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ワインディング・ロード

作者: 衿那

「絶っ対、この木だ!」

 亮樹りょうじゅは断固として譲ろうとせずそう言い切った。その様子に、槙那まきなはただ一度溜息をつく。

 その後は、槙那の返事も聞かずに木に蜜を塗り出した。

「待てよ、亮樹。だったらせめて半分こだろ。おれはこっちの木がいいんだから」

 冷静にそう言うと、だが亮樹は聞く耳など持たないように振り返った。

「冗談じゃねえよ。おれの言うとおりにすれば間違いないっつうの。半分じゃカブト虫も食ってすぐどっか行っちまうよ」

 林より深く、森より浅いこの場所には、夏真っ盛りだと言うのに蝉の鳴き声も届かない。しかし少年達は、それを不思議だとは思わなかった。なぜならこれが、彼らの「日常」だからだ。

 時は三十世紀。文明の発達した世界は、他国との関わりを必要としない独立国家となっていた。そんな「日本国」には今、二つの派閥があり、亮樹たちの育った“ナチュラル派”は、自然を尊重する人間の集まった集団だった。

 戦争なんて言葉も一部では飛び交っているようだが、亮樹や槙那にとって、それはまだ眼にしたことのない、“言葉”でしかなかった。

 と、言いたい放題な亮樹の影で、何かが動く。槙那は眼を見張った。

 その表情に、亮樹は眉を潜める。視線が自分ではなく蜜を塗った木に向かっている事を悟ると、まねるように顔をそちらに向けた。

「な……!? お前誰だよ!」

 大きな襟のワンピースを着た少女が、一心に木に塗られた蜜を舐めていた。

 自分達と何ら年はかわらなそうだ。しかし少女は、亮樹の声にびくりと反応するなり一心に走り逃げていった。

「あ、待て!」

 後を追う。あまり足は速くないようだが、追いつく事は出来なかった。木々を分け、間を通り、大きな茂みを越える。

「――!」

 その先は丘だった。この丘には、ナチュラル派成立の記念碑が置かれている。高さ五十センチ程の碑を椅子代わりに使う女が、ゆっくり亮樹に振り返った。

 妖艶。まだ十二歳の亮樹は、むろんそんな言葉は知らなかったが、彼が彼女に持った第一印象を一言で言えば、そういうことだった。

 傍らに、あの少女がいる。女は亮樹を見て、“にやり”と笑った。

「あっ……! あんた誰だよ!? 」

 声がひっくり返る。それでも何とか意識を取り戻した亮樹は、きっぱりと訊ねた。

 後ろで、茂みを分ける音がした。槙那が追いついたようだ。亮樹と違って体力のない彼の、酸素を求める荒い呼吸が響く。

 ほんの一刹那、槙那に眼を向けた女は、再び亮樹を見る。

「人に名を聞く時は、自分が先に名乗るものだぞ」

「おれは……、柏葉かしわば亮樹だ!」

 そう名乗った瞬間、亮樹は女の時が止まった気がした。じっと、自分を見つめてくる。「サナ……」と少女が呼んだとき、漸く覚醒したように彼女は瞬きをした。

「柏葉亮樹……、柏葉 時貴ときたかの息子か」

「え……?」

 何故だろう、彼女の言葉と行動は、亮樹を混乱へと導く。柏葉時貴は、確かに亮樹の父親だった。だけど、だったら何だと言うのだろう。この人は、父の知り合いなのだろうか。

「先に、こっちの質問に答えてよ」

 迷いなく響いた声は、亮樹の後ろからだった。呼吸の整った槙那が、亮樹とは違いしっかりと女と向き合う。

 女は肩を竦めた。

莎南さなだ。そう呼べ」

「あんた、ゴッド派だろ?」

 恐れ知らずに槙那は言う。ゴッド派――それはナチュラル派と敵対する、神を信仰した集団のことだ。亮樹は眼を剥いて槙那を見た。

「気づかなかったのかよ。あの子、ロウチルドだよ。普通の人間がカブト虫の蜜を舐めるはずない」

 言われて、亮樹は少女を見た。ゴッド派の生み出した、人間とそれ以外の物質や生物の融合体。自然の理を無視したその存在は、ナチュラル派では卑しいとされている。

 しかし、莎南は臆することなく言い切った。

「この子――麻音あさね堕児ロウチルドじゃない。フューズだ」

「ふゅーず?」

 聞きなれない言葉を、二人はぎこちなく発音した。それ自体に興味はないのか、莎南はコクリと頷く。

