2-54 605号室-Ⅰ
稔の手を握って、ラクトは彼と共に自分が泊まる部屋へと戻った。一応は「二人きり」という事になるのだが、その方面に気を取られたりはしない。個室の一室にトイレと風呂が兼用されている場所があったので、その場所の扉を開け、ラクトに向かって稔は言った。
「ラクト、風呂入ってこいよ」
「まだ八時じゃん。私は大浴場が深夜の一時半まで開いているらしいから、まだ入らないよ」
「俺もまだ寝ないけど、寝るんだったら風呂入ってから寝ろよ?」
「うん」
ラクトは返答すると、すぐに畳の上に横になった。別に汗をかいていた訳ではあるまいし、畳が揺れるなんてことはあり得ない。しかし、稔は「言ったそばから……」とラクトを非難した。無論、机の前に横になられては邪魔でしょうがない。
「畳で寝るのは自由にしていい。だけど、机の手前で寝るとか暴挙だろ」
「うー、むにゃむにゃ……」
「(こいつ……)」
ラクトが起きていることなど、稔にはすぐに分かる話だった。どう考えても、その言い方はお巫山戯の言い方である。しかしながら、事は早く終わらせたい一心だった稔。召使や精霊を早めに入らせてしまおうとし、ラクトなど気に留めずに大量に召喚していく。
「――ヘル、スルト、召喚! バタフライ、サタン、共に現れよ――!」
レヴィアが一二階近辺から動けないことは知っており、稔は彼女を召喚することはなかった。とはいえど、四人も五人も一斉に召喚するようなものだ。まだエルジクスの精霊魂石が手元に来ていないから四人の召喚であったが、今後は一時的に五人の召喚が出来るようになる。
それはそうと。稔は帰ってきたサタンに対し、カロリーネがどのような状況でいたかの説明を求めた。
「おかえり、サタン。帰ってきて早々なんだが、カロリーネの現在の状況はどんな感じだった?」
「まだまだ若いカロリーネさんなんですが、彼女は失神的な症状を起こしたらしいんです」
倒れたということで報告を受けていた稔だったが、心筋梗塞や脳梗塞といったことではなくて一安心だった。もっとも動脈硬化から起こりうる発作的な病気は、大体が中年期辺りから増えてくるものである。そんなことを考えながらいると、サタンは稔に対して笑顔を見せて言った。
「でも先輩、それほど気にする必要は無いですよ。先輩の現実世界のような治療方法を使わずとも、この世界には魔法がありますから。もちろん、不老不死が不可能な訳では有りません」
安心させるように言うサタン。カロリーネの状態を聞け、死の危険が差し迫っている状況でない事を把握して安堵する稔。いい方向で話が終わるはずだったのだが、そこでサタンが暴れ馬のように制御不能に陥った。
「ラクト様ァァァッ!」
「こっ、こっちくるなぁっ!」
寝ているラクトを見つけ、サタンは襲い掛かろうとした。まるで強姦魔の手法のようである。当然、ラクトもそれを除けようとする。憤怒の罪源が浮かべた笑みは、心の何処かに悲しい果実を実らせているかのようだ。包丁を持つようなヤンデレという訳では無さそうだが、拘束するようなヤンデレには至極近い。
「み、稔! そいつ捕まえてよ!」
「寝てたんじゃないのか? ……まあいいや。紫姫たちは風呂に入ってきなよ。一人風呂でも、二人風呂でも、三人風呂でもご自由に。俺はテレビ見て寛いでるから、のぼせない程度にな」
「稔……っ!」
ラクトの怒りが最高点に達したと同時、ついに彼女はサタンに押し倒されてしまった。悲鳴など一つも上げようとはせず、それが運命だと言わんばかりに受け入れる。ラクトは同性愛者では無いが、ファンからの愛は大切にしたい主義だったのだ。もっとも、彼女がアイドルだった履歴は何処にもないが。
「ラクト様っ! 無防備な姿で居られるということは、私に対して好意を――」
「自意識過剰すぎんだよっ!」
口では抵抗するラクトだが、押し倒されて下になったラクトに出来る事といえば、何一つ無かった。押し倒された上に手が拘束されてしまったから、対抗するためにナイフを作ることは容易ではない。
