2-55 605号室-Ⅱ
もっともそれは、稔がラクトから合図が出たと気が付かなければ意味を成さないことなのだ。しかし、稔もそこまで鈍感ではない。おちょくられる程度に鈍感な稔だが、一応は健全な思春期の高校生男子。異性の裸体を見ることには、一定の興味を示していた。
「――え?」
即ちそれは、稔が大開きにした扉の向こう側を見たという事になる。しかしながら、稔が目を開けた瞬間だ。ラクトがサディストとしか思えないような嗤笑を行ってくれた。期待外れの行動に、当然稔は苛立ちを覚える。
「おいこら」
「でも、そういうことは隠してするべきじゃん?」
「てめえ……」
ラクトが言っていることを言い換えるのならば、気付かれないように盗撮的なことをせよ、ということになる。警察沙汰には発展しないとはいえ、召使からの信頼を裏切る行為であることは明白であったから、稔がそんな行動を取るはずもなかった。
「五秒程度、いいじゃんか……」
稔は愚痴を零したが、それはラクトへ弱みを見せたに過ぎない。ラクトは煽ることも得意であったが、同時に人を貶めることも得意であったため、稔がそのような行為をしようとしていたことを暴露することにした。もちろんラクトの意のままに行われる訳だから、稔には対策の施しようなど無い。
稔が一切希望を抱いていない事を確認し、ラクトは風呂場の扉のところに口を近づけて深呼吸をした。そして、主人の悪態と変態さを暴露してしまった。六〇五号室に聞こえるぐらいの声で留めたのは、ラクトから暴露される稔へ向けられた最初で最後の配慮である。
「女同士四人で入っているところすいませんが、主人の悪態をここでバラしちゃいま~す」
「なっ――、うぐっ……」
稔はラクトの口を封じようと前に動こうとしたが、不可能だった。咄嗟の行動に動いてしまうのは唐突であるからに他ならないし、侮辱されていると分かったからでもある。そして、麻痺状態にされるのは――ある意味で当然の仕打ちに近いものだ。
「なななな、なんと! 四人の裸体を凝視しようとしていたんですっ! 重大事件ですっ!」
「(俺、もう……)」
稔はその場に崩れ、強い悲しみに暮れた。「根も葉もない事を言いやがって」と思う一方、麻痺状態にされてしまっては抵抗がほぼ不可能だからだ。テレポートするにしても、これでは満足な転移が出来ない。だから残された選択肢として、抵抗しないしか方法は無いと思った。
けれど稔に対し、召使や精霊達は救いの手を差し伸べた。稔は凝視した訳でも無いし、少し見たいというだけで凝視を希望したわけでもない。そのことを稔の心内を読んで事態を理解した紫姫が、ラクトに対して言った。
「貴様の話し方が気に喰わないのだが――」
ラクトの言い方を非難しておき、それから紫姫は続けていった。
「もし仮にそれが本当だからといって、何かダメなことが有るのか? 貴台の申していることは、年頃の者であれば特に無問題なことであろう。加え、貴様は加担したではないか。扉を大開きにするなんて何を考えているんだと思ったが、まさかそのような魂胆とは思わなかった」
稔の事を擁護しつつ、紫姫はまるで感心したように頷いた。まだ彼女は髪の毛や身体全体を洗い終わっていないらしく、全員の耳元にシャワーから出る水の音が聞こえる。同時、ヘルが扉のすぐ近くで言った。
「というよりっすね、大開きにすると凍えるんすよ? そりゃ風呂場っすから室温はそれなりに有るっすけど、それでも寒いんす。なんで、マスター。ラクトに扉を大開きにしてくれた罰を与えてやって下さい」
「ば、罰……?」
「そうっす。――いいっすよね、皆さん?」
浴槽に入っている訳ではない紫姫は、シャワーを止めないで首を上下に振って許可サインを出した。サタンとスルトは共に親指を立ててグーをし、それもまた許可サインであった。つまりそれは満場一致。
「満場一致で許可出たっすよ。羞恥に走るも良し、侮辱に走るも良し。やり過ぎは厳禁っすけど、ある程度の罰を与えてオッケーっす、マスター。――あと、もうかごは無いんで、扉はロックするっす」
ヘルは言い、即座に鍵を掛けようとした。だが。
「――闇に堕ちた者が、そう簡単に諦めるとでも?」
扉の鍵を掛けようとしたのだが、風呂場側の鍵は浴槽側では無い方に存在した。それは不幸なことである。それだけなら歩く距離が増えるだけで、別に問題視するようなことはない。しかしラクトが何をしたかといえば、それは言うまでもなく『大開き』だ。
「私、一応は地獄の女神っすからね。羞恥心は存在するっすけど、そこまで不用意じゃないっすよ」
自信満々なラクトは、反論してきたヘルが裸体を晒して恥ずかしがって頽れる姿を希求していた。だがヘルは非常に用意周到であったから、ラクトの考えていた計画は一瞬にして散った。花のように綺麗な散り様ではなく、汚物が混入したからといって廃棄処分される食品のような散り様だ。
