2-62 605号室-Ⅸ
「どんだけ頑張ってんだよ」
「お前にばっかり仕事をさせるってのは良心が痛むからな。仕方がない、止むを得ないことだ」
「そこまで大きなことなんでしょうかね?」
稔はラクトに「出る幕はない」と言ったのではないし、それこそ自分だけが負担を背負うと言ったわけでもない。先に作業を進めていたことは、ただ単に彼の良心が動かされただけなのである。だからこそラクトは、稔に「そこまでするな」というふうに言う。でもその一方、笑みを浮かべ、続けて言った。
「まあでも、ありがとう」
「そんな、礼を貰うようなことではない気がするけど」
「いいのいいの。紫姫を褒めた時だって、自分のキャラクターを否定してああ言ったんじゃん」
彼女の言った感謝の言葉は、何も一つだけ意味を含んでいたわけでは無かった。多くの感謝の気持ちが積み重なって層を形成し、それが言葉となって相手へと届けられた。たったそれだけのことである。けれど稔には、なんだか新鮮な感じがした。加え、ラクトがキャラ崩壊してきている気もしなくなかった。
そんな稔の心情を察知し、ラクトは不満げに頬を膨らませて問う。
「……てか、私が感謝の気持ちを言えないような召使だと思ってたの?」
「真剣な一面と砕けた一面、照れた一面くらいしか見てないからな」
「それが理由かよ。それより、照れた一面は忘れてほしいんですが……」
「いい顔だったから忘れたくないな。それこそ、『硬い表情の女の子がデレた姿もいい物だが、話し易いハイテンションな女の子がデレた姿も素晴らしい』って知らせてくれたのはラクトなんだし」
褒められているような、皮肉を言われているような、感謝の言葉を言われているような、許多の感情が募っていくラクト。身体は震えているが、顔に浮かんでいるのは笑みだった。『感情』がスクランブル交差点に突っ込んだ『車』のように化し、どのような心境であるかを外見から見てとれなくなってきていたのだ。
でも、最終的にはいつも通りの彼女の姿へと戻った。話し易いハイテンションな女の子。彼女は赤髪を揺らし、時に場を震わすような破壊能力を持ち、相手に怯えを取ることはない。
「うっせ、早く乾燥機にぶち込め。時間は無いんだぞ」
「脱水してから入れろよ」
「脱水なんて早く終わるだろ! 早く終わらなきゃ、稔は洗剤落としなんて出来なかっただろ?」
「そうだな。でも、早くして何をする気なんだ?」
「映画鑑賞でもいいだろうし、テレビを見てもいいだろうし、エイブ戦の作戦会議をするのもいいだろうし――と、とにかく! 日付が変わるまですることは無いから、それまでを充実した時間にするんだよ!」
ラクトはゴムを貰ったことを頭に入れて忘れ去ることが出来ず、言葉にして洩らしてしまいそうになった。先程のバレーボールの後にエルヴィーラから貰った、七つのピンク色のゴム。それの使用用途を知っていないと嘘を吐こうが、稔に履歴を掴まれている以上は嘘を突き通せるのは困難である。
言い出しづらい言葉だからこそ、ラクトも当たるような喋り口調になっていた。一方の稔は、それ以上に干渉することはなかった。最初に例を上げたのが救いだったのである。映画鑑賞、テレビ視聴、作戦会議――。稔は「若さゆえの過ちだとかに走るのがその程度で起こり難いだろう」と思ったのだ。
「まあ、俺はテレビっ子だったからな。小学生の頃から長時間放送のテレビ番組に食いついてたし――」
「え、映画は?」
「映画? ああ、映画館には行かないけど、家で鑑賞することは多いな。アニメ映画や話題の作品が主だけど、近くのツ○ヤでブルーレイをレンタルして、自分の部屋のテレビで高画質な物を視聴してたし」
「ふ、ふーん……」
論破された訳ではない。稔の過去の話を長たら聞かされているだけだったからと、飽きたわけでもない。稔の言っていることは異世界の情報を掴むのにはいいものであったが、自分が咄嗟に口から零してしまった質問に回答してもらわなくてもいいのにと思い、ラクトはまた態度がいつもと違うものになっていく。
