2-9 妬欲罪源レヴィアタン 【終】
「……」
「――」
抱きつかれ、稔は黙りこむ。ただ、この時のラクトは羞恥心がいつも以上にあって、女としての恥ずかしさみたいなものがいつも以上にあった。だから、咄嗟に稔から遠ざかるように身体を動かした。
だが、あろうことかラクトが稔を押し倒したような形となってしまった。その光景は一二階で起こったことであったから見ていたものは数少ないと言えようが、ホテルの最上階であってガラス窓は多い。空を飛んで移動している者が居るならば、その者に見られるリスクは否めないだろう。
――それはそうとして、まずは事態の収束を行う必要がある。
「ラクト。何故こうなった?」
「――雑巾掛けで加速魔法を使いました」
「あー……」
ラクトとは思えないような告白で有ったが、稔は言ってもらえてよかった。人の事を散々煽ったりする彼女だが心は無いわけではない。確かに空気を読まずして心を読んでしまったりする事も有るが、一方で空気を読み、謝るときには謝ることが出来るでもあった。
「――ラクトさんの失格、という事で宜しいのでしょうか?」
と、そこへ。レヴィアはそんな事を言いながら稔たちに近づいてきた。顔には笑みが浮かんでいるが、状況が状況だから怖く感じる。女同士の嫉妬以上に怖いものはないと思い、稔はレヴィアを落ち着かせようとも思う。だが、先に出た女が一人居た。
「えっ、笑顔の裏には妬みとか……」
「妬みは有りませんよ」
ラクトは聞くと、即座にレヴィアが回答した。言われた言葉を信じ、ラクトはホッとした表情を浮かべる。
「言ったじゃないですか、私には『戦う意思は無い』みたいに。ですから、笑みの裏には恐ろしい感情が眠っているだとか、そんなことは有りません。……というよりもですね、召使同士で妬みあってどうするんですか?」
「そ、それは――」
「召使だって、人のような召使、妖怪のような召使、獣のような召使とか、色々な種類が有るじゃないですか。主人だって人間ですから人のような召使と親交を深めるでしょうし、況してや、カムオン系は召喚陣の中に戻ることが出来ないでしょう? 親交を深めないはずがないでしょう」
長文を聞くのはきついと思ったことも有ったが、この時はラクトもあまり嫌だとかきついだとか感じなかった。少々説教じみた話し方では有ったから、きついとか嫌とか弱音を吐くのがラクトと言いたいところ。でも、自身が出した結論で誤解を生んでほしくないとレヴィアが思ったがゆえの行動だったので、聞くに堪えない訳でなかった。
「――長文、失礼致しました」
黙り込まれたと感じ、レヴィアはそう言って頭を下げた。頭を下げる側では無いのに頭を下げるというのは稔と似ているようで似ていないようで、そこら辺は個々で感想が分かれるだろう。
「結局、まだ拭き終わっていないところが多少残ってるんだけど……。どうすればいいかな、稔?」
「じゃあ、俺から命令だ。……あ、これは今のバトルで得た特権を使っての命令な」
「消費早すぎんだろ……」
ラクトから特権を今から使うのかと批判が飛んできたが、稔はそんなものは気にせずに話を進めていく。
もっとも、結局召使と主人という揺るがない立場がラクトと稔の間には存在しており、ある程度の制限は課されている。主人の命令は絶対というのがその一例であるが、結局特権を使わずとも同じことが出来るため、今から使って何ら問題はない。
「ラクト。今から機器の設定を行うから、その間ずっととは言わないけど三辺目全部拭いとけよ?」
「魔法使用は?」
「やってないけどやったことにするような魔法じゃなければいい。要は、努力が目に見えれば問題なし」
「分かった」
稔は相当妥協点を与えてはいたが、どうしても努力せずに何でもかんでもやっていく姿勢が許せず、魔法で僅か数秒で終わらせるような真似はしてほしくなかった。確かに早く終わればストレスは溜まらないだろうが、そんなのただの作業ゲーだ。せっかくのバトルが作業ゲーに変わるなど、稔には考えられない。
そりゃ、結果がいいことに越したことはない。でも、全てが全て完璧に熟されると「こいつは機械か?」と思ってしまいかねない。『間違いや漏れやミス、そういうのは有ってもいいのだ。最大限の努力したのであれば』と、稔はそんな恩師の言葉を思い出していた。
「――それで、ご主人様。機器の設定を行うというのは確かなのですか?」
「レヴィア自身が出来るのならしなくてもいいだろうが、こういうのは責任が取れる上に機械に疎いわけでもない俺が代行するべきだろうって思ってな。説明書がないからどうするか分からないが、出来る限りを尽くすぜ」
