2-22 メイド・クインジーン-Ⅵ
稔が味噌をいつ入れるかを召使の判断に委ねたことに関し、召使から特にそれといって抗議は飛んでこなかった。だがしかし。技術的にもヘルは特に問題ないので良かったのだが、スルトは豆腐を持っていって顔色を悪くした。言わずもがな、手のひらの上で豆腐を切るのが「危ない」――否、「怖い」と思ったのだ。
「マスター。包丁を手のひらに向けて振り下ろしていますが、危なくないのですか?」
「なんだ、そんなことか。……まあ、まな板の上で切るよりかは手の上で切ったほうが崩れにくいってだけで、別にまな板の上で切っちゃいけない訳じゃない」
やったことが無いことをするのだし、それ相当の怖さがあったほうが普通といえば普通だろう。とはいえ主人の支配下に有る以上は、ある程度料理スキルがあったほうがいい。頼られることが多くなるから、召使としての仕事が増えるのである。けれど慣れれば難しいわけでもないし、特に気にすることではないのだが……。
しかし今回、使用している豆腐は借用している物である。味噌汁に潰れた豆腐とは考え難い。料理人達からのクレームを買わないためにも、自分の出番だと稔がスルトにこう述べる。
「……怖いなら、俺が代わりにやるぞ?」
「いいんですか?」
「困ってる奴を助けないとか、そんなことしたら俺の面子が潰れちゃうっての」
召使に指示を出す一方で、稔は彼女らの一番の理解者で居たかった。女だからという依怙贔屓が決して無かったとは言い難いが、稔の中の「助けよう」という衝動が動いて咄嗟に行動を起こしたのだ。彼には後悔など無い。
「俺がやると面白く無いだろうが、豆腐一つが鍋三つに丁度いい量だ。仕方無いから、実演を見て覚えろ」
「はい」
稔が少し命令口調で言うと、スルトは特に逆らうこと無く従った。
「まあ、教えることなんかそう無いんだが……。普通に手のひらの上に豆腐を置いて、それで包丁で――」
稔は説明しながら豆腐を切っていくが、スルトは彼の手慣れた手つきに目を奪われていた。手のひらで豆腐を切るというのは、誰でも出来るような『料理の初歩』というべき芸当だ。けれどスルトにはそんなものには映らなかった。なんだかプロがすることを見せられているような、そんな感じがした。
しかし、スルトがそんなことを考えていた時だ。稔は話しながら豆腐を切っていた時に、誰かの視線を感じた。そしてその方向に目をやってみれば、そこには紫色の髪の精霊――紫姫の姿が有った。
「なんだ?」
「我も驚くほどの『綺麗な切り方』をするんだなと思ってな」
「褒めるために見てたのか。……全く、そんな事する暇有ったら早く作業進めろよ」
「悪いな」
軽く謝ると紫姫はすぐに作業へと戻った。けれど作業は豆腐をどうたらこうたらではない。次に投入しようと考えた油揚げを切る作業だ。稔は紫姫の調理しなければならない分の豆腐が既に鍋に入れられていたことなんかその時点では気にもしていなかった訳だが、油揚げを見て命令口調になっていた。
「こんな感じだ。あと一つ補足するなら、包丁を強い威力で下ろしてまで豆腐を切る必要はないからな」
「そんなことしたら流血沙汰になりますもんね」
「そうだな。豆腐の繊維じゃなくて、手の繊維(つまり細胞)を切るんだ。馬鹿げた話だよ、全く」
「……」
稔は上手いことを言った気分になったが、結局は審議拒否に遭ってしまった。スルトに説明を行いながら反応を求めたのだが、その反応を得られなかったのである。もっとも、面白いわけでもつまらないわけでもない反応に困るような内容が、一番返しに困るのは言うまでもない。
「乾燥わかめの調理とかは大丈夫だろ?」
「はい」
「そうか。――なら、あとは味噌まで自分の手で頑張れよ」
稔はスルトを励ますように言うと、言われた方の彼女は笑みを浮かべた。料理が下手だからと差別をすることもないし、むしろ自分に知識を披露して教えてくれているのだ。そんな稔に対して失礼の無いようにと思いながらスルトは、調理を引き続き進めていくこととした。
「――さてと。次は……乾燥わかめか」
乾燥わかめは湯に入れてしまえば工程は特に無く、それで終わりだ。何せ、ある程度沸騰した湯の中に浸けておくようにすれば勝手に柔らかくなってくれるのだ。少し調整は要るかもしれないが、じゃがいものように待つとしても数分だし、手間を掛ける必要はそれといって無い。