「心を読めない人間が言うのもなんだけど。ラクト、お前なんかおかしくなってないか?」
「お、おかしくなんかな――」
「そうか? でも、いいよ。脱水作業はすぐ終わるわけだし、乾燥機に入れるまですぐ終わるだろ。だから、休んでな。このホテルの布団はセルフなのか知らないけど、敷くなら敷いとけばいいし」
ラクトは『布団』という言葉に反応し、身体を震えさせてしまった。稔の鈍感さが狙っているかのように思えてくるが、決して稔は狙って言っているわけではない。あくまでラクトの事を思って言っていることが、あたかもそう聞こえるだけだ。
「よ、要するに――『休め』と?」
「そういうことだ。どうせ『覚醒状態』して急激な回復をしたせいで、疲れがぶり返してきてるんだろうし。なんなら、一一時半まで寝てるのも一つじゃないのか?」
「いくら『覚醒状態』を使ったからって、それは流石に三時間も寝るようなことじゃ――」
「バカ言え。お前以外の奴らなんか、すぐに魔法陣や魂石に戻って寝てるだろ。そりゃ、カムオン系とサモン系じゃ使用出来る魔力に差はあるかもしれないけど、だからって寝るのを制限しちゃダメだ」
ラクトに対して、半ば逆らえぬ命令のようなものを下す稔。一方で聞いていて嫌な気もしなかったラクトは、次第にいつも通りの自分を取り戻してきた。それは先程の一回目の表情の変動と合わせてグラフにすると、大きなダブルを描くぐらいだ。
しかし。いつも通りを取り戻したことは、稔にとっては脅威でもあった。
「生理不順になってほしくない、肌とかを汚くしてほしくない、と。――気遣いをありがとう」
「よ、読まれた!」
男が金的蹴りをされた時の痛みを女が知ることが無いように、男は女の生理の痛みも出産の痛みも知ることはない。昨今は低年齢出産をする女性が多いが、出産の痛みは基本的に年齢をある程度経過してから感じる女性が多い。――が、一応は稔も『子作り』とラクトに言われたため、意識していた。
「疲れを取らなければ、確かに生理不順になってもおかしくはないだろうね。でも、元々性欲処理をするための店で働いていた私からすれば、そう簡単に不順になんてならないって。てか、一日くらい――」
「日頃の積み重ねじゃないのか?」
「そりゃ、基礎体温とかはそうだろうけど――まあ、あまりそういうところに干渉すんな。それが身のためだ。エロ本を立ち読みした俺かっけー、って言う思春期のオスどもとは違うんだぞ」
「酷い言われようだな」
稔はラクトの言いように賛同した。もっとも、稔はコンビニの成人向けコーナーに大人の格好で挑むような真似をした経験はない。また、友人に『エロ少年』の言葉が似合う奴が居たが、「バカだな」と言った過去を持っている。並大抵の性欲を持つ稔であるが、それだけ場を弁えようとしていたのだ。
「でも、『公私問わず口に出し過ぎるのも問題だけど、抱え込むのも問題』ってことは確かじゃない?」
「確かにな。でも、それは通過儀礼的なものだと思うけどな、俺は」
「自分が通過しなかったくせに、よく言うよ」
ラクトは笑いながら言った。場を弁えていた稔の行動を評価しつつも、お前の語る場ではないと思ったのだ。もちろんラクトが稔を非難すれば、中身が似ていると言って過言ではない二人は言い争いになる。
「だからって、全ての男を動物扱いするのも行き過ぎでは?」
「風俗店員だった時に接した奴が全員そうだったからね。『愛してると言って下さい』とか『照れた表情で』とか要求されるのは結構嫌だったなって。まあ、それ含めてそういうお店なんだろうけど」
ラクトが過去の悲しいような話を馬鹿げた自分だったと皮肉って言うと、稔は疑問に思った。
「もしかしてなんだが、お前の表情が豊かなのって――」
「他の召使に比べて、でしょ? それなら――そういうことだよ」
