8/9のバッドタイムズ
背の高いフェンスを見上げた時点で目が眩みそうだった。きしきしと音を立て擦れ合う白い砂利道を突っ切り、邸宅のベルを押す瞬間にはもう、リンは掌のべたつきをごまかすことが出来なくなっていた。まるでグレート・ギャッツビーの屋敷へおもらいにきたオリバー・ツイスト。数少ない気休めは、開いたドアに塗られたペンキがマホガニーの木目など完全に無視していること。そして、よく知った仏頂面。見据えられた途端、背中じゅうの汗腺がどっと緩んだ気がした。
「よお」
上顎へ張り付きそうな舌を動かし、かろうじてそう呟くことに成功する。
警戒など皆無で大きく開け放たれたドアの向こう、敷居の際に佇むばかりで、ドーンは口を開かない、真鍮のドアノブへ柔らかく手をかけたまま、まずは来訪者の存在を頭のてっぺんから爪先までまじまじと見おろしていく。追い返される理由など何もない。別に銃を突きつけているわけではないし、三日前仕事で使用したスキーマスクは車の中に投げ込んである。強いて言うなら紙袋の中のマリファナは御法度の品だが、そもそもこれは彼女を慮って持参したものだった。無表情が過ぎてつまらなさを感じているかのように見える彼女の顔を少しでもほぐしてやりたいと、彼は常々考えていたのだ。
短いが背筋に沿って汗が流れるには十分な沈黙を経て、ドーンはようやく目の前の存在をしっかり認識したらしかった。今にもその場にへたりこんでしまいそうなリンを誘う合図は、美しい黒髪を揺らしながら顎でしゃくる動作だった。震える男と裏腹に、女の振る舞いはあまりにも堂々としている。それは傲慢ではなく、風格すら漂っていた。この豪奢な建物が、彼女のものであると誰もが信じてしまいそうなほどに。
リンがドーンと出会ったのは図書館前で、しかも当たり前ながらリンが自発的に訪れた場所ではなかった。当時付き合っていたパーティ好きの女はルーズベルト大学でクラリネットを学んでいて、講義が終わるまで待ちぼうけを食らっていたのだ。呼び出された時は足代わりに使われるのが面倒くさくもあったし、帰路に助手席から飛んでくる学科の自慢話にうんざりさせられることも目に見えていた。だが春もたけなわ、天気は良く風も心地よい。キャンバスの近辺をぐるぐる回って真っ赤なデイトナを見せびらかすにはちょうどいい時候だと言えた。
で、何周目かのお披露目を終え、いい加減暇を持て余し始めたとき、ハロルド・ワシントン図書館の珊瑚色をした建物から彼女が吐き出されてきた。身を包む看護士のような薄桃の制服は――後で知ったが、彼女は処方箋薬局の受付兼事務員として働いていた――あまりにも不似合いで、むしろ抱えたフォースターの短編集が正体を表明していることは一目瞭然だった。
確かに口笛を吹きたくなるような美人ではある。だが、普段彼が声をかけるようなタイプではなかった。振り返ったとき見える深い青色の目は静かすぎるし、皮膚から関節が突き出して見えるほどの身体は少し柔らかさが足りない。
「重そうだな、運んでやろうか」
正直なところを言うと、彼女に足りないものが柔らかさなのか固さなのか、リンは最後まで知ることができなかったのだ。速度を落とした車で追いかけざま軽口を叩いたとき、彼女は自らの腕の中へ視線を落とし、至極真面目に言葉を反芻した。柔らかそうな黒髪はミシガン湖からやってくる春風に揺れ、女の子にしては厳しさを湛えた横顔を遮る。
「そんなに重くない」
彼女が返事をしたのは、声をかけてからたっぷり20フィート。普通の男ならばとっくに興味をなくして去っていくほど進んでからのことだった。待たせた分の愛想を振る舞う真似もしない。この後に彼が何度も目にする真顔のまま、言葉の字面だけを正確に分析して答える。もちろんその際、ナンパ男の目をまっすぐ見つめる表情がくそ真面目なものであったことは言うまでもなかった。
「ありがとう。大丈夫よ」
言葉を弾き出してからも歩みを早めるでもなく、親切に対して礼まで述べるのだから堪らない。リンはぶったまげ、故にスターバックスでチャイとマフィンを奢った。
彼女の職場は大学の数ブロック先、この近隣には珍しく店の前が路駐禁止エリアではない。以来口臭止めドロップやアスピリンを買う時は必ず店へ立ち寄るようにした、例えチェーンのドラッグストアよりもその値段が少々高かったとしても。
もっとも週に一、二度顔を合わせたからといって、女という常識を覆す物静かさを突きつけられては会話もそれほど弾まなかった。おまけに店の奥で調剤している薬剤師は明らかに欲求不満気味の中年女で、彼がじゃれようとするたびお目当てを呼び付けてあれこれ用事をさせる。
表情は仏頂面のままでも内心では女の気配り、あからさまな追い立てへ申し訳なさを感じているらしい。去り際昼休みのランチを誘われても、ドーンは滅多なことで断ることはしなかった。そう、クラリネット女と別れた後も、リンが付き合わせたのはランチだけ。手一つ握らないのを何だと思ったのか、近頃ではリステリンのおまけとして紙袋に歯ブラシを一本入れるようになった。
いつも通り薬剤師の好奇と憎悪の視線に晒されながら、珍しく自ら声をかけたときも、彼女はデンタル・フロスを手にしていた。
「留守番をしてくれって頼まれたわ」
商品が収まった袋の左端を折る指は、骨の形がくっきり浮き上がっている。マニキュアの気配すらない爪をじっと見つめ、リンは日頃世間話を交わすときと同じ声域で相槌を打った。
「誰の家だって?」
「パルミニ・ミートパイの副社長」
そこでようやく、彼女の何でもないような態度がひどい誤りであることに気づく。シカゴでは知らないもののいない食肉加工業社の商品は、スーパーへいけば必ず並んでいる。ナツメグが少なすぎるため彼自身はそこまで好んでいなかったが、そんなことを言っていたら母親の留守がちな子供の食べるものがなくなってしまう。カスター将軍と同じで、伝統の虐殺者は偉大な存在だった。
「郊外に家があるんだけれど」
「ただの家なら鍵を閉めて警備会社を入れときゃいいだろうに」
浮かべる度どんな女でも食い入るように見つめてくる、口角をきゅっと持ち上げるような笑みを作る。
「しこたま金をため込んでるんだろうな」
「資産はほとんど、会社の株だって聞いた気がする」
もっとも、何となく予想していた通りドーンの視線はフロスの入っていた大きな駕籠から離れない。昼間から付けっぱなしの蛍光灯下でも分かるほどきらめく瞳にも、特に不審を示さなかった。
「金は持ってないって。最新のジャガーへ乗ってるのに」
「詳しいじゃないか」
目の前の女がミートパイの材料であるかのような顔で、リンは眉をしかめた。
「というかおまえ、どえらい奴と知り合いなんだな」
「ええ」
その先の言葉を待ち受けるため唇を噤んだのに、ドーンはキャッシャーを元通りに押し込むだけでそれ以上の説明を行おうとはしない。口数が少ない分、一度唇を開くと白黒はっきりした理論を展開する彼女らしくない、非理論的な打ち切り方だった。
ちんと間抜けな音の余韻が完全に消え去るまで待った後、結局リンは肩を竦めた。
「ま、とにかく。週末はそいつのところで豪遊か。結構じゃないか」
「彼は奥さんと離婚して、その日は家政婦もいないから、本当に家の中が空っぽになる。不用心だから家にいてくれって」
決して大きくはない胸を深い吐息で上下させ、目を伏せる。
「でも、断ろうかと思ってる」
「どうして。もったいない」
リンの瞬きを自らへの責めと感じているらしい。俯き加減の長く太い睫が神経質に戦慄いた。
「その家には、猫がいる。餌をやって欲しいって言われた」
最後のあたりはささやくような声色で、小さく流れるクラシック音楽のアレンジに紛れ今にもかき消えそうだった。
「私、猫アレルギーなの」
「そんな馬鹿な理由で断るなんて、『シカゴ』を蹴ったジョン・トラボルタ並の愚行だぜ」
無意識のうちにリンは、半ば叱るような口調を出していた。
「金持ちの家へ行くなんてそうそうないんだ。行っておいても損は絶対しないさ」
熱心な説得が、いったいどこで招待に結びついたのかは覚えていない。一つだけ言えるのは、家主の留守中に無関係の客人を迎え入れる彼女にそれほどの罪がないということ。ごり押しはリンの得意とするところで、膨らむ下心は善意にくるまれれば喉越しもよく、彼女の心へすとんと落とし込まれてしまったようだった。
甘い言葉の効果は今も持続し続けている。肉の少ないしなやかな体を滑るように進め、ドーンは躊躇など一つも見せず邸宅を通り抜けていく。途中の説明は一切ない。だから調度品の査定は想像も交えて執り行うしかなかった。外装は気温が高いとは言えないシカゴには場違いな、どこまでも白い塗装だった。おかげでただでも膨張して見えるのに、一歩踏み込めばだだっ広いエントランスから始まり、一階の全てが一つの空間であるような間取り。壁に飾られたバッファローの首と捕獲用のロープは、売りさばいたところでろくな金にならないだろう。太い円柱の前で胸を張る中国風の壷も値踏むことは難しい。
