2-75 二精霊の浴衣姿
稔とラクトはイステルが自分たちの逆方向へと前足を踏み出したことを確認した後、何かを躊躇う様子も照れる様子もなく、そのまま脱衣所の棚の籠の中、自分らが着ていた下着やら服やらを着ていく。二人とも近くで着替えているわけではない為、互いに鼻歌交じりに着替えるなど呑気で陽気だった。
稔は着ていた下着を再び着ることに若干の抵抗を感じたが、かといって何も着ないで部屋まで戻れるような立場ではない。そういったこともあり、召使全員が主人の束縛から開放されるのを願いつつも、裸で場所を移動できるのは羨ましいような感じもした。
「さてと。……牛乳とかは置いていないようだな」
風呂あがりに牛乳を飲むのは日本の一種の大衆文化であるが、稔は言いながら辺りを見渡して無いことを把握した。自販機に入っているわけでもあるまい。別に飲めなくても然程の問題は無いが、風呂あがりに水やお茶などのシンプルな飲料を摂取しておきたいところだ。
そんな時、稔の背後から抱きついてきた一人の女。彼女は耳元で台詞を吐き捨てて呟いた。
「牛乳飲むくらいなら、私を使えばいいのに」
「こいつは一体、何を言っているんだ?」
ラクトに限りなく近い――というか本人だ。赤髪を揺らしながら抱きついてくれるくらいの関係は、敬語を使って主人と召使の立場を明確にするよりも好感が持てた。とはいえ、何も言わなければ制限が無くなっていくのがラクトである。ブレーキを掛けることは容易いことでは無い彼女の特徴を理解し、稔はため息混じりに言う。
「一七歳の母親って、不良男の嫁かよ。それに俺、そういう趣味は無いからな?」
「ネタにマジレスとか格好悪いと思う」
「馬鹿め。これは『ネタ』に対して『マジレスに限りなく近いネタ』を返しただけだ。――見抜けないとはまだまだだな、朱夜よ」
稔は勝ち誇ったように大きな態度を見せる。胸の下で手を組んでドヤ顔を見せ、次第に手を左右両方に広げていって『支配者のポーズ』へと移り変わっていく。彼の顔に浮かぶのは、「フハハハ」というラスボスキャラクターがいかにも使いそうな台詞を連想できるくらいの表情である。
「それで、牛乳が飲みたいの? へ、変な意味は含んでないからね?」
「言わなくても分かってるよ、バーカ。……で、牛乳が置いてある自販機なんか有るのか?」
「有るよ。紙パックの中に入った『コーヒー牛乳』は名物らしい」
「へえ」
ラクトは根拠を引っ張り出してこなかったが、示せと言われればすぐに示せる場所にある。イラスト入りのポスターが脱衣所の壁に貼られており、それを見て「名物なのか」と彼女は思った。それと同じく稔の心を読んで水分を摂取したがっていた事を理解し、少しネタを挟んで本題へ持ってきたというところだ。
「それでですね。悪いんだけど、トイレに行かせてもらえないかな?」
「コーヒー飲んだからトイレが近くなったのか?」
「そうだと思う。とりあえず硬貨渡しておくから、私の分は稔と同じやつね!」
「雑用係か!」
召使に扱き使われる哀れな主人、稔。だが彼は逆らおうとしなかった。口では「やめてくれよ」と言っているが、内心では「分かりました」と言っているのである。それはラクトのヒモとして使われているかのようだ。――が、何度も言う。稔は『主人』であって『召使』ではない。つまりは「ラクトが異常」なのだ。
そういった『異常』を『個性』として許すのもまた、稔の特徴である。だからこそ馬鹿にされるのだと言えなくもないが、既に高校へ進学して同年代の女子にも男子にも貶されているのは確かだったから、それくらいは気にしない。それは「気持ち悪い」と心底から言われているわけではないことが大きかった。
「取り敢えず、コーヒー牛乳を購入するかね」