「人間と、それ以外の融合人間。ビュー・ガーデンでは、それをフューズと呼ぶんだ。それはこの世に生を受けた新しい人種であり、決して楽園を追放された堕児ではない」

「びゅー……?」

 また聞いたことのない単語が出てきて、亮樹は眉間を寄せた。

「ビュー・ガーデン。ゴッドにもナチュラルにも属さないわたし達は、ナチュラル派 (お前たち)の敵でもなく味方でもない」

 味方でないと、彼女ははっきり言った。なのに何故、亮樹は莎南に対して恐怖は感じなかった。それどころか、彼女を、ビュー・ガーデンを、もっと知りたいと思う。

 そんな好奇の目をしていることに気づいたのか、莎南はまた、にやりと笑った。何か言おうと薄く開いた唇。それを、例の如く槙那が遮った。

「だったら、てきだ! 亮樹、帰ろう。父さんたちの許可もなく、他の派閥と話すなんていけないことだよ」

 槙那は亮樹の手を取って、再び来た道を戻り始めた。莎南はその様子を黙って見ている。

 後ろ髪を引かれる思いに、亮樹は何度か莎南のほうを振り返っていた。目が合うと、莎南はやっぱり、あの笑顔を見せた。

 形のいい唇を開く。

「また来い、亮樹」


***


「父さん、びゅー・がーでんって何?」

 家に帰り、家族三人の夕食の席で、亮樹は父親にそう訊ねていた。軍事集団であるナチュラル派で、亮樹の父は各地の軍を統一する役割に当たっている。

「どうした、いきなり? 学校でビュー・ガーデンのことを教えられたのか?」

「ううん。今は夏休みだから、学校へは行ってないよ。今日、ヘンな女に会ったんだ」

「変?」

 妻の作った料理に伸ばしていた手を止めて、亮樹の父――時貴は息子をマジマジと見た。

 口にご飯を含んだまま、亮樹はもごもごと話す。

「びゅー・がーでんは、ナチュラルの敵じゃないし味方じゃないんだって。さなって女がね、おれと同じくらいの女の子を連れてて、ナチュラル派のヒセキがある丘にいたんだ。槙那は、あの子はロウチルドだって言ってた。さなはね、おれにまた来いって言ったんだ」

 とにかくあったことを全て伝えたくて、亮樹はたどたどしくも言葉を紡いだ。

 時貴は、一度妻と眼を合わせる。

「父さん、さなは、悪いやつなの?」

「……どうだろうな。でも、ビュー・ガーデンには父さんの友達もいるよ。だからその“さな”さんとも、話してみたらどうだ?」

 小さく微笑んだ父はそう言って、大きな手で亮樹の頭を撫でた。


***


 亮樹は父が大好きだった。憧れで、目標で、息子というのが誇りだった。父の後を継いでナチュラル派を治めるのは、幼いながらも亮樹にとっては立派な夢だった。

 その父が話してみろと言うのなら、莎南と話してみようと思う自分が、幼稚だなんて全く思わない。むしろ、それに反対するやつは、分からず屋の頑固者だと思った。そう、今隣で口をへの字に曲げている槙那を。

「おじさんが言ったからなんだよ? なんでまたあいつに会うんだよっ? あいつはロウチルドを連れてるんだぞ!」

「でも、さなはおれたちに何もしなかったじゃん。殺すつもりなら、あの時死んでたよ」

「バカじゃないの? さなってやつは亮樹の父さんに会うのが目的なんだよ? おじさんを殺すつもりかもしれない。おじさん死んでもいいのかよ?」

「槙那!」

 ぎろりと、亮樹は槙那を睨んだ。冗談じゃない。大好きな父が死ぬなんて、例えでもそんなことを考えたくはない。

「危ない人なら、父さんは会うなってちゃんと言うよ。父さんが話してみろって言うんだから、さなは大丈夫だ。――もういいよ。おれ一人で行くから。槙那は帰れよ」

 怒った亮樹にそう言われれば、槙那も神経を逆撫でされた。彼の事を心配してここまで言ってやっているのに、どうして自分が悪いように言われねばならないのだ。

「いいよ、じゃあ、勝手にしろ!」

 そう叫んで、槙那は走り去っていった。



 莎南は今日も、碑石に腰を掛けて景色を眺めていた。わざと足音を立てて亮樹が近付くと、二人はすでにこちらを向いていた。早い段階で亮樹の足音に気づいた麻音が、莎南の服を引っ張って注意を引いたのだ。