客間に入ったところでようやく心が落ち着いてくる。40インチほどの東芝のテレビ。買ったばかりらしいヨーロッパ製のソファ。子供のように辺りを見回しているリンなどお構いなしに、ドーンは毛足の長い絨毯へ爪先を埋めるようにしてソファへ腰掛けた。
「飲み物や食べ物は冷蔵庫に」
洒落たガラスのコーヒーテーブルへ開いてあったのはリルケの詩集。あらかじめしつらえてあったかのように、彼女の存在はこの場へぴったりとはめ込まれていた。
「好きに食べて良いって。楽にして」
最後の注文は、壁の石膏ボードが露出しているようなアパートの一室で暮らすリンにとってどだい無理なものだった。最新の空調機を見上げ、顎を撫でる。この部屋からめぼしいものを運び出すだけでも、二トントラックがいっぱいになってしまうだろう。もしも側にいるのがこれまでに寝たことのある女だったら、間違いなく今すぐ友人へ電話を入れて、車を回していたに違いない。
もっとも黙って膝の上に目を落としているドーンならば、少々の狼藉に口を出すこともない気がする。あんなしけた薬屋で働いているが、本来彼女はそれなりのお育ちであるとリンはあたりをつけていた。近頃女を漁る場所が、それほど良い場所でないことは認める。だがそれにしたって、レインボーのストライプTシャツをこれほど品よく着こなせる女には、なかなかお目にかかることができないだろう。掴んだだけでへし折れそうな右手首にまとわりつくゴールドが、ページを捲る動きにあわせて小さな音を立てる。微かに開いた薄い唇の奥でひらめく舌は、フレーズが絡んで動きが鈍い。まるで朝日が優しく這うベッドの中、瞼を開いてすぐにおはようと呟くように。
「何か飲むか」
視線にもそしらぬ顔だから、本の世界に没頭しているかと思った。だが返ってきた声は、予想していたよりもずっとはっきりしたものだった。
「ミネラルウォーターを、お願い」
視線は細かい文字に走らせたまま、利きすぎた空調のせいか白く見える顔は、微動だにしない。はいはい、と返事をしながらも、リンはますます自らの見解に対する確信を深めていた。人にものを頼むとき「プリーズ」と付ける同年代の女なんて、絶滅危惧種もいいところだ。しかもその発音が、なぜか英国風の鼻にかかったような訛を含んでいるとなれば。
核戦争に備えているのかと思うほどの図体を持つスリードアの冷蔵庫も、そもそも部屋自体が大きいのだから幾分迫力に欠ける。「エレンの部屋」に出て来そうなほどおしゃれで清潔なキッチンは、この豪邸にあるどの部屋とも同じく寒々しさを感じるほど広い。実際、人もいないのに付けっぱなしの空調が、クルーネックの薄いセーター越しに熱を持っていた肌を冷やしていった。
食肉業で稼いでいるだけあり、ほとんどが酒のつまみと飲料で占められた中からエヴィアンの瓶とコロナを取り出して、グラスがないかと見回す。巨大なウォークインフリーザーと向き合うように、壁一面に据え付けられた棚にぎっしり高級な食器が入っていると考えただけでも指が疼いた。そういえば、近頃ネイバービルでトラットリアを開いた知り合いが、少し上等な皿を欲しいと言っていた気がする。ビールのために栓抜きも探さなくてはならない。
食器棚にはめこまれた乳白色のガラス扉が、早く仕事を済ませろと鼻を突きあげている。
突然踝にまとわりついたぬくもりに悲鳴を上げたのは、水滴に濡れた指先がアルミのサッシに触れるか触れないかという時だった。
全身に走った衝撃から解放され、硬い動きで首を動かしたとき、気まぐれな元凶は既に彼方へ。シナモン色をした猫はビロードのような腹皮を揺すり、部屋の隅へと向かう。安置されていた白磁のスープボウル前で立ち止まりお行儀よく腰を下ろすと、客人を見上げてにゃあと鳴いて見せる余裕すら持ち合わせていた。
獣と遜色ないほど足音なく走り込んできたドーンが、平穏な状況に目を瞬かせる。手を振って無事を示し、リンは強く握りしめていた瓶を相手に押し付けた。
「猫だよ。驚かせやがって」
「そろそろ昼ね」
掲げた手首にはめた時計はカルティエと見た。冷えたミネラルウォーターになど触れずともひんやりしていそうな指で前髪を掻きあげ、ドーンは彼のそばを通り過ぎる。
「缶詰と牛肉をやるの」
「牛肉? 猫の分際で」
ガラストップコンロの上にある棚へ手を伸ばそうと顎を持ち上げたとき、確かに彼女の横顔が笑みを浮かべているように見えた。
「ミートパイ会社の副社長だから」
缶切りを扱うどこかぎこちない手つきを横目で窺いながら、リンはチルド室の中からビニール袋に包まれた薄切り肉を取り出した。太いマジックでゆらゆらと記された文字は猫の名前だろうか。書いてあるまま部屋の隅へ「クリシー」と呼びかけても、丸っこく選民意識を持つ顎はついと持ち上げられるだけ。代わりに返事をしたのはドーンだった。
「人見知りみたい。初対面の相手にはあまり懐かないの」
「さっき人の脚におもいっきり毛を擦り付けていきやがったぜ」
滴った血のこびりつく袋を取り去るリンのぼやきを、金属のかみ合うぎこちない軋みが潰していく。その音すら消えてなくなってから、ドーンはだだっ広い空間に向かってぽつりと呟いた。
「子供と動物に好かれる人間で、悪人はいないでしょう」
山盛り装った缶詰を葺くよう赤身を上へ敷いてやる。特に有り難みなど感じていなさそうな顔で、猫は足で蹴り出された皿へしゃなりしゃなりと近づいていく。ふんと勿体ぶって臭いを嗅いでから、ようやく顔を皿に埋めた。
「快適な部屋と贅沢な飯」
コロナの瓶口をしゃぶりながら、リンは大仰に嘆いてみせた。
「俺だって猫になりたいよ」
「でも、彼は可哀想」
流水の音は必要以上に長い。ドーンは猫嫌いの宣言通り、汚れていないはずの手まで揉むようにしてキャットフードを洗い流している。
「去勢されて、家の中に閉じこめられて」
「こいつオスか」
食欲に集中し油断した尻尾を掴んで持ち上げれば、ぎゃっと悲鳴を上げて部屋の隅に逃げる。気に障るものは引っ掻くべしという、猫の一番大事な本能すら忘れさせる安穏。
「確かにタマを取られるのはごめんだな」
たくましさも何もない。24時間、機械で室温が管理されているこの屋敷では、季節すら忘れてしまったことだろう。夏なのに寒気でも覚えているような震えを体に纏い、猫は壁へぴったりと身を押しつけている。伸ばされた手に向けて発する高い唸り声は、まさしく野生が放つ最後の咆哮だった。
「あまりいじめるのはやめてあげて」
訴えにふさわしくない、ひどくゆっくりした口調でドーンは言った。
「臆病なのよ」
「箱入りな訳だ」
「それもあるけれど」
黒々と太く固そうな睫が、ゆっくりと瞳から光を奪う。
「自信を奪われたから。自分がオスなのかメスなのかも分からなくなって……気持ち悪いわ」
「そんなもんさ、何かを犠牲にしなくちゃならない。こんないい暮らしをするためにはな」
「あなたはできる?」
振り向いた先に感情を探し出すのは、やっぱり難しかった。一体全体、どうしてこんなシリアスになっているのかさっぱり分からなかった。差し出された手へ猫がすり寄ってくることがないように、彼女もまたシンクへもたれるでもなく、かと言ってその場から立ち去ることもせず、返事を待ちかまえている。全てを見通しているかのように射抜く瞳は、無造作に流した前髪に隠れてもその鋭さを失わない。
「無理だな」
彼女の綺麗な目にばかり気を取られ、とうの質問に対する感情など微々たるものでしかない。いつまで経っても警戒を緩めない猫に飽き、リンは立ち上がった。
「そんなことする位なら自分で稼ぐよ。タマナシだなんて、恐ろしい」
傍らをすり抜けざま横目を向けたとき、ドーンがまだ議論を続けたがっていることはありありと知れた。彼女がもっと安っぽい女なら、薄く開いた唇へ人差し指を押し当て囁いてやるだろう。Hush、とことさらきっぱり、それでいて柔らかく前置きしながら。「そんな小難しい話、スターバックスですれば十分だ」。
もっとも利口な女に、ボディタッチなど百害あって一利なし。結局彼女は触れられるよりも先に再びミネラルウォーターを取り上げ、微笑もうとした。そう、口角は確かに軽く引き上げられていたが、それが強い意志で作られたポーズであることなど一目瞭然のぎこちなさで。
「あなたの言うことが正しいわ」
巨大な画面を見たときから予想していたが、ケーブルテレビのチャンネル数も桁違い。家主が加入しているのはCNNから中国系番組まで様々なものだった。リモコンのボタンを埋めれば埋めるほど、自らの富を誇示できるとでも思っているのだろうか。
普段ならば真っ先にアダルトチャンネルを探すところだが、隣で読書に耽っているドーンはまるでセックスも知らなさそうな顔。仕方なく、なおざりのザッピングで遭遇したMTVで腰を据えておく。バックストリートボーイズの新曲プロモーションに、女が意識を向けることはやはりなかった。
テーブルに投げ出してあった紙袋を取り上げ膝で抱えると、リンはソファの背もたれへ乱暴に身を投げ出した。
「何読んでるんだ」
「言葉よ」
ドーンの口調は、相手が既に本のタイトルへ目を通していたと知っているものだった。
「つまり……詩ね」
「面白いか」
「あまり」
