2-56 605号室-Ⅲ
「いいじゃんか~」
「ダメだって言ってるだろ!」
稔はそう言って後退していくが、六〇五号室の出入口は二つしか無い。そのうち、外の景色を望むは鍵が掛かっているのは確かであり、出ることは容易な業では無いだろう。テレポートを使える優位点があっても、心を読まれることで優位点とは真逆のものと化す。ラクトは状態異常系の魔法を使用可能であり、いつ魔法を実質封じたような状況に持ってくるかの把握は困難を極める。
風呂場内への応援要請をしたところで、浴槽に入っている者も身体や髪の毛を洗っている者も異性だ。言うまでもなく裸である彼女らは、度胸や上に着る服が無ければ、鍵を閉めた扉の向こうへ行くなど無理な話なのである。なれば、事が始まってから数秒や数十秒の時間を要する。
そうならないように努めなくてはならない。そう、稔は強く思った。だが、現実は非情である。
「お、おい、ラク――」
稔は遂に逃げ場を失った。部屋から緊急脱出するのも一手だろうが、それは出来なかった。ラクトとは何だかんだで分かり合える関係であるし、「自分の召使や精霊の中で彼女にしたいランキング一位」と言ったのは稔自身だ。様々な状況で肩入れし、それこそ失ったら困る。躾の一つとか言って心を鬼にしたくもあったが、稔はどうしても贔屓してしまった。
そして稔は、俗に言う壁ドン――もとい、逆壁ドンに見舞われた。寝るための布団は未だに敷かれていない畳の上を後退し、辿り着いた六〇五号室の隅というべき場所。ラクトは左右両方の手で稔の逃げ道を封じ、顔を赤らめていった。
実力行使を行ってまで勝とうとすることはあっても、論争では理性的に居ることが主なラクトが壁ドンを行うなど、稔は予想だにしていなかった。けれど稔は、至極冷静で落ち着いた対応を取った。顔を赤らめている原因を探るためである。
「熱……っ!」
照れているから顔を赤らめているのだと思いつつも、稔は発熱が原因でラクトは顔を赤くしているのだと感じた。それを確認するため、稔はラクトの頬に手を当ててみたのだが――確かに熱い。
「おい、ラクト。風邪引いたのか?」
「び、微熱だから……」
「話せるだけまだ大丈夫だし、恥ずかしいから熱くなったわけじゃ無さそうだが――。一応、医療機関を受診した方がいいだろう。でも、時間が時間だしな……」
稔は時計とにらめっこした。分かりきっていたことだが、既に時間は二〇時を過ぎている。大型の病院へ緊急搬送するような沙汰では無いだろうが、もしエルフィリアが日本とほぼ同じであれば、掛かり付けの医院等はもう閉院時刻を過ぎているのが大半だ。そうなれば、自ずと結論は浮かび上がる。
「(なんでこんな時に……)」
稔はそう思いつつ、部屋を物色した。当然、壁ドンしてきたラクトの顔には目線を向けない。そんな小さなことに腹を立てたラクトは、わざと咳を出した。一方で稔はラクトを風邪引きだと断定していたから、お巫山戯でも咳をする時はエチケットを守って貰いたいと感じる。
「お前の風邪が治るまで、俺はお前を病人扱いすることにする。だから、畳で安静にしていろ」
「いや、こうし――」
「ダメだ。俺が許さない」
ラクトは言い返す気力を吸い取られるほどに稔から言われ、しぶしぶ逆壁ドンを止めた。それから特に何かを要求することもなく、彼女は机のすぐ近くに向かっていく。しかし稔はそれを、病人扱いすると言っておきながら阻止した。無理もない、そのままでは風邪を悪化させる一方だ。
「な、何……?」
「悪い、ラクト。もしお前の胸に手が当たってしまったら、その時はアイスを奢ることで許してくれ」
普段とは様変わりした稔に、ラクトは一切の抵抗を見せなかった。当然稔は「許可が出た」と捉える他無い。端から見れば色々と問題点が山積しているように聞こえるが、もはや、やろうという意思の芽は摘み取れない。
「ちょっ――」
