第四章 瞬刀
遅くなてしまいましたが、ようやく4章です。前回のあとがきで過去編をやるといっていたのですがその前に一つ、話を挟んでおきたかったので今回はその話になります。 楽しんで読んでくれると、幸いです。
狂刀、と巷では呼ばれているらしい春菊へ向けて造った刀。その一件の数日後の出来事である。
この日は何とも珍しい来客があった日であった。
寛七郎の構える工房は山の中にある。場所は中腹あたりとはいえ当然登るのには結構な労力がいる。そんな場所に飛脚が来たのである。
山道を手紙なり届け物なりを背負いながらわっせわっせと登ってきて、それなのに汗一つたらさずに輝かしいほどの笑みを浮かべて寛七郎に一通の手紙を届けてくれたのだ。
こんなものが届くのはいったい何年振りだろうと懐かしむと同時に、こんな辺境の地に届けてくれたことに思わず涙をこぼして感動してしまった。
「お手紙は確かにお届けしました。では、私はこれで失礼します」
そう言って礼儀正しく一礼すると山を下りて行く。
寛七郎はそれからしばらく涙を流してその場に立ち尽くした。
「さて、誰からの文であろうか」
工房の自室に戻り手紙を開けてみることに。
「おや」
手紙は宗介からであった。二枚ほどの便箋と、金が入っていた。その手紙には丁寧な言葉でいろいろと書かれていたが、要約するとこうである。
寛七郎殿、お久しぶりです。お変わりなくお過ごしのことと存じます。
まず、守刀の料金を払っていなかったのでそれを同封させていただきました。それともう一つ、苦難は絶えませんが雪と二人でうまくやっております。
便りがないのは元気な証と思っていたが、実際にこうして手紙が届いてしっかりと生きていることを確認できるというのもまたいいものである。
「にして、姫様を呼び捨てとは」
読んでいるこちらが恥ずかしくなってきて顔がにやけてしまうな。
よし、こちらも返信を書くとしよう。こんなところに律儀に文を出してくれたんだ、こちらもしっかり返さなければな。
「あれ?」
手紙は便せん一枚分でちょうど終わっているのにもう一枚には何が書いてあるのだろう。そう思い二枚目を読んでみると。
すみません。二人ではなく三人です。もう何年かたって大きくなったらお伺いします。
何とも嬉しい知らせが届いてからちょうど一週間が過ぎた。寛七郎はあの手紙が来たすぐ翌日には返信の文を出した。
刀を打ち鍛えることはそれすなわち一瞬の戦いの中に身を置くのとほとんど同義である。これは寛七郎の持論だがしかしほとんどの刀鍛冶がこれに賛同するだろう。では、それはなぜか。答えは簡単である。刀というものがそれほどまでに繊細だからだ。そもそも刀と形的に呼べるものを作るのなら別に一瞬の世界どうこうということはない。ただ、寛七郎はこの世に残る名刀を作ろうとしている。そんな刀を打っているときはほんの少し手元が狂っただけで刀がダメになったり一瞬の誤差が命取りになる。そしてだからなのだろうかは分からないが寛七郎は一瞬の出来事というのにとても敏感でそれをとても大事にする人間である。
だから朝起きたら枕元に勘兵衛と同い年くらいの可愛らしい見知らぬ女性がいて、その女性がおはようございますご主人様と言っている状況でも一瞬一瞬の出来事を大事に咀嚼し、飲み込み、理解しようと試みる。
「できるか!」
なんなんだこの状況は。とんでもな状況にもほどがある。一瞬の出来事を大事にするとかそういう次元の問題じゃないだろう。
「あ、あの、どちら様でしょうか?」
ひとまずこのわけのわからない状況を少しでも把握するために行動を起こす。
「依頼人です」
朝日のように眩しい笑顔でそう言われてしまった。嫁に欲しい、なんてことを一瞬だけ思ったがそんなくだらないことを考えている場合ではない。
「つまりは何か、俺に刀を造ってほしいから来たと?」
「はい」
「お前みたいな年端もいかない女子が、真剣を?」
「はいっ」
ここでいくつかの選択肢が生まれた。一つは大人の対応として女子に刀など造れるわけがない。もう少し大きくなってから出直して来いと言う。そしてもう一つは、刀鍛冶として、彼女の気持ちにこたえてあげること。
俺のどの実門も眩しい笑顔で答えてくるような女子だ。できれば無下にはしたくないのだが、何とも悩ましい。
「なんで造って欲しいんだ?」
「復讐の為ですっ」
あれ、笑顔?