稔は既に着替え終わっていたから、何の躊躇いも無しに脱衣所を出た。ラクトがトイレへと駆けて向かったことを考えてみても、彼が待機していて良いことが起こるとは考え難い。棚ばかりで自販機もショーケースも無いのだから、商品を購入したりするコーナーが脱衣所に有るはずがないだろう。
歩幅は気にせず、ごくごく普通の歩き方で外へと出る。髪は十二分に水を飛ばしたはずだが、自然乾燥だけでは駄目だったようだ。髪をワシャワシャとしてみたとき、多少水滴が手に付着していた。
「なんかこの格好、部活帰りみたいな気もしなくねえな」
稔はそんなことを思いながら自販機を探す。使用したタオルは首に掛け、手を拭いて髪の毛も拭いておく。廊下を歩いている時に飛沫を飛ばすのは論外だからと、早急の対策を急ごうとした結果だ。モワモワと温かな蒸気が出ているわけではなく、飛ばすのは問題なかった。
「自販機は――ああ、あそこか」
稔は上から吊り下げられている案内板を見ながら、廊下を歩いて進んでいった。トイレがある方向と同じ場所に有る自販機が置かれていた場所は、トイレに行くより少し手前くらいである。けれど廊下に自販機の本体を見せているわけではなくて、部屋のような中に多数の自販機が置いてある形式だ。
「そういやあいつ、コーヒー牛乳が名物とか言ってたくせに『買え』と言ってなかった気が」
日頃の鬱憤を晴らそうとラクトに子供が飲むような飲料を手渡そうかと思ったが、稔は行わなかった。名物を美味しく二人で飲めばそれでいいじゃん、と天使の心が稔の悪魔の心を戦闘不能にしたのである。
「五〇〇フィクスっすか」
一フィクスは日本円で一円。即ち、彼女から手渡された金額は五〇〇円である。エルフィリアの公用語が話せない人であっても分かるように、表面には勿論のことだが『500』と書かれていた。一方で後ろを見てみると、硬貨にはサクラが描かれていたる。この国の国花であるが、五〇〇円だけに五個描かれていた。
稔は五〇〇フィクスを握りしめ、自販機コーナーへと入る。
「こ、これは――」
入った刹那だ。稔は首を左右に振って、それ以上の言葉が出ないほどに絶句してしまった。握りしめた五〇〇フィクスで本当に購入できるのか不安になりそうなくらいだ。ブルーライトに照らされている自販機は一切の音を出していないが、言い換えれば『静寂の夜』を映し出しているようで感に堪えない。
自販機の数は二桁の大台の一歩手前の数だけ置かれていた。飲料を供給しているメーカーや設置してある自販機を管理しているメーカーが違うらしく、塗装も赤や青や白と色のバリエーションが豊かだ。展示されているサンプル飲料の下に『冷たい』とか『寒い』とか書かれている訳だが、コーナー内の自販機は九割方が『冷たい』だった。
「流石は風呂の近くにある自販機コーナーだけは有るな……」
メーカーが冷たい飲料を大量に置いている理由を考える稔だが、そんなことをしている暇はない。既に時刻は深夜一二時を過ぎており、精霊たちを着替えさせたら後は寝るだけだ。短いなんて言えそうにもない一日が終わりを告げる。コーヒーを飲む価値を考えてみたが、浮かんだのは一つしか無かった。
「快適な寝起きの為に飲むのもありだな」
稔は言いながら紙パックの飲料が販売されているという自販機を探す。九つの自販機があるのだから、容易く面倒と感じること無しに見つけられると思ったのだが――見つからない。あるのは『コーヒー牛乳』ではなくて、『カフェオレ』か『濃厚生クリーム』とかの謳い文句だけだ。
稔は「なんで無いのかな」と嘆息をする。頬を膨らまし、怒るわけではないけれど考える様子を見せた。そんな時、後ろの方で腹を抱えて大笑いする人を一人見つけた稔。紛れも無い、それはラクトだ。稔に「何が面白いんだ?」と聞かれたが、「ごめんごめん」と謝った上で彼女は話を始めた。