即答に思わず頬を緩めれば、何故、とだけ返される。目はあくまでページへ落ちたままだったが、その質問はいくらでも回答が見つかりそうだった。
「だってな」
ここが分かれ道、どんな一言を呟くかで先が変わる。あやすようにして紙袋を膝で揺らしながらリンは、おそらく本人が思っている以上に暗く見られてしまう横顔を鑑賞し続けた。きっと、気づいている奴は世の中でもほとんどいないに違いない。例えば、癖のある髪に隠された耳朶、曲線を描く軟骨に、厳ついほどのピアスホールが残されていることを。
「難しい顔してるぜ」
というか、そもそも何かを変える必要などあるのだろうか。
巌のように確たる姿勢は、素面じゃ手に負えない。結局リンは紙袋へ手を突っ込みながら、自らが投げかけた問いを投げ捨てた。
取り出した紙巻きはジョイントと名乗るのもおこがましい代物で、半分以上がほぐしたラッキーストライク。しかも肝心のポッドとて、効果など全く期待できそうになかった。売人をしているトレヴァーが浴室に干してあったのをいくらか持ち出してきたのだが、日頃有名な品質の悪さが今回ばかりは味方する。こんなものを盗まれたといって怒るのは、部屋へ入って息をしたから酸素の代金を請求するのに等しいと、調停を引き受けることになった上の連中なら言うだろう。
巻きの緩い紙を追うドーンの目に嫌悪は見られない。散々ともったいぶった間を空けてから、リンはジーンズのポケットを探った。
「禁煙だなんて言うなよ」
「灰さえ落とさなければ」
軽く肩が持ち上げられる。
「あと、火事にも注意して」
親にも最近見せたことがないほどはっきり頷いてやってから、ジッポーの蓋を親指で弾く。オイルが少ないのか、灯された炎のしずくは縁がひどくおぼろげだった。巻紙と、乾燥した葉がじりじりと焦げる。
まず一服大きく吸って、肺に溜め込む。思った通り、まったりと喉を乾かす甘さはろくに感じない。ラッキーストライクの辛いタールばかりが紙ヤスリのように粘膜を擦る。本当の煙草でするように、空中へ丸い輪をぽかりと吐き出すことすらできた。
細々と、だが途切れることない紫煙を立ち上らせるまで火種を大きくしたジョイントを差し出したとき、ドーンはほんの少しだけ逡巡した。
「言わないって」
誰にも。これはここだけの話。言外にそう含めたら、ほんの少し眉間に皺を寄せて首を振る。
「今朝、何も食べてないから」
たった一服ではまともに酔えないマリファナなどなくても、思わず目を見開いてしまいそうな台詞。少なくとも、何も知らないおぼこ娘ではなかったわけだ。
「大丈夫だって、ほとんど煙草だから」
同じ場所で佇む落胆と興味をまとめて蹴り飛ばし、リンは残っていた最後の煙を喉から押しやった。
「悪酔いなんかしない」
おそらく自らの表情筋は、緩みなど何一つ見られないに違いない。
ほんの僅かに勢いの弱まった煙と、比例して広がる巻紙の焦げ痕をもう少し見つめてから、ドーンは膝の上の本を閉じた。わくわくしているリンの指からジョイントを抜き取り、唇に持っていく。堂に入った吸い方だった。素人臭さなど微塵も見られず、かといって本物のジャンキーでもない。普段の呼気と深呼吸の合間にある、淡泊な吸い込み方で一服。音一つ立てず吐き出して、もう一度。その後は薄く目を閉じて、体に毒が回るのを待ちかまえる。静かにソファへ身を預ける姿は、それでもやはり哲学的瞑想へ耽っているかのように、最初から指の末端まで神経が行き届いていた。
「マルヴァーン以来だわ」
落胆したかの如く長々とした吐息で肺の全てを吐き出した後、追いかけるようにして言葉が頭を出す。
「卒業パーティーでやったのが最後」
「マルヴァーン?」
背もたれへ肘を付き直すときも、リンは日焼けと無縁の瞼から目を離せないでいた。
「それ、ニュージャージーのどのあたりだ」
「イギリスよ」
絡み合っていた上下の睫がするりとほどけ、酩酊した、少なくともそんな気分でいる瞳が、スローモーションでこちらへ流れる。
「母が、ロンドン生まれなの」
思った通り、煙の向こうから現れた彼女は自らへ魔法を掛けていた。友人たちの勧めに従わないで良かった。リンは改めて自らの審美眼を誇った。女の脚と心をあげっぴろにするには葉っぱよりも粉がいいと言った阿呆ども。掌にラップの包みを握らせようとする飲み仲間の手を振り払い、彼はその年齢にふさわしい小馬鹿にした視線を投げかけたものだった。ロンドンで仕込まれた本物のレディに、行き過ぎた高揚もせかせかした貧乏揺すりも似合わない。鼻頭についた白い粉などもってのほかだ。ゆったりとした酔いにたゆたい、ドーンは暗闇の中で息をつく。生成色の革へ広がる髪は、夜明け前に一際暗くなる空を閉じこめたかのように黒々と艶めいていた。
相変わらず顔の表面に喜怒哀楽が出てくることはなかったが、問えば普段のように黙りこくったり思案したりせず、滑らかに答えを返してくれる。ロンドンっ子か。20歳まではね。訛、隠してるのか、巧いな。そっちのほうが楽ですもの。知っていて? この国じゃあクイーンズ・イングリッシュは生意気だって嫌われましてよ。
「言われてみれば、そうなんだよな」
天井を仰ぐ尖った顎から、すっと伸びた喉元までを鑑賞しながら、リンは受け取ったジョイントをくわえた。そのまま脱脂綿のフィルターがつぶれるほどの笑みを浮かべる。
「上品だ。ヤンキーの押しの強さじゃない。花で例えると、薔薇でもオダマキでも、ましてやマグノリアでもない。そうだな、百合の花みたいに」
「やめて」
顔を背けることで、ドーンは歯が浮く台詞の続きを拒否した。唇に浮かんだ微笑みは純粋な照れと困惑で、自惚れなど一滴も見つからない。だからリンは図に乗って、頬へ沿わせた腕の中するりと言ってのけた。
「凛としてるんだ。白い。強い。揺るがない」
いつのまにか彼女の膝から滑り落ちていた詩集が、二人の間を阻んでいる。リンはその分厚くかび臭い本を取り上げて、乱暴に床へと投げ出した。僅かとはいえグラスが利いているのか、叩くような音高い天井に跳ね返って増幅する。持ち主のドーンがなにを考えているのかはわからなかった。横顔に掛かった髪を払おうともしないから、表情すら見えない。けれど少なくとも怒りを覚えていないことは、先ほどまで本があった場所へころりと転がった手が表現する。
同じように、獣のなめし革特有のべたつきに囚われた自らの手指は、彼女の僅かに節が目立つ指のすぐ側にあった。手の力を抜けば、触れることができるだろう。言い訳としては完璧。体が伸びるのは、ラリっているなら当然のことだ。
皮肉なことに、自らが褒めそやかした彼女の出自と気高さは、口にすることで足かせとなり動きを阻む。マリファナの味を知る女なら、爪先への愛撫などすっ飛ばして首筋や耳に指を這わしても問題がないに違いない。普段の彼ならば、間違いなくそうしていただろう。
イギリス生まれ。いったいそれが、何だと言うのだ。心の中でどれだけそう唱えても、何故か彼女に触れるのが気が進まなかった。女性らしいなだらかな額から、彫刻のようにすっと伸びた鼻へと続くラインを目で辿るたび、指先は怖じ気付いて丸まってしまう。
「そんな褒められるような人間じゃない」
せっかくのハイになれる建前も忘れ、らしくもなくうじうじと考えていたリンに投げかけられた言葉は、煙など簡単に扇ぎ払ってしまうほど部屋に響く。甘皮のない爪から視線を剥がした男へ気だるげな動きで顔を向けると、ドーンは罰を受けているかのようにゆっくりと言葉を放った。
「私は負け犬なの」
よりによって一番似合わない形容が真顔で告げられ、リンは取り繕うことも出来ずに困惑した。
「負け犬?」
その瞬間だけ目をそらし、ドーンは頷いた。
「マルヴァーンを出た後、両親は当然、私が大学へ行くものだと思ってた。けれど私は、歌手になりたくて」
ゆっくりと持ち上げられた手へジョイントを掴ませれば、先ほどよりもずっと大きく肺を膨らませ、長い時間体内へ留めるような含み方をする。血という血に効果が回ったのを確認するまで、息をつかない。話の続きとなると、更に時間を要した。急かすような真似を、リンはしなかった。彼が思い浮かべた分かれ道の前へ立っていると、彼はしっかり自覚していた。
「オペラとか、古典声楽家志願なら納得したでしょうけど、私が好きだったのはピーター、ポール&メアリーにシルヴィ・バルタンとか」
「えらい懐メロだな」
「父がレコードをたくさん持っていたから」
自由な方の手を持ち上げ、分かっているとばかりに振る。
「学校の寮にも持ち込んで、毎日聞いていた。変わり者扱いされたわ」
変わり者の姿を、リンはありありと想像することができた。レコードプレイヤーの前にぺたりと座り込み、明るいポップスに耳を澄ませる少女。部屋の隅で一人きり、くだらない噂話に花を咲かせる同級生など見向きもしないで。ブレザーの腕は音源を抱きしめているのだろう。まるで世界にそれ以外の友達がいないかのように。
「だから高校を卒業したその日に家を出て、レコード会社の門を叩いた」