それもあったが、やはり稔の言っていたことが大きい理由だった。精霊と罪源を戦わせたりでもすれば、収束させるのは困難を極める。スルトやヘルを頼ることも可能であるが、稔の手持ちの精霊二人は時間を止めたり魔法をコピー出来るのだ。即ちそれは、手の施しようが僅かしか無いことを意味する。
と、そんな時だ。押し倒されても理性的でいられたラクトが、サタンに質問をした。
「サタン。取り敢えずこの状況から開放して欲しいのが一つと、あと質問」
「何ですか、ラクト様?」
「エルジクスの件なんだけど――」
ラクトがそこまで言うと、サタンは手を合わせて音を出す。そして口から「ああ」と発し、回答する。
「先輩がエルジクスのお世話をするという事は無くなりました。なので、私の何処にも精霊魂石は有りません。――それでも気になるようでしたら、私のあんなところやこんなところをお触りし、確認して下さい」
「いやいや、しないから」
「では、ラクト様。押し倒すのも止めませんよ?」
脅しに掛かったサタンに、ラクトは微笑を捨てるように零した。その微笑は、まるで何かを企んでいるかのようである。そして彼女は、押し倒されているという状況を逆手に取った脅迫返しを行った。
「私のウェアラブルデバイスの向こうにはレヴィアが居る。つまり、サタンの変態行為を通報できる」
「なっ――」
「それに。これ以上続けたら、サタンのことを……嫌いになるかもよ?」
サタンはラクトから色々と言われ、「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げる。ラクトは「いいよ」と軽く言って赦した。同時にサタンはラクトを押し倒すのを止めたから、ラクトがそれ以上咎めることは無い。謝罪を終えた事柄を延々と引きずって罪を咎めるなど、子供のように見えるからだ。
「じゃあ、先輩。私もこの三人と一緒にお風呂に入って……いいですかね?」
「どうぞどうぞ。――でも、着替えとかってどうするんだ?」
稔が言うと、ラクトが割って入って彼を馬鹿にした。
「稔はバカだな。爆弾が入っていたところに入っていると決まってるじゃんか」
「確かに」
稔は頷きながら言った。ラクトの言い分に納得せざるを得なかったのだ。爆弾の入った木箱が有るということで箪笥の中を探った時、箪笥の中が全て空っぽだったという事実は無い。
一応はビジネスマンも泊まれるような市街地の中にあるホテルだから、クローゼット代わりに使ってもらおうという趣旨で、何処か空っぽのところもあるだろう。ただ反面、旅館のように浴衣が入っているかもしれないという淡い期待も抱ける。
「最悪、私が作っておくから気にするな」
「変な衣装は作らないでくださいよ、ラクト」
「やらねえよ!」
スルトがラクトに警告すると、ヘルが笑いを堪えられずに見せてしまった。笑っていないと主張したいらしく、紫姫は咳払いをする。サタンは病院での菌を持ってきたかもしれないとか思ったので、早く着替えたいらしい。だから風呂へ入ることも、当然、早くして欲しいと願うばかりだ。
「風呂が小さいかもしれないから、入れなかったら無理せずに二人ずつでいいんだぞ」
「了解っす、マスター」
ヘルが稔にそう言って手で敬礼すると、「そういうことで、風呂へと入ってくる」と紫姫が言った。同時、四人は風呂場へと向かう。といっても枕木の感覚と同じかそれ以下くらい、僅か数十センチ動く程度であるが。
「ラクト。今日一日、どうだった?」
「それ、私の台詞だっつの。異世界から来たやつが、この世界で一七年間生きた女に聞くか普通?」
「そうかもな。でも、率直な意見が聞きたくてさ。現実世界とマド―ロム世界じゃ、色々と違うわけだし」
「魔法とか召使とか、厨二病っぽいところ以外は同じじゃん」
ラクトはそう言い、箪笥の一番上の段の引き手をそれぞれの手で持ち、箪笥の最上段の引き出しを自分の方向へと持ってきた。見れば浴衣が入っている事を確認できたので、話を逸らして「ビンゴッ!」と大きく叫んだ。隣の部屋から壁パンされる可能性も有るだろうが、幸い、隣の部屋の宿泊客は執務中である。
ただ、風呂場には人が居るわけで。
「ラクト、煩いぞ」
「失礼しました……」
