2-19 メイド・クインジーン-Ⅲ
稔はそう言った。だがそう言った刹那、あることに気が付いてしまう。
「鍋が無いじゃん……」
味噌汁を作るのであれば、当然加熱を施す必要がある。――というよりも水という物質を使う以上、容器に入れずして加熱するなんて不可能と言っても過言ではない。
「マスターさん、これ鍋っす」
「あ、ありがと……」
「いやいや、召使って本来そういうものっすよ」
鍋がないと思ったかと稔が思えば、それを狙って待機していたかのようにヘルが鍋を差し出すように手渡してくれた。俗にいう雪平鍋である。取手は付いているタイプなのだが、これが付いていないタイプもあるらしい。
何処に鍋が有ったのかはさておき。味噌汁を急いで調理をする必要が無くなったのはいいことだった。せいぜいゆっくり作っても、最終的に掛かる時間は一時間程度だ。今から六〇分ということは、夕方の五時半ということになる。パーティーは夜七時スタートで有るから、ほぼ確実に間に合うと言っていい。
ヘルが鍋を渡してからスルトの元へと戻っていったのを見送るような目で見ると、稔は一旦息を整えて調理に取り掛かった。ラクトが寿司をいつの間にか調理し始めていたから、稔も自分の材料は元々準備されていると思っていたのだが――。それは完全に否定され、時間を取られてしまう形となった。
「さてと。まずは水からか……」
エルフィリア王国の水道設備がどのようなものか探るのも含め、稔は水道の蛇口の下に鍋を構える。そして蛇口を捻る訳だが、出てきた水は衛生的に特に問題が無さそうな透明な水だった。
「おお」
ラクトが真剣に寿司を調理しているのも納得できる程度の軟水だ。でもそれは喜ばしいことである。硬水はあまり水道水として日本では飲まれないから、日本人である稔の口にはあまり合わない為だ。
「(加熱しなくても飲めそうだな……)」
稔はそう思うと、構えた鍋に一定量の水を入れ終わらせてから少しばかし水を手にとった。そしてそれを口へ運べば分かる、水道水という水の美味しさ。ある程度の加工が加えられているとはいえ、水道から水が飲めることほど嬉しい事はない。
手に口を付けてしまったままに料理をするのは如何なものかと思い、稔は汚れた方の手を洗浄する。けれども自分以外の人へ向けて料理を作るわけだったから、当然近くにあった石鹸を使わざるを得なかった。
「あ――」
そんな風にして石鹸で手を洗っていた最中、稔は一つ疑問に思ったことが有った。今作っている料理が誰宛ての物であるのかということだ。つまりそれは、味噌汁を何杯分作ればいいのかという事を表す。ラクトに聞こうとする訳だが、稔は調理台からラクトの調理台まで歩いて行くのも億劫だったので大きな声を出して聞く。
「ラクト! これ何人前作ればいいんだ?」
「一〇〇〇人前だよ!」
「は……?」
稔は驚愕して言葉を失ってしまう。一方のラクトは満面の笑みを浮かべており、ご満悦そうだ。
「嘘だよバーカ。六〇人前」
「ろ、六〇人前だと……?」
「そうそう。今作っている料理は貴族的な人たちに振る舞う料理じゃなくて、執事やメイドさんに振る舞うやつだから」
「なるほど」
執事やメイドがそれしか居ないことに驚く稔だったが、裏を返せば、それ相応の数の貴族的な人たちがホテルに居るということだ。メイドと執事が仮に同じだけ居るとして三〇人と三〇人だから、貴族的な人たちは三〇人以上は来ると見込んでいいだろう。
「でも、テロとかでボン・クローネまで来ることを取りやめた人たちも居るから、少しは減ったんだよ?」
「そうなのか」
頷きながら稔は話を聞いていた。彼女の言い分は理に適っているもので、駅でテロが起きたかと思えばメッセでテロが起きた訳だから、このホテルもいつ狙われるか分からない。王女殿下が来るからという理由で貴族的な人たちが来るのは納得だが、テロが起きかねないからと来ないのも納得できる。
「取り敢えず六〇人前。その鍋だとせいぜい作れる量は六人分くらいだろうから、おかわりする人たちの事を考えて後一二個鍋を用意してね。時間制限は一時間半だよ」
「ちょっと待て。あと九〇分でお前は寿司六〇人前を作り切れるのか?」
「私は料理が大の得意だから、終わらないわけ無いじゃん」
「なんだろ、フラグにしか聞こえねえ……」
稔のその思いがラクトに届いていたりしなかった。小声で話せばそうなるのは無理もなかろう。一方でラクトは、稔が何か言っていることなんて分からなかったからこその対応を取る。