「本当に来たな」

「……別に、あんたが来いって言ったから来たんじゃないから。父さんが……話してみたらどうだって、言うから」

「そうか」

 亮樹がここへ赴いた理由など興味なさ気に、莎南は相槌を打った。

「あのさ」

「麻音に、言葉を教えてやってくれないか」

「え……うん」

 先に口を開いた亮樹を遮るように、莎南はそう申し出てきた。正直、違う事を期待してここへ来ていた亮樹は間抜けな返事をする。

「カシワバ、行こう」

 昨日は逃げた少女が、今日は懐こく近付いてくる。現金なやつだな、と言葉の意味もよく知らずに亮樹はそう思っていた。


「カシワバ、あたし、サナに気持ち、伝えたい」

「うん」

「サナは、いい人。アサネを怒らない。ぶたない。あたし、サナといるの、楽しい。ねえ、これ、どうやって伝えたらいい?」

 莎南とは離れた茂みまで連れてこられたと思ったら、麻音はそう言ってきた。言葉の一つ一つがたどたどしい。ああ、この子は知識は持ってはいても、全然言葉を知らないんだ。


「サナっ!」

 亮樹が伝える言葉を教えてやると、麻音は一目散に莎南へと駆けていった。その体にまとわりつく。

「どうした?」

「サナ、好き。大好き。サナは優しい。いい人。あたし、ずっとサナと一緒にいたい」

 亮樹は数歩離れたところから事の成行きを見守っていたが、ここへ来て漸く、表情を変える莎南を見た。

 目を丸くしたかと思ったら、今までにない優しい表情で麻音の頬を撫でる。その唇が、「ありがとう」と動いていた。

 と、麻音が亮樹に向き直る。

「ありがとう!」

「……ありがとう」

 満面の笑みでそう言ってくる麻音に続いて、莎南が微笑んで言ってきた。思わぬ状況に狼狽した亮樹は、必要以上に瞬きをして頬を赤らめる。

「なっ、なんだよ、二人して。あっ、麻音、こっち来い!」

 照れを隠すように麻音を呼ぶと、亮樹は少女を連れて茂みを越えていった。それを見送って、莎南は一本の大木の前に立つ。

「亮樹はいい奴だな。――なあ、少年。隠れてないで出て来い」

 莎南の声に反応すると、一人の少年が木の影から出てきた。存在がばれていたことに相当驚いたのだろう。その表情は、悪いことをして先生に怒られるときのようだ。

「お前の名前は、まだ聞いていなかったな」

「……麻生あそう槙那」

 槙那と名乗った少年は、仏頂面で莎南を見た。

 亮樹と喧嘩したものの、やっぱり気になって、ずっと覗いていたのだ。それに、莎南は初めから気づいていた。

「槙那、そうわたしを警戒するな。ナチュラルの未来を担うお前たちと、険悪になりたくない」

「だって……てきでしょう?」

「敵ではないと言ったはずだが」

「味方でもないって言ったよ」

「ああ。決めるのはわたしじゃないからな」

 そう言うと、槙那は不思議そうに自分より頭半分ほど大きい女性を見上げた。目が合うと、莎南は余裕の笑みを見せている。

「わたしが敵か味方か、決めるのはおまえだ。だけど、偏見はするな。ちゃんとわたしと過ごして、わたしと言う人間を見てから、敵か味方か決めろ。おまえにはその“目”があるはずだ」

 莎南の言葉を理解するには、まだ槙那は幼すぎた。でも本当は、彼女は悪い人ではないのかもしれないと、そう思っている自分も確かにいたのだ。

「あ、槙那!」

 ふと、亮樹の声に名前を呼ばれた。喧嘩別れのため気まずく顔を上げると、――何かいいことがあったのだろうか――満面の笑みを浮かべる彼がいた。

 スッと、人差し指と親指に摘まれた黒い物体を掲げる。

「来てたのかよ? 見て。カブト虫! すげぇんだぜ。麻音といたら蜜がなくてもカブトが寄ってくるんだ」

「カブト虫は……アサネのみかた」

 得意げにそう言って、少女は笑った。すっかり仲良くなったのか、亮樹と麻音は手を握り合っていた。

「槙那もつかまえるか? 昨日は出来なかったからな。あっちの木に、まだいっぱいいるよ」

「本当っ?」

 槙那も亮樹も、本物のカブト虫を見た経験はまだ数回しかない。それもパソコンやケース越しで、本当に触れた事など一度もない。毎年蜜は塗りに来ているが、手に入れられたことなどないのだ。