「分かりました。お願いしますね、ご主人様」
「ああ、任された」
三辺目の通路から自販機コーナーへと戻っていく稔とレヴィア。途中、稔はレヴィアに聞いた。
「雑巾掛けが始まったってことは、要するに終わってるんだろ?」
「主語が足りません。修飾語が多すぎます」
「……」
稔は舌打ちしそうになるが、募る気持ちを抑えて言い方を変える。
「紫姫やヘル、スルト。彼女らはもう掃除し終わっているんだろ?」
「そうですね。でも、雑巾掛けの邪魔になると悪いということもあって、今一二階には居ません」
「……は?」
「一一階、掃除用具入れのところに返しにいっています」
「なるほどね」
稔は小刻みに首を二回上下に振る。
「そうこうしている間に着いてしまいましたね、自販機コーナーに」
「そうだな」
自販機コーナーへと戻ってきた稔とレヴィアは、紫姫たちがまだ一二階に戻ってきていない事を、まず頭に入れた。そして、何もしないままでは時間の経過を見ているようなものだと考えて、機器設定を行っていく。
「ご主人様、魔法陣が光っていますよ」
「あいつら、もしかして階段とか使うのが面倒くさくなって使ったのか……?」
「仕方無いですよ。寝起きなのですし」
「それもそうだな」
睡眠は九〇分サイクルと言われているから、それをぶち壊してまで起こしてしまった事も影響していた。だから、疲れがまだ完全に取れきっていないことで階段を上がらずに帰ってきたとも言えなくない。
「今度は石が光っていますね」
「紫姫も寝起きだっけか。……ったくもう、治癒は何時になったら終わるんだっての」
「ご主人様はそれが知りたいのですか?」
「レヴィアは何か知っていたりするのか?」
「ええ」
「なら、言ってくれ」
稔は聞きたかった気持ちに逆らうこと無く、レヴィアに話すよう指示した。少し息を整えた後、レヴィアの話が開始されたが――これまた長文になる恐れも懸念される。稔は構えとして長文に耐えようとする心を持って、それから話を聞き始める。
「サモン系の召使は、治癒を魔法陣の中で行っています。主人と同じように睡眠などで休養を取っているわけではないのです。ですから相当な火力でない限りは治癒はすぐに済むはずです」
言いながらレヴィアは機器を稔に渡す。
「ですが、治癒はすぐに終わるわけでは有りません。三〇分で終わったりするのはかすり傷程度でしょう」
「かすり傷……」
「ええ。ご主人様のラクトさん以外の召使さんが置かれている状況、これはかすり傷なんていうものではなく、ただ疲労が溜まっているだけでしょうが――紫姫さんは、疲労に加えて戦いでの傷も入っています」
「そうか……」
思い起こせば、確かに稔は紫姫に傷を入れている。契約の段取りを踏む前にあったあの降臨戦で、デッドエンド・バタフライと名乗る紫色の髪の毛の少女に傷を加えた稔とラクト。それからボン・クローネ駅や旧・帝国最終空母エルダでのバトルもあって、稔が入れた傷の数の三倍以上には傷の数が膨らんでいるはずだ。
そう思うと少し申し訳無さげに謝りたくなる稔だったが、契約時の事に関しては何も稔が全部悪い訳ではない。契約しなければ話は別だが、もう降臨戦が始まった時点で契約しようとしていた。なら、そのために踏まなければならない段取りを踏んだだけのことであるわけだから、何も気にすることはないだろう。
「ただ、魔法陣の中の治癒能力はとても高いです。魔力を消費した数字にもよりますが、原則として二四時間以内には、どんな魔法を使ったとしても治癒完了となります」
「二四時間……」
「紫姫さんの傷つき様を見ると、五時間は見積もったほうが良いと思います」
「五時間?」
唖然とする稔。レヴィアは理由を聞こうとするが、稔から言ってきた。
「おい、どういうことだよそれ。五時間ってことは二一時、晩餐会には間に合わねえじゃねえか!」
「そんなこと、私に言われましても……。結局はご主人様の力量不足としか言えませんし――」
「俺の力量不足か……」
稔は復唱した後で顔を俯かせ、まだまだ統率する力が足りていないと思うと歯がゆい思いを抱く。ただ、現実を知ったからと自分を攻めているだけでは何も始まらない為、嘆息を漏らした後で咳払いして話題を変えた。
「んじゃまあ、その話の結論は俺の力量不足ってことにして――」
「ご主人様。予想では有りますが、ヘルさんやスルトさんの必要治癒時間は聞かないのですか?」