「復讐?」
「はいっ。私には殺したい人がいます。だから、造ってくださいっ」
造ってくださいとそんな屈託のない笑顔で言われても、どうしたものか。
「造ったらいいじゃねえか」
唐突に部屋の外、工房の方から聞き覚えのある女の声が響いてきた。しかし、この声をもう一度聞けるものと思っていなかったからだろう、平静を装って工房に行ったつもりが、妙に視界がぼやけてしまう。
「生きてたんだな、春菊」
「おうよ、まだまだやることはあるんだ。そう簡単に死ねるかよ」
狂刀・世斬を担ぎながら男さながらに豪快な口調で言う。
春菊の、問題など何もないと言わんばかりの自信に満ち溢れた言葉で思わずうなずきかけてしまったがそれを寸のところで止める。
「生きていたのはいいんだが、なんで春菊がここにいるんだ? しかもなんでこの女子のことを知っている? この女子は誰なんだ?」
頷きかけた勢いで矢継早やに疑問を投げかける。
「待て待て待て待て、そんないっぺんに訊かれても答えられるわけないだろう」
「そうですよ寛七郎様。それに私と春菊様は互いのことを全く知らない、いわば赤の他人というやつです」
「そうだぞ。私はただ礼を言いに来ただけだ」
「礼?」
別に春菊に何か感謝されるようなことをした覚えはないのだがいったい何に対して礼を言うというのだ。
「この刀のな」
「なんだ、そんなことかよ」
「いやさ、もう明日か明後日くらいにはこの町を出て、他のところをぶっ壊しに行こうかと思ってさ。その前にちょっとね」
顔を見たかったんだ、私のことを覚えていてくれって意味もあるけど、そう、照れくさそうに言う春菊。
なんだよ全く、ここ最近恥ずかしくなるような事ばっかり、ああ、ダメだな、涙が出てくる。俺の親しい知り合いなんて師匠とその人の元で一緒に切磋琢磨した仲間数人くらいだってのによぉ。それがここ数年でいろいろな人とかかわりを持ったんだな。
関わりを持つというのは実に暖かなものだな。色々な人の色々な出来事がさながら糸のように絡まり、それは時にしがらみとなって縛りつき、しかし時にはやさしくさながら繭のように包み込む。
そうして感傷に浸っていると、突然女の声がした。今度は春菊のものではない。あの、刀の依頼をしてきた子から発せられたものである。
「あのぉ、感傷に浸っているところすみませんが、私の刀の件はどうなりましたか?」
そういえば春菊の登場とそれからくる感情のあれこれでこの女子の刀を造るか否かについてすっかり忘れてしまっていた。
だが、どうなったと言われてもまだ決められないとしか言いようがない。ただ、こう気体のまなざしを向けられるととてつもなく言いにくい。
「んじゃあな、私はこれで行くから、たぶん今日明日辺りは町中で見かけることがあると思うから、その時は声かけてくれよ」
春菊はそういとひらひらと手を振りながら山を下りて行った。
「さて、私の刀についてどうするかはっきりさせていただきますよ」」
春菊を見送ってすぐにそう言われてしまった。
「そ、それよりもさ、名前はなんていうんだ?」
まだどうするか決められていないとは言いにくい、ので話をそらしにかかる。
「私ですか?」
「そうそう!」
「名前は……雫、でいいでしょう」
つい大きな声を出してしまった。それを少し不審がって見ていたがあまり気にすることはないと判断したらしい。素直に名前を教えてくれた。だが、いいでしょうと言う言い方には少々ひっかかる。でもまぁ気にし過ぎはよくない。
だから、訊いてみる。
「雫ちゃん。どこから来たんだ?」
そう訊いて意識を刀のことから逸らす。そしてあわよくば刀のことを忘れて帰ってもらう。
「なぜそのようなことを訊くのですか? もしかして私に何か興味がおありで? っは、もしや体目当てですか⁉ そうですかそうなんですね! こんな子供の身体を目当てにするとは計り知れないほど気持ち悪い変態ですね、近寄らないでください」
いわれのないことをさんざん言われ寛七郎の心が折れそうになったが、それを根性で補う。それにこれを利用しない手はない。