「ラクトがそれほど言うなら、紫姫にやったらどうなんすか?」
「紫姫にってのは良い考えだ。――こてんぱんにされたように見えたけど、言葉巧みにやったと自信を持ったかもしれないけど。私がこれまで幾多の論争で勝ってきたのは実力行使もあるし」
集団で苛められる事になるのを耳に挟むと、紫姫は身震いした。至って自然な行動である。とはいえテレポートなど使えない彼女に残されている術は、一二秒間だけ時間を止めるくらいだ。だがそれも連続使用不可であるから、効果覿面とは言い難い。一時的なものと言えよう。
そこで紫姫が考えたことは、シャワーを使っての攻防戦だった。稔の方向へ避難するにしても、裸体を晒しながら逃げるのはまっぴら御免だ。だからこそある程度時間を稼ぎ、服を着ながら分かりづらい場所に駆け込めれば勝ちだと思った。
「紫姫さんよ。私が心を覗けているのは魔力が有るからじゃ無いんだけどよ、そこら辺理解してる?」
「……ああもう!」
紫姫はそう言い、時間を停止する魔法を使用することにした。このままでは、背中を向けていると大違いな恥ずかしさが襲ってくるのは時間の問題だ。つまりは、時間を少しでも増やして行動を早めるしか、残された術は無いということである。
けれど、そんなことをする必要は無かった。ヘルが風呂場に居た四人をまとめ上げたのは、何を隠そうラクトに対抗するためである。そんな四人のうち誰かが、誰か一人を裏切ったりはしなかった。言い換えれば、ヘルの提案は『ラクトを泳がせる餌』だった訳である。
「――跳ね返しの透徹鏡盾――」
「私の回りに張るとは卑怯なっ!」
稔は心を読めないわけではなかったから、それは独自にラクト確保へ向かっただけだ。それでも何処か、稔が紫姫を助けるためにヘルらと結託したように見えなくもない。訳も分からず端から見たのなら、そんなところに主人と召使や精霊の関係が浮かび上がってくると言うだろう。
「スルト、一応バリアを四人全員に張っておけ!」
「分かりました、マスター」
そしてあたかも連携したようにヘルらと稔は協力し、紫姫の救出を行った。魔法使用者――稔が居るところがバリアの内側になるから、現在守られているように居るラクトは外側に居ることになる。それに外側からの攻撃が跳ね返るのに対し、内側からの攻撃は全て貫通する特殊加工。どうなるか、大体検討は付く。
スルトが『巨人の堅き壁』の特別魔法を使用する宣言を行うと、稔は準備が整ったと見做し、結ばれた自らの靴紐の意義を無くした。強く引っ張って取ったのだ。
「午後八時〇九分。俺の支配下に有る精霊に対し、猥褻な行為を働こうとした容疑で確保」
刑事ドラマのワンシーンのような台詞だが、稔はそれほどドラマを見たりはしていない。話題になったドラマを見るだけで、誰かが何かを演じている作品の主軸はアニメだ。あまり刑事アニメは無いし、それほど法律に詳しいわけでもない稔だったが、取り敢えず罪的なものはそれっぽいものにした。
「先輩、ガムテープどうぞ」
そんな中。サタンがラクトの特別魔法を複製『《レプリケイション》』した上、それを転用した結果、稔はガムテープを入手できた。もちろん使用目的は言うまでもなく、ラクトの口に貼るのである。
「ごめんな、ラクト。お前が更生することを祈るから、お前の口にガムテープを付けさせてくれ」
「止めてよ。許可出したら、私が変態みたいじゃ――」
「……問答無用だ」
稔は心を鬼にし、ラクトの口にガムテープを貼った一方で。同じくラクトは、稔の靴紐を使った手錠のようなもので拘束された。口から言葉を発するが、稔含め五人はそれが何を示しているかを理解できない。
「ふが、ふご――」
ラクトは理解できない言葉を発する上、論争で負けるのは絶対に嫌だと抵抗の意思を隠そうとしない。彼女の瞳は潤んできており、稔の心の中の鬼が退治されてしまうのも時間の問題になってきていた。けれど、いじめを許したくないのも確かな気持ちだった。しかし、再度考えてみれば。
「(もしかして、ラクトを苛めている……のか?)」
先程はラクトをリーダー格の人物として苛めに走ろうとしたわけだが、今度は稔がリーダー格の人物として苛めに走ろうとしていた。考えようによっては、もう走ってしまっていると言ってもいいだろう。自分が苛められた身だからと苛めを許さないと言っているのが、まるで医者の不養生であるかのようだ。
「紫姫。ラクトに対しての仕返しはこれで終わる。いいか?」
「別に構わぬ。我は貴台の命令に従うだけの忠犬という訳ではないが、それに近いものだ」
「じゃあ、これで仕返しは終わりだ。紫姫はやるべきことに戻ってくれ」
