2-74 混浴風呂-Ⅳ
カロリーネかエルジクスか、どちらかがその紙を落として去ったのだとしか思えない稔だが、それは尤もな意見である。エイブの顔こそ知っている稔だが、流石に彼が住んでいるであろう場所の構図を知っていたわけではない。
「大体話は似たようなものだけど、それ、『アジト』って言うべきなのかな?」
「確かにな。将来的には仲間にしたいし、あまり敵扱いしないほうがいいのかもしれない」
「ちょっと待って。驚いた。誰か仲間にするつもりなの?」
「イステルは仲間にして問題無さそうだろ。――扱いが面倒だろうが」
ラクト以上に扱いが面倒くさそうだとは思うが、強さしか思わせない風貌や振る舞いには敵わなかった。精霊は今のところ全員が可愛い訳で、稔は一応ラクトを『彼女』という位置づけにしたものの――やはりそういう思いが消せていない。躊躇いを見せつつも、『種族の地位を平等にする』という目標のため、稔は許可なんか取らなかった。
……というより、会話で解決する必要がない。ラクトは心を読めるのであるから、話す内容は一般の召使と主人がする話よりも少ない意味での『最小限』で済む。もちろんそれは、湯に浸かった状態でもそうだ。
「くれぐれも、本命を無視した行為はすんな。キスは認めるけど」
「愛情表現としての、か?」
「愛情表現って言い方で示せるのは二つあるけど、稔はどっちを指してるの? 『ライク』か『ラブ』か」
「そんなの両方に決まってるだろ。――で、お前からの許可はどうなんだ?」
「前者のみ認める。後者は認めない」
ラクトは明確にしておこうと伝えておいた。でも「察しろ」と言おうとしていたのは確かで、彼女の喉から出そうになるくらいだ。けれど「察して」なんて他に問題が増えるだけである。故に口から出すことはしない。
「ところで稔は、この構造図みたいなやつを自分のデバイス上に持ってこようとは思わない訳?」
「そんなアプリが有るのか?」
「あるね。でもその紙、早くヘルとかに持たせたほうがいいよ。イステルが戻ってきたら大変だし」
「そうだな」
稔は少し自信有り気に言い、紙を左手に持って逆の右手を上げた。湯の中に浸かっていた訳だから、水の粒子が左右上下に飛び散る。紙が濡れないように細心の注意を払いながら、稔は言い放った。
「――ヘル、召喚――」
言っておくが、彼は召使に自身の裸を見せようと召喚したわけではない。イステルとばったり会う前に、重要な書類であるエイブの家の情報が書かれた紙を片付けてしまおうとした結果である。
「どうしたんすか。湯気がもくもくと立っている場所に召使を呼び出すなんて、露出狂なんすか?」
「酷いことを言うんじゃねえ。――まあいい、本題へ移る。用件は一件だ。この紙を保管していてくれ」
「了解しました。ところで自分、寝ても大丈夫っすか?」
「寝るのはあと数十分前後は止めてもらいたいかな。どうせまた呼び出すしさ」
「そうっすか。把握出来たっす」
ヘルは軽く頷いた後、稔が左手に持っていた紙をバサッと素早く取った。紙は稔が必死になって掴んでいる訳ではなかったため、ヘルに強く掴まれて切れるといったことはなかった。多少のシワが出来たようだが、既に折り目が付けられていることを考えればさほど大きい問題ではない。
だが、彼女はまだ魔法陣の中へ戻ろうとはしない。稔に質問をしようとしていたのである。紫姫よりは少し薄い紫色の髪を揺らしつつ、ヘルは稔に背を向けて話をした。
「マスターとラクトが彼氏彼女の関係になったことを伝えたほうがいいっすかね? ――お節介っすか?」
「いや、その方が助かるな。――ありがとう。んじゃ、また後で」
「了解っす。では、失礼するっす」
ヘルはそう言って自分から帰っていった。借りた二人の精霊を除けば、稔が『応召』と言うまで待ってくれる全員の召使と精霊と罪源である。そんなことを知っていたから、稔は『応召』の指示無しに戻ることを許容していた。
「んじゃ、俺らは追加で寛ぎますか」
「のぼせる、の間違いでしょ? 湯を凍らせれば間に合うけど、本当に事が起きてからじゃ遅いんだよ?」
「ここの湯は熱く無いだろ。四一度くらいじゃないか?」
「……それって普通なの?」
稔はふと疑問に思った。ラクトは温かいものに対して知識があまり無いのではないか、と。饂飩もラーメンも食べたことが無いと言っていた彼女だ。エルダレアという言論の自由が無い帝国で育った彼女は、ろくなことを経験していない。行動を起こすだけの力、誘惑する力などを備えていても、文化的な面では疎いのかもしれない――と、最終的に稔はそこへ至った。
「そうだな。つかお前、温かいものに疎いのか? 食べ物にしても風呂にしても」
「饂飩とラーメンは本当に食べたことが無いけど、あんまんとかは昔から食べてたよ。風呂も入ってた」
「風呂って水風呂じゃないのか?」