常の鋭い眼光はなりを潜め、眼球はプティングのようにかろうじて固形を保っているという状態。それはリンが望んでいたものと、ほんの少し形が違った。本人の言葉を信用すれば、彼女がグラスを飲むのは数年来。いくらポーズを覚えていても、肉体の方は薬効を思い出していないらしい。悪いことを覚えたばかりの初な女子高生のように、いつの間にかドーンの身体は、ソファへ張り付いたかのごとく弛緩していた。
「結局才能なんかなくて、トップレスで歌えばもう少し稼げるって言われたから、2年目かしら。逃げ出したけれど」
昔語りは微笑みを浮かべて行うべきだというルールを、無視しているのか知らないのか。にこりともせず言って、それから今にもジーンズを焦がしそうだったジョイントを、ゆるゆると目の前の男の鼻先へ持ち上げてみせる。
「あなたは」
「俺?」
受け取りざま、リンは肩を竦めた。
「聞いたところで面白くも何ともない。しがない港湾組合の使い走りさ」
組合員証を貰って以来、埠頭にある事務所へ足を運んだことなど一度としてないが、リンは女の子へ自己紹介するとき好んでその肩書きを使った。少し世の中を知っている子ならば、ぴんと来るものだ。浮かんだ表情は、相手の質を測るための立派なバロメーターになる。
したり顔を浮かべるでも、砂糖菓子のような痴呆的笑みを見せつけるでもなく、ドーンは先ほど男に見つけられたピアスホールへ手持ちぶさたな指で触れた。
「この前言ってたわね」
「なんだい」
「甥子さんのこと。写真を見せてくれるんでしょう」
「ああ」
店先で交わした、そんな些細な会話もきっちり覚えているなんて。驚きと照れくささが、煙と共にゆらゆら揺れる。
「そうそう。先月洗礼式が終わってさ。信じられるか、この俺が名付け親だぜ」
「何て名前」
「ジャッコ・アキヒロ・ストーン。妹に似たのか、こんなちびっちゃいやせっぽちでな。赤ん坊って、もっと丸々してるもんだと思ってたよ」
財布を出そうと尻ポケットへ手を入れた瞬間、誇らしさと愛情の代わりに血管へ流れたのは気まぐれな思いつきだった。そのまま何も掴み出さない掌をソファへ引っかけ直し、反対の指でマリファナを。舌が干からびそうになるほどめいいっぱい飲んでから、リンはよほど親しい女の子の前でしか見せない悪辣なにやつきを唇へ広げた。
「見せてやってもいいが、条件がある」
「なに」
少なくとも頭からはねつけはしない。斜め上をぼんやりと見上げたまま、ドーンは尋ねた。
「歌ってくれよ。何か得意の一曲を」
振り向いた顔は、やはり何の感情も浮かべてはいなかった。目が僅かに潤んでいる以外は、ドラッグストアの店頭に立っているときと同じ。ピンで張り付けたかのように顔の肉は動かない。まだほんの少し残っていた紫煙を吐き出しながら、ドーンは相変わらずの薄い抑揚で言った。
「下手なのよ、本当に」
「ご謙遜を」
「悪酔いしたらどうするの」
「聞いてみなきゃ分からない」
飛び出した冗談に、いつのまにか失っていた焦点を絞る。ドーンは笑っていた。ありったけの困惑を、細めた眦いっぱいに含ませて。
そんなこと、何一つとして珍しいことではないはずだった。店で週に一本ずつデンタル・ガムを買ったとき――女ってのは夜寝る前、うがいをしたがるからな――スターバックスのテラス席で彼女をいじめる上司をおもしろおかしく形容したとき――よくもあんな、ベンツを顔面で受け止めたスクービー・ドゥーみたいな奴と毎日同じ空気吸ってられるよ――確かにドーンの表情からは緊張がほぐれていた。世の中に臆していない人間らしく、口元を手で隠すこともしない。彫りの深い顔立ちの中で、大きめの唇が引き上げられる様を目にするたび、リンはいつでもじわじわと這うようなもどかしさと心地よさを覚える。
「聞かせろってば」
いつもなら的確な分量だけ現れて消える笑みを消したくなくて、声は気付けば駄々をこねるようなものになっていた。
「ほら、ちょっとでいいから。やってみろよ」
更なる甘えた口調を作り出そうと喉の奥を絞ったとき、それまでソファへしなだれ掛かっていた身体が唐突に立ち上がる。目を瞬かせるリンを見下ろすドーンは、悪い予感に反して拒絶を纏ってはいなかった。
そのまま無言で一歩踏み出せばコーヒーテーブルに臑を擦り、振るようにして伸ばされた手は一度リモコンを掴み損ねる。それでも何とかテレビを消し、画面を遮るようにして立つと、ドーンは救世主か何かのように両腕を軽く掲げた。背負った窓から差し込む昼過ぎの光が、均整のとれた輪郭を黒く透き通らせる。おかげで断言することはできないが、少なくともリンは、彼女がまだ顔全体にあの少しシャイな微笑が刷かれているように見えたのだ。
堂々たる挨拶の後、彼女はそのまま天井を仰いだ。思案する時間はほんの少しだけ。すぐさま神経の通った長い指がリズムを刻み始める。
「『あなたはいつでも、私のために何かを手に入れたって言い続けてる』」
節回しは、歌手のはすっぱを上手に真似ている。けれど声の張りはどうしても抑えることができず、低いながらよく通る音程はぶちぬきの窓まで走ってガラスを震わせるかのようだった。
何が下手くそだ。ソファに頬杖を付きなおしながら、リンは内心ぼやいた。立派なもんじゃないか。バナナラマを三人束にしたところで、彼女よりも音程の乱れを隠せないに違いない。
ところで、今彼女が朗じているのはナンシー・シナトラの『にくい貴方』なのか、それともシェークスピアの『ハムレット』なのか。僅かとはいえグラスが回っているせいか、リンにはさっぱり判断することができなかった。
別にどちらでもかまわない。自らが作り出してメロディに心をゆだね、身を揺すっている。いつの間にか落とされた瞼の内側で、陶酔に浸っているのだろう。その原因が歌であろうともマリファナであろうとも、今のリンにはどうでもよい話だった。もしもドーンをクラブへ連れていったならーー仮定の話で終わってしまうのは、そもそもリンは彼女と夜に出かけたことすらなかったからだーーきっとこうやって踊るのだろう。例えライトがいくら点滅し、狭いダンスフロア内に流れるリズムがどれだけ激しいものであったとしても。ドーンは歌い踊る。絶えず身のどこかを動かし、それでも決して熱を上げたりはしない。指が刻む途切れることないリズムに身を任せ、静まり返ったエリー湖の底でたゆたう青い水草のように。
歌うことで自らに閉じこもった彼女の瞳は、文字通り何も映そうとはしなかった。緩いグラスの薬効か、真珠色をした光がしなる体へまとわりつき、残像を柔らかく縁取る。リンは不意に納得した。彼女は、エンターテイナーではない。生粋のアーティストなのだ。
ドラッグのおかげで瞬きを忘れ、半開きの唇で凝視する観客に、ディーバは腕を降ろすことで終幕を示す。最後の一息がほっと吐き出され、胸の前で組み合わされた手がきゅっと握り合わされる。軽く首を傾げ、にこりと顔いっぱいに広がったのは、これまで見たことのないほど満面のはにかみと、充足だった。細められた目尻の皺、ちらりと覗く小粒の真っ白な八重歯を見せつけられては、リンもそれ以上アンコールを望む気にはならなかった。
しばらくぼんやりと笑顔を凝視してから、リンはようやく自らが間抜けな振る舞いに及んでいると気づいた。慌てて身を起こし、さっさと戻ってきた彼女に向き直る。
「ブラボー、ブラーボー」
乱暴な拍手も舌がもつれる喝采も、彼女に不興を買わせることはなかった。ははっ、と弾むような息と共に笑みへ照れを混ぜ込み、ドーンは再びリンの隣へ腰を下ろした。先ほどよりも距離は縮まり、二人の間へ割り込むスペースは人一人分もなかった。
「良かったぜ。本物よりもずっと色っぽかった」
「人前で歌ったのなんて久しぶり」
まだ幾分上擦った口調でドーンは言った。ミネラルウォーターの代わりに差し出されたグラスを唇へつけ、ばたんと乱暴にソファへ身を倒す。
「プロデューサーには声域が狭いし、節の取り方も下手だって散々言われたわ」
「そりゃあそいつの見る目がなかったんだ」
「お世辞でも、ありがとう」
「嘘じゃない」
まるで紅茶を注ぐ白磁のカップみたいにひんやりして見えて、彼女のこめかにみはうっすら汗が滲んでいた。頭を背もたれに預け、まだ笑みの余韻が残った口元から何かを放とうとし、結局噤む。ヘッドバンギングとはほど遠い揺らめきの末にもつれた髪の間から、紺色に近いような青い眼が覗いていた。息の音が長く穏やかになるのと反比例し、たった今どこからか帰ってきたかのようにその瞳は丸く見開かれる。いつもの鋭さは興奮に溶けて消え、頭蓋骨の裏まで見通せそうな明度。吐き戻しそうな胸の圧迫感に促されるまま、リンは身を乗り出していた。
唇が触れてもドーンは拒もうとせず、その代わり積極的に打って出ることもしない。全くの想定外だとでも言うつもりだろうか。薄く開かれた唇は凍り付いたように動かなかった。
やがて動き出したかさつき気味の上唇の動きといったら、舌のひらめきと言ったら。あからさまに戸惑い強張っている粘膜が慎重に探りを入れることすら、かっと頭を焼く。ままよ、とリンは肉の薄い頬へ手を伸ばした。マリファナを持ち込んだ時点で、こんな展開を期待していなかったという言葉に信憑性はなくなる。けれど同時に、リンは今この瞬間ですら、彼女にロマンチックなリビドーを抱くことが出来ないでいた。彼女の体はそそらない。リンが普段、ベッドで身繕いするのを許すのは、もっと肉感的で、何にでも甲高い歓声をあげる女の子だ。親元を離れて利子の高い奨学金でルーズベルト大学に通い、クラリネットを学ぶような。