「(それもそうだが、油揚げも重要だな……)」
まだ味噌は投入されていないから、味を吸うということは「水道水を吸う」だけだ。けれどもそのうち味噌を入れねばならない。とはいえ味噌なんか溶けるのは速いわけで、油揚げも吸うのは速いわけである。でも、それはある程度切った上での話だ。馬鹿みたいに一つの袋から取り出して投入するとか、そういうのは狂っている。
「(召使たちがどんな感じで油揚げを切っているのか――って、意外とみんな綺麗だな)」
稔は驚いた。がさつな真似をする者が一人も居ないというのは普通に考えれば分かることなのだが、料理が苦手そうな事を言っていたスルトでさえも、油揚げを余裕を見せて切っているのである。ヘルや紫姫からすれば『お手の物』と呼ぶべき案件なのだろうが、スルトもその仲間に入っていたのは意外や意外だった。
「(スルトもやれば出来るじゃん……)」
まるで教師が生徒に送るような眼差しの稔だが、彼だって一般人だ。家庭科の授業ではそれなりに頑張ってきたし、家でもある程度は料理を作ってきたが――それだけだ。稔という男に「料理人としての素質が有るか」と言われれば、それは『ノー』である。一般人の作る料理しか作れない。料亭で出すべき者は作れない。
もっとも、それはヘルや紫姫も同じだ。彼女らも稔同様に「料理はそれなりに出来る」と自負しているが、作れるのは料亭で出せるレベルの物ではない。一般家庭で出せる『美味しい』レベルのものだ。だから稔と同じように、彼女らにも『料理人としての素質』は無い。眠っている可能性もほぼ無い。
「マスター。そろそろ味噌頼んでいいっすか?」
「悪いな。まだ俺、油揚げ調理終わってないから――」
「そうっすか。分かりました」
ヘルはそう言うと、自分の持ち場の三つの鍋の火加減を調整した。まだ味噌も入れてないのに強い火加減で調理を進めていく必要なんか無いわけで、ある程度弱くしておくほうが良いと考えたのである。
とはいえ稔も、行動を早く進めない等の意地悪な行為や行動といったものはは行ったりしない。召使達に負けず劣らずで行きたかったので、油揚げを手慣れた手つきで味噌汁に合うサイズで合う形に切っていき、すぐさま鍋の中に投入した。わかめも忘れず入れ、これで投入を残すは味噌だけとなった。
「マスター。終わったなら、早く味噌入れてもらえないっすか?」
「悪いな。その味噌の場所が分からないんだ。――ってことで、ラクト」
稔は少し大きめの声でラクトに相談を持ちかける。真剣な表情で寿司を作っていたラクトだったが、稔の言葉を聞くとすぐにそちらのほうを向いた。そして特に返答する言葉は発さず、向かれたのを見て稔が続ける。
「味噌って何処だ?」
「なんで私に聞くかな。近くに有能な召使が一杯居るんだから、頼れよ」
稔の方向を向いたのは確かだったが、それは苛立ちを表すためでもあった。間に合わない可能性は少なからずあるということで急いでいたというのに、何故わざわざ私に聞くのか。そう思ってラクトは稔に立腹した。
「ご、ごめん……」
「いや、寿司作ってた人間に聞くよりかは、時間止めて探してくれた奴に聞いたほうがいいんじゃないの?」
「それもそうか」
稔はラクトから指摘を貰うと、そう言って「ありがとな」と一言言った上で作業に戻らせた。――と、そんな中だ。有能と言われた召使たちの一人――ではなくて、精霊の一人が味噌の入ったタッパを持って待機していた。
「ラクトに挑発されたような気がしたから、今度は時間を止めないで探してきたぞ」
「有能だな――って、今思い出した! 冷蔵庫の中だったろ!」
「よく分かったな。我も『さっき見たのに?』と思ったんだ。全く、貴台は意外と抜け抜けとしたところがある。それで居て、頼るべき召使を頼ろうとしないのだから質が悪い」
「連続で指摘はやめてくれよ……」
「主人命令といって押し付けがましいことをしてくれようとした貴台に、我はそう手加減などしないが」
「……」
紫姫に対して主人命令を下そうとした事実は無いのだが、ほぼ同じ立場に居るヘルがそうなった為に根に持っているようだ。実際そういったタイプは、かつての憤怒や怨嗟といったものが湧いてとてつもないダメージを持った攻撃をかましてくる可能性が有り、敵に回すとダメージを受ける側からしたら非常に怖い。
「まあ、味噌の件じゃ問題は無いわけだし、取り敢えずは作業に戻――」