「そ、そうだ。俺様は変態なんだ。お前みたいな刀のことを何もわかってないようないガキが大好物なのさ。さて、どう料理してくれようか……」
努めて悪人声で脅した。工房においてある刀も使って。自分の中の良心と、そしてその他諸々の大事な何かを犠牲にして。
雫はおびえるだろうか、驚くだろうか、怖がるだろうか、逃げてくれるだろうか、諦めてくれるだろうか、刀のことを。俺に造ってほしいということを。
「っひ……」
雫の顔には恐怖が滲んでいた。
刀を、諦めるのは彼女のほう。刀を造ってくれと頼んできた、雫のほう。
諦めて帰ってくれないと、俺が…………いったいどうなるというんだ?
寛七郎がとったこの行動は刀匠として、いやもはや人としてどうしようもなく最低で、たとえ理由は何であれ、それを自覚しながらも自制が効かなかった自分が恥ずかしくなってきて。
だから気が付いた時には地べたに額をこすりつけていた。
一つだけ違和感があった気がする。あくまでも気がするという程度のものだが、それは雫がどうも演技くさいということだ。特に、あの怯え方、恐怖がにじむというよりは自分で滲ませているといったほうが感覚的には正しい。ただ、その引っ掛かりは取れることはなく、奇妙なものを感じながら、それでもお構いなしに時間は流れ、過ぎ去ってゆく。
寛七郎はどのような刀を打って欲しいのかを雫に訊いていた。
すると、こんな返事が返ってきた。
「短刀を作ってください」
「もっと詳しく何かないのか? 具体的な完成図とか、どうやって使いたいかとか、なんで刀を造りたいか、その経緯、とか」
「……春菊」
「えっ?」
雫がつぶやく、精いっぱい耳をそばだてないと聞こえないくらいに小さい声で。
「春菊さんの使っていた刀、あの鎌ではなく、投げて使っていたあの刀」
今度はしっかりと聞き取れた。しかし、聞き取れたのはいいのだがそれと同時になぜこの子がそれについて知っているのか。
あの刀は今はなき闘技場で使われていたものだ。大人たちが噂するくらいならまだしも、こんな子供が知っているのはおかしい。
だからそれを問いただそうと、する。しかし実際にはもっと違うことを話す。矛盾する。人としての疑問とか思いやりとか、そして刀鍛冶の本能とが、せめぎあう。
「あの刀か。それならちょうどいい。今しがた鍛えようとしていた刀なんだ」
「おお、それは運がいい」
そうだ、運がいい。まるで図ったかのようだ。ただ、これも考え過ぎだろう。こんな一介の少女にそんなことができるわけがない。
それから寛七郎は雫を部屋で待たせさっそく作業に取り掛かる。
刀を取り出す。あの日、あのいやらしい性格の店主に売るつもりだった刀。春菊に使わせて、憂さ晴らしに使った刀。
正直な話、この刀にはあまりいい思い入れはない。
たまに、この刀にはいい思い出もないからとかそんなことを言って廃棄してしまう刀鍛冶を見かけるが、そういう奴を見ると無性に腹が立つ。
そして、そんなものは造った刀匠の自分勝手な言い分に過ぎない。その刀の価値が刀匠の一存で決まるわけがない。それを決めるのはあくまで使う者、それを求める者だ。
だから俺は鍛えよう。この短刀が俺にとってどれだけの価値なのかとか、依頼主が女の子だとか、引っかかることがあるだとか、そんな細かいことは関係ない。ただ、これを求める人がいる。それだけで十二分だ。それ以上にどんなものを求める。何かを作る職人にとって自分の生み出したものが求められるというのは何事にも代えがたいものではないか。
この短刀、春菊の戦いぶりを見て、『瞬刀・雀蜂』と名付けたこれは、そもそも投げて使うなどという発想は自分の中には微塵もなかった。ただ、手に持って、敵の攻撃をいなしやすい形というのを知り合いの剣士に聞きながら造ったものだ。だから、まさか投げて使ったらあれだけの性能があるなんて思ってみなかった。
そして今、それを鍛えている。
