3-6 アニタの教育事情
頼んだ量が人よりも多かったことも原因の一つだが、アニタが食べ終わったのは昼の一時少し前だった。稔やラクトは既に完食済みであり、ベルゼブブに至っては五〇分台に入る前に完食していた。無論、銀髪ロリの彼女は頼んだ量も少ない。大食いという訳ではないだろうが、誰からも食事妨害を加えられていないのだ。誰よりも速く食べ終わって当然であろう。
「さて、風俗街へ行きますか」
「昼から盛んだねえ」
全員食べ終わったのを確認し、稔は女衆四人の先導係のような役職を背負った。エロ用語に耐久がありそうにしか見えないリリスやラクトも居たが、アニタやベルゼブブに話が振られたら話が行き詰まるのは目に見えている。そうさせないため、だからこそ稔は自分から言ったのである。そして、狙った通りにリリスが稔を馬鹿にした。
「けどよ、ラクトは良いのか? 自分の服貸し出しちゃって」
「物体変化に関しては、あまりに固い物とか大きい物でない限り対応してるんだし、そんな心配するなって」
「ならいいけど……」
稔が言ったように、ラクトはリリスに自身の服を貸し出していた。否、服だけではない。流石に下着を貸し出すのは躊躇った彼女だが、リリスが「温かみが癖になった」と謎の告白をしたのでスカートも貸していた。『三十路のババア』と罵ることも可能なリリスだが、着こなしは結構なものである。ピンク色の髪の毛に青色パーカーのフードを被せ、ポケットの中に手を突っ込んでいた。
その一方、ラクトは足の露出度が高めな衣服に着替えていた。久しぶりに聞いた『風俗街』という言葉で目覚めたのである。スカートはホットパンツに変更し、けれどパーカーに色以外で変更の様子は見られなかった。ニーソックスはそのままだが、稔の脳内を探ってヒットした『絶対領域』を意識したようで、先程より上まで肌の色が見えなくなっていた。
「視姦すんな」
「してないから!」
とはいうものの、やはりホットパンツに目線を奪われるのは男子たるもの仕方がなかった。もちろんながらラクトは既に稔の内心を読み終えており、『視姦すんな』というのも弄りとしてやったに過ぎない。権限の強さ的には稔に逆らうべきではないラクトだが、そういった本能的な部分で稔がラクトに勝つのは大変むずかしい話だった。
そして、茶を濁すように稔はリリスに話を持ち掛ける。
「リリス。じゃあ、お前が知ってるっていう風俗街へ案内してくれないか?」
「別に良いんだけど、地下だから一切の換気をしてないからなぁ。臭いが充満してるかも」
「マジかよ」
稔は彼女が言った『臭い』が何を指し示しているのかは即時に分かった。アニタとベルゼブブはその方面は特に詳しくないようで首を傾げていたが、先導するピンク髪にラクトと稔は全員一致で躊躇いを感じていた。ラクトに至っては今から鼻を摘んでいる。
「いやいや、まだ店の中だし。なんで既につまんでるんだよ?」
「嗅ぐことに関しての機能を一時的に停止できないかなって思ってさ。無理かな?」
「無理だろ」
そう言って否定する稔。だが異臭を嗅ぎたい気持ちは一切無く、ラクトがどうにかして対処しようとしているのに便乗することを決めた。シュッシュッ、といい匂いを飛沫させる商品も脳内に連想されるが、エルダレアにそれが有るとは限らない。そうして考えれば考えるほど更に考えようとするので、アリジゴクに捕まったアリのように先へ進めなかった。
――と、そんな時である。左手を広げて右手でグーを作ると、リリスがポンと手を叩いた。
「どうした?」
「ラクトの魔法でガスマス――」
「作るかっ!」
そんな装備で大丈夫なはずがない。ガスマスク着用で風俗街へ入るなど言語道断と言っても過言ではないし、それこそ単に対抗意識を燃やして突入してきた奇襲部隊にしか見えないだろう。入店時、フロントに居るクラークが腰を抜かしてもおかしくない。店長が出てきて大沙汰になるのは目に見えた話だ。
「でも、そうなると対策は我慢するしか無いじゃん」
「そうだな。でも、俺のバリアで最悪どうにかなるかもしれないけど」
「それでいいじゃん。じゃあ、緊急時は頼むよ」
