2-7 妬欲罪源レヴィアタン 【後】
清掃することになったとはいえ、まだ稔は召使も精霊も誰一人として召喚してない。だから、この時点で清掃作業を始めようものなら長時間掛かることは言うまでもない。――が、始めようとする女が一人。
「レヴィア。ちょっと待ってろ」
「ご主人様、申し訳ありません」
「いいよ」
レヴィアは一一階の掃除用具入れまで行こうとしたが、召使たちがまだ召喚されていなかったので稔が止めた。レヴィアは主人に逆らう理由がこれといってなく、ただ彼の言ったことを素直に呑む。
稔は、レヴィアが素直に呑んでくれたことを特に気には留めずして、まずは召使の召喚に入る。
「――スルト、ヘル、召喚――」
稔の宣言と共に魔法陣が展開され、そこから現れる二人の召使。スルトとヘルだ。彼女たちはしっかりと休養を取れていたようだったが、どうやら睡眠中に命令が入ったのは頂けないらしい。
「マスター。少し寝起きなので反応が鈍いかもしれませんが、ご容赦ください」
「そっすね。私も右に同じっす」
起きてからある程度目を覚まそうと、二人は軽く稔に意見を述べる。動かないよりは、口を動かす程度でも多少なりは動くべきだと思った訳だ。なにしろ、これから清掃をしなければならないのだから。
「――さて。問題は紫姫か」
スルトとヘルが召喚されたところまでは順調だった。ただ、稔は忘れてしまっている訳だ。先程は紫姫から出てきてくれたから良いものの、今回もそういくとは到底考えられない。なぜなら、紫姫は先程『今回だけ』と同じ類の事を言っていたからだ。
「……ラクト」
「私を頼るの?」
「悪いかよ!」
召使を頼ることに関して、なんら問題が無いと思っている稔。確かに問題はないのだが、もう少し主人としての威厳を保つならば聞くべきではないだろう。これでも新国家元首、「ハニトラに引っ掛かりそう」という専らの噂すら流れているというのに、これでは評価が下がっていく一方だ。
「……稔が紫姫を一番最初に召喚させた時に言った呪文は、『タラータカルテット、アメジスト』だったはず」
「サンキュー、ラクト」
「そこはサンクスでしょ。稔は親しくないとでも思ってるの?」
「どっちでもいいと思うんだが――」
細かい事を気にして欲しくない云々、稔は少しばかし髪の毛をむしゃる。ただ、ラクトが細かいことを気にする事もあるという新発見が出来たのは、稔の経験値がプラスされたことに繋がった。
それから少し深呼吸をして、稔は言う。
「――タラータカルテット、アメジスト――」
特に声を張り上げるわけでもなく、ただ冷然とそれを述べた。そして、数秒すれば石には紫色の光。これは、召喚されようとしている証拠である。でもそんな説明をするような時間は無く、すぐに紫姫が召喚された。
「貴台に問いたい。我は今疲れていて、まだ完全に治癒を終えていない。それでも清掃をするべきか?」
「――そんなに疲れたのか?」
「失敬な。貴台には見えなかったかもしれないが、アスモデウスと戦っていた時間は五分以上なのだぞ?」
「まあ、それはご苦労様……」
稔は召喚されて間もなく「疲れている」と言ってくれた精霊にそう言うと、少し苦笑いを浮かべた。ボン・クローネ駅での一件で、自分から傷ついても立ち上がった精霊が言う台詞とは思えないと感じたのだ。もっとも、それが彼女を疲れさせる原因となっているとも考えられるが――。
「取り敢えず回答だけしておくけど……。清掃するかしないかはお前が決めろ、紫姫」
「貴台は主人としての役目を全うするべ――」
「人様の疲れなんざ俺には分からないからこそ、その疲れている本人に判断を委ねているというだけだぞ?」
「そうだったのか。これは済まない」
精霊は言って、ぺこりと頭を下げる。
「頭を下げる必要はないよ。……で、紫姫の回答は?」
「雑巾で床を拭くとかであれば、我は絶対に断るつもりだ」
「把握した。んじゃお前は、モップで床を拭くといい。あと、寝てたお前らも」
紫姫と同様に治癒をしていたヘルとスルトにも、紫姫と同じ行動を取れと稔は指揮を執る。モップで床を掃除するのは疲れ仕事という訳ではないから、敢えて疲れている人たちに回した構図だ。
「稔。私は何をすればいいのかな?」
「ああ、ラクト。お前には俺と一緒に雑巾がけをやってもらう」
「――床じゃないよね? か、壁とか窓とか……」
「窓ふきはお湯を使わないと汚くなってしまうし、やるんだったら外からやったほうがいいから今はしない。それと、この一二階の床は絨毯ではないから、床も雑巾がけが容易に出来る」