何とも言えない興奮が体を包み込んで、周りの音が消えて、ただ、刀を打つカンッカンッという軽快で、それなのに一回一回重みのある何とも矛盾した、しかしとても心地のいい音が自分の中に響いてくる。その音だけが響いてくる。
この音はどれも同じではない。打つたび打つたびに少しずつ、素人が聞いたらほとんど変化のないような微々たるものだが、それでも着実に変化している。
それを耳で聴き取り、体でその響きを感じる。
そうやって一瞬一瞬の刀の変化に気を配り、打つ力加減や角度を少しずつ変えて、完成へと近づけていく。
少しでも気を抜いたらそれで刀がおじゃんになってしまう。それだけはしないように、自分の子供たちを無様に死なせたりしないよう、常に緊張する。
一回打つたびに命が削れるほどに魂込めて、鍛えあげる。
刀鍛冶をしていると一から刀を造る依頼から、ちょっと刃こぼれした刀を鍛えてほしいという簡単なものまで色々な依頼が来る。中途半端なことはしない。今のように。
そう言った依頼をする人たちの中に、たまにだが、俺の身を案じて声をかけるものがある。たかだか刃こぼれ一つでそこまで必死にならなくても、と。
答えはいつも決まっていた。
別に虚栄を張ったりとか、そんなものは一切なし。
この二十数年という短い人生の中で、だけど確実に得た経験から、そして根っからの刀鍛冶の言葉として、こう言おうと決めている。
「刀が叫んでいるから。助けてくれって」
聞いたやつらは皆いろいろな反応を示した。刀に感情などあるわけないと馬鹿にする者、何を言っているのだといった顔で呆ける者、そして、自分の刀をそれだけ大切に思ってくれてありがとうと礼を言う者。まさしく十人十色である。
そんなことを思い出しているとふと、あることが頭をよぎる。しかしそれを頭の片隅へと追いやる。それは確かに聞いてみたいことではあるが、別に今でなくとも、まずは今鍛えている一本が終わってからでも遅くはない。
そうとなれば集中あるのみ。一切の雑念を捨て、ただ、まっすぐ見据える先は『瞬刀・雀蜂』その一本。
途中、雫が何度か話しかけてきていたらしいのだが、全く覚えていない。適当にうなずいていただけだった。それも仕方がない。その声すら、否、その存在すら忘れるほどに没頭していたのだから。
自分でもこうなることくらいは容易に予想することができていた。だから、工房のもの以外は壊さないなら自由に使っていいと言ってある。だから飯に困ることはないのだろうと思っていた。
一本鍛えあげるのに、日数にしてざっと三日かかった。あと九本も残っている。これは結構な長丁場になりそうだと、大きく伸びをして自分の部屋に向かう。
いつも手拭いを置いてある場所から一枚とり、汗を拭きながら部屋に入ってみると見知らぬ部屋が彼の目に飛び込んできた。いや、見違えたという方が正しい。それぐらいにきれいになっていた。我が目を疑うほどに。
そして部屋に置かれたちゃぶ台の上には何とも豪勢な御飯が用意してあった。
これはいったい何事かと思い辺りを見回すと、視界の端にせっせと動き回る小さな影が見えた。
「あ、寛七郎殿。私、ご勝手ながらお部屋の掃除と食事のご用意をさせていただきました」
どうやらこれをやってくれたのは雫らしい。ご丁寧に今やっている仕事を中断してこちらに来てお辞儀してくる始末である。
その姿はまさに屋敷に使える女中そのものである。
「な、なぁ、いったい何をしたんだ?」
口からこぼれたそれは何ともおかしなものであった。自分で言って、のどに何かが引っ掛かるような感覚になる。
なぜこんなことをしたか、ではなく。
何をしたのか。俺はそう言っていた。
「聞こえなかったのですか? だったらもう一度。掃除と食事の用意をしておきましたよ」
純真で無垢な汚れを知らない、ような笑顔を向けて先ほど言った内容を復唱する。
そして、それは分かっている。しっかりと聞こえている。覚えている。寸分たがわず同じ台詞を言えるくらいに鮮明に。
「いや、悪い。ありがとな」
一応俺にとって客である雫にここまでやらしてしまうとは、恥ずかしい限りだ。
