0-1 08月06日 前
「何でこんなに暑いかな……」
八月六日、午後一時半。アドレスバーの横で入れておいたプラグインが猛暑日になったことを伝えると、夜城稔は溜息とともに嘆いた。
とはいえ、外の気温とは対照的に二五度に保たれた室内は快適そのもの。熱帯夜が続いたことと家から出ていないことが重なって、少なくともエアコンは二日以上つきっぱなしだったが、彼はそれがなんだの一点張りだった。暑い中をあえて外に出て遊ぶ意味もないと思っていた稔の夏休みは寝落ちが基本で、パソコンも数日間に渡ってシャットダウンされていない。
それが運の尽きだった。
「は?」
パソコンは突如として異常を示すブルースクリーンになった。突然英語がズラッと並べられるのは、ブラクラや文字化けに似て心臓に悪い。だが、彼はそんなことで驚いたりしなかった。元々そういったドッキリ系に慣れていた側面もあるが、何より、自分の体よりもパソコンに起きた問題の方をはるかに重要視したことの方が大きかった。
何か液体を零したわけでもないので青画面の指示に従って再起動してみる。改竄されたサイトを踏んだり、怪しいソフトをダウンロードした記憶もないので、どうせ熱暴走かゴミが詰まっているのだろうと軽く思っていたのだが、現実は非情だった。
「マジか……」
再起動は失敗した。電気を失った媒体に電算機能を戻すために電源ボタンを押すが、何度押しても電気が供給されていることを示す黄緑色のランプが点灯しない。稔は「終わったな」と思った後で大きな溜息を漏らした。
「……買い替えだな」
中学一年生の時に父親から貰って以来ずっと使ってきたパソコンは、もはや時代に合わないスペックだった。言うまでもなく保証期間はとっくのとうに過ぎている。仮にコールセンターにかけたとして、修理を請け負ってもらえるかすら怪しい。それならいっそ新しいものに買い替えたほうがいいに決まっている。
だが、買い替る上でもいくつか問題があった。まずは気温の面。稔が住む現在の横浜の気温は拡張機能を見ても分かる通り三五度を越えている。水と友達にならずにはいられないほどの酷い暑さだ。次に友人関係の面。クラスでも圧倒的な陰キャラである彼に、あえて電気屋がある横浜市街まで行くのは、クラスメイトに何を言われるか分からないという恐怖から、非常に苦な話であった。
しかし、じゃあネット通販で買えばいいというわけにもいかない。安くて高スペックなものを手に入れられる可能性は下手したら実店舗より高いのは確かだが、その反面、自分から検索にかけていく必要がある。結局、パソコンのスペックについてそこまで深く掘り下げて考えたことのないこともあり、彼はまず実店舗で眺めてくるのが先だろうと思うに至った。
「家電量販店に行ってくる」
「はーい」
思い立ったが吉日。稔は自室よりもさらに低い設定温度の部屋で映画鑑賞をしていた母親に行き先を告げて、家を出る。持ち物はスマホと財布と通帳。少しでも商品を購入する可能性があるからという理由でバッグなんて背負わない。
「なんつう日照りだ……」
住宅街を進んで駅の方へ向かう。午後二時を近くにして日差しの強さはいよいよ今日の最大値に近づいてきた。「クソ暑い」とか「水持ってくりゃ良かったな」とか独り言をボヤいている彼の横で、恐らく高校生と思しきバカップルがイチャコラしているのを見ると、稔はたまらなく苛立ちを覚えた。
「ねえねえ」
「どーした?」
「へへへー、呼んだだけー」
真っ昼間から惚気けやがって。爆発しろ。
「金下ろすか」
非リアである自分には遠い遠い世界の話だと思い込んで、稔は資金確保のために駅前の銀行へと向かった。目の前でいい雰囲気を作っている男女から目を逸らすべく、また、そういった輩をなるべく五感に触れさせないようにするため、耳にはイヤホンを入れる。電波曲を集めたミュージックリストをシャッフル再生を選択していると、たまらなく気分が高揚した。だが、一回は聞いたことがある曲ばかりだったので、趣向を変えてラジオを聞くことにする。