リリスから背中を叩かれ、稔は頼まれたのだということを認識した。そして、「分かった」と発して全員の鼻を守る事を肝に銘じる。そして一段落話が終わったというところ、後方に居た影の薄い主人と召使の主人の方が稔の右肩を叩いた。振り向き、稔は「どうした?」と要件を聞く。
「『臭い』って何を表してるんですかね、結局」
「アニタ。お前は絶縁体みたいなもんだから、言ったところで信じてもらえない気がするんだが?」
「まあ、大体の検討はついてます。……その、夜の話ですよね?」
「そういうことにしてもらえると助か――」
稔が「アニタの質問から逃げ切れた」と内心で思った矢先だった。主人を嘲弄することに一切の抵抗を持たないラクトがアニタの肩を優しく叩いて振り向かせ、臭いが何を示しているのかを伝えたのである。話された内容は書くに値しないが、ラクトは学術用語を用いて話を進めた。これは、アニタが頭が良い女だと自分を表現した為である。
「そういうことでしたか、稔さん。ところで、参考までに。――あなたはどうなんですか?」
「……は?」
稔は意味不明な事を述べる女だと「おいおい」と言って馬鹿にしようかと思うが、アニタは完全に真剣な眼差しを向けていた。しかしながら要求だけを呑み、自分がどうであるかを白状するのは屈服した感じがする。故に稔の心のなかで葛藤が生まれた。だが、いつのまにやらラクトへの攻撃エネルギーと葛藤は変化していた。
「純粋な女に何てこと吹き込んでるんだよ、お前は!」
「違うよ! 今のは私が聞けって言ったわけじゃなくて、アニタが自分から聞いただけで――」
「……本気で言ってるのか?」
「本気で言ってる」
稔はラクトの言い分をスルーすることはなかったが、聞いてみるとアニタに責任転嫁しているように聞こえなくもなかった。しかし考えてみれば、アニタは否定するための台詞を述べていない。
仮にラクトが「聞いて」と言ったのを必死に否定しているのであれば、自分に悪いことが押し付けられていると主張するものである。しない人も少数ながら居るが、アニタは主張しない人では無いはずだ。事実、自分からラーメンの盛りを増やしていいか問い、それに対しての答をもらってから、許可を得たことだということで実行した。即ち、主張が不可能ではないのである。
「――自分から聞いたのか?」
「私、あまり男性と親しくなったことが無くて……」
「は、はあ……」
稔は返しに困った。ラクトは男性と親しくなったことが無いとはいえ、それでも経験のようなものは積んでいる。一方のアニタは経験を積んでいない処女である。「軽率に処女を手放す女もどうか」と稔は思ったが、一方で「純潔をいつまで経っても守る事がそれほど重要な事なのか?」とも思った。とはいえ、十人十色という言葉が有るのだ。どのように生きようと言ったって、本人の望んだ通りの生き方ならとやかく言う必要は有るまい。
場が重い空気で包まれていきそうになる中、ラクトがそれを打破するように言った。
「いいとこ見せてやれよ、先生」
「アニタを生徒にするってのか? でも、アニタって俺よりも年上な気が――」
「でも、たかが三歳じゃん。年上を服従させるのはいい気味なんじゃない?」
「服従させるつもりはねえよ。俺は主人同士で服従の約束を結ぶ男じゃない。一方的なら歓迎だが」
扱き使える人材が増えることは良いことである。けれど、増えるほどに緊急時に守らなければならない物も者も大きくなる。だからこそ、稔は一方的が良かった。主人と召使の間の契約のような責任が必ず自分に来る契約ではない、回避することが可能な契約『もどき』にしておきたかったのだ。
「なら、稔さん。私の異性に対して臆病なところを教育して下さい」
「本当に臆病なら、恐らく俺に対して話しかけてないと思うし、そもそも会話なんか出来ないと思うよ?」
「それは……」
アニタは自分が何を言いたいのかが明確だったが、稔に指摘された箇所を隠してしまうと明確さが消えてしまった。ラクトに喧嘩を売られたと思って乗ってしまった自分を反省し、自分が論破出来るような理由を作ってはいたのだ。けれど密度が足りていない。そのため、アニタは自身の理由付けを見直すべきだと強く思った。