「名物なのに自販機で探すって馬鹿か」
「……」
ラクトの言葉が稔の心を突き刺す。だが、彼女の言い分を否めるための根拠は手元にない。反論不能、既に話の主導権は稔に無かった。落ち込むことはなかった稔だが、調子に乗っているように見えて言っていることが間違っていないラクトに対しては、少しばかし悔しさを持つ。
「ほら。取り敢えず、それを探しに行くよ」
「探す……のか?」
「ああ、言葉を間違えた。レンタルコーナーが六階に在ったわけだけど、あれよりも広い大きさのお店が一階にあるんだよ。おみやげコーナーって言ったほうがいいのかな。そんな感じの」
「そうなのか。でも一階へ下りるのなら、ティアとエルジクスに浴衣を着せてからの方が良くないか?」
稔はラクトに提案すると、彼女も真剣そうに考える表情を浮かべた。少々頷いた後、「そういう意見もあるか」というふうな感じで聞き取っている。――が、それはすぐに『煽りの神』としての本領発揮用エネルギーと化した。クスッ、と笑みを浮かべてラクトは言う。
「もしかして、『誰にも邪魔されない二人きり』を狙ってるの?」
「裸で陣の中に長居させるのもマズイだろってことだよ。裸で居るのは俺でも嫌だし、寒いと困るしな」
「寒くは無いと思うけど――。結局、六〇五号室に戻ることは最優先事項ってことは揺るがないの?」
「ああ。……ということで、唐突だが」
稔が手を差し出して僅かの時間しか掛けず、優しくそれに触れるラクト。誰かに言われて意識することは有っても、もはや初々しさの欠片も無く、完全に恋人同士として打ち解け合っていた。そしてお決まりの台詞を言って魔法使用の宣言とし、稔はテレポートを実行する。
「――テレポート、このホテルの六〇五号室へ――!」
六〇五号室に着いてみれば、当然のごとく照明は消されている。もちろん点けないままにはいかないのでスイッチをカチッと押す。照らされた床やら壁やら天井やらだが、ぱっと見で変化していたのは『ホテルの従業員が布団を敷き終わっていた』ことだった。まるで旅館のようなおもてなしに、稔は感嘆の意を持つ。
だが束の間。稔とラクトしか床に足をつけていない中、静寂が訪れてしまった。サービスが行き届いている事に声を出せなくなったのではなく、目にした布団の数が予想とは異なっていたためだ。ラクトは稔の方に少しばかし近づいて、二人の新入りを着替えさせる前に会話をしておいた。
「一つの布団に二つの枕って、完全に狙ってるよね」
「そ、そうだな……」
稔は応答も十分に出来なかった。初々しさが無くなったも束の間のことである。晴れて恋人同士になった二人だが、会話を容易く出来ていたのは半日以上を一緒に過ごしてきた結果。抱きつかれたりしたことはあっても、布団一つイベントは経験をしていなかったから仕方がない。
これ以上会話の続行をするのは自殺行為に他ならないと判断した稔は、謦咳を入れて、ラクトに新入り二人への浴衣着用の手伝いと指導を行ってもらう旨を口にした。時間短縮も含め、ラクトの他に応援としてヘルにも手伝いと指導を行ってもらうことにした。
「――ヘル、召喚――!」
稔は口頭でそう言って召使の召喚を実行したが、心の中で後に続けて「エルジクスとユースティティアを連れて」と、料理名に付け足されたタイトルかと思わざるを得ないフレーズを付け加えた。稔は上手くいくように祈るが、別に付け加える必要は無かったようである。
「召喚早々っすけど、マスター。『誰々を連れてきて』とか、そういうのは理解してるっす。魔法陣には私以外にも召使が居るっすけど、実際のところ、内部を任せられたのは私と言って過言で無いっすし」
「でも、精霊よりは外での会話が聞こえないと思うんだが――」