「よしよし、子猫ちゃん」
潜めてしまった彼女の呼気を飲む合間に、リンは囁いた。そして、ひどい場違いさに困惑した。
いざ行動に移した期に及んだ女を持て余すなんて、ハイスクールよりこっち一度もないことだった。ひどく沽券に関わる問題だと、頭の片隅で自らが喚く。何をやってるんだ、さっさと抱いちまえ。その声へ大いに腹を立て、唸り声すらあげながら、リンは結局声に従うしか術を知らなかった。
骨ばった体をたぐり寄せようとしたまさにそのとき、またもや足下にまとわりつく感触、今度は浸食すらしてくる。
一体どういう神経で、0インチの狭間に割り込もうとするのか。ソファの座面へ飛び乗り、自らの膝へ擦りつけようとする生暖かい毛の固まりは、ただでも短くなっていた導火線を簡単に焼き焦がした。
弾かれたように勢いよく身を離すと、リンは執拗にまとわりつく猫の首筋を片手で摘まみ上げた。両手足が宙に浮いても、猫はびっくりしたかのように目を丸くするだけ。まるで先ほど、男のモーションを受け取るのに苦労していた女のように。
「この、くそ」
叩いた長距離トラックの運転手にすらしてみせたことのない怖い顔を浮かべ、リンはまだ動き出すこともできない動物を振り子のように揺すった。出来ることなら家の外へ叩き出してやりたいところだったが、立ち上がるのが惜しい。思い切り遠くへ投げ飛ばそうと腕の動きを大きくしたとき、初めて飼い猫は潰れたような唸りを発した。
濡れた唇もそのままにぼうっと様子を眺めていたドーンは、猫の体とリンの手が離れた瞬間はっと目を見開く。
「だめ」
よい餌のせいでまるまる太り、大きく開いた四肢が短く見えるようなでぶ猫を、細い腕が絡め取るようにして捕らえた。爪を立てられてもお構いなしに、縋り付くことができる肉体を供する。キスを許した男にすら与えなかった堅い抱擁で、ドーンはふかふかとした毛足に鼻を埋めた。
「やめてあげて。いくらなんでも、かわいそう」
そんなにこの猫が好きか。沈痛な面持ちで伏せた目すら獣に向けられたとき、ふとリンの頭に疑問が浮かび上がる。
「猫アレルギーなんだろ」
はっと持ち上げられた顔に浮かんだ色を見て、リンは本人以上に後悔した。仲間内において、彼は何でもそつなくこなせることに定評のある男だった。特に女の心なら、襞の狭間まで手に取るように読むことができると思っていたのに。
一頻り暴れた後、緩んだ腕から抜け出した猫は、さも憤慨したと言わんばかりに部屋の外へ消える。追いかけるようにして、ドーンも立ち上がった。
あのくそ生意気な猫をノースカロライナまで蹴り飛ばした後、自らの頭をデイトナのシートに押し込んであるグロッグで吹き飛ばしてしまいたい。甘ったるいとはっきり分かるマリファナの匂いばかり残った沈黙に取り囲まれて、リンは思わず天を仰いだ。自惚れることなどとても出来なかった。
何よりもしくじたるのは、この部屋を去った女とファックしなくてよくなったという事実に自らがとてつもない安堵を覚えていることだった。
女が羞恥に耐えたよりも長く、けれど己に課した冷却期間よりは短い時間を、苦虫を噛みつぶした顔で堪えた後、リンもとうとう腰を持ち上げた。立ち眩みはポッドのせいだろうか。効きはしないと、あれほど頑なだった思い込みがあっけなく崩れる。
「ドーン」
聞こえているかどうか分からなかったが、大声を張り上げた。返事はもちろんない。いつの間にか凍えそうなほど冷え込んでいた二の腕を擦りながら、キッチンへ向かう。彼女がそこにいると、リンは強固に確信していた。喜劇が繰り広げられた居間を除き、この屋敷の中で彼が知っている場所と言えばそこだけだった。
予想は当たり、ドーンは白い照明の下にぽつねんと佇んでいた。入り口へ向けられた背は厳しく、シンクへ掌を突き俯くことで拒絶の意志を表す。
どかどかと踏み込みながら、リンはもう一度名前を呼んだ。先ほどソファの上で感じた躊躇いなどどこかに消し飛び、伸ばした手は彼女の肉体へ触れたくて、例え低くても熱を求める。
「なあ。怒るなよ」
本当は「怒っちゃいないよ」と甘やかす口調で言ってやるつもりだったのに、気づけばリンは相手の横顔を掬い上げるようにして見つめていた。これだけ不躾な視線に晒されているのに、ドーンはやはり唇を引き結んだままだった。薬局のカウンターで薬の計算をしているときと同じく、怖いほど真面目な無表情がそこにはある。違いと言ったら微かに寄った眉根だけ。そんな顔、女の子が作るもんじゃない。やりきれなくなっていっそ笑みすら浮かんでしまう。
「悪気はなかったんだ。そうだろ? お互いに」
ぴくりとも動かない肩口を指先が掠める寸前、電子で作られた場違いな鐘の音が鳴り響く。天井にスピーカーでも付いているらしい。勢いよく音源を仰ぎ、ドーンは身を翻した。リンには聞き取れない壁のインターホン越しの声で、彼女は何かを認識したらしい。唇がぐっと奥深くへ潜り込むよう噤まれる。
「居間に……いえ、トイレに」
明らかな狼狽を目元に刻み、自らリンの背中に触れて軽く押す。
「副社長様か」
「いいえ」
ぱさつく毛先がちぎれるほど強く、ドーンは首を振った。
「けれど、彼は貴方がここにいることを喜ばないと思う」
ふさわしくない忙しなさで辺りを見回すものの、当たり前だ、そんなに急げば思いつくものも思いつかない。結局彼女は、届く位置にあるドアの銀色をした取っ手へ腕を伸ばした。
「すぐに帰ってもらうから、お願い」
重たいウォークインフリーザの扉を、上半身の力めいいっぱい使って開くと、中へリンを押し込む。まず感じたのは、再び背中をじっとり湿していた汗を冷やす風。
「すぐ済むわ、すぐに」
ろくな抗弁もせず、リンは無体に従っていた。腕が入るかどうかと言うほどだけ開けた扉の隙間を体で隠し、ドーンはフリーザの前へ仁王立ちになった。
鼻を突く、古くなった氷と鮮度を失った肉の匂い。蛍光灯の紐を引っ張る真似はせず、薄暗い中でも更に濃い闇へ身を隠して彼女に協力した。まるで予め通告されていた避難訓練へ参加するように、リンの思考回路ははすぐさま状況へ適応する。ほんの少しイレギュラーなだけ。シチュエーションとしては、初めてでも何でもない。能天気なアイムホームと、付随するダーリンだかハニーだかの呼びかけ。慌てる女。促されるまま靴とシャツをひっ掴み、クローゼットやベッドの下へ身を隠す。
ただ一つ違うのは、普段ならばこの時が来ることを薄々察知し、いつでも狭い場所へ這いずり込めるよう神経を張り巡らしていることだった。いま屋敷へ踏み込んできたのだろう人物は、家主ではないのだという。彼女を囲っているーー想定としてはあったが、これまで自主的に頭から消去していた可能性を、今になってリンは直視してしまったーー男ではない、ならば。
分厚い扉へ背中をくっつけながら、息をこらして耳へ意識を集中させる。暗がりと、棚へ収納された肉が纏うような霜を全身に吹き付けそうなこの寒気が、知覚を研ぎ澄ます。足音は、着実に近づいてきていた。
「出迎えもなしかよ」
絨毯の敷かれた廊下からタイルへ、靴が境界を踏み越える。同時に聞こえてきたのは、予想していたよりもずっと若い男の声だった。己と同じくらいか、もしくは年下か。MTVとグラスで頭の中が精液溜まりみたいになったガキ特有の、だるく滑舌の悪い喋り口がキッチンに広がる。
「冷たいな」
「ボーマンは留守よ」
「知ってる」
余韻を残さぬ短い言葉にも頓着せず、相手は彼女の前を通り過ぎる。冷蔵庫を覗いたらしい。ポケットに入った瓶同士のぶつかり合う不穏な音が響く。
「出張だろ。怪しいもんだけど」
「セントルイスへ行くって言っていた」
腕を組んだのか、光を遮るドーンの肩が一層いかった。
「きっとそうなんでしょう」
「セントルイスね」
吹き出す炭酸ガスにも負けぬ勢いで、男が鼻を鳴らす。
「飛行機ですぐじゃないか」
声が寄ってきた瞬間息を詰めるが、次の瞬間リンは別の理由で更に背中へ不快を走らせた。
「待たせてもらおうか」
肉体、影、そして声に含んだ威圧感、全てを用いて男はドーンに覆い被さってくる。フリーザの床から正面の壁にかけ、新たな闇が暗がりを上塗りした。その色と、躍動感を失った肉の臭いが、何かを想起させる。凍えて、ひどく静まり返った心のまま、リンは状況を読むべく首を伸ばした。天井からぶらさがったソーセージが額へぶつかり、冷たくねっとりとした感触を皮膚に残していく。
「彼は明日になるまで帰らない」
そうしても良かったのに、むしろそうすべきなのに、ドーンはその場から一歩も後ずさろうとはしなかった。
「待つの嫌いでしょう」
「俺には今夜だって言ってた」
「そう」
「言ってたぞ!!」
フリーザの中にあるものというものを揺るがしそうな喚きが叩きつけられる。分厚い扉で阻まれていてもこうなのだ。剥き身で晒されているドーンのことを思えば感情が波打つ。それでも彼女は動かない。フリーザの中を守るため立ち阻むことで、同時にリンから自らの身を隠している。