紫姫から怒りの声を浴び、ラクトは悲しげな声で言った。顔と顔を向かい合わせて謝罪をしたわけではないから、そんな悲しい声を聞かされて許さないのはおかしいと即時に許してしまった。そしてラクトの顔には、「計画通り……」と言わんばかりの悪の表情が浮かぶ。
「何着有る?」
「一〇みたいだね。こんな小さい部屋にそれほど泊まれるとは思えないんだけど、恐らく召使用に有るんだと思う。言い換えれば、主人含めて一〇人までなら一人の扱いで大丈夫ってことだね」
「でもそれ、サモン系の召使とかだけでしょ。カムオン系の召使は別じゃん」
「まあね。ケチには苛々する問題なんだろうけど、私だってカムオン系になりたくてなった訳じゃないし」
稔は「これ以上は触れるべきじゃないな」と思ったので、その話を続けることはなかった。一方のラクトは彼のその思いを理解し、取り出した浴衣を稔へ手渡ししていく。もちろん一〇着も出す必要はないから、稔の手元へと渡ったのは必要最低限の着数だけだった。
「ところで、聞きたいんだが」
「なに?」
「浴衣が有るのは驚きなんだけど、これって織桜の所業?」
「そうなのかもね。まあ、日本の文化を持ち込んだのは織桜のほうが先だし。学校は別として」
リートと教育施設の建設について稔が話していた時、ラクトは稔と召使と主人としての契約を結んでいなかった。最初に召喚した召使だからといって、稔が飛ばされた当初から居たわけではないのである。
ただ、心を読めるのはそういうところを解消してくれる。人の心に刻まれた喜怒哀楽や肯定否定という感想が把握出来れば、ある程度は理解できるのだ。とはいえ、それはその人の思ったことでしか無い。つまりそれは、偏った考えの可能性も孕んでいるわけだ。即ち、推考を要する。
「学校は俺が作るから安心しろ。工場の件はまだ無理だけど、学校ならいけるだろ」
「ふーん。だったらネット環境も整備されてるんだし、ネットで教えればいいじゃん。ダメなの?」
「それいいな、採用!」
「リートが拒んだ理由って、もしかしてそれなのかもね。――推測だけど」
稔に良い案を提供したラクトだったが、それは当人が言うように推測でしかない。鵜呑みにされてもらっては困るのだ。しかしながら稔は、「学校を作るよりもコストが浮く」だとかいう理由を考えていたため、別に鵜呑みというわけではなくなった。
「まあ、そんなことは今日の振り返りってだけなんだけども」
ラクトは話題を切り替えた。しかし、変わらず稔は彼女の方に耳を傾けており、ラクトは続けて言う。
「ところでさ、稔は浴衣を自分で着れる訳?」
「普通に着れるけど……。もしかして、あのラクトが着れないのか?」
「根も葉もない事を言いやがって。着れるに決まってんだろ」
稔にバカにされ、ラクトは文句を口にした。今日一日のラクトの煽りを見て「お前が言うな」と思ったりもしたが、稔の優しさの影響で言わなかった。もちろん「優しさ」と包んでいるだけであって、言い換えれば単なる自己満足のようなものだ。
稔が思って口に出さない一方、ラクトは少し小さな声で心配した様子を見せる。
「だって私や稔が着れたとしても、他の皆が着れないかもしれないじゃん」
「つまり……、手伝って欲しいってこと?」
「簡単にいえばそういうこと。けど、もしかしたら浴衣に着替えている時間は少ないかもしれない」
「何でだ? 洗濯機に掛けたりするからか? なんなら、今から始めたほうが……」
「確かにそうだけど、洗濯機が何処にあるかなんて分からないじゃん。私が作れるサイズでもないし」
ラクトはそもそも、『服を作って着替える』という魔法に特化している。物を作っているのは、転用にしかすぎないのだ。稔は別に間違って捉えていたわけではないが、当然大きさには限度というものが存在する。今のところ硬さは不問のようだが、そのうち問いそうだと稔は思った。
「作れなければ探せば問題解決だろ。それこそ、ここから受付の人たちに電話を掛ければいいじゃん」
「電話って何処かに有る――って、有るね」
ラクトは箪笥の置かれている場所と対になっている場所を見た。見れば、そこに電話が置かれている。電話は建物の中だけしか繋がらないように設計されており、原則として、宿泊客が泊まる可能性がある部屋への通話は出来ない決まりがあった。そして、『ロビー』なるボタンが存在した。