そんな少々の羞恥心で先ほどまでの奇怪な感覚を忘れようとする。
「いえいえ、いいんですよ。暇だったので。それよりも、私の造ったご飯、食べてみてくださいっ」
可愛い。
素直にそう思った。そしてたぶん、俺に嫁がいたのならこんな感じなのかなと少しばかり想像して、その想像の中の嫁になる女性が雫になっていたのでこれはまずいと思い、すぐにそれを消して目の前にある料理に目を向ける。
とてもよくできている。御飯に焼き魚、それに漬物というとても質素なものだ。それでも見た目だけでどれだけ手間をかけたのかがはっきりとわかる。
「こんなに手間をかけて作ってくれて、なんとお礼を言ったらいいのか……」
「いいんです。それはお互い様ですから。そんなことよりも、食べましょう」
雫はそう言って俺のいつも使っている座布団の反対側の席に座る。細かなところに気を配れるのはいいことだなと実感する。それでも気を配りすぎて空回りすることだってあるが、彼女は、雫は違った。
俺のその座布団に座り、二人で声をそろえて――
「「頂きます」」
手間をかけてあるのは見た目だけではなかった。味も一級品である。
「おいしい。おいしいよ」
「そう、よかった。おいしいって言ってもらえて」
笑みを浮かべる。今度は母性的で柔らかな笑みだ。まるですべてを包み込むような、そんな少女には似つかわしくない顔。
そして、それをおかしいとは、思わなかった。この顔は本物だと。偽物ではないと、そう思えた。
「おいしいな。本当に、うまい」
いつも一人で飯を食っているのだが、やはり誰かと一緒に食べると心が温まる。心なしか飯もおいしく感じる。
「ありがとう。本当に」
心からの感謝。それは料理や掃除の件だけではない。もっと根源的なもの。この素晴らしき出会いへの感謝。
「そんなぁ、照れますね」
雫は寛七郎の言葉に体をくねらせていた。
それから二人、笑いながら食事を続けた。
「あ、そういえば」
唐突に雫が箸を止め人差し指を立てる。
「ん、なんだ?」
「いえ、大したことではないのですが、お風呂の用意も済ませておきました」
友人のそのまた友人というほとんど他人に近いような知人に風呂職人がいる。そいつに頼んで我が工房の周りを調べてもらったところ、なんと温泉があるとか。最初は嘘かと疑ったが、それなら証拠を見せてやると言ってそいつは俺をある場所へと連れてった。工房との距離は短く、歩いたらすぐ行けるような、そんな所に風呂があったら便利だろうなと思えるような本当に絶妙な距離の場所。そこには何かで人為的に地面を削ったような跡があり、その窪みからは温かな水が流れ出ていた。
温泉の源泉である。
いやはや驚いた。そしてそいつは、こんな立派な源泉はめったにない、だから俺に風呂を作らせてくれ。と懇願するもんだから造ってもらったんだ。
もちろん金は払った。そのおかげで金欠になり、何度か死にかけたが、何とか生きているので今となっては笑い話である。
そして、完成したのはそれは立派な風呂だった。一人で使うのにはもったいないくらいしっかりとしたつくりの檜の風呂。
その空間には檜のいい香りが立ち込めていた。
その後すぐにそいつは帰ってしまって、お礼を言えてないままである。
しかし、そいつがせっかく作ってくれた風呂も、放っておくと腐ってしまうため毎日ちゃんと手入れこそすれ、自分で浴槽に使ったことなど数えるくらいしかない。
ただそれも、一人だと使った後の処理が面倒、というだけの話であって、それをやってくれる人がいるなら話は別である。
その風呂に備え付けられている更衣室で服を脱ぎ、さっそく湯船に入る。
「ああ……あああぁぁぁ、気持ちいいなぁぁぁ」
伸びとともに心の底からゆるみきった声が出る。
風呂に入ってゆっくりと湯船に浸かると、先ほどまで刀を打っていた体の凝りがほぐれて気持ちがいい。
体の芯まで、そしてこの風呂の手入れまでやってもらった、そのやさしさに心の芯まで温まる。