稔は無言のまま、ラクトを振り向かせた。普通ならばそれだけでも大問題であるが、ラクトは風邪を引いていると稔に断定された事もあり、抵抗を見せるほどの気力無い事が重なって受け入れる。だが、その次のステップは受け入れるに難色を示した。
「いや、な、何して――」
「夏の冷涼な夜、いくら暑くても腹だけは布を当てておけと言われててさ。エルフィリアは暑くも寒くもない気候だし、お前のパーカーを布代わりにしようと思ったんだが――ダメか?」
「そういうことなら、別に。でも、白衣じゃダメなの?」
「白衣でもいいならそうするぞ? ――けど、白衣だと風邪引きで体調が悪い奴からしたら不都合だ。嘔吐するかもしれないし、自由が少し奪われている中で汚れが付着するような行動を取られたらお終いだろ?」
「確かに。じゃあ、白衣は私の手の中に――」
ラクトはそう言い、羽織っていた白衣を脱げるようにボタンを外そうと考えた。けれど稔が彼女の両手を掴んだことで、ボタンを外すことは不可能となった。もちろんその行動は、理由ありきの話からなる。
「そりゃ、日常生活で白衣着るのはおかしいけど、折角ある布を活用しないのもおかしいだろ?」
「ど、どさくさに紛れて両手を掴むなっ!」
「ごめん――って、そこなの……あれ?」
稔は謝った直後にツッコミを入れた。だが見てみれば、ラクトの顔は熱を帯びたようではない。確かに赤身を帯びたような顔だが、それは顔全体では無くなっている。顔の一部、頬の上辺りだけだ。
「まさかお前、風邪なんて引いている訳じゃ……ないのか?」
稔は噛みきれない肉のように飲み込めない箇所もあったけれど、大まかな状況は素早く理解出来た。その為に確認を行ったのだが、ラクトから返ってきた回答は言葉ではなくて反応であった。小さく頷くように首を上下に振ると、ラクトは少し間を置いて言い放つ。
「てか、元を辿れば稔の勘違いが原因じゃんか! 私のせいじゃないじゃんか!」
「お前は俺の言ってることに乗っかったじゃねえか! 責任は俺の方が大きいが、お前もあるだろ!」
「まあ、確かに――って、そこじゃない! 早く掴んだ手を離せ馬鹿!」
「わ、悪い――」
稔は先程ツッコミを入れた時に止まっていたこと、つまりは掴んだ手を離すことをした。ラクトは稔から掴まれた手が開放されたのを感じると、すぐに白衣のボタンを取り外して手中に戻す。もちろん下にはパーカーを着ているわけであるから、脱ぐところを見られて悲鳴を上げる話にはならない。
咳払いして気を取り直し、ラクトは稔に正座するように指示した。稔は逆らうこと無く正座し、指示したラクトも正座する。それから三秒程度時間が空いて、ようやくラクトは話を始めた。
「さて。大きな誤解をしてくれた訳ですが」
「本当に済まなかった。台詞も格好つけていたから、避けに恥ずい……」
「まあ、私としては意外な一面が見れたのでお得というか、弱みを握れて大喜びというか」
「酷い女だよ、お前は」
稔は呆れたような物言いでラクトに言った。ラクトは反論するために言い返さなかったが、それでも会話は続く。もちろん稔に呆れられた風に言われていたので、考慮して彼を粗探しした上でラクトは言った。
「緊急時は格好付けるのは、なんか主人公みたいだよね。――まあ、それで散ったら恥ずいけど」
「お前、その話だと懲りてないようだな?」
「本当のことじゃん。てか、胸触ったら餌付けで許してもらおうとしたところに驚き」
「そ、それは……」
酷い言い様なのは間違いないが、稔がアイスを奢ると言っていたのは覆らない事実である。もっとも、そんな記憶を弱みとして握って弄るラクトに関しては既にお手上げ状態であり、その事実を根拠にしようがしまいが、稔がラクトに対抗しようとする意思は燃えていない。
けれど。実力行使だとか論争で連続勝利とか、そんな強そうなことばかりを言っている彼女にも弱いところは有る。今度は息を吐き捨てながらラクトは言い、稔に弱みを見せた。
「まあ、そんな考えの主人に依存してしまう召使がこれほど居るのも驚きだけどさ」