「バーカ。エルダレアって国が何処にあると思ってるのさ? この大陸の最北端はエルダレアなんだぞ」
稔は「エルダレアは寒い」とようやく認識した。確かに日本のような形で描かれているマドーロム大陸の地図の一番北の方にあったのは、言うまでもなく『エルダレア』。北半球か南半球かという議論が出てくるが、稔が思い返した中に『赤道』や『半回帰線』などの直線はない。
「寒いのに水風呂に入るとか、そんなの祭りくらいでしょ。それに女性がやるわけないじゃん。そんなに見せてもいい場所だったら、ブラジャーなんか捨ててるぞ今頃――と一概には言えないんだよね」
「それ、織桜の前で言って来いよ。怒られるぞ」
巨乳による貧乳への見下し攻撃である。そんな風に話を綺麗に終わらせようと稔は考えるが、どうしても意識してしまうのが人である。指示でなくたって、言われると意識がそちらへ向いてしまうのは仕方がない事だ。もちろん稔が、タオルで余計にエロさを醸し出す永遠の一七歳の巨乳に視線を送らせたのは紛れも無い事実だった。
「でも、肩がこることは有るよ。座り方が悪かったりすると特に」
「猫背とかか。でもお前、あんまりそういうのはしないじゃん。仕事でも無いんだし」
「まあそうだけど。それこそ、何も知らない巨乳好き男子と身体が入れ替わったら面白そうだよね」
「『絶望した!』ってか?」
「絶望――なのかはよく分からないけど、思ってたのと違う感じはするんじゃないかな」
胸についての雑談を始め、さり気なく混ぜた稔のパロネタにクールな反応を見せたラクト。ただ、それは言葉選びに戸惑ったためだった。最後は誤魔化したような言い方になったが、そういうことである。
「ナイト。戻ってまいりました」
「同じく、戻ってきました」
稔とラクトが雑談を終わらせた時、借りた二人の精霊が戻ってきた。エルジクスとティアである。ティアは戻ってきて早々、織桜が大浴場から退室したことを告げる。召使を貸し出した悲しみを背負っていたわけではないが、一人寂しく大きな風呂にいるのは心に重い石が伸し掛かるのと同じだそうだ。
ティアが織桜に関しての説明を終えると、今度はエルジクスが稔とラクトに問うた。
「ナイト。自分とユースティティアの着替える服や下着など、そういったものが見受けられないのですが」
「……」
稔もラクトも話に夢中だったため、エルジクスとティアの事を考える暇は無かった。自分たちが行ったことを反省しつつ、取り敢えずは自分たちの着ていた服に着替えなければいけないわけだから、風呂からサッと上がって大浴場を出ることにした稔。
だがそれは、事を進めるのが早過ぎると言っても過言ではないと考えたラクト。彼女は「ちょっと待って」て足早に大浴場を去ろうとする稔を振り返らせ、ティアとエルジクスを魔法陣の中へ戻そうとした。
「稔。エルジクスもティアも、精霊魂石の持ち主が変わった訳じゃない。だから――」
「ああ、言っていたな。わかってたが忘れていた。許してくれ」
稔は軽く謝るが、当然頭を下げることはしなかった。既に日付は変わっている。エイブ戦の為に回復したいと思うようになり、そのために睡眠時間は欠かせない。稔が今置かれているのは、そういった早め早めの行動を意識しすぎた末の話の上だ。
「――ヘル、スルト、召喚――!」
稔は戻したばかりのヘルを再度召喚し、スルトも召喚した。彼女らは意外や意外、眠たそうな顔を浮かばせていない。日中に切れ込みのように仮眠を取っていたことが幸いしたと言うことも出来るが、ヘルの場合は歌を歌ったせいと理由付け出来なくもない。
「ヘルはエルジクス、スルトはティアを担当してくれ。と言っても、魔法陣の中に四人で戻るだけだけど」
「マスターはこれをするために寝かせなかったんっすね」
ヘルが「魔法陣で共同生活を送ってほしい」という話を理解し、エルジクスの右手を握った。スルトも同じようにティアの右手を握っていている。稔はそれを確認して『応召』を言おうとしたが、ラクトに止められてしまった。ラクトは稔に目を向かわして首を左右に振り、彼を黙らせてから言う。
「ヘルとスルトに伝えておきたいんだけど、これから数分後に二人を部屋で着替えさせるから引率してきて欲しいんだよね。――もうちょっと寝られないけど、いいかな?」
「大丈夫です、構いません」
スルトから承諾を貰うと、ラクトは嬉しそうに小さく笑った。稔は女子同士が連帯を崩さずに居てくれることへの感謝の気持ちを内心に抱きながら、ラクトが解除した事を告げないうちにヘルとスルトに対して指示を出した。
「――ヘル、スルト、応召――!」
二人の召使は各々一人の精霊を連れ、魔法陣の中へと戻っていった。風呂場の床の上は滑る訳だが、戻るときにずっこけるという「天然ちゃん」は一人も居なかった。危なっかしくて手が焼ける召使が居ても別に良かったが、それは稔からの妥協的な意味を含めた話。悪用しろとは言っていなかった。
「う、うわー」
