2-8 妬欲罪源レヴィアタン 【末】
稔とラクトが雑巾を絞っている最中。ヘルもスルトもレヴィアも紫姫も、掃除を開始していた。先に埃を取っておくことにより、雑巾に付着する埃は取りきれなかった埃だけになる。その方が効率的であるから、モップ掛けをしておくことにしたのだ。
始まったので一二階のあらゆる方向を見つつ、稔とラクトは雑巾絞りを続ける。
「それで、稔はどこを担当するの?」
「人数的にモップ担当と雑巾がけ担当の人数が違うし、考えるだけでも絶対に疲れる事くらいは分かる」
「答えになってないぞ」
「そうだな」
稔は思っていたことを口に出していた。場合を見計らって話すのであれば問題はなかったが、今するのはおかしいと言って感じる。答えを求められているというのにそれを否定するような真似をしたこと、それに関しての直接的な謝罪こそ稔はしなかったが、「そうだな」の台詞の裏に謝罪の言葉を隠しておく。
「――なら、一つ提案だ」
「お?」
「このバケツが有る場所を『場所A』として、ここから互いに魔法を一切使用しないで雑巾がけをしていく。互いに進めていって出会った場所を『場所B』として、場所AB間の道のりが長いほうを勝ちとする。そして勝者は、敗者に『一度だけなんでも言うことを聞かせる権利』を持つということにして――」
「……長い文章台詞やめてよ。理解難しいから、要約して?」
ラクトは勉学が酷く非得意というわけではなかった。けれど、誰だって当てずっぽうで今考えたことをダラダラと述べられた文章を聞かされたりでもすれば、嫌な気分になってしまうはずだ。
「要約すると、これから雑巾がけゲーム的なものをやって、勝ったら一度だけ敗者を好きにできる権利が貰える」
「ほう……」
ラクトは言うと、絞りきった雑巾をバケツの水面にまたつけた。絞りきったというのにも関わらずの行動では有ったが、これも一つの作戦である。一方の稔は五分の四程度水を絞りきった雑巾を持って、ラクトが絞り切るのを待機する。
「――ぶつかった時までの道のりで決めるんだよね?」
「流石に衝突事故を起こす気は無いが――言っていることは間違ってはいないな、その通りだ」
「そっか。まあ、そういうことなら作戦も読める私が一枚上手ってことみたいだけど」
「――」
黙りこむ稔。ラクトは要約しろ、と稔に言ってきたのは事実で有ったが、だからといって稔が当初言っていたダラダラした長話を聞いていないわけではなかった。彼は魔法を使用しないで云々と言っており、それをラクトは把握していたのである。要約時に言わなかったところだったが、そこをついてこられて稔は驚く。
「心を読むのが魔法じゃ無いのは確かに痛いな……」
「そうだよねー。でも、こういうのを日頃からやっていることでピンチの時に迅速に対応出来るんだ。私からしたら、痛くも痒くもなんともないよ。ノーダメージだもん」
「俺からすれば、HPがあと一みたいな瀕死クラスの大ダメージなんですが……」
「大げさすぎだよ」
ラクトは大笑いしているが、稔からすれば笑うことの出来ないような話だった。自らゲームと言って話を持ちかけた稔だが、実際のところは考えてみれば勝ち目なんて無いと言っていい。主人公補正的な意味で、多少は能力補正が掛かっている。だが、流石に体力を使う水商売をしていたサキュバスに勝ち目はほとんどない。
「そういえば、スターター……」
「ご主人様たちのスターターは私がやりましょう。ですが、もう少々お待ちください」
レヴィアも雑巾を使うはずなのだが、彼女もやはりほうきを使用して掃除をしていた。これも理論は同じであって、その方が効率的に作業を進められる以外に見当たる理由はない。掃除中だったのでほうきを持ちながらだったが、レヴィアは稔の方に出てきてそう言った。
「ラクト。拭き残しはやめろよ?」
「稔は私をがさつみたいに捉えてるかもしれないけど、それ違うからね?」
「捉えてねえよ。ご飯の食べ方云々、ラクトはがさつでテンションが高い女じゃねえ」
「……本性を見せたら理解してくれるのか。嬉しい限りだ」