「おいおい、事実と違うじゃないか。俺は振り回されてばかりだぞ。誰が依存してるんだよ?」
「人が遠回しに言っている理由を察しろ、バカ主人が」
ラクトは稔の左右の頬を対応する手で引っ張った。痛みはそれほど無い強さなのだが、稔は彼女の赤く染まって多少の熱を帯びた顔とは違って冷たい手に驚く。それと同時、稔はラクトの言っている意味を理解したような感じがした。そして彼は、言う必要はないのに推論として言ってみる。
「振り回す事が多いってことが依存している証拠なら、お前は俺に依存してるもんな」
「自意識過剰だと馬鹿にしたいのは確かなんだけど、正解。でも、私以外の召使も精霊も罪源もそうだよ」
「そうか?」
稔は自身の推論が当たったことに喜んだ反面、ラクト一人に対して言ったことが大きな話になったので疑問に感じた。だがそれより、稔はラクトを『煽りの神』と言っておいて不正解ではないことがまた証明されたことに対し、呆れていた。『自意識過剰だと馬鹿にしたい』と明言されれば、そう思わざるを得ないだろう。
稔が色々と考えている中、翻ってラクトは自論を――自分の意見を展開した。
「そうだよ。信頼と依存は似て非なるもの。でも、互いに依存しあうことは信頼と同じでもある」
「形だけの信頼じゃないってことなら、そういうことになるわな」
稔は頷きながら顎に右手人差し指の第一関節を当てがい、コメントした。白衣を脱いだしまったラクトは学者のように見えることはない。しかしながら、論議の場において相応しそうな口調で話しているのも確かだ。主人を馬鹿にすることに恐怖を抱かない彼女の度胸が、申し分なく発揮されているように見える。
――ただの会話なのに。
「形だけの信頼なんて、そんな酷いこと言うなって」
「お前、言えた立場じゃないだろ。俺を自意識過剰と罵ろうとしたのはどこのどいつだ?」
「あれは――ほら、水に流すってことで」
「人の弱みを忘れない奴が言うのか?」
ラクトは反論出来ない。無論、弱みを握ったら離さないのはラクトの特徴であった。強い個性だけど出過ぎると困る個性だから、抑えつけるのが困難であることは言うまでもない。ラクトの特徴はそんな感じだ。
「――やっぱり、私達は似てるのかもね」
「お前と同じ扱いは嫌だな」
「ついさっき私が言ったことを真似したな! パクリ! パクリ!」
「お前もパクってるじゃねえか!」
「いいじゃん、いいじゃん。『胸揉みアイスで解決さん』とは違うわけだし」
ラクトは稔を馬鹿にして言う。だがラクトは、稔の指摘で日本語に限りなく近いその言語の欠点を知ることになった。弱みを握って罵るというよりは揚げ足を取る形になったが、さほど意味は変わらない。
「胸揉み、アイス、でかい……いや、なんでもない」
「そ、そういう意味じゃないっ!」
「お前が言ったことだから、狙って言ったのかと思ったじゃないか。……ああ、狙って言ったのか」
「うう……」
言っていた内容を理解して言わなければ、日本語に近いその言語に堪能という訳では無い人が聞き返した時にネタとして形成される以外、ほぼ馬鹿にされる要素は無いといえる。要は単語を切り出して面白くなるように改変したり、話し方を変えたりしているだけなのだ。だから、ラクトも反論を止めたりはしない。
「言葉を切り出して繋げるとか、それの何処が面白いんだよ!」
「元を辿れば、ラクトが助詞とか助動詞を駆使しなかったのが原因なんじゃね? 『胸揉みをアイスで解決』ってすれば無問題じゃん。仮名に起こしても――やっぱり後のほうが変わってないからダメか」
稔が悩むような仕草をすると、ラクトは自分に好都合な展開になったと反論に乗っかってもらおうとした。けれど、その乗っかり様――飛びつき様が考えていたこととは違うくらい早かったので驚く。
「ほら、面白く無いじゃん」
「そうだな」
「い、意見変わるの早っ!」
「俺はおちょくるために言っただけだしな」
「なんだよ……」