稔の心を貫き刺さる矢。同時に、場に悲しく重々しい空気が漂う。
悲しい過去を持っていても立ち直れたラクトだが、それは悲しみを個性の一つとして作り上げたということでもあったのだ。犯された母姉、風俗で働いて男を殺した自分、反逆者として王に殺された自分。色々と、振り返れば悲しい話がブルーレイボックスのように数多く羅列している。
でも、それは過去の話である。美化することは躊躇っても、馬鹿馬鹿しく言うのはさほど難儀ではないことだ。エルフィリアは君主国家だが、別に憲法に言論統制が記されているわけでもない。ネット関連も整備されているが、政府が閲覧できるページを規制しているわけでもない。だから、難儀ではない。
そう考えれば、自然と重々しい空気は消えていた。ラクトが立ち直った一つの要因としてある『過去の記憶』、そこにある『ブラッド』という死んだ少女の言葉遣い。――言い換えれば、稔がラクトと共有した瞬間だった。『知っている』だけではなく、『共有した』のだ。
「でも、これは秘密にしておいてね。二人で抱える鬱なことっていう認識。――いい?」
「秘密ってことだな。了解した」
誰かの笑い話や盛り上がれそうな話をすぐに伝達したがる稔だが、秘密は洩らさないのも特徴だった。場の雰囲気を重くするような話なんて、話題として深く味わう価値はあっても他人が伝える価値なんて無い。伝えることが出来るのは、その経験をした者かそれを取材したものだけだ。
「まあ、私の胸が大きいのは、それだけ鬱な話があるからってことで」
「まったく、雰囲気ぶち壊しやがって」
本人がそう言っているのだから、胸が大きい理由に聞こえなくもない。ただ、あれほど悲しい記憶を聞かされてしまっては、共有した者としては何とも言えないことだった。そういう意味も込め、稔はラクトから貰ったボールを投げ返す。また、それと同じくして思ったことがあった。
「もしかして、ヤンデレってそういうことで巨乳が……」
「わ、私はそんな束縛するような女じゃないよ? 諦める時はちゃんと諦められるからね?」
「必死になるてことは、まさか……」
「違うからな!」
ラクトは言い、洗濯機の中から取り出した洗濯物をわざとらしく稔の方に投げた。水滴が大量に付いているのが窺える。無論、稔に投げられてTシャツの一箇所に当たり、そこが濡れていたのを確認できた。
「ラクト。そういうのはここですることじゃない。隣の風呂場でやれ」
「服を着たまましたら、透けちゃうんだけど」
「パーカー着ているくせに、よく言うよ」
「あなたにはわからないでしょうね!」
二〇一三年に政務活動費の問題で一世を風靡した某兵庫県議員の台詞を、ラクトは稔の記憶から引用した。その時に同時に訛りを取って、標準語化したものを使う。謎の気遣いである。
「まあ、透けても嫌ではない体格だし」
「オタクのくせに」
「でも、オタク主人公ってそういうもんじゃね? てか、オタクがイコールでデブなのは偏見だと思う」
稔が反論を述べると、ラクトはすぐに謝った。オタクと言っても多くの種類が有る訳だし、何も彼ら彼女らがデブであるとは限らない。同じ趣味を共有した者同士が同じ体格であるとは限らないのだ。
でも、そう述べた上で稔は続いた。
「俺みたいなラノベ主人公って、対象者向けに作られた操り人形でもあるんだよね。ラッキースケベ展開に遭遇することもないような奴が見てニヤニヤして、アニメ化されたら水着回とかは永久保存&全裸待機、みたいな」
「前者は通過儀礼として考えても、後者は流石に引くわ。全裸待機はあり得ない」
「風邪も引くしな。でも、敬意を表す意味でやっている人も居るっぽい。――誤用だけど」
「誤用なんかいっ!」
稔は昨今のラノベを非難した上で、極力そういう展開を避けている自分を誇らしく思った。一方で目の前に居る赤髪の彼女は、理解し難くてそれを非難しているくせにラッキースケベ展開へと持っていこうとする。言うならば『悪魔』である。……もっとも、もともとが魔族なのでコメントがしづらいわけだが。