「んじゃ、がんばってね~」
それだけ言い残すと、ラクトは作業に戻った。稔が声を掛けたと同時に中断された作業を熟す訳だが、それはとても速いスピードで行われている。寿司一〇個を一人前とカウントしているようで、六〇〇個の寿司を作らなければならないから仕方がないといえば仕方がない。
「(てか、あいついつの間にシャリを――)」
魔法を転用して作った可能性は否定できないが、稔も稔でこれから六〇人前の味噌汁を作る必要がある。そんなことを聞いている暇があれば、料理を作る時間に回したほうが遥かに良い。だからこそ疑問というゴミを投げ捨てて忘れ、稔は味噌汁作りに専念する。
「ヘル。この鍋って何処から持ってきた?」
「調理台の棚に入ってるっすよ。一二個使うのであれば、マスターの調理台とその隣の調理台の物を合わせて調度良くなると思うっす。あと場所っすけど、左の方の棚の最下段っす」
「分かった」
ヘルも料理を作ることは得意だった上に作るメニューは前菜だったから、余裕を持って六〇人前の量を作ることが出来た。量的にもあまり作らなくてもいいし、材料を加熱調理するべきものはほぼ無い。即ち、九〇分の時間の制限の中で一番楽に出来るメニューなのだ。だから、話している時もヘルの顔からは笑顔が絶えない。
「これか」
ヘルから聞いたとおりの場所の棚を開けてみれば、稔が探さなければならない雪平鍋が六つ見つかった。どうやら全ての調理台に六つの雪平鍋が入っているようだ。だが、鍋はそれだけではない。奥を見てみれば土鍋が置かれている。その隣には中華鍋も置かれていた。
「(日本とあまり変わらないんだな、鍋の種類は……)」
そんな事を考えながら六つの雪平鍋を調理用の机全部を使って乗せようとした稔だったが、当然一気に置ける訳がない。せいぜい四個程度が限界だ。無理して壊してしまえばお話にならない為、稔は三個づつ上へと運んだ。だが上へ運んでみれば、雪平鍋が六つ置かれていた。
「スルト……」
「こういう力仕事は私の出番です、マスター」
「だな」
ヘルは料理が得意だ。一方でスルトは料理があまり上手ではないらしい。けれども彼女の取り柄は力持ちなところだ。一番理解しているスルト自身が自分から運んでくれたようで、稔が褒めた時には至極喜んでいた。
「よし、これで準備完了か」
稔はそう言って鍋をコンロの上に乗せた。エルフィリアではIHコンロはまだ無いようで、ガスコンロを使っていた。勿論IHと同じように今でも現役といえば現役であるが、稔の家に現在あるのはIHであったから、久しぶりに見たそのコンロに稔は驚く。もっとも、使い方がわからないわけではないが。
何も話すことはなく、ただ無言でガスコンロのつまみの部分をつまんで回す。昔使っていた時と同じように回し、点火させる。味噌汁に適した火の強さも考えながら稔は回していたのだが、厨房のガスコンロは最強火に一度しなければならないと考えて、それをやってから弱火と中火の中間程度に設定する。
「うむ」
取り敢えずガスコンロの使い方だけ復習して、稔は火を止める。それから鍋に水を入れていくわけだが、味噌汁に水は欠かせないものだから蒸発して水の量がゼロにならない程度の量を入れる。大体六〇〇ミリリットルから七〇〇ミリリットル程度ぐらいだ。
カップだとかがあれば作業はスムーズにいくだろう。だからといってそこまで正確な量を入れてしまっていては、カップを探す手間が掛かることから余計な時間が掛かってしまう。特に稔に至ってはアレンジした方が得意であるから、そんな正確通りなことを求められても面倒臭がってしまうから元も子もない。
「しかし、こんなに多くの鍋に水をいれるのって新鮮だな……」
稔はそう言いながら蛇口を捻って水を鍋に入れていく。稔の料理スキルは料理人ほどではないけどそれなりに――という程度なわけだが、彼自身も一二個の鍋に水を入れていくのは初めての経験だった。
水を鍋に入れるだけでもそれ相応の時間がかかる味噌汁作りであるが、流石は稔。そこまで長い時間を掛けてまで水を入れる作業を行ったりする事はない。マイペースな雰囲気を漂わせる誰かとは大違いだ。
「そうだ! ネギ……」
稔は自身が用意した材料だけでは六〇人前の料理を作れないことは分かっていたが、それでもアレンジ精神は止むことを知らない。もっとも味噌汁にネギを入れるのは定番中の定番と言えるが、じゃがいもとわかめと油揚げと豆腐だけでも十分過ぎるくらいなので、アレンジと言えなくもなかろう。