「それはそうっすよ。けど、マスターって分かりやすいっすから」
「それは皮肉か?」
「淡々と事実を述べてるだけっすよ。――それで、マスター。私への指示を頼むっす」
ヘルに急かされて稔が「ああ、悪い悪い」と言って指示を出し始めると、ラクトが少しの笑顔を浮かべた。指示はラクトに言ったものと大差ないものを言う。頷きながらヘルは聞き終え、一発で理解した。それを見た後、稔はヘルが連れてきた二人の借りた精霊達含めて全員に告げた。
「乾燥機に俺とラクト、ティアとエルジクスを除いた人達の下着と衣服が有る。それは俺が籠の中に畳んで戻しておくから、皆は気にせずにいてもらって構わない。じゃあ、各自行動開始!」
ラクトは「変なことすんなよ」と稔の行動を注意深く監視しようかと思い立つも、自分が任された仕事を全うするべく行わないことにした。乾燥機の有る洗濯室へと向かう稔の姿を見届けると、ラクトとヘルはティアとエルジクスのどちらを担当するのかとか話していく。
結局。エルジクスをヘルが、ティアをラクトがすることになった。
その頃だ。稔は洗濯室へと入室して乾燥機の開閉式扉を開け、中の洗濯物を一つ一つ丁寧に取り出していった。アイロンを掛けようかと思いもしたが、触ってみても無問題な触り心地だった為にしない。乾燥機に洗濯物を入れる前に外で干したわけでは無いことも相まって、あまりの仕上がりに稔は驚いていた。
だが、そんな思いはすぐに消えた。「普通に乾燥機に掛けた事で話を引っ張って時間を使うのは勿体無いよな」と思ったことにより、稔は丁寧に取り出した召使達の下着や服を畳んでいった。とはいえ、女衆四人の着用していた下着やらが暴かれている訳で、稔の心臓の鼓動は少し早まっていた。
服と下着を別々の場所に畳んで置いていきながら、入っていた量の三分の二くらいを畳んだ時だった。再び手に持った服を見て、稔はふと疑問に思った。新入り二人が何を着て明日過ごすのか、ということをだ。
「そういや、ティアとエルジクスの衣服はどうするつもりなんだ――ああ、ラクトに頼めば問題ないか」
けれどすぐに結論が導き出され、稔は特に気にすることも無しに順調に残りの下着や衣服を畳んでいった。正座して太ももの上を畳み台として有効活用しながら、型崩れしないようにブラなどは畳んでいく。こういった知識は現実世界で母親から扱き使われていた名残だ。
籠の中に畳んだ下着や衣服を丁寧に仕舞うと、稔はそれをその場において洗濯室の戸を開けた。下着に関して少し躊躇いが有ったのは事実で、それが無ければあと三〇秒は縮められたかと思える。数分経過したので着替え終わっていると思い、稔は気留めずに戸の向こうへと身を乗り出した。
「おお……」
ラッキースケベ展開はなかった。着替え終わっていたティアとエルジクスの浴衣姿を目にし、稔は「可愛い」とか「似合っているな」と思う。一方で声に出してコメントするのは恥ずかしかったので、グッジョブポーズをとった。
「私はこれで仕事終了っすね。おやすみっす、マスター」
「ああ、お休み。朝は遅くまで寝ていても構わないが、命令入ったら起きろよ」
「了解っす。二人は私が連れて行くっすよ?」
「おう、そうしてくれ」
稔との会話を終わり、ヘルはティアとエルジクスを率いて魔法陣の中へと帰還した。そうして残るは稔とラクトの二人。自販機ではなくて普通の店で購入すると知り、先に部屋に戻ってきて着替えさせ終えた事は即ち『デート開始』を意味する。
「一階だっけか?」
「そう。んじゃ、深夜のデート開始!」
「コーヒー買いに行くだけだけどな」
ふっ、と鼻で笑うような笑い方で稔は言い、それから魔法使用宣言を行う。二日目に入って三〇分も経過していないというのに、二回目の使用だ。
「――テレポート、一階のおみやげコーナーへ――!」