げようということで、眼鏡を追加で作って掛けてもらうことにした。
「こんなイケメンが風俗を利用するとは思わないけど、まあいいや」
「さり気ない自慢すんな」
ラクトがアニタを褒めるようで自分を褒めるようなことを言うと、稔がそう言って野次を飛ばした。そんなこんなで四人中二人が男性の容姿となり、リリスは三十路だから男子トイレに入ることに違和感がないと謎の告白をし、風俗街へと歩む足は再び前へと進んだ。だが、男子トイレに入って風俗街へ続いているような場所は見当たらなかった。
「当然だよ。だって、男子トイレから風俗街へ続く道は――」
リリスはそう言い、他の三名を連れて一番奥の個室へと向かった。個室は全部で三つあって、全て鍵が掛けられていない。だが、一番奥の個室からで無いと行けないそうだ。そしてリリスが居る場所に三人が到着すると、扉を開けてその理由を説明した。
「ワープ……だと?」
そこにあったのは便器ではない。ワープゾーンだ。
「んじゃ。行こうか、風俗街へ」
「ちょっ……」
何が起こっているのか稔は把握出来ていなかった。それは彼だけではない。ラクトもアニタも同じである。けれど、リリスはそんな二人のことは見向きもしないで話を進ませた。四人全員がワープゾーンの地を踏んだ事を確認し、彼女は言う。
「ワープ!」