だがその精神は止むことを知らなかったのだが、一方で時間的な制限は稔のそれを苦しめてくれる。
「(やっぱ、ネギ入れてたら終わらねえな……)」
ネギが何処に置かれているのかがわからない以上、稔は探す時間が持ったいないと考えて使うのを断念した。鍋一二個にネギを入れるとなると、少なくとも三本は使うだろう。もちろんその量以上のネギを使うかもしれないから、ある程度の余裕を持って捜索後にネギを持ってくる必要がある。
「――仕方ねえな」
一度に一二個の鍋を使って同時に味噌汁を調理していくという事は、一人の人間がそれを行う場合には非常に困難を極めてしまう。だからもう少し人員が確保したかった。けれどそのうち、ヘルやスルトといった野菜組が参戦するため初期は稔だけで十分ではあった。
しかし、もう一人の存在を忘れることが出来ない精霊が在った。
「紫姫――」
一二個同時が流石に無理だとはいえ、二人掛かりで三人分ずつ見ていけば特に問題はないはずだ。けれどそんな時に必要となる人手だが、今稔の支配下に居る召使と精霊、そして罪源の中で呼び出すことが出来るのは残り一人、紫姫しか居なかった。だが彼女は、先程すぐに石の中に戻ってしまった。
「……紫姫。お前は料理を作ることが出来ないのか?」
稔は石に話しかけながら、自分が今居る目の前の調理台のガスコンロに鍋を置いた。水を適当量入れた鍋だ。けれどじゃがいもなどはまだ調理し終わっていないから、当然火は付けない。
「まあ、料理が作れないのであれば作れないで別にいい。でも、味噌を溶くとか単純な作業程度なら――」
稔は自分の今居る調理台から移動し、一列にガスコンロが六個並んでいる場所へと鍋を運ぼうとした。ただ、まだ具材は鍋に入っていない。余計な時間を取ることは厳禁だったから、運ぼうとした鍋は調理台に戻される。
「――なあ、紫姫。頼むから手伝ってくれよ」
稔はそう言って前を向き、約六〇人前の味噌汁を作るために必要な人員確保を行った。味噌汁を一二個の鍋で熟す事は一人では困難だからこそ要請しているのだが、紫姫は答えを出したりしない。
「なあ、紫姫……」
稔は全然答えを出してくれない紫姫を考えると、非常に悲しい気持ちになった。「これが俗にいうツンデレのツンの部分であれば――」と希望を持つのだが、それはそれで稔の悲観的思考を更に加速させる。
「アメジスト。貴台の言い分は我に良く伝わった。これに従い、我も味噌汁作りに参加しようと思う――」
「紫姫……」
稔は紫姫が現れてくれたことを嬉しく思った。それは例えるなら、女神にあえて天にも昇る心地というような感じだ。けど良いことだけでない。嬉しいという感情が有った反面、こうなったことで稔は怒りを覚えてしまった。
「だったら、もっと早くしてくれよ」
「仕方ないではないか。我も準備が必要だったんだ」
「なんの準備だよ?」
「決まっているではないか。料理をするためには清潔感が必要であろう? だから――」
けれど稔の怒りはすぐに収まった。稔をはじめとした料理を作っている仲間たちに気を配っていたから時間が遅れた、と聞いたからだ。それが仮に嘘だったとしても、その言葉が紫姫の口から出てきただけで稔は涙が出そうになっていた。まるで成長した子供を見る親のようだ。
けれど男が涙を見せるのは恥ずかしいことだと考えて、稔はその気持ちを消し去って言う。
「……まあ、ありがとな」
望んでいたとおりに話の展開が進んでくれたことに感謝しながら、稔は紫姫の髪を撫でた。まるで犬に触れているような感じだが、紫姫は犬ではない。れっきとした精霊、女の子だ。けれど、当の紫姫は撫でられてとても喜ばしそうな笑みを浮かべている。
「――ってわけで、料理開始だ」
「把握した。我は貴台が言っていたとおり、味噌汁作りの助手をすればいいのだろう?」
「よく話を聞いていたな、紫姫。そのとおりだ」
稔が再度褒めるとやはり紫姫は笑みを浮かべる。もっとも、精霊の強さの裏には主人へと当たったりする態度が見え隠れする訳だから、それで正常なのだ。今は隠れていて、契約を賭けた降臨戦の時はそれが見えていた。解釈としてはそれが正しい。
「ところで紫姫は、料理のスキルってどんなもんなんだ?」