ラクトはため息を付くと、続けて反論しようと必死になっていた自分を馬鹿にする。とはいえ彼女は、色々と思い返してみたら、何だかんだで安堵していることに気がついた。しかしながら、まだそれを馬鹿にする悪は退治しきれていない訳である。だから、何が起こるかは大体予想が付くだろう。
「下らないことで必死になりやがって」
「うぜえ……」
ラクトが稔に怒りの矛先を向けようとしたが、主人に対しての悪い言葉遣いで留めておいた。
「まあ、そう怒るなって。お前が火を噴くと絶対怖いって思ってるから、出来ればそうなって欲しくない」
「いやいや、おめえが原因作ってるだけだろうが!」
「――そういうことで、洗濯してくれるんなら、洗濯してこいよ。行かないなら俺が代理で行くぞ?」
「やらせねえよ!」
流石に女物のパンツを洗われるのは嫌だと、ラクトは身を引いて即座にかごを持つ。ラクトが下らないことをしなければ早急に終われたことなのだが、それに乗っかってしまった稔も稔である。言い換えるならどちらも悪いという訳で、稔にラクトを責める権利はないわけだ。
「貞操の件、今日は諦める。だから、日付変わったら大風呂に行こう?」
「またそういうことを。ていうか、なんで日付変わったらなんだよ?」
「混浴出来るのが二四時から二五時半までの九〇分で、遅い時間帯だから他のお客さんも少ないからだよ」
「つまり、他の男に裸を見られなくて済むから?」
稔が聞くとラクトは頷いた。だが彼女は話そうとしない為、稔が続けて言う。
「でも『混浴出来るのが』ってことなら、女性だけが入れる時間帯も有るんじゃないのか?」
「女性だけが入れるのは、一八時から二一時までなんだよ」
「なら尚更だ。お前一人でもいいから、今のうちに行って来い。これはお前に対する警戒態勢だ。夜になってエロさが増してきたからこそのな」
稔はラクトの事を思って混浴風呂に行かずに女性専用の時間帯に入れと言ったのだが、ラクトは自身の主張があるので呑む気はなかった。けれどそれは、稔へは言いづらいことだ。
「べ、別にエロくなんか……」
「貞操欲しいとか言っておきながら、どの口でそれを言うんだか」
ラクトは、思っていることを隠そうとすることが不得意でない。当然理論で負けることは認めないし、譲歩は基本的にしない。けれど稔を絶対に混浴に誘いたいと考えていたからこそ、今だけは譲歩せざるを得ないと感じた。そのため、奥の手として譲歩という手段を使った。
「稔、耳をかせろ」
「な、何をする気なんだ?」
「いいからっ!」
稔は嘆息を漏らしてから、ラクトの口の高さになるように若干しゃがんで調整した。その直後、耳から漏れないようにラクトが口の周りに手を当てて大声を出すようにする。だが、聞こえてきたのは小声だった。
「ただ単に、一緒に入りたいだけ」
ラクトは非常に照れた表情を浮かばせて言った。それは彼女の本心だ。稔はそれを察することは出来なかったが、照れた表情は飛び火してしまった。
「それと背中を流して親睦を深めるのと、召使や精霊のあんなことやこんなことに関して知識を知ってほしいし、一緒に入っている人が居なければ作戦会議も」
けれど冷静になって聞いてみれば、稔はどんな話をするのか疑問を抱くような点が一箇所有ることに気がついた。
「ちょっと待て。『あんなことやこんなこと』ってなんだ?」
「上から三つのサイズや、膨らみの大きさをアルファベット表記したもの――」
「何を示しているかは分かった。まさかとは思うが、それを討論する気か?」
稔は示していることが理解できたとはいえ、流石にそんなことをしないと仮定した上で聞いてみた。しかしその過程は、結論まで変わることが無かった。
「ご名答だね」
「ふざけんな」
稔が言ってラクトに伸ばした手は彼女に届かず、一方の彼女は笑いながら籠を持って洗濯機の有る部屋へと駆けた。翻って稔はため息を付き、言った。
「全く……。ラクトは頭がおかしいようで、気が効く時があるから困る」
しかし同時、正座の影響で足に痺れを感じて稔は悶えた。