「本当本当! 行こうぜ。ほら、さなも!」

 麻音と繋いだ手を大きく挙げて、亮樹は槙那たちを誘った。大喜びで、槙那も後をついていく。そんな少年少女の無垢さに、莎南は自然と笑みを浮かべていた。


***


「わたしたちのいるビュー・ガーデンは、ゴッド派とナチュラル派が共存することを目的として創設された派閥だ。派閥――という言われ方は、あまり妥当ではないんだがな」

 莎南と出会って数日。亮樹と槙那は、毎日のように彼女達の所へ通うようになっていた。

 珍しく彼女の方から話題を持ちかけてきたかと思えば、話はいつしか、ビュー・ガーデンのことになっていた。

「キョウソンって、いっしょに生きることだろ? そんなんムリだよ。だってゴッド派は、自然なんかいらないって言うんだ。そんで、麻音みたいなロウチルドをつくったんだよ。でも麻音は、捨てられたんだろう?」

 麻音がゴッド派を追放されたところを、ビュー・ガーデンに保護されたことは、先日莎南から聞いていた。自分達の生み出したものを簡単に捨てるなんて酷いと、亮樹は思う。

 槙那も、隣で頷いていた。

「亮樹、槙那。いいか、おまえたちが知っているのは、所詮はゴッド派の一部でしかないんだ。ゴッド派の中には、麻音を簡単に捨てるような心のない奴がいる。だが大半は、ただ神を信じているだけなんだ」

 莎南は、寄り添うように座っている麻音の肩を抱いた。

「おまえたちは、これからのナチュラル派をまとめる要だ。だからわたしは、おまえたちに知っていて欲しい。覚えていて欲しい。おまえたちだって、辛い時は誰かに頼りたくなるだろう? 神と言う存在は、決して卑しいものではない。自然は大切だ。でも、神を信じる事だって必要だ。お互いがそれに気づけば、戦争は終わる。だからわたしたちは、両派閥にそれを伝えているんだ。そのために――柏葉時貴に会いたい」

 亮樹は言葉が出なかった。それは槙那も同じだったようだ。正直、彼女の話が理解できたかと聞かれれば、怪しいところだろう。でも、言いたい事は何となく分かった。

 亮樹も槙那も、まだ子供だ。だけど子供心に思う。

 終わらせられるものなら、戦争なんて終わらせたい――と。

「さな、父さんに会ってどうするの?」

 何の気になしに、亮樹は訊ねた。莎南はまっすぐに、丘から見渡せるナチュラル派の町並みを見る。

「わたしの恩師が、柏葉時貴の友人なんだ。彼は、話すなら柏葉だと言った。亮樹、おまえの父親はいい人間だ。きっと、ビュー・ガーデンの在り方を一番理解しれてくれる」

 莎南にそう言われれば、亮樹はますます自分の父を誇りに思った。一度拳を握って、すくっと立ち上がる。

「おれっ、さなを父さんに会わせてやるよ」

 亮樹を見上げた莎南は、目を丸くしていた。子供の戯言だとでも思っているだろうか。

 でも、十二歳の亮樹には、それなりに言葉に根拠を持たせる知能がある。

「父さんは、おれにさなと話してみろって言ってくれたんだ。父さんが言ったんだから、父さんだってさなと話してくれると思う! おれ、戦争ってどんなんか、話でしか知らないけど、さながそれを終わらせられるなら、終わらせてほしいもん!」