「……」
黙りこんでしまうラクト。――と、そんな時。彼女にいい案が浮かんだ。
「わっ、私もまだ治癒が終わってないので――」
「お前、これまで一回もあくびしてないよな?」
「あっ、いやっ、それは……」
追い詰められていくラクト。流石に人員が一人しか居ないのでは稔も足りないと思って、せめてもう一人は必要としていた。そしてその一人がラクトというわけだが、彼女は稔にどんどんと追い詰められていく。
「ふ、ふああ……」
「嘘みたいなあくびすんな」
あくびをするが、時はすでに遅い。もう言われてしまっていることをやったところで、疑いの目が掛けられるのが自然の理である。そのためにラクトに疑いの目が向けらてしまうのだが――彼女はまだまだ抵抗する。
「あの、マスター? もう掃除やってていいっすか?」
「ああ、いいぞ。掃除は一一階に有るらしいんだが――レヴィア、教えてやってもらえないか?」
「はい。構いません」
稔の指示を受け入れると、レヴィアはヘルを連れて一一階へとエレベーターで向かおうとする。階段も使えなくはないそうだが、やはり足腰をこれから掃除で使うことを考えての判断だった。
「女二人じゃ大変だろうから、スルトも行ってやってくれないか?」
「分かりました。……では、手伝いに向かってきますね、マスター」
「おう」
レヴィアとヘルは先に進んでこそいたが、まだまだエレベーターの中には入っていなかった。スルトはチータークラスの最速という訳ではないが、少し早く歩くか遅く走ったりでもすれば追いつくくらいのペースだったから、スルトのような者は容易に追いつけた。
「……さて。ラクトよ、何故断る?」
「なんなのさ? 他の召使には甘いくせに、なんで私にだけ厳しいのさ?」
「そんなの、お前が一番俺と接している機会が多いからだろ。別にお前の事を嫌っているわけじゃないが、他の召使よりはお前の方が仲いいし、それだと頼める仕事も多くなるだろ?」
「それは、確かにそうだけど――」
「まあ、マイナスで考えるな。プラス思考で考えればいい」
稔は応援のメッセージを送ってやった。けれど、ラクトがメッセージに難癖をつける。
「プラス思考に出来るかこんなもん!」
「何処らへんが?」
「不平等だ! こんなの、不平等だ!」
「膝の上を占領して寝てた奴がよく言うよ」
「――」
ラクトに膝を貸してやっていたのは紛れもなく稔だ。そして「不平等」と言うのなら、断らなければ話は通じないだろう。耳かきをやってやったのは稔の善意だから別に話す必要はなかったが、それでも膝の上を自らのものにしてくれたラクトには、稔も強く出た。
「……怒りをぶつけてこうなった訳じゃないよね?」
「仕事が自分だけ辛いものになった理由が、か? 馬鹿か、俺はそんな卑怯な手は打たねえっつの。つい数秒前に言ったろ、『仲いいと頼める仕事増える』って。俺の思っていることはそれだけだ」
「――」
「……心を覗こうとしてるの見え見えだぞ?」
稔はそう言ったが、ラクトは気にも留めないで心の中を覗く行為を止めようとはしない。――が、結局は主人が言ったことが特に間違ったことでないことに気が付き、ラクトは驚いた様子で言う。
「本当にそれしか考えていなかった、だと……?」
顔を左右に小刻みに揺らす。まるで寒気に震えているようだが、地縛霊という幽霊的な存在であるレヴィアも居ないから、特に恐怖の根源となるような人物は誰も居なかった。故にそれは、ただの比喩にしかならない。
「それで? ラクトは雑巾がけをするのかしないのか。答えろ」
「しなかったら、稔からの信頼が薄くなるだけ?」
「そんなことで信頼を失うとか、どれだけ軽い関係なんだよ。別に信頼は無くならねえよ、そんなんじゃ」
「――でも、やらないと稔に負担が増えるだけだよね?」
「当然だろ」
ラクトは委ねられた決断に際し、稔が思っていることと自分が思っていることの食い違いに葛藤する。自分の主人であれば、「お前の好きなようにしろ」というのが当たり前だと考えるラクトだが、これだけの人数を抱えた今、しなければならないのは集団行動。一人だけ何もしないのはおかしい気もした。
「――」
口篭るラクト。判断が中々出来ないまま時間が過ぎようとしている。一六時は過ぎたのは分かっていたから、晩餐会のようなものがいつから始まるのかわからない以上は体力は温存しておきたくも思うところだ。
「稔。姿勢はどうでもいいよね?」
「まあな。拭いたところを汚くしない程度であれば、疲れたら姿勢を崩すといい」