「まあ、楽しみ方は人それぞれだよ。お前みたいに、他人に水を掛けて迷惑させるよりはマシだと思う」
「すみませんでした」
「よろしい」
ラクトは頭を下げると、稔の服に当たってしまった洗濯後の服を洗浄エリアに再投入した。信頼する主人を菌扱いする訳ではない。太陽の下で活動していた時に着用した服に付いたのだからと洗ったまでだ。また、それ以外はどんどん脱水エリアへと移していく。
「いい触り心地だ……」
「やめろ! 召使の服を撫でる主人とか見たくない!」
稔が服を触って評価すると、ラクトが止めるように求めた。すると稔は、「別にいいじゃないか」とか言わずにそれを呑む。そしてラクトが再投入した服を除き、脱水エリアへと場所を移させた。一方でラクトは、あまりにも素直な稔に戸惑っていたが、即座に稔と同じ行動を取ろうとする。
「え、終わった?」
「俺が何個も同時に移せばそうなるだろ。――んじゃ、脱水スタート!」
しかし、稔は全てを終わらせてしまっいた。だから、既にラクトへ頼む事は無くなっている。でもラクトは、こういう時こそ気が利く召使であろうと思って行動を取った。
「なっ、何して……」
「濡れたところを拭いてあげてるだけだよ?」
「お、おう……」
その大きな胸を当てながら濡れた箇所に布を当てて拭くラクトは、エロい女性が少年を看病しているようにも見えた。彼女は手慣れた手つきで、濡れた箇所のTシャツを下から手を入れて持ち上げる。
「なに持ち上げてんの! それに胸が当たってるんですが」
「拭くためにしてるだけだよ。――ラッキースケベから逃れる主人公にへばり付くヒロインってのも、なかなか珍しい気がするけど」
「狙ってやってるんじゃねえか!」
「聞こえてたか……」
本人曰くは小声で話したそうだが、稔は絶対に小声なんてものじゃないと強く主張した。ただ単に、彼女の本心を間を置いてから話しただけに過ぎないからだ。聞いてもらう為に適当な声ではないかもしれないが、それを『×0.9』したくらいなのである。言い換えれば、さほど音量に変化はないということだ。
「取り敢えず、あからさまな行動は止めたほうがいいぞ。尻軽な女に見える」
「男を毛嫌っている私が? ――ないない」
手を左右に振って笑うラクト。秘密を共有した以上は彼女の事を信じたい気持ちが強くなり、稔は「極力控えておけよ」と言って話を断った。
脱水し終わり、稔は洗濯物を隣の乾燥機へと入れた。入れ終わって開閉する場所を閉めて電源を付けると、稔に投げた服の手洗いを終えたラクトが洗浄エリア内の水を捨てている。そんな彼女もすぐに作業をひと通り終わらせ、洗濯機の電源を切った。
乾燥機が音を立てて起動していたのが終わり、ようやく乾燥機としての働きをし出した時だ。指南書を雑に読んだと思い、ラクトが稔に対して説明を始めた。
「そこに書いてあるデジタル文字で残り時間を確認できるよ。今回は三〇分で終わるらしいね」
「結構掛かるのな」
「標準だからでしょ」
ラクトがそう言ったので凝らして見ると、確かに『標準』のボタンが赤色のランプで点灯しているのを確認できた。その両隣には、左に『スピード』、右に『ポライト』と書かれていた。早いかそれとも丁寧か、である。
「乾燥するけど雑なのが『スピード』。乾燥するけど時間を要するのが『ポライト』。通常だけど匂いを付けてくれるのが『標準』」
「匂いってどういうことだ?」
「衣類用の芳香剤を入れる場所があって、いい香りが漂うってだけのこと」
簡単な説明を聞き、稔は頷いた。それと同時、ラクトは稔に質問を投げる。
「結局、風呂場で水遊びすんの?」
「やらねえよ。なんかの映画の鑑賞でもすればいいじゃん」
「分かった。じゃ、レンタルコーナー行こっか」
ラクトに手を引かれ、導かれるままに稔は付いていった。