「一応我は帝国空軍の長の意思が石になり、それが具現化と擬人化を行って出来た訳であるから――」
「前置きはいい」
「済まない」
紫姫は稔から指摘されるとそう言い、一度咳払いしてから再度話を続けた。
「空軍は海軍の持っていた艦船に戦闘機を置いていたから、長も海軍カレーなる料理は食べていた。そして長は家族を持っていて、それで美味しい料理を作っていた。それが具現化した訳だから――」
「だから……」
自分の過去を語る長文を好んでいない稔からすると、紫姫の話は鬱陶しい限りだった。けれど紫姫は鈍感という訳ではないので稔のそのような感情を察し、話を切り上げて結論を述べる。
「我は料理を作れる。貴台はアレンジが好きなようだが、それも同じだ」
「そうか。それは好都合だ」
稔と紫姫はそんな会話をした訳だが、一つ紫姫が稔に質問を嘆く。
「アメジストよ。味噌汁を作るのに参加すると言ったのだが、だしはどうするつもりだ?」
「だしは定番の鰹だしを使っていきたい――あ」
「気が付いたか、アメジスト」
「ああ……」
稔はだしが無いことに気がついた。だが、そうなるだろうと思っていた紫姫は準備していた。
「我は時間を止めることが出来る。これがどういうことか……分かるな?」
紫姫はそう言うと、一二秒間時間を止めるあの大技を実行した。もちろん、稔からすれば流れている時間は一二秒ではない。一秒だ。その一秒の刹那の更に短い時間で紫姫は『鰹だし』と書かれた袋を確保し、手に持って稔の元へと戻ってきた。
「では、貴台にこれを」
「おお……」
紫姫から見れば一二秒間の拘束。稔からすれば拘束なんてされていたなんて分からない。そんな時間で紫姫が入手した袋は稔に渡され、彼は即時に開封した。使用済みでは無かったが、たった一袋だけでは六〇人前を作る為には足りない。余裕を持って見積もるなら、五袋は欲しいところだ。
「でも、まだ足りないな」
「あとどれくらい持ってくればいいんだ?」
「四袋頼む」
「四つだと! ……残念だが、我の目では三つしか確認できなかった」
「そうか……。まあ、それならそれで薄味にするしか無いわな」
稔は事実を知らされたが、それはそれでアレンジの施し場が広がると受け取ることも出来、特に悲しんだりしなかった。その一方で紫姫は、自分が稔の役に立てなかったと酷く落ち込んでしまう。
「済まない、アメジスト」
「別に気にするなって。それはお前の責任じゃないんだから。そもそも味噌汁を作るって言い出した俺に責任が有る訳だし、お前が嫌な気持ちになる理由なんて何処にもないだろ。ほら、料理すっぞ」
「了解……」
悲しいままでは料理の際に手を切ったりする可能性が上がる。即ち、集中力に回さなければならないエネルギーがストレスを増大させるためのエネルギーとして使われてしまうのだ。時間的な意味含めてそれはやってはならないと感じ、稔は紫姫を励ましながら味噌汁作りを始める。
「じゃあ紫姫は、じゃがいもと豆腐、それと油揚げとわかめの追加発注な。要はそれらを持ってきてくれっつうこった。俺はじゃがいもの調理に入るけど、別に無かったからって悲しげな顔浮かべんなよ」
「それは『ポジティブで居ろ』という意味なのか?」
「そうだ」
「分かった。――では、捜索に出向く」
紫姫はそう言ってじゃがいもなどを探しに冷蔵庫の方へと向かった。対して稔は、まずまな板を洗うことから始めた。鍋の中には水が入れてあるから移動が大変かと思ったが、そこは雪平鍋。そこまで大変ではない。
「一口大に切るのも一手だが、材料が限り有る以上は――」
稔は節約的な意味も込めて、いちょう切りでじゃがいもを切っていくことにした。理由は単純なもので、量が増えるからだ。時間的な面から言えば早く終わらせる一口大で切る方法の方が望まれるかもしれないが、それでは執事やメイドに配る味噌汁の具材の中のじゃがいもの『数』が減ってしまう。
そんなことを考えながら、水洗いと毒のある芽を除去する作業を行う。人員が足りないからこそ、稔は出来る限りスピードを速めながら調理を進めていた。もちろん、包丁で手を切らない程度に。
「アメジスト、追加の食材はこれくらいで十分か?」
「十分だ。それで、俺だけじゃ終わらないから早く紫姫も参加してくれ」
「了解した。だが包丁――そこか」
稔がまな板や包丁の置き場所を指図せずとも紫姫は一人で見つけ、紫姫はそこからそれらを取り出して水洗いし、稔と同様にじゃがいもの調理を行っていった。