稔はそう言って風呂場に居た四人の中で紫姫だけに、中断していた髪の毛を洗うことを再開させた。スルトとサタンに対しては、稔はヘルを説教する事を考えていたので早めに終わらせた。
「スルト、サタン。お前らはヘルの言ったことに乗っかったから、紫姫に謝ってからやるべきことに戻れ」
「了解です、先輩」
「マスターの命令に従います」
スルトとサタンは再び浴槽に戻る。稔は早めに紫姫に謝るべきだと感じていたが、スルトもサタンも誰かの前で自らの失態を見せるのは嫌だった。それに多少ばかし冷えた身体を温めるためにも、扉が大開きになっている以上は後回しにしたかった。
「最後はヘルだ。お前も紫姫に謝罪をしてから戻れ。でもお前は主犯格だから、罰を与える」
「どんな罰っすか?」
「俺ら全員に対して歌ってくれ。曲は何でもいい。だが、これは主人命令だ。反対意見は聞かないからな」
「独裁者っすか、マスターは。――いいっすよ。というか、歌うことって罰じゃないっすよね?」
「お前からすればそうかもしれないな。日にちは不問だから、好きな時に頼む」
「了解したっす」
ヘルは言い、浴槽の中へ戻った。しかしまずは、ラクトが拘束を解かれていないのを見て扉を閉める。鍵も掛け、誰も恥ずかしい姿を晒すことが無いように対策を講じた。もちろん閉めたことに伴い、風呂場の中には蒸気や温かな空気が充満してくる。
四人には「いい湯だった」と言ってもらいからこそ、早くやっていたことを再開させるようにした。裏を返せば、信頼しているからこそラクトに対して行うべき行動を後回ししたことになる。もちろんそれを言い訳することもなく、稔はラクトに対して謝った。
「お前を苛めたようになった件に関してだが、俺が悪かった。けれど、お前から麻痺状態を解除してもらわないと困る。――お前を拘束したのは状態異常系の魔法を使用できないようにするためだし」
「ふごふぇえふ、ふごふぇえふ!」
ラクトは拘束されている上に口も封じられている訳だ。稔からの謝罪は聞きたいことの一つだったが、それは後回しで構わない。一番してして欲しいのは、喋ることすら許されていないこの状況から開放して欲しいということだ。
「ガムテ――って、ごめっ!」
稔はラクトからの訴えを即時に理解し、ラクトの口に自分が付けたガムテープを取った。意味のある言葉を発することが出来ない状況じゃなくなるように、という訴えがようやく実った形だ。もちろんそれは、ラクトが願って已まないこと。彼女も稔に対して麻痺状態の解除を行う。
「ゴホッ――。ホントにふざけたことしてくれるじゃん。ガムテを口に付けるのも良い度胸だ」
解除された後にラクトは咳をした。喋れることへの感動を覚えつつ、稔に対しての苛立ちを爆発させる。その一方、稔はラクトに対し笑って言った。ラクトの怒りの矛先を折るためではなく、落ち着かせる為だ。
「お前も麻痺らせただろうが。――あれ? そう考えると俺らってさ、何処か同類なところが有るよな」
「稔と同類にされるのは、私でも恥ずかしいことだと思う」
「酷い事を言いやがって」
「酷いことをしてくれたのは稔も同じじゃん。私に対して『猥褻行為をしようとした罪』とか言ってくれてさ。こちとら、むしろされるかと思ったよ」
「馬鹿かお前は。そんなことする訳ないだろ。常識を考えろ、常識を」
稔は必死に反論を述べるが、どっちもどっちにしたいだけだ。ラクトは論争中にも関わらず、勝つために実力行使という暴挙に出た過去を持っていると自白した。だから話が全てそうなってしまっては困ると思うのも仕方がない事だ。そしてそれを阻止するために動いた結果が、どっちもどっちということである。
「常識は考えるってば。――で、謝罪はコメントだけな訳?」
「そんな訳無いだろ。俺は謝罪は大の得意だからな」
「確かに、自分に非がなくても『悪い』とか『済まない』とか言うもんね」
ラクトはクスクスと笑っているが、それはすぐに行われなくなった。
「で、私は土下座してくれても許さないよ?」
「嘘だろ?」
「いや、当然でしょ。なんで拘束解いてくれないのさ。そういう趣味なの?」
「ああ、そういうことでか。それは俺のミスだ」
稔はすぐに拘束を解いた。玉結びはしていないが、ある程度は強く縛ってある為に時間が掛かってしまう。そんな空いた時間と言うべき時に、ラクトは求めていることを述べた。土下座ではない、違う手段を希求するために。
「土下座とか謝罪は要らないからさ、稔の貞操を私にくれない?」
「はい?」
稔はラクトの両手を拘束するために使用していた靴紐を取り終えると、本気で言っているのなら早急に身を引くべき事柄と感じ、聞き返した。
「だから、私と夜の営みを――」
「言い換えても気づくからな? てか、早まるな! 俺に条約を押し付けたのはラクトなのに、なんで貞操捧げなきゃいけないんだよっ!」