「まあ、なんだ。教育は既に終わったと思ってるけど、風俗街に行けば男が居るだろう。テストだ」
「テストと言うと、どんな感じの話ですか?」
「自分の好きな主題で取材をするといい。比率は女性より男性の方が多めでな」
「そんなの出来ないですよ! それに、風俗街なんて男性客しか居ないじゃないですか。怖いです……」
稔は深くため息を付いた。
「教育して欲しいって要望だしたのはお前だろ。何を今更」
「ですが、私は取材をする職業に就いているわけではないですし……」
「そんなの関係ない」
稔はアニタに考えを改めるように要望を貰ったが、彼は「それは出来ない」と意見をきっぱりと断った。そして、意外にも稔の判断はアニタの召使にも高評価らしい。ベルゼブブは「英断だ」と稔を講評していた。
「男性客が多いって話をしてくれたが、風俗に行くから犯罪をするってのは偏見でしか無いと思うぞ? それに、緊急時は俺が助けに行く。万一の時は俺の名を叫べ」
「叫ぶなんて恥ずかしいですよ!」
アニタは稔の言っていることには賛同できない箇所が複数点存在しているようで、色々なところで抵抗を見せる。だが、恥ずかしさに関しては稔が返したボールが相当強い威力を持っていたらしい。
「だろうな。だってお前、典型的な『原稿書けるけど発表出来ない系無口女子』じゃん。役職に仮に就いたところで知名度の欠片もない、そういう奴だろ?」
「……」
トラウマという訳では有るまい。だが、言っていることは一切の間違いではなかった。勉強をしていく上で、エルフィリアでは学校がないがエルダレアには該当する施設が存在する。その組織の中でアニタは、生徒会の上層部でも最上級に値する役職に就いたことが有った。俗にいう『生徒会長』である。
けれどその時、同学年の生徒と話していたのは世間話ではなかった。逆に「今日の仕事は?」など、社畜と疑って欲しそうな声しか聞けなかったのだ。原稿と発表の関係についても同義で、発表はいつも億劫だった。
「アニタ。椅子に座ってるだけで全てが解決するなんてあり得ない。勉強ばかりに目が行きがちだが、座ってるといえば障害を抱えた人だってそうだろ?」
車椅子に乗っている人は機敏に動くことが出来る人だっているが、重度なら不可能に近づいていく。寝たきりになれば一人で動くのは難儀以外の何物でもないから、当然ながら介護を要する――。稔はそんなことを提示して話を進め、アニタが頷いているのを確認して続けてこう話した。
「世界が共存で成り立っている以上、それは仕方ないんだ。考えを改めろ」
「分かりました。期待に応えられないかもしれませんが、ご了承願い下さい」
「構わねえよ。お前が一生懸命が頑張ってるなら、俺はそれを応援する」
「ありがとうございます。……それと、万一の時は助けて下さいね?」
アニタの最終確認を聞くと、稔は一回頷いてから笑顔を見せた。そして、「ああ」と言って呑んだことを表現する。遅延させていた話を稔とアニタが綺麗に丸くまとまらせた後、風俗街へ先導する準備が整った事をリリスに話すと、彼女は咳払いして「忘れてませんでしたよ」アピールの後に言った。
「さあ、風俗街へ出発だ! 臨時政府へ攻め込む準備をするぞー!」
「オーッ!」
リリスの声を聞き、稔ら残り四人も声を合わせて恒例の言葉を続けていった。それと同時、駅構内に設置されていた時計から一時を表すチャイムが鳴った。学校なのかと思ったりするが、ロパンリ駅は街の玄関口だ。戦時中だから利用客数が少ないのは当然。なれば、チャイムが鳴るのに抵抗は無い。
「……でも、昼から開いてるのかな?」
ラクトの発言によって場の空気は一瞬で変わり、希望が一瞬にして薄れてしまったが、既に決まった話である。店長に協力をしてもらったことも大きく影響し、地下の風俗街へ足を踏み込まない訳には行かなかった。
「ま、まあ、気にせずに行こう!」
空気を乱した張本人の言葉の後、五人は歩き始めた。