彼女がなにも言わないのを良いことに、男は居丈高な口調を崩そうとしない。
「俺にそう言ったから、あいつは帰ってくる!」
今にも泡を吹きそうな勢いは、ドラッグが作ったものか。ジャンキー特有のつんと鼻を刺す匂いがこちらまで届きそうなほどだった。
「おまえに分かるかよ。大体どうして、ここにいるんだ」
「クリシーの世話」
静かに、だがきっぱりとドーンは答えた。
「彼、生の餌しか食べないでしょう」
先ほど男が彼女に迫ったとき感じた緊張を、リンはとっくに脱ぎ捨てていた。奴が高潔な女をフリーザのドアへ押しつけてファックすることはない。なぜか確信することができた。
「あのクソネコか」
リン自身が先ほど抱えたのと寸分変わらない悪意を以て、男は吐き捨てた。
「今度保健所に持っていってやる」
「ボーマンが怒るわよ」
「知った口きくな!」
またもや一気にかけ上がった激昂が、空気を震わせる。
「お袋みたいに指図しやがって! 何様のつもりだ、ただのお人形のくせに!」
「スティーブ」
恫喝に圧され、ドーンは半ば呻くように呟いた。それが余計、癇に障ったらしい。男の口振りは勢い込み、手に負えないほど熱を上げていく。
「ボーマンがおまえの事、何て言ってるか知ってるか? ミートパイよりコチコチの冷感症女だって。確かにヤったことなくても、それくらい分かるよな、見ただけで十分だ!」
「大声で喚かなくても」
ドーンの取りなしには、辛うじて抑揚が残っている。
「聞こえてるわ」
彼女の声が堅さを増していくにつれ、リンは胸へシュガー・レイ・ロビンソンの右フックを食らったような鈍い衝撃を感じていた。せっかくポッドで誘った自然体はすっかりご破算。耳に届くのはナンシー・シナトラのぶっきらぼうで怖いもの知らずな口振りではない。ハリウッドのドンに愛された娘は傷ついて、身を隠した部屋へ踏み込まれないよう懸命にドアを抑えている。彼女は痛みに涙を流しているのだろうか。それはないとリンは知っていた。だからこそ、冷えきった心がドライアイスのようにふつふつとあぶくを跳ねさせる。汗の乾いた背筋が痛いほど凍り付き、音を立ててへし折れそうだった。
「出てけよ。用済みもクソもないや、おまえなんか最初からいらないんだから」
高々と振り上げた男の手が、威嚇でしかないと知っている。けれどリンは、その腕が自らの顔から光を翳した瞬間、扉を開け放っていた。背中を押される動きにドーンがよろけなかったのは、このことを予期していたからか。視界の端に引っかかった彼女の顔は、大きく見開かれた目以外の全てがクールなままだった。
男は言葉での暴君ぶりが信じられないくらいひょろりとして、成人しているかどうかも怪しいもの。ジーンズとワイシャツの出で立ちは予想を裏切る小綺麗さで、ヒューゴ・ボスのモデルをしていてもおかしくないような優男だった。どう目して小さくなった虹彩は、シンナーでラリっているとは思えないほどまともなもの。それはつまり、へし折るべき歯がまだリンに残されているという事だった。
事態が飲み込めず、呆気にとられてぽかんと口を開けた男は、逃げることもできなかった。鼻面にパンチをお見舞いされると、もんどりうってその場に崩れる。痛みと大げさな出血を恐れるほど、喧嘩慣れはしていないらしい。裂けそうなほどまん丸くなった目尻に涙が膨れ上がり、ムンクの叫びもかくやと口が大きく開かれる。
無様な悲鳴が耳へ届く前に、リンは爪先を男の腹へたたき込んだ。普段の取っ組み合いなら、この段階へ到達するまでにお互いもう少し青あざを作り疲弊している。だが一発蹴り込まれた時一瞬息を詰めるものの、男は鼻血をまき散らしながら、芋虫のように這いずって逃げようとした。無様な姿も、お気に入りのフラットシューズに血混じりの唾が飛ぶことも、むかっぱらを煽るばかり。怒りを対象へ素直にぶつけるため、リンはもう一度、今度はこめかみに狙いを付け、サッカーボールにでもするように足を繰り出した。首がもげたかと思うほど激しく頭を上下させ、男は完全に逃げる気をなくしたようだった。
フリーザから飛び出したばかりでは暑さすら感じる空気を、クーラーは淡々と循環させている。そんな冷風に重ねるよう、生ぬるいアンモニア臭が流れてきた。
「おいおい、さっきの威勢はどうしたよ」
乱れた髪を掻き上げながら、リンは男の腰を踵で突いた。些細な刺激にも恐怖は煽られるのか、男は横たわっていた身を一層丸める。反射的な動きは、タイルの上へ広がった小水を拭き取っているとも、塗り広げているとも、どちらとも取ることができた。
衝撃で意識を朦朧とさせる男に更なるお仕置きを加える前に、リンは傍らのドーンを振り返った。
「どうする」
血の気を失った唇と頬は、青いチークとルージュで化粧を施したかのようだった。それが決して恐怖由来ばかりでないことに、リンは気付いていた。根拠は単純、握りしめられた手に拒絶が見えない。骨が突き出た肘を強く握り、ドーンは先ほどまで無体を働いていた男を見下ろしていた。隠すことの出来ない厳しさで顔を染め、けれどそれは決して主張が強すぎるわけではないのだ。
「もっとして欲しい」
追いつめられたときに聞かせたぞっとするような無機質は、もうなりを潜めている。リステリンが7ドル98セント。レジの前でそう告げるのと同じ抑揚で、ドーンは言った。
「けれど、それがいけないことだって分かってる」
「じゃあ止めとこう」
あっさりと肩を竦め、リンは男のシャツの襟首を掴んだ。先ほど猫に対してやれなかったことをそのまま再現するよう、脱力した体を引きずる。床に跡を残す小水に思わず顔をしかめるたのは彼だけで、ドーンは一挙一動を黙って見守っていた。
フリーザの中へ投げ込まれても、男はあのくだらない悪態のボキャブラリーを披露しなかった。固いコンクリートの床に肩をぶつけたとき、微かに呻いたのが唯一の反応。扉を閉めようとしたところで聞こえたにゃあに、リンはにんまりと笑みを浮かべた。ジーンズの裾を手でもてあそぶ猫の胴を両手で抱え、倒れ伏す男のいるあたりへ放り投げる。
悲鳴ごと閉じこめるよう扉を封じ、リンはようやくドーンと向き合う機会を得た。
「さて」
わざと大きな音を立てて手を叩き合わせ、相変わらず汚れた床と異臭の間に佇むドーンを見遣る。
「何か飲むか」
「いらない」
「奇遇だな、俺もだよ」
関節にこびりついた血が、かっかと熱を持つ。拳の骨の軋みが鼓動と歩調を合わせる。全身へ廻った興奮を宥めるのは潤いじゃない。乾きが欲しかった。
ポケットで丸まっていたポールモールのパッケージから一本取り出してくわえ、火をつける。燻すような辛さは喉を干上がらせ、持続したままのアドレナリンが尾を引くようにゆっくりと収束へ導かれる。換気扇代わりの空調は、紫煙を簡単に薄めてくれた。胸がムカつくような小便の臭いだって、今に消えるだろう。先ほど吸っていたグラスではあり得ない、短く出来るだけ早く燃やすような飲み方を繰り返しながら、リンは部屋の隅へ視線を流した。汚れた餌皿は半分近い食べ残し。猫に反省を促したのは正解だった。あんな柔らかそうで脂の乗った切り落とし、メニューを考えるだけで十分腹が満たされるに違いない。
「聞きたい?」
呟くようにドーンが尋ねたのは、母親が昔作ってくれたビーフストロガノフに思いを馳せていた時だった。皿中かき回して探す肉片、スプーンで弾くグリーンピース。
「理由を」
「話したいのか?」
こちらを向いてくれない顔へ横目を向け、リンは言った。
「興味はあるけどな。嫌なら話さなくていい」
閉ざされた扉を凝視していたドーンは、やがてゆっくりと自らの肘から指を引き剥がした。
「スティーブはボーマンの」
顔を背け、息絶える前のように深く震える息が、喉までひくりと痙攣させる。
「大切な人。いえ、重要な人って言えばいいのか」
浮かべれば似合うのだろうと思っていたが、実際顔へ刻まれれば、自嘲はひどく彼女の魅力を損なった。
「ボーマンに大切な人なんていない。自分が一番大事だから」
「企業戦士って奴か」
開けようと思えば、扉は内側からでも開く。だが閉じこめられた馬鹿がよろめきながら姿を現した途端、リンはポールモールをくわえたまま陰険な優男の襟をねじり上げ、今度こそどんな高級な挽き肉ですら噛めなくなるほど歯をガタガタにしてやるつもりだった。
「あまりバランスのいい組み合わせじゃないな。まるでJFKとマリリン・モンローみたいだ」
「何もなかったわ、彼とは」
世間話の延長上でつらつらと言葉を組み合わせるリンと違い、ドーンの声は相手と会話をする意志も期待も皆無、どこまでも投げやりだった。
「薬局にヴィックスのトローチを買いにきた彼が小脇に抱えてたのが、サマセット・モームの評論だった」
竦める肩の動きは堅い。冷静に振る舞おうとし、その目論見はほとんど成功している。
「その時点で気付くべきだったのに」
これであと、話をしている男の目を見ることが出来れば、誰も悟ることすらできないだろうに。例え咳止めシロップを手渡すときですら、いつでも相手の顔をまっすぐ見据えていた瞳は、フリーザへと突き刺さっている。