「問題は無いが、その記憶は残るな。貴台は話題を逸そうとしているようだが、無駄だぞ?」
稔は歯を食いしばる。一方の紫姫は断固として後退する気はなく、「弄りがいがある」と思って笑みを浮かべていた。どうやら、稔が謝罪の弁を述べるまで続けるらしい。まあ、もちろん「絶対的な命令を悪用するな」ということは、訴えるべき事では有るのだが――今訴える必要は無いだろうと稔は主張している。
けれど、今のままでは味噌を入手することが出来ない。稔の責任で味噌汁に入れることになっている以上、召使たちが入れないとなれば味噌汁は出来上がらない。つまりそれは、料理人からのクレームが殺到することを意味する。もちろんそんなの望んでもいないことだ。
「紫姫。どうすれば許してくれるんだ?」
「土下座だろう」
稔は土下座を要求されて抗戦の構えをとろうとした。しかしながら、そうもいかない。自分がやらなければクレームが来てしまいかねない案件であり、ここで譲歩して土下座しなければ何が起こるか分からない。でもそれは自らのプライドが許さない。そうして、感情と感情が入り混じった葛藤が起こる。
けれどそんな中で、女神が現れた。
「紫姫。稔が可哀想だからその程度にしておいたほうがいいよ」
「ラクト――」
ラクトの参戦だった。量的には一番多いにぎり類の赤身やトロなどの部分を握り終えて一段落し、余裕を持つことが出来たための参戦だ。もちろん活〆エビや玉子、ホタテにいくら軍艦など、まだ握らなければならない寿司ネタは多々ある。けれど一段落ついて参戦可能になった。
「でも、召使に絶対命令をふざけて使おうとしたんだぞ?」
「別にいいじゃんか。そりゃ私だって、召使が責任を取るのには向いていないって説明しても命令を使おうとしたのなら問題だと思うよ。けど稔は取りやめた。それに、紫姫は当事者じゃないじゃんか。説明しただけ、本来使われる予定だったのはヘルだ。でもヘルは、稔に怒りを露わにした事実は無い」
「……」
紫姫は黙り込んだ。自分の訴えたことが完膚なきまでに論破され、言うことが無くなった為だ。ここで厄介な害人(外国人という意味ではない)や老害は、更に「それでも――」とか、「そうは言うが――」とか使って話を進める訳だが、紫姫はそれに分類されないようだ。
「でもまあ、『ヘルが謝れと言った』とかは関係なしに、決めておくだけ決めておいたほうがいいと思うけどね。『悪用や安易な利用はしません』って。戦闘とかで使うべきなのが『主人命令』なんだし」
「それは我も同意だな。――で、貴台はどうするんだ?」
「(紫姫の話し方がいつも通りとはいえ、なんだか反省している気がしない……)」
ラクトはそんなことを思ったが、自らの進める寿司作りに問題が生じると悪いので特に気にしない。残っていた『玉子』のネタはすぐに作れるだけれども時間が掛かるし火も要る。ホタテは貝殻から取った状態で保管されていて、いくらも鮭から取った状態で保管されている。けれどまずは活〆エビだとラクトは考えた。
それと同時に、ラクトからの提案を受けた稔はこう召使たちに言った。
「俺は今後、召使たちへの理不尽な要求を極力行わないことにします」
即座にヘルとスルトが意見を述べた。
「まあ、それでいいと思うっすよ。私も立腹しているわけじゃないんで」
「召使なんか主人の下に居るわけですし、マスターがそういうならそれでいいんじゃないでしょうか」
彼女らの意見を聞くと、紫姫は稔にこう述べた。
「我は契約済みの精霊だ。貴台は召使にも精霊にも罪源にも優しさを振りまいている。先程我が一人の仲間の為に怒ったように、貴台も仲間の為に努力と指揮や執行に尽くしてほしいものだ」
そして稔が召使達と話をする中、ラクトはただ一人調理を続けていた。味噌汁作りがもうすぐ終わる一方で寿司は終わっていない。だからこその手段だった。新鮮さという寿司の命を消さないように握って作っていき、味噌汁と野菜と同時にお出しする。そう考えて握り続けていた。
その一方。召使達との話を終え、稔は紫姫から味噌の入ったタッパをついに受け取ることが出来た。ラクトが途中で話に割り込んできたことに感謝しつつ、稔はそのタッパを開ける。けれども、流石に人差し指で掬って味噌汁(味噌は入ってない)へと投入するのは、人としてダメだ。そのため、まずはスプーンを探す。
「なあ、スプーンは調理台の引き出しの中に有るかな?」
「誰に聞いてるんだ?」
「……」