稔は電話の受話器を取り、そのボタンを押す。その時のラクトは、取り出して稔に預けていた浴衣を再度貰ってラクトが先程寝ようとしていた机の前――ではなく、机の上にそれらを置いた。
ラクトがそれを置き終わったと同時、稔が言葉を発するのをラクトは確認した。受話器の向こう側で受け答えする人の声は聞き取れないが、稔が「案内お願いできますか」と言っているところを考えれば、向こう側にいる人がホテルの従業員である可能性が一段と高い。
稔による「洗濯機設置場所探し」の電話は、約三〇秒くらい続いた。彼は受話器を置いて電話を切ると、ラクトに対して衣服を差し出すように命じた。誰のかといえば言うまでもなく、稔の召使や精霊達のものである。しかし、そこはラクトが拒否した。
「そんなことするか。稔に女の子の衣服を洗濯させるとか、そんなの恥ずかしさの欠片も無い女と認めも同然だぞ。テレポートさえしてくれれば私が洗ってくるから、洗濯機に関しては稔が出る幕は無いと思う」
「まあ、やっぱり年頃だもんな。あと、別にテレポートする必要は無いぞ。洗濯機はこの部屋の中に有る」
「それなら、人目に女性下着が晒されることもなく、変態男がスーハーすることもなくて安心だ」
ラクトは、言いながら稔の方向をチラリチラリと見た。まるで変態男同然の扱いであるが、トラウマ持ちであるからこそ、稔に「そうなってもらいたくない」という一心で言ったことだ。主張に関して何かを言われる筋合いは無論無く、言い方が間違っていると言われたら真摯に受け止める必要は当然ある。
「大丈夫だ。俺はそんなことしないから」
「でも、浴衣着る時ってブラジャー外すし、夜になって稔が野獣と化――」
「無いから!」
稔は言い切った。しかしラクトは、彼の主張を中々受け入れられない。当然といえば当然の結果だ。「女性用下着を洗濯してくる」と堂々言ったのである。異性の着用したもので、それも四人分。誰か一人に対しての行動ならまだしも、四人分も一気に運ぶなど、いくら主人だろうが問題だと思わざるを得ない。
「でも、洗濯は私にやらせて。家事出来るところを見せるから」
「そういう理由っすか。――まあいいよ。やりたきゃやればいいさ」
稔から許可を貰うラクト。彼女は即座に四人の着ていたものが入ったかごをチェックしようと、風呂場のドアを開けた。しかしそれは、稔がその方向へ視線を送っていた時に行われたことだった。
「あ、あ……」
「稔、見ちゃダメっ!」
ラクトは稔にそう言い、部屋の風呂場の扉を閉めた。稔は見てしまった事もあって両手を顔に当てる。視線はそれによって封じられており、目の前は真っ暗闇だ。故に、五感の聴覚を頼りに情報を得るしか術がない。
「大丈夫、殴らないから」
「お、おう……」
浴槽に浸かるヘル、スルト、サタン。身体を洗っていた紫姫。全員裸だったわけだが、彼女らの裸を稔は凝視したりはしない。しかしながら見てしまったのは事実であるから、それ相応の罰は受けなければならないと感じた。でも、ラクトが稔へ償いを求めたりはしなかった。
「私が悪いから、稔が見ちゃったのは私のせい。だから今回は、無かったことにする方針でまとめていいよね? そういうことで、殴るとか蹴るとかは無し」
「ああ、ご尤もだ」
「じゃあ、稔は風呂場の方向を向いていないこと。これ条件」
「ああ、把握した」
稔はラクトと約束を交わした。しかし、『ラクトが風呂の中へ入ってかごを取って風呂場の扉を閉めるまで、稔は後ろを振り返ってはならない』というのは、思春期の稔にとっては非常に辛い話でもあった。
でも、そんな時。ラクトはふざけ半分では無い声で稔に言った。
「扉を閉め終わるまでに時間を設けるから、見たければそこで」
「ラクト、お前って奴は……」
「やらかしの償いってことで。責任は私が全て負うから、僅かな時間を大切に」
「ああ」
ラクトと稔はグータッチし、稔は風呂場に背を向けて目を閉じた。一方のラクトは扉を大開きにし、かごを取りに向かった。合図をどうするかは決めていなかったが、かごを取って風呂場の扉を閉めようとした時にラクトは口笛を吹いた。
そしてそれは合図だ。