「……ほんと、今日が大安とか耳を疑うレベル」
ラジオの内容にボソッと口から否定的な言葉をこぼす。金が掛かるからと水分補給なんて気にしないで炎天下の中を進んでいると、ハンカチで拭いてもすぐに汗が噴いて、着ている服がべっとりとしてきた。スメルハラスメントを主張されても嫌なので、パタパタとTシャツのU字になった部分を摘んでパタパタと動かし、適当に風で臭いを飛ばそうとする。
暑すぎる日差しのせいで同じような被害にあっている人は多く見受けられた。首のあたりに冷えたタオルを巻いている人を見ると羨ましく感じる。しかし、布類は一枚しかないハンカチ以外に持ち合わせていないので、今の彼に布を濡らして首元を冷やすことは不可能だった。
銀行を目前にした彼の家の最寄り駅で、親類の家に遊びに来たと思しき少女の声が聞こえた。肩をトントンと叩かれて稔は後ろを向く。
「すいません」
「なんです――くはっ!」
振り返ると黒髪の小学生がナイフを持って笑っていた。
「死ねッ!」
あまりにも突然過ぎる事態に俺は何が起こっているのか訳が分からなくなった。腹部に視線を移すと、鮮やかな紅色の血が出ている。
「(死ぬのか……?)」
この出血量で何も手当をしなければ恐らく死ぬ。だが、近くの病院に自分の力で行くためにはあまりにも時間が足らなすぎた。稔は右手に沢山の血を吸わせながら、空いた左手でスマホを取り出して救急車を呼び出そうとする。
「人間なんて皆死んでしまえ!」
一方の黒髪少女は、稔を襲ったように次々と沢山の人をナイフで切りつけていた。殺意は強く、内臓が抉り取られるくらいの力で刺された人もいる。特に止めに入った駅員が被った傷は言葉では表せないほど惨たらしいものだった。その猟奇的殺人は誰にも止められず、駅を周辺としたエリアのタイルやアスファルトに沢山の血痕が染みていく。
「ひっ!」
腰を抜かして悲鳴をあげるサラリーマン。
「子供は、子供だけは殺さないで!」
腹を擦りながら、我が子だけは守ってほしいと交渉する妊婦の女性。
「死ねっていったら死ぬんだよ! 返事は『はい』しか認めねえ!」
黒髪の少女はナイフを下ろすことをやめないで、問答無用で慄いて何も出来ずにいる彼ら彼女らを殺していった。一度殺すと決めたら殺さないでいようとは思わない。少女は一帯にいる人間を全て雑草と捉えて、根こそぎ殺していってやろうと考えていた。
「こんな街もこんな国も! 壊してやるんだ、私の手で!」
少女は狂った形相を浮かべて叫ぶ。その目は充血していた。そして何をとち狂ったか、持っていたナイフで左手を刺して、自分も血を流す。駆けつけた警官には目もくれず、一般人だけを殺していくその様は、狂気に満ちていた。
一瞬にして惨状とかしたこの場所は、警官が駆けつけてからも、多くの人が少女によって斬りつけられていったこともあって、事態の収集が中々付かなかった。
悲鳴が聞こえる。女の甲高い声の次に男の低い声が聞こえた。駆けつけた警官は拳銃を構え、少女に向かって銃口を向ける。しかし少女は、先手必勝といわんばかりに持っていたナイフを警官の頬などに的確に命中させていき、怯んだ警官から銃を奪うなどして、さらにこの事態を悪化させていく。
しかし、狂気に乱舞して周りを見ることが出来なくなった少女は強さに見放されると、普通の人間に戻った。人外生命体としか思えないほど早い速度で高架鉄道橋の骨組みを駆け上っていったくせに、レールの上で電車にぶつかると血飛沫を上げて車体を赤く彩ったのである。
「アハハハ!」
電車の車窓を木端微塵にされた少女の死体が血とともに伝っていく。少女は死ぬ間際まで笑っていた。それを見て、赤くなった電車の操縦士は気絶してしまう。居合わせた者達は駅周辺の狂気に満ちた惨状を見てこれが現実でないようにと祈っていた。