深みを増したそれはやがて、ようやく動いたかと思うと、雲間に隠れた神を追いかけるように天井へと滑った。
「この家の二階に、大きな書斎があるの。本棚には百巻を越えるようなイギリス文学全集が、好きなときに来て読んで良いって。話し相手になってくれって」
尖った顎は肥満などとは無縁。煙草がどんどん短くなり、まだ色が変わったままの濡れ跡濃い床へ灰が落ちていくことなどお構いなしに、リンはじっと相手の話に耳を傾けて見せた。
もっとも、聞く姿勢などドーンは特に気を払わなかったに違いない。彼女の言葉はほとんど独白、シャンソンの中で語られる物語のようだった。
「十二巻の、ラドクリフ・ホールを持っていこうとして部屋から出たとき、廊下でスティーブと鉢合わせしたの。ほとんど裸だったわ」
リンが微かに笑ったのが耳へ届いたのか、彼女はつられたように吐息だけで笑いを表現した。
「ボーマンは、好きなようにしてくれていいし、そう振る舞うことを望んだ。ただ一つ、今まで通りここに来て欲しい、スティーブとも友達になって欲しいって」
「好きだったんだな」
リンはまっすぐに指摘した。彼女の感情を慮りはしない。それはとてつもなく失礼なことのように思えたのだ。
「そのホモのおっさんのこと」
「いいえ」
虚脱した顔の中、口元にだけ淡い笑みを浮かべ、ドーンは彼のいる場所へ顔を振り向けた。
「ただ、こんな状況が嫌でしょうかないだけ」
辛そうな表情も浮かべず、ましてや泣きもせず、それどころか辛いとすら言わない女に、男は一体どんな言葉を掛けてやれば良いというのだろう。
もしも彼女がクラリネット奏者の卵だったら、膨れ上がる涙を親指で拭ってやって、何か適当な慰めの言葉を掛けながらベッドへ連れ込めばいい。けれど今は払う滴がない。寝室の所在も分からない。
不謹慎であるとは思ったが、疲労を乗り越え更なる自我の奥へ潜っていくドーンの横顔は口を開けて見とれてしまいそうなほど美しかった。安物の葉っぱを吸って神経をごまかしていたときですら、これほど心がぴたりと動きを止めるほど感じ入らなかっただろう。好きにしろ、とたまらず心中で呟いていた、ほとんど悪態に近い口調で。
はらわたを焦がす怒りに促されるまま、リンは閉め切られたフリーザへ歩み寄った。頭を冷やすべきだ。例えそれが、けいじ学的な意味すらもたらさないとしても。先ほど他人の肉へめり込んだ拳の骨は、甥っ子があぶくを吹きながら予兆を訴える乳歯のようにむず痒い。宥める方法は一つだけ。気が済むまで同じ刺激を与えればいい。
フリーザの向こうからはすんとも物音が聞こえない。大義名分のためにも、もう少しくらい暴れるなり、汚い言葉を喚き散らすなりしてくれればいいのに。拍子抜けと共にやってきたもどかしさは簡単に苛立ちへと変化する。
扉は閉じるときより開くときの方が力を要する。両足へ力を込めて踏ん張りながら、リンは鉄製の重いドアを引いた。ほんの少し出来た隙間から、小さなつむじ風が駆け抜ける。長い毛足を野菜のように冷やした猫は、地獄から抜け出すと一目散に部屋の隅へと遁走した。
四隅へ逃げた影へ体を突っ込むようにした男は、先ほどと全く同じポーズで倒れ伏している。その事実にリンが気付いたのは、彼の靴へ蛇のお化けのようにソーセージが巻き付いたままであるのを目にしたときだった。先ほど力の抜けた肉体を放り込んだとき巻き添えを食らったそれは、まさしく動きを阻んでいるかの如く絡まっている。
俯せのまま動かない背中にリンが首を傾げているとき、ふいに耳からうなじにかけて艶やかなくすぐったさが被さる。ビスケットのように甘いミドルノート。少なくともシカゴの郊外で振りまくには、あまりにもこ惑な香りだった、
リンの背中越しに中を覗き込んだドーンは、受容する耳朶を凍り付かせるような低い声を吐き出した。
「大変」
リンの手へ被さり強く取っ手を引く指も、色を変えるほど熱を失っている。
「発作よ。アレルギー、猫の」
身を捩って中へ滑り込み、膝を突く。身を丸めた彼女が新たに影を作ることで、リンはようやく暗闇に目を慣らすことが出来た。ばた足のように小刻みなリズムを刻む足の甲。モーターの低い唸りに紛れて聞こえるぜいぜいと荒く、時折ひきつる呼吸。
「打ち所が悪かったかな」
まだ緩やかな疼きを発し続ける拳を固め、リンは呟いた。これだからガキは嫌なんだ、喧嘩の作法ってのを分かってない。正面から叩くフリーザの冷気でも、背中を押す空調の風でも、どちらでもない寒気が背中を這い降りる。
「違う」
俯き、後ろ姿とは言え、ドーンは首を強く振ることではっきりと否定した。流れた髪から現れた項が、暗がりの中に浮かび上がる。
「前にも同じようになったのを。猫と同じ部屋にいるだけで涙が止まらなくなる」
「薬とかは」
女の薄い唇の動きが視覚を越え、直接頭の中へたたき込まれる。ようやくまともに動き始めた脳味噌と共に、リンは一歩中へ踏み入った。
「どこだ? くそっ、ヤバいのか」
「病院へ連れて行かないと」
細腕で抱えあげられたとき、剥かれた白目が青白いのと、唇が紫になっているのは、決して暗がりのせいだけではないのだろう。顔に限らず、全身がまるで枯れ木のように強張り萎えている。それが伝染し、戸惑いと未知の出来事に対する恐れと混ざり合って体を支配しないうちに、リンも男の傍で身を屈める。覆面をして車から降り、運転手をホールドアップへ誘うためをトラックの運転席へ近付くのと同じ。深く考えるよりも、いざ事が起これば体が動くに任せた方がいい時もある。
痙攣する男の腕を掴んで自らの肩に回し、リンは見上げてくる殆ど公債の見えないような瞳をしかと見つめ返した。
「車を廻す。ここで待って……留守番してろ」
「私も」
「いい。猫を放り込んだのは俺だし、ややこしいことになんか巻き込まれたくないだろう?」
彼女は立ち上がった。眼差しが同じ位置まで来たとき、その眉がもどかしげにひそめられたのを、残念ながらリンは見逃してやることができなかった。反論はせず、かといって従うことなどさらさらなく、ドーンは力なくぶら下がったもう一本の腕を自らの首へ巻き付けした。彼女が支えなくても、こんなひょろっこい男なら十分家の外へ引きずり出すことが出来ただろう。
骨ばった男の体へ触れてからは、一度としてリンの目を見ようとはしない。俯いたまま作るひどくしゃがれた声は、寒さの中で淡い白さに凍り付いた。
「こんなところにいるより、ずっとマシ」
頬骨から上がぴくりとでも動いてくれたら、リンとて女の嘘を信じる気になっただろう。結果は、白磁人形のような無機質さが肌に染み込むだけ。自らが踏みしめる数歩先へ据えられた焦点が、本当は何を見たいか知るとなるとなおさらだった。
居間へ残したグラスに思い至ったのは門からデイトナを突入させた後。背の高い門柱から飛び出したが最後、リンは二度とここへ戻るつもりなどなかった。招かれざる客の痕跡は、きっと屋敷中に投げ出されていることだろう。洗っていない猫の皿。飲みさしのビール瓶。リビングはインドの香でも焚いたかのような臭いを保っているだろう。彼ですらまだまだ指を折って証拠を挙げることができるというのに、聡いドーンが焦りに身を任せ全てを投げ出したとは到底思えない。車を廻す間も、彼女は崩れ落ちそうな男の身体をしっかりと支えていた。細身の体のとこへそそんな力を秘めていたのかと訝しく思うほど、踏みしめられた足は強く、しかも大きくがに股に開いたりなどしない。バックミラーに映る遠ざかる姿、フロントガラス越しの近付く姿、どちらを目にしたときも、リンは言いしれぬ戸惑いを隠すことができなかった。
願いも空しく、ドアが開いた途端、ドーンは男と共に後部座席へ這い上がった。必然的に乱暴となるアクセルの踏み込みで身体が揺れるとき、落ちたかのようにうなだれた頭を両腕で抱えて見せた程だった。
「この近くなら」
「ええ。市立病院へ」
ドーンは頷いた。
「あそこへお世話になってるって、本人から聞いた」
「ならいい、面倒見てくれるだろう」
正面を向いたまま、リンは片眉を大きくつり上げた。
「それとも、自分で見るか」
問いかけに返事はない。代わりに動きを見せたのは沈黙を保っていた男だった。不意に肩胛骨と胸が盛り上がる。思わす身構えるよりも、発作は早く大きい。薄桃色のとしゃ物がレインボーのシャツへ盛大にぶちまけられるのを、リンはミラー越しになすすべなく見つめているしかなかった。
一瞬、驚きの表情を浮かべたものの、ドーンは絡めた腕を放そうとはしなかった。すえた臭いが車内に充満しても、男が醜いえずきを続けていても、それは変わらない。汚物は肩へ流れる艶やかな髪にまで掛かってしまったのではないだろうか。そしてもちろん、愛車のクリーム色をした革製シートにも。
リンが黙って後部座席の窓を開くと、ドーンは悲しいほど冷静な声で「ごめんなさい」と呟いた。ああ、と漏れた自らの声が、コントロール出来ず掠れていることに腹立ちしか浮かばない。
「くそったれ」
「本当に」
「違う、何で謝るんだ」