それにしても皮肉なものだ。俺がこうして山奥で工房を構えているのは人間というのがどうも信用ならなくて毛嫌いしていたからだというのに、今やこの山奥という環境が逆に来客との心の距離を縮めている。
この工房を構えてすぐの若かりし頃の俺はそれが堪えられなかったのに、今はそれが心地よくもある。
人一人の価値観など本当にちっぽけだと思い知らされる。
だとすれば、やはり刀に対しての、そしてそれを求める者の俺の中での価値観も小さいものなのだな。
湯船につかりながらいろいろなことを思い返す。考える。刀について。そして、人との関わり合いの意味するところを。
風呂を上がると布団の用意がされていた。雫には悪いと思ったがそれでも寝ずに刀を造っていたので疲れがたまっている。あとの処理も雫に頼んで早めに寝ることにした。それに対し雫は、おやすみなさいと快く受け入れてくれた。
その夜、それはそれは奇妙な夢を見た。いや、もしかしたら現実に起こったことなのかも。そう思えるほどはっきりとした光景であった。しかし、夢か現かはっきりと区別がつくわけでもない。
その夢の中には雫がいた。可愛らしい笑顔を浮かべて、その手には、刀を握っていた。今日俺が鍛え上げた『瞬刀・雀蜂』の一本を。
そして、雫は唐突にそれを俺に振りかざした――
翌朝になり、昨日の夢を思い出そうとしたが、あれからのことはよく憶えてない。その前後に何があったのかも。あの、雫が俺のことを刺し殺そうとした光景以外はきれいさっぱりと忘れてしまっていた。
でも、そんなことがあっても雫には何も訊かない。訊く必要がない。そんな曖昧なことを訊くのは、昨日の夜に俺のことを殺そうとしましたか、なんて、昨日あれだけいろいろと気を使わせて食事の準備やらをやってもらって、今朝だって朝食を作ってくれていて、無礼千万である。一人の人間として、そんな恥ずかしいことはできない。
だから、朝食を取ったらすぐに雫の依頼であるあの短刀を鍛える。
多少あの光景が脳裏をよぎるが、そんなことは関係ない。それは虚ろの姿だから。夢の姿だから。現実の、本当の本物の姿ではない。そう信じているから。
雫へのありったけの感謝の気持ちを込めて、俺に人との出会いのすばらしさの、そして素晴らしいひと時をくれた。その一瞬一瞬を俺の魂とともにすべてこの短刀、雀蜂に注ぎ込む。
たとえ、これの使用目的が、復讐であったとしても。
それから寛七郎は狂ったように打ち続けた。
毎晩、あの夢を見続けた。
だがあれはあくまで夢だから。
そしてちょうど九本目が鍛え終わった時の夕食の時のことである。
雫から言われた。それは俺のこれまでの異常なまでの働きぶり、というか打ちぶりを見て、俺の健康に気を使って。
なぜそこまで刀にこだわるのか。
と、言われた。
答えは決めていた。決まっていた。だけど、それを作業として流したことは一度もない。いつでもどんな時でも、その答えに自信と誇りとこれまでの人生をすべて乗っけて、言う。
「刀たちがさ、叫んでるんだよ。助けて、助けて! って」
重たく感じるかもしれない。それでも、言う。伝える。届ける。この、言葉を。俺の中の嘘偽りない本物の言葉を、刀の一瞬にあらゆる可能性を見た俺の唯一無二の言葉を。
「そうですか」
それを聞いた雫は少し悲しそうに顔を伏せた。そして、雫の側の魚料理に一雫の輝ける宝石のような美しい涙が垂れた。
顔は見ない。ただ自分の料理に視線を向ける。
そうすると、まるで川が氾濫したかのように、ぽたぽたと垂れる。
理由は聞かない。そんな野暮なことはしない。
「まったく、人という生き物はどうして、儚い生き物なんでしょうね」
涙声だった。鼻水をすすって、ぽつぽつと雨のように流しながら。
「なのに、どうしてここまで、強くいられるんですか……!」
何かを訴えかける。彼女の中の何かを。とても重苦しくて、つらくて、しかし誰にも言えない。そんな何かを訴えてくる。
「どうしてなんでしょうね、私、こんなこと、したくないのに……」
気づいてと、言えないの。でも、気づいて!