紫姫からダメ出しを受けた稔は舌打ちを行った。そこまで気にする場面でもないのにからかわれた気がしたためだ。普段の稔であればそれは内心に留めておけるレベルなのだが、事情が事情なので外見に見えるのは無理もない。
けれど稔を小馬鹿にするような態度を取る紫姫も、あくまで彼の支配下に居る。だからこそ、主人である稔の為にスプーンを探して届けた。そして、手渡す時に「どうぞ」と言って渡す。
「んじゃ、そろそろ火加減戻すっすね」
「了解した」
稔は言ってタッパ内の味噌を適当な量だけ掬うと、ヘルは対して火加減を戻していた。アシスタント的な立ち位置だった紫姫は自分の持ち場へと戻り、彼女も味噌を入れてもらうための準備を取る。――といっても、火を弱火にするだけの簡単なお仕事であるが。
「ああ、そうだ。お前ら特に塩分関連で制限とかされてないよな?」
「健康の面で、か?」
「そうそう」
「されていないと思うが、他の執事たちのことも考えて量は少し少なめにした方がいいと思うぞ」
紫姫の言っていることはもっともなことだった。とはいえ、一定量を超えない味噌が入っていない味噌汁なんか頂く価値が無いと言っても過言ではない。制限しろと言われて稔は出来ない訳ではなかったが、細心の注意を払う必要が有った。
「こんなもんでどうだ?」
稔はそう言いつつ、まずはヘルの鍋一つに減らした量の味噌を入れた。大さじ二と小さじ二の量である。本来であれば大さじ三は入れるべきなのだが、今回は紫姫から減塩化を求められたので仕方ない。
「いいんじゃないっすかね? てか、おたまないっすか?」
「ヘル。これ」
「おお、サンク――いいんじゃないっすか?」
ヘルはスルトからおたまを受け取って、すぐさま味噌の溶けたその汁を飲む。まだ完全に溶けきっていないはずなのだが、それでも美味しさは確かなようだ。少し口にしただけだが、ヘルの顔はほころんでいる。
そんな時だ。ラクトが、しゃいでいる召使と自らの主人へと助言を飛ばした。稔も一度実践したことのある知っていた内容だったが、アレンジ好きな彼としては意外にも忘れていた内容だった。
「味噌を入れる前なら砂糖、入れた後なら料理酒をちょこっと入れるといいらしいよ。仕上げの醤油もね」
今の時点で砂糖を隠し味として入れるのはダメだ。もう味噌を溶いてしまっており、一つだけだからとか思っていても、大多数が飲むものと違う味付けの物が生まれてしまっては困る。そういった面で、入れるものは料理酒となってくる。とはいえ、流石に味噌のタッパを持って歩いている人間が一緒に酒を持ち歩くのは難しいので、ヘルにそれは依頼した。
「紫姫。料理酒を見つけたらヘルに渡してくれ。ヘルに言っておくが、スプーンは調理台の二段目の棚な」
そんな感じで指示を出すと、即座に二人の召使は動いた。稔をはじめ、全員のコンロのつまみは弱火を指している訳だが、味噌を入れれば弱火はいい火加減ではないので早くしてもらいたかった。でも、急かしたりはしないのが稔だ。
「マスター、準備いいっすよ。開封済みなんで、私でも容易に持てるっす」
「それは良かったな」
稔はそう言うと、先ほどと同じ量の味噌を一二個の鍋にどんどん入れていく。続いてヘルが慎重に、料理酒をごく少量だけさじに入れていく。稔の心を読んだ訳ではなかったが、味噌汁を作る為の知識がそれなりにあった紫姫が彼らに続けて火加減を戻す。
「ありがとな」
「うむ。沸騰に気をつけろよ」
彼女が言うように、味噌を入れた後の沸騰はまずくなる原因だ。味噌を入れる前に豆腐を入れるか後に入れるかとかの議論で『まずくなる』とかは無いのだが、これに関してはなる可能性が有るので気をつけたい。苦味が発生してしまい、些細なことどころではなくなってしまうのである。
そんなこんなで、味噌汁組はまもなく調理終了だ。人員が確保できたために後半は早めのスピードを貫く事が出来た。まだ終わったわけではなく、沸騰させない程度に火を加える最後の調理が必要なわけだが。
「みんな、グツグツ煮立ってきたら終了だぞ。絶対に沸騰だけは迎えさせちゃダメだからな」
「把握」
「はい」
「了解っす」
稔は召使たちからの返答を得た後、自分の持ち場に戻った。仕上げの醤油に関して思い出したからそれも言おうかと思ったのだが、結局最後につまみを摘むのだ。それを見計らって投入しに行けば無問題であると考えて、稔は言わずにおいた。