 強い眼差しを向けると、同意したように槙那が立ち上がってくれた。麻音が向ける不思議そうな視線に、莎南はやっぱりにやりと――笑わなかった。

「ありがとう」

 細められて垂れた目、薄く開かれた唇。その笑顔は、心底喜んでいるようだと、亮樹には見えた。



「ダメだっ!」

 ナチュラル派の上層部のみが出入りできる講堂――通称 自議堂しぎどうの警備が、門前で声を張り上げた。

「何でだよ! おれは柏葉時貴の息子だよ? 父さんに会うくらい自由にさせろよ!」

「柏葉監視官は執務中だ。その間はなん人たりとも――緊急を要しない場合は――入れる事はできない。息子も同前だ」

 高いところから野太い声でそう言われれば、亮樹は返す言葉をなくした。ぎゅっと唇を噛み締めて悔しそうにしながらも、何か方法はないかと考える。

 不意に、警備の目が一歩後ろの莎南に移った。

「貴様はいい大人だろう。ナチュラルの在り方を十分に理解しているはずだ。さっさと子供たちを連れて帰れ」

「さなに言うな! さなはビュー・ガーデンのお客さんだ! ナチュラル派じゃない!」

「――亮樹!」

 頑として亮樹たちを帰そうとしているのか、ついには警備が莎南にまで中傷的な言葉を浴びせるのもだから、亮樹はつい口を挟んだ。

 しかしそれは、莎南にはとても都合の悪い事だった。

「ビュー・ガーデン?」

 案の定、警備の目が不敵に光る。

 しかし亮樹にそんなことが理解できるはずはなく、彼が事態の急変に気づいたのは、莎南に後ろから首を抱えられた後だった。首筋に、冷たいものが当たっている。

「亮樹!」

 今度は槙那に名前を呼ばれた。そこで亮樹は、ようやく自分の首筋に当たっているのが、莎南が持つナイフなのだと気づいた。亮樹は動けない。体がピクリとも“動かない”。

 これが、「恐怖」なのだろうか。心臓がバクバクと高鳴り、口の中に溜まる唾液をゴクリと飲み込んだ――瞬間に、掠めるように喉にナイフが当たり、また硬直する。

「さ、な……?」

 助けを請うように、亮樹は莎南を呼んだ。しかし、莎南は僅かな戸惑いも見せはしない。

「柏葉時貴に会わせろ」

 急に、莎南の声は冷たくなった。周りの兵士達がざわざわと緊張を見せる。「人質を取るとは卑怯な」と誰かが言って、亮樹は漸く自分が人質なのだと理解した。

「莎南てめえ! ふざけんなよ! 亮樹を離せっ」

 槙那は叫ぶなり莎南の方へと駆け出した。しかしその足は、こちらにたどり着く前に止まる。

 視界の端で、亮樹は見た。槙那の前に、麻音が立ちはだかっている。大きな一本の角と、黄金色の羽を持った麻音が。

「ロウ……チルド」

 その存在を、亮樹は初めて理解した。角や羽が生えた姿は、どこをどう見ても、人間とはかけ離れている。

「フューズだ」

 そんな亮樹の呟きを、莎南は手早く訂正した。でもその声は、やはり冷たい。

 と、自議堂から人が出てきた。まだ若いその男性の面持ちは、どこか亮樹に似たところがある。

「父さん……!」

 柏葉時貴本人だ。莎南が一歩、前へ歩み出た。時貴が目つきを厳しくして口を開く。

「ビュー・ガーデンよりの使者とお見受けする。これは宣戦布告か?」

「手荒な真似をしていることは承知だ。詫びも入れよう。しかしそれでも、貴方と話がしたい」

「――息子を、解放するか」

 そう言った柏葉時貴の顔は、父親の顔だと莎南は思った。自分の父親は、ナチュラル派に殺された。殺された、でも

「……貴方がわたしと、話をしてくれるなら」

「……入れ」

 言われれば、莎南は亮樹を連れたまま歩き出した。麻音も兵士達を威嚇しながらそれに続く。喉元にピッタリと張り付いていたナイフは、今は僅かな隙間を持っている。自議堂に入る一歩手前で、亮樹は兵士の腕へと解放された。

「亮樹!」

 槙那が駆け寄ってくる。亮樹を受け取った兵士は、自議堂を取り囲むやじ馬の対応へ当たる為に彼らのそばを離れていった。

「大丈夫か?」

 こくんと頷く。心臓はまだ高鳴っていた。

「ひどいよ、莎南。なんでこんな……。やっぱり、てきだったのかな」

 心を許した事が間違いだったのだろうかと、槙那はひとりごちた。たしかに、亮樹は常に莎南に対しては献身的に接してきた。こんな仕打ちは、冷静に考えればひどい事だろう。

 それでも今、亮樹の心は違う感情に支配されている。

「……さな、大丈夫かな」

「亮樹?」

「麻音は、ひどいことされたりしないかな」

「亮樹。ひどいことされたのはお前だよ」

「そうだけど、そうかもしれないけど……、おれはさなを、麻音を……、嫌いにはなれねえよ」

 いつだって余裕な笑みをこちらに向けてきた女。でも父に会わせてやると言ったとき、彼女はたしかに素直に笑った。亮樹に感謝する為に、麻音に「大好き」と言われたときと同じ笑顔を見せた。