「じゃ、聞いておこうかな」
ヘルやスルトは表向きの戦いには出てきていないから、必要な治癒時間の残りはそんなに多くないと稔は考えた。もっとも爆弾魔の男から譲り受けた訳であるから、それ以前のことを考えないでの話だが。
「察しているかもしれませんが、どちらとも三時間半です」
「三時間半……?」
確かに紫姫よりも少ないとは思っていた稔だが、案外多く時間を取ることに驚く。時計が何処にあるかは分からない稔だが、ボン・クローネ駅で確認した時は一六時だった。三時間半後ということは大体一九時半頃だから、晩餐会に間に合わなくはないが――肝心の準備には間に合わないだろう。
「(俺、ラクト、織桜、ユースティティア、スディーラしか行けないのか……)」
稔は悲しい現実を知ってしまうと考え込んだ。主人は治癒能力とかは元々備わっている本能的なもので十分なわけだが、それでも手伝いが出来る人員がそれしか居ないと考えた時には酷く落ち込む。
「――考え事ですか?」
「ちょっと、な」
晩餐会の準備作業を手伝える人員が本当に少ない事は致命的だ。なにせ、主人の絶対的命令で従わせてでも召喚しても良かったが、それだと準備作業だけをしたことになって晩餐会という楽しみが無くなってしまう。稔は主人という立場でありながら召使を大切に扱う男だったから、それは許せない。だったら、最初から手伝わせなくていいと思った。
「抱え込まず、話してください。召使は主人の心のケアもしたいと思っていますから」
「でも、実際地縛霊に話しても意味があるのか――」
「大丈夫です。抱え込まないのが一番ですから。妥当な回答が出ないかもしれませんが、それでも誰かに話す事で気分は良くなるはずです。悲しみを一人で抱えている事以上に辛いことは有りませんからね」
レヴィアに話したところで意味は無いと思っていた稔だったが、それでいて憂鬱な気分になるのなら従ったほうが全然いいと思えた。そして機器の電源を付けて設定作業に復帰すると同時に、レヴィアに稔は言う。
「このホテルでは王国の王族の晩餐会、パーティーが開かれるらしいんだ。それで俺は、その王族と親しくなったから準備をしなくちゃいけないことになった。俺と共に準備してくれるのはラクトは確定として、他に人員が欲しいからヘルとスルトと紫姫を追加したいんだが――」
「……治癒が終わっていないと余計に疲れが溜まると思っているわけですか。難しい主人です、ご主人様は」
稔に対してひどい評価をつけると、レヴィアはため息を付いた後で言った。
「ご主人様は、治癒時間中に何も出来ていないと考えていらっしゃるかもしれませんが、ある程度の集中力が無くなっても作業が出来ないわけじゃないんです。今みたいな単調な作業であれば当然――」
「でも装飾とかは単調だけど地味だし、器用じゃないと……」
「言わせてもらいますが、装飾品などは主催者側が用意していると思います。流石に今日開催なのに今日組み立てるというのは、私自身おかしな話かと思いますし、そこら辺は頭に入れておいたほうがいいかと思います」
レヴィアの言っていることも一理あると頷きながら聞く稔。
「でも、あまり重いものを持ち運んだりしない作業であれば苦でないでしょうから、治癒の最中でも単純で重いものを運ぶような事でなければ問題はないと思います。支障も無く、スムーズにいけると思います」
「要するに、俺がどう指示を出すかってことだろ?」
「お分かり頂けましたか、ご主人様」
レヴィアの言っていることを理解すると、結局主人の責任は相当なのだと改めて思い知る稔。まだ準備の時間ではないから良いとしても、しなければならない時が来るのは確かだ。もちろん稔には、中止に追い込むような勇気なんてないしさせる気もないから、結局準備の手伝いをするしかない。
「――色々と長話も有ったりしましたが、機器の設定をしていきましょう」
「そうだな」
稔が持っている機器は、持たれてから数分以上経っているのに使い道を見つけてもらっていなかった。けれど今、ようやく使い道が開かれる。レヴィアと稔との間を繋ぐ機器としての役割が今、与えられる。
「――なあ、レヴィア?」
「どうかされましたか?」
「掃除、必要無かったっぽいぞ」
「設定の為に掃除した意味はなくても、奉仕作業としての意味は有ったと思いますが――何故ですか?」
掃除の意味合いがないと言われたが、レヴィアは反論する。ただ、稔から衝撃の事実を知らされると口が開いたままになる。
「着用すればいいらしい」