そんな事を言っていると、レヴィアは水が大量に入ったバケツから見える方向でモップ作業をしている紫姫とヘルにレヴィアがコンタクトを取った。一応は召使としての行動を取ろうと心掛けているらしく、敬語を使ってのコンタクトとなった。
「――ふう」
レヴィアがコンタクトを取っている時に、「そんなに改まるな、新参の罪源娘」と紫姫が言っていたのが頭から離れなかった以外は特に変わったこともなく、稔はいいコンディションでその時を迎えようとする。一方のラクトは、いつも通りにその時を迎えようとする。
「スルトさんのところも少しで終わるようなので、もうゲームを始めても良いとのことです」
「んじゃ、始めてくれ。スターターさん」
「はい」
稔に始める許可を求めたレヴィアだったが、そこまで丁寧にやる必要は無いと稔は少し笑みを浮かべる。接待的な笑みと言われればそれまでなのだが、それでも紫姫の言うように新参。接待的な笑みを浮かべてしまうのは、主人が召使との関係を構築していく上の初期段階としてはあっていいことだろう。
「用意……。スタート!」
スターターに対して稔が始めていいと許可してから僅か数秒後、レヴィアは盛り上げようとして『スタート』のところを強く言ったが、稔に気付かれない。ラクトは心を読めるから救いの手があると考えられなく無いだろうが、そうは問屋が卸さない。ラクトも士気を高めていたことが重なって気付かなかった。
「うおおおおおおお!」
「はあああああああ!」
些細なことを気に留められるほどの配慮など、稔にもラクトにも無い。その部分が欠落しているのは人としてどうかと思われるかもしれないが、今は戦いの時である。
「足が……っ!」
「風でスカートがめくれる……」
体力的にはラクトの方が圧倒的優位な立ち位置に有ったが、敵はそこではない。恥ずかしい気持ちに関しては人一倍受け流せるラクトだったが、今回は特別だった。雑巾を前へと滑らせ進めていくことは、スピードが出れば風も出ることになる。だから、めくれたスカートの下のパンツに風が強くあたって寒く感じた。
「(これが、電車内でのあの姿勢が招いた結果なのか……?)」
一方で稔だが、こちらは足が大変なことになりそうだった。日頃からゲーム世界では足腰ともに(装備的な意味で)鍛えていた稔だったが、仮想世界でないこの空間ではそうもいかない。足が壊れそうになった訳ではなかったが、動力としての機能は十分に発揮できていないためだ。
「(この布地、風が当たって冷たい剣が刺さるみたいで嫌だあああ!)」
織桜からの命令ということもあったが、稔に胸を揉まれているラクト。異性を嫌っているから、異性から見られれば当然蹴りでも入れてやる所存だった。しかし異性でなくて同性でも、今回は大変な寒さだったので対処が自分なりでなくなっていく。
「はあ……はあ……」
「はあ……はっ、はあ……」
両者一歩も譲らない戦いっぷりだが、体力面の優位とアンチ屈辱の優位は別であった。五十歩百歩という言葉に近いわけだが、稔でもラクトでも、五〇歩でも一〇〇歩でも足を進めていた。そして、進めれば進めるほどに出てくる息、息、息――。
「拭き残し……うっ――」
「まだ、このままじゃ稔に負け――」
あまりにスタートダッシュを頑張りすぎた結果として、稔もラクトも足が逝ってしまいそうになっていた。前へと一歩踏み出せない訳ではないのだが、そのスピードはもう遅いものになっている。
「(増員するべきだったか……)」
「(魔法さえ使用できていればこんなことには――)」
向かっている方向は違っていたが、結局拭き残しをしないようにするために行ったり来たりをしていた稔とラクト。ようやくフロアを長方形と捉えた時の一つの辺を拭き終わったけれど、もう力は尽きそうになっている。――が、嬉しい事に次の一辺は両者とも疲れが響くような距離ではない。
脳内で冷静な判断がまだ出来ていた稔。彼にはもう少しばかしは余裕が有った。そんな一方で、冷たさで刺激されていつもの彼女にはない恥ずかしさを持つラクト。まだ冷静な判断をしようと思えば出来なくなかったが、どうしても恥ずかしさが強くなってくるのでリミットが迫る。