「一瞬で、消えてしまう。儚い、人の命」
「一瞬でもさ、それにすべてを賭けているから、人間は強いんじゃないのか」
呟くように、独り言のように、できれば聞こえていてほしくないな、なんて矛盾したことを思いながら。それでも――
「刀だってそう。人だってそう。一瞬の折り重なりだ。それが絡まり、折り重なり、人と人が繋がり、ちぎれて、また絡まる」
それから雫は悔しそうにした唇をかみしめながら、その場にずっと動かず、それこそ微動だに一つせずにいた。
今日の夜はあの夢は見なかった。その代わりに、雫はこの工房から姿を消していた。
お世話になりましたと書かれた置き手紙を一つ、ちゃぶ台の上において。
立つ鳥跡を濁さずといった感じで、その手紙以外の雫がここにいたという証拠はきれいさっぱりなくなっていた。
刀、あと一本残して。
左右対称になるように、五本で別れるように、人の指を模して十本も造ったというのに。その一つが欠けている。
雫にとってそれは何指が欠けたことになるのか、今となってはもう聞くこともできない。
後日談。書庫の爺のところに会いに行った。
その時に爺はこんなことを言っていた。
「最近な、忍者物の読み物にはまっておっての。特に板倉改蔵が書いたくノ一が主人公の話は面白い」
「それは、どんな話なんだ」
ちょっとした興味。ほんの少しの出来心と好奇心。
「いや、話としては単純なんだよ。主人公のくノ一はすごい才能を持った忍なのだが、何分年が若くて、忍者になりたてだったのじゃ。そんな娘が初めて依頼されたのがとある刀鍛冶の暗殺だった」
ほう、それはまた何とも。
「心を殺し、猫を被り、近づいた。だがな、その刀鍛冶のやさしさに触れて殺すことができなかったんだ」
笑えてしまうほどに。
「金をもらえば何でもするのが忍者の専売特許。だが、それと同じくらいに、裏切り行為も専売特許ってな。彼女は追われる身となるのだが、それを色々な方法で切抜ける壮快な様と、様々な人との出会いが素晴らしく重厚な文章で書かれた読み物じゃ。とても読みごたえがある」
「なぁ、爺さん。そのくノ一の名前って、なんていうんだ?」
「確か、雫といった」
そのあと、工房での帰り道に雫とのこれまでのことを思い返しながら、ある一つのことが頭の中あった。
弟子が欲しいと。
たぶん、弟子がいたらあんな感じなのだろうと夢見ながらそう思った。
それは、寛七郎の心にあいた穴を埋めるためなのか、それともまた別の――――
私のまだまだな文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。次は必ず過去編をやります。 それと、私事で最近忙しいのですが、一週間に一話のペースをできるだけ崩さずやっていきたいと思います。
もし無理だったときは、すみません。もう少しだけ待ってくれるとうれしいです。