だが、稔とラクトが二人きりになった刹那だ。ラクトはわざと転けるという下らない行動に出た。棒読みで台詞を言い、キャラクターを演じる気は少しも無いようだ。呆れて物が言えない稔は、結局スルーすることに落ち着いた。その一方、ラクトは頬を膨らましていた。
「反応無いって酷くない?」
「酷くないだろ。お前がふざけ始めたのがそもそもの原因じゃないか」
稔はラクトから回答を求められたため、バッサリ切ってやった。狎れすぎた関係だからという訳だが、それだけで終わるような厳しさは稔に無い。流石の臆病さであるが、少しパンチが欲しいのは自身も自覚していた。スルーし続けるくらいの、それくらいの強い心を。
「まあ、そんなに落ち込むな。誰だってふざけたいときはあるもんな。――ほら、行くぞ」
稔はラクトを自分の方へと寄せてから歩き出した。肩を組むようにしようと、最初は右手を向かわすに留めようとしたのだが――結局はラクトの胸部のすぐ上辺りに右手が当たる感じになった。というより、意識しなければ触れてしまうレベルである。酔っ払った上司と部下という関係にしか見えないくらいだ。
と、そんな時。稔がラクトの歩幅を確認するために足元に視線を送っていたのだが、前の方から大浴場の戸が開く音がした。『ガラガラガラ』と音を立てていることから、数年は利用されているのだと見当がつく。もちろん、その程度であれば問題無いだろう。でも今は日付が変わった後の混浴の時間帯。大浴場は男女兼用の浴場となっている。
「こっ、こちらを見ないでくださいましっ!」
イステルの声だった。痴漢扱いに等しい扱いを受けてしまった稔は、目を丸くしてしまうが即時に逸らした。単なる理由でしかなく、目の前のイステルが裸なのである。風呂場だから当然の話であるが、一切を隠していない女体には流石に目がいってしまう。
だが稔は、イステルに対して微笑しながら言い放った。臆病だとか言われている稔とは別人のようだが、精霊という戦闘狂に近い彼女らに対しては効果的な方法だと思ったためだった。ラクトは実力行使すら認めるが、稔は一切のそれを認めていない。それが表すことは『話術』である――が、そうは問屋が卸さない。
「イステル。俺のところへ来い。エイブを置いて俺のところへ来るんだ。そしたらどんな時でもお前を守ってやる。貸し出し出来るか頼んでもらえないか?」
稔は真剣な目つきでイステルに対して言い放った。しかし彼女からの返答は言わずもがなのものだった。分かりきった内容だと稔も理解していたが、表情の影響は大きい。彼女もまた、稔と同じくらいの真剣さ漂う表情を浮かべていたから、稔の心には大きく響いた。
「嫌ですわ。実力で階段を上がったわけではないような貴方は、私とエイブ様に平伏すだけで、他の役を演じる必要なんて無いですことよ」
「そうか。んじゃ、戦いは避けられないってことだな」
「そうですわ」
イステルは自身の局部をそれぞれ隠しながら言っていたが、湯に浸かったわけではあるまい。稔とラクトが彼女の進行を邪魔していた為、裸の彼女は寒気を覚えてしまった。風邪を引いてもらえば戦勝する可能性は上がるだろうが、そんな卑怯な真似は使わない――。それが稔だ。彼は余裕ぶった態度で言った。
「イステル。お前、意外とあるんだな」
「私の胸のサイズを嘲って自分の召使を褒め称えるとは、最低な男ですわ」
「おいおい。俺はお前の胸の大きさについて問うている訳ではないんだが?」
「嘘ですわ!」
声を張り上げて反論するイステル。流石は混浴の時間帯を把握しない癖に反論をするような、『戦闘にしか能のない馬鹿』と言える。だが、稔は敢えて発言を控えておく。「各々の個性を大切にしたい」という思いを皮肉に変えたからである。
「俺は身長に関しての話をしているだけなんだが。な、ラクト?」
「そうだね。恐らく私の予測だと、一六三センチ位だと思う」
稔の考えに同調し、ラクトはキャラクターを演じて話を肯定した。自身の身体を近づけて身長を測ろうとしたが、それでは危険な事態に自分から遭遇しに行くようなものである。だからラクトは行くのを躊躇った。ぱっと見で予測を立てることは難しいことではないし、それこそ無理してリスクを被る必要は無い。
「そんな当てずっぽうに言って、当たっていると思っているのお思いですの?」
「うん」
一方のイステルは、ラクトの予測に対してクレームを付ける。だが内心では正反対のことを思っていた。ラクト同様にキャラクターを作っているから見抜けないが、心を読めば信実なんて大抵判明する。
だがラクトは、それ以上の煽りの続行を止めた。稔からの指示である。
「悪いな、道を封じてしまってさ。俺とラクトは部屋へと戻る。んじゃ、後で」
「好きにしてくださいまし」
イステルはなおもお嬢様のような口調で話す。稔とラクトがイステルが通る道を作った後、彼女はすぐに歩き出した。