 亮樹に遊ぼうと言った麻音も、ビュー・ガーデンについて話してくれた莎南も。

 嫌いになんか、なれない。



 それからどれだけの時間が経っただろう。亮樹は何をするわけでもなく、莎南と出会った丘の上にいた。槙那は何も言わずに傍にいてくれる。

「亮樹!」

 槙那とは違う、女性の声に、亮樹はびくりと肩を揺らしてから振り返った。その先にいたのは――。

「母さん……」

「……莎南さんが、解放されたわ」

 母は遠慮がちに、それでも確かにそう言った。衝動的に、亮樹は立ち上がる。

「もう、ビュー・ガーデンへ帰るって。彼女はあなたを人質にしたことで、もう簡単にここへは来られなくなるわ。会いたくないならそれでいい。でも会いたいなら、自議堂裏の港へ行きなさい」

 その言葉を聞くなり、亮樹は走り出していた。会いたい。会いたくない。そんな感情は、多分そこにはないんだと思った。ただ、このまま別れるなんて嫌だ。きちんと話して、今まで共にいた時間は、嘘ではないんだと確信したい。

「さなっ!」

 自議堂は、丘を下ったすぐ先にある。下るだけの道は、亮樹を幾分早く莎南に会わせてくれた。めずらしく、槙那も離れることなく後ろを着いてきたようだ。

 二人の姿を確認するなり、莎南はニヤリと笑った。

「せっかく柏葉時貴が人目につかないよう帰そうとしてくれたのに、意味がないな」

「ここを教えてくれたのは、父さんだよ」

 実質上は母だが、その意は父のものだと、亮樹は理解していた。

「あんなことがあったのに、お前は本当に愚かだな」

「おれは、あんたとの今までをウソや夢にしたくはなかった。……父さんと、何を話したの?」

「知りたいか?」

 しっかりと、亮樹は頷いた。見極めろと言ったのは莎南だ。そのために亮樹は全てを知っておきたい。

 バイク型飛行機体マイブに跨った莎南が、ヘルメットを持ちながら口元の笑みを消した。

「……知りたいなら、亮樹。ビュー・ガーデンへ来い」

 その言葉に亮樹が明らかに戸惑った事は、莎南にはお見通しだったのだろう。それでも彼女は何も言わず、ただ亮樹の答えを待っている。

「……行けない」

 ぎゅっと拳を握った亮樹が、震える声を絞り出した。

「おれは、父さんの後をついで、ナチュラル派をまとめていかなきゃならないから。ビュー・ガーデンの在り方っていうのは、すごいと思う。でも、ビュー・ガーデンにはさながいるから。おれはナチュラルでがんばる」

 上手く、伝わっただろうか。恐る恐る顔を上げると、莎南が得意の笑みを浮かべてこちらを見ていた。

「合格だ」

「は?」

「お前たちはナチュラル派に、ビュー・ガーデンの思想を分かってもらう為の大切な鍵だ。どうか、お前たち二人にはずっとそのままでいて欲しい」

 そう言ってぐしゃりと亮樹の頭を撫でてから、莎南はヘルメットをかぶってマイブを発進させた。後ろに捕まる麻音がにっこり笑って手を振った。

「バイバイ、カシワバ、マキナ」

 日本国を半日で一周できるその機体は、あっという間に亮樹たちの視界から消えた。

「なんか、風みたいな二人だったな」

「うん」

 突如現れて、気がついたらいなくなる。だけど、この別れには“また”があることを、亮樹は何となく分かっていた。

「……これからの日本国(未来)は、おれたちがつくっていくんだよな」

 青く広がる大空を見つめながら、二人の少年はしっかりと、その手を握り合っていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] どーも依頼いただきました蜻蛉です。 そーですね、確かに短編にするにはちとばかし色々足りなくなる作品だったと思いますが、この設定で長編も作っているようなのでそこはスルーで行きましょう。 物語の…
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