「じゃあ――」
しかしラクトは、時間とか体力とかの配分のようなことを気にしすぎていたことに気がついた。確かに治癒に関しては魔法陣が無いから、自然治癒になるのは言うまでもない。それでも、それは疲れるようなことをしているせいだ。疲れるようなことをしなければ、多少の疲れは我慢出来る。
そして、それは掃除であれば姿勢だった。雑巾がけでは尻を上げて頭を下に向けて前に進んでいくと格好良く見せられるが、誰も気に留めないし疲れるだけ。でも、稔からその姿勢を崩してもいいと言われた事に伴って姿勢を気にすること無く掃除が出来ると考え、ラクトは雑巾がけをすることにした。
「おお。流石は俺の召使第一号だな」
「うっせ」
稔から言われて照れ混じりに言うと、紫姫が一言言う。
「しかしながら、中々帰ってこないな」
「そうだな。――あいつらの様子でも見に行ってくるか?」
「それも一案だが、その程度の作業であれば我一人で十分であろうから気にしなくて良い」
「そっか」
紫姫と稔がそんな話をして一段落、ヘルとスルトとレヴィアが帰ってくるのを待つ。だが、いっこうに帰ってくるような気配はない。心配になって彼女らを迎えに行こうとする稔だが、それを紫姫が止める。自分だけで十分であると強く言うのだ。だが、それを稔が止める。
「――よし。んじゃ、ちょこっと一一階行くか?」
「探しに行くの? 全く稔は過保護過ぎる親なの?」
「違うが」
紫姫の言っていた意見を稔は呑んだりしなかった。一一階で何か有ったのであれば、戦力が多いほうが戦い沙汰になった時に強さを発揮できる。それがどの程度の威力を持つのかは実戦にならねば分からないが、普段よりは火事場ということで強くなっていることは想像できよう。
「まあどうせ、行くときはテレポートで行くんでしょ?」
「そりゃそうだろうよ」
特にデブという訳でもないから、稔は階段を通って一一階へ行こうとは思わなかった。一応フロアはそれなりに広いから、くまなく探している間に行き違いになる可能性だって考えられる。だからこそ、やるなら早く見ていくためにもテレポートする方が良い。
――と、その時だ。
「重たい……」
心配していた三人が一二階へ現れた。ヘルはほうき二つとモップ三つを持っていて、レヴィアはちりとり三つと雑巾二つを持っている。スルトは力持ち枠ということで、水の入ったバケツを持たされていた。そして、そんな歯を食いしばってまで運んできてくれたそのスルトの力強さに感謝して言う。
「ありがとうな」
「いえいえ、とんでもない」
召使としての職務的な物を全うしたまでだと主張した後、スルトは自販機コーナーの出入口付近にバケツを置いた。そしてレヴィアが持っていた雑巾二つを貰い受けると、稔は投げ渡しでラクトに渡す。すぐさまバケツの水で雑巾を洗おうとするが、その時に稔は気がついた。
「――なんでこんなに多い水入れてきたんだ?」
バケツの中には、以上といえるほどの量の水が入っていた。夏であれば水で冷たく感じて「気持ちいい」と思うかもしれないが、エルフィリアでは夏のような暑さは今ない。だから、「気持ちいい」と感じることもない。故に、水を多く入れてきた理由を稔は問う訳だが――回答が酷い。
「レヴィアが入れすぎたんですよ、マスター」
「ヘルが『一杯入れるといいよ』とか言うから……」
「私はそんなこと言ってないっすよ! 元はといえば、途中でレヴィアが蛇口をひねりすぎ――」
「それやったのはスルトだろ! 『重たいのもいけるから』って言ったのはスルトじゃんか!」
早く掃除を始めて準備作業までの時間で休養を取ろうと計画しているというのに、こいつらのひどい回答にはぐうの音も出ないと思い、稔は呆れ果てた顔を作る。
「――お前ら、いいからモップ掛けをやれ。こんな無駄話に時間を掛けてたら日が沈む」
稔がため息混じりに言うと、三人は声を揃えて言った。
「「すいません、マスター!」」「すいません、ご主人様!」
稔の呼び方すら異なったが、謝罪の言葉は同じだった。そんな些細な事に笑うような余裕も無いままに清掃作業は進んでいくわけだが、稔は後先を考えると目を手で隠して顔を上にあげる。そして、深く息を吐き捨てる。
「一〇分で終わったら奇跡だな、このままじゃ」
「一応は主人なんだから、少しくらいは召使に期待をしなよ」
「こんな状況で期待出来たら、そいつは凄えと思うが――」
与えられた雑巾を絞りながら、稔とラクトはそんな会話を交わす。