「(ダメか……)」
リミットに抵抗してまで頑張るラクトだが、そのリミットはもう近い。響かない程度の長さの距離では有るが、雑巾がけを拭き忘れ無しで行っていくのは往復が伴う。それでいて時間まで競っているのだから、論理的で冷静な判断を下せるのは最初の方だけ。それらの思考能力が低下すると、もう残るは気力だけなのだから。
「まだ! まだいけるぞ!」
ラクトがリミットに抵抗してマイナスな風に気持ちを持っていっているが、それに対してプラスの気持ちを持つ稔。前向きに居るほうが足が進むと思っていたのだが――それはどうやら稔には通用しないらしい。
「うぐっ……」
アキレス腱が切れたりはしないが、もう足が大変なことになりつつ有った。姿勢を崩してもいいと妥協点を与えた稔は、その妥協点に則ってゲームをしてもいいだろうと思うが――ラクトを思うと出来ない。彼女がしていないかもしれないと心配すると、稔は卑怯な手だと出来ない。
「おっ、終わった……?」
思考能力はラクトと同じように低下傾向に有った事に気付かなかった為、いつの間にかラクトは冷静な判断が出来る時間帯を終えていた。それはそれとしてでも、彼は勝負を決める三辺目へと移ろうと足を先に進めようとする。だが、そう簡単に足は動こうとしない。
「(クソ、魔力が無くなったら俺は何も出来ねえのか! もう相当体力は使ってるが、三辺目は……!)」
三辺目へと足を進めたい気力の一心で進む稔。だが、動くのは僅か数十センチ。五〇センチ程度だ。冷静な思考能力がない中、稔は唯一思い浮かんだ名言を続ける。
「(悪いな、こんなヘボ主人の相手なんて。何かを最後までするところだけは、いいところを見せ――)」
ところどころ自らアレンジを加えつつだったが、大きなため息と小さなため息をそれぞれつきながら、進まぬ足を前へ前へと進ませようと努力する。――と、その時だった。
「(クソ、フルパワーだぜ! 信じらんねえ!)」
一瞬ながら稔を幻覚症状が襲った。しかしながら、すぐさまその幻覚症状は晴れてしまう。
「(やっと戻った……けど、やっぱりダメか?)」
歯を食いしばり、声にするべきではないと心の中で綴られていくパロディ応援メッセージ。そして、そのパロディもついに終盤に差し掛かる。ただ、一部忘れていたのでそこを飛ばして稔は言う。
「(俺の人生は晴れ時々大荒れ……いいね、いい人生だよ!)」
稔の顔に、一瞬だけ苦しんで歯を食いしばっている顔に。稔がパロディネタを内心で言ったその一瞬だけ浮かんだ。ほころぶ顔、けれどすぐにそのほころんだ顔は直されてしまい、元通りになる。
「(風を、風を拾うんだ! 動け、動け、俺の足――!)」
なおも歯を食いしばり、進めていく足は僅かしか動こうとしない。
「(回れ! 回らんか!)」
それがパロネタの最後の一言だった。パロネタを飛ばしたところを除くところしか覚えていないと捉えて良い訳だが、意外と稔は改変を加えたところも含めても結構覚えていた。もっとも、火事場だったから普段は忘れていくようなパロネタでさえも思い出せた、と考えられなくもないが。
だが、そんな締めくくりで終われるほど世界は甘くない。現実は非情であるのは常に同じだ。
「危な――」
向こう側から雑巾を滑らせながら走り進めてきていたラクトが登場し、稔の身体の方向へと向かってくる。なんといっても股間部の重要な部分を攻撃されるのは御免だったから、ある程度受け入れられる態勢を稔は作っておく。
けれど、どこに突進してくるかは予想上でしかないから、本当にそこに来るとは限らない。だが稔は、絶賛思考能力低下中のラクトだったからと最後にはプラス思考になった。
「え?」
だが、プラス思考になったのが良くなかった。突進の如く稔の方向へ向かってくるラクトは、近くから見ればさながら衝突間近の車だ。そのため、避ける事が出来るのは予想通りになったとき。予想が外れれば、避けられることなど到底出来なかった。
雑巾掛け対決は稔の態勢の斜め上をいく結果、稔に抱きつくような結末が待っていたのだ。