ぶっきらぼうに言い捨てることで、言葉の続きを摘んでしまったとすぐに気づいた。ミラーの中で彼女はそろそろと男の頭を膝へと降ろし、伏せた目は深く沈んでいる。頭を抱えたくなった。
「一体全体、どうしてこう、厄介な方に転ぶんだか」
嘆きが滴る呻きにも顔が持ち上がることはない。だがリンの思いつく、薄れこそしても残り続ける悪臭と重苦しい沈黙への対処法は、唯一これだけだった。
「ここのところ特にだ」
「まだ最悪の状況じゃない」
俯くことで喉をつぶしたまま、ドーンがぽつりとこぼす。
「死んでない。彼は生きてる」
「いっそくたばってくれりゃ楽なのに。そこらのゴミ箱へ投げ込んどける」
男は喉へ何かを詰まらせた様子はなく、一度盛大に吐き出した後はひゅうひゅうと木枯らしのような音で呼吸を続けている。のろのろ走っていれば、冗談の悪態はすぐざま現実となるだろう。アクセルを踏んで、州道に入る。頭上で点滅する信号など知ったことではない。
「くそったれめ」
「死ぬなんて、そんな簡単に言うべきことじゃないと思う」
「いっそしんじまったほうがいいだろ」
平坦な声を、先ほどまであれだけ求めていたというのに。車外からごうごうと飛び込んでくる騒音に乗ると、どうしてこれほどまでに神経をざわめかせるのか。口調が尖るのをどうしようも出来ないまま、リンはハンドルを強く握りしめた。
「恋敵なんだから」
「恋敵じゃない」
「隠さなくてもいいって」
「本当よ」
「別に馬鹿にしちゃいない」
リンの口調に煽られたのか、背後の反ぱくも少しずつ熱を上げていく。それを耳にした途端、リンの言葉も更に鋭さを増すのだ。このままいけばどうしようもなくなると、頭では分かっている。けれど、かき混ぜられ、エンジンと風の音にもみくちゃの今では、どうしようもない。せめてもの抑制は、正面をひたすら睨みつけることだけだった。
「素直になれよ。普通、女ってのは、下心のない奴のうちで猫の面倒なんか見ないもんだぜ」
「女、女って、よく分かってるのね」
見せつける上目遣いの気迫。こんなものベッドで目にしたら、どれだけいきり立ったモノでも瞬時に萎えてしまうだろう。
「少なくとも私は、毎晩リステリンでうがいなんかしない」
「だろうな」
言葉は簡単に記憶の断片と組み合わされる。そして思い知った。少なくともこの女は、自らが伸ばした誘いの言葉のほとんどを、まともに理解していなかったに違いない。そうであれと望んでいたことをすっかり忘れ、リンは鼻息も荒く言葉を継いだ。
「そんなこったろうと思ってたよ」
「どう思われようと」
まとわりつく異臭を立ち上らせていることを、彼女は何一つ引け目と感じていないらしかった。
「かまわない」
「へえ? じゃあ俺が何を言っても、甘んじて受け入れるってわけだな。いい機会だ、この」
唇が機敏に凍り付いてしまったのは、サイドミラーの中で点滅する青い回転灯を目にした時だった。一拍遅れて、感情を引っ掻くサイレンが響く。
「ちくしょう」
徐行し道路脇に入りながら、リンは呟いた。怒りが限度を超え、体中から力が抜ける。
「ジョン・マクレーンだってもうちょっと良い目見てるぜ」
フロントミラーの中心で唇をぐっと引き結んだドーンと目が合う。
「俺が何とかする」
もどかしさに爆発しかけてる深い青色を見据えゆっくりと言い聞かせた。
「余計なことは言うな」
白地に青い線が一本入った車両から降りてくる制服姿は、条件反射として彼の背骨に冷たいものを走らせる。ダッシュボードを調べられたら全ては終わりだ。シグザウェルの正規品だと知り合いが言い張っていた黒光りする拳銃は、先日の仕事で使って以来放り込んであるままだった。もし見つかった場合、どうすればいいだろうか。刺せるものも、殴りつけることが出来るものも、何一つ持ち合わせていない。そもそもそれは、得策ではない。
動きを止めた途端、デイトナの中には熱気と冷えた胃液の臭いが満ちる。外にまで漏れ出していたらしい。開いた窓に手をかけ身を屈めたとき、警察官はあからさまに顔をしかめた。
「赤信号が見えなかったのかね」
「急いでたんで」
三十過ぎといった男は髭もサングラスもなし。ポケットの中で丸まった紙幣を出したところで、状況は悪化するばかりだろう。政府の犬らしい偉そうな言いぐさにむかつく胸を宥め、リンは歯をむき出す笑みを浮かべた。
「急病人なんですよ」
「弟が発作を起こして」
あれほどきっぱり断ったのに、ドーンは身を乗り出して加勢の訴えを見せる。はらはらしながら、リンは身動きできないまま耳だけで背後の状況を窺うしかなかった。
「早くしないと、死んでしまうかも」
「だからといって3つも信号を無視するのは」
あの惨状を目にして心を動かされないとしたら、みんなの友達おまわりさん失格だ。確かに怯み、後部座席をまじまじと見つめながらも、男は濁した言葉で抗する。
「それに後部座席のシートベルト未装着」
「彼は私のボーイフレンドで。私のために、急いでくれてたんです」
ボーイフレンド。今度こそ、リンは腹へシュガー・レイが放った黄金のブローを食らったような気分になった。それが方便であると知っていても、平静を失った身には致命的だった。焦りと恐怖と混乱と期待は離れ難いほど圧縮され、今にもこの場へ胃の中のものをぶちまけそうだった。
「お願い、見逃して」
あざといほど芝居掛かった懇願が、頭の周辺を飛び交っている。そんな声、出せるんだな。嘘だろう? 嘘だと知っているのに、そう思い込めない。
踏ん切り悪く逡巡してから、結局官憲の犬はシートの中で凍り付いた笑みを浮かべていたリンと向き直った。
「免許証を」
血の気が引いていく頭でミラーを見上げれば、そこにはやはり、警察官へ見せていたのだろう縋る眼差し。凪ぎがぴたりと止むように、リンの思考回路も動きをやめた。
財布から出された免許証を受け取り去っていく後ろ姿を、リンはぼんやりと見送っていた。
「リン」
平らに均したかのようなドーンの声が、体に染み渡る。
「ごめんなさい」
ラジオが欲しい。煙草が欲しい。どちらも手を伸ばせばすぐ得られるのに、彼は掴みにいく努力をしなかった。結局覆った沈黙が、車内を支配する。開け放たれた窓のおかげで、確かに外の世界と繋がっているはずなのに。ここから出られないという錯覚ばかりが身を苛んだ。それが喜ばしいことなのか、恐るべきことなのか、考える余力すらリンには残っていなかった。
砂利を踏んで戻ってきた警察官の表情に厳しさは見られない。免許証を返しざま、男はもう一度じろりとリンの風体を見下ろした。
「三週間前に出所したばかり?」
「運転技術に問題があった訳じゃない」
後ろの女を真似、出来るだけ哀れっぽさを誘う声をあげる。
「もちろん、忘れてた訳でもないし」
「法廷侮辱罪で二週間」
その余計なことばかり喋る口を今すぐ塞いでやろうか。そう怒鳴りつけることは辛うじて堪えた。男に悪意はない、職務熱心なだけで。もっともそれこそが、苛立ちをかき立てる要因なのだが。
リンが車を飛び出す寸前になって、ようやく男は車を軽く叩いた。スーパーマンのように非の打ち所のない顔が、本人は寛大さを表明していると思っている微笑みで歪む。
「何なら先導しようか」
「結構ですよ。市立病院はもうすぐだ」
恐らく同じくらい引きつっているのであろう笑顔ではねのける。肩を竦めた後ろ姿がパトカーへ戻るよりも早く、リンはアクセルを踏み込んでいた。
だんまりの中からドーンが姿を現したのは、後5分も走らぬうちに目的地へ着くという頃になってからの話だった。
「トラブルに巻き込まれたくない」
鏡越しにじっと見つめられ、リンは堅い動きで身じろいだ。
「そうよね?」
「ああ」
偽ることなく頷く。
「けど、大したことないや。病院につれていくだけだ」
「いいの」
ドーンは強く首を振った。
「私が。降ろしたら、そのまま帰ってくれればいい」
「そんなことするような男に見えるか?」
けたけたと、甲高くリンは笑い声をあげた。
「ひでえな、おい」
対応として間違っていることは百も承知だった。だがどういう形であれ、吐き出さなければもう耐えられない。顔から体からぐちゃぐちゃに汚れて顔を青くする男を膝に乗せ、自らも散々にとしゃ物を被ったまま、それでもひたと哀れな相手を見据えている女の姿。まるでピエタじゃないか。リンはそのとき、ようやく認めた。認めた瞬間、この光景を否定したくてたまらなくなった。けれどそれが不可能だと知った今、笑いが止まらなくなったのだ。笑って、笑って、溜め込まれた全ての感情を体内に追い出した後、リンは自らが泣きたいのだとようやく知った。
もちろん、彼は涙なんか一滴も流さなかったし、ドーンも何も言わなかった。今この状況で、何か新たなことを成すなんてふさわしくないと、二人は重々理解していたのだ。
文字通り蹴り出すようにして病院前へ男を置き去りにしても、ドーンは何も言わなかったし、車から降りようすらしなかった。いつまでも汚れたシートの上で身を縮めているので、リンは帰路の途中、マクドナルドの駐車場で一度車を止めた。
「何飲む」
「いらない」
「いいから飲めよ」
「じゃあ、ダイエットペプシ」
「分かった」
車のトランクに入れてあったシャツが至って普通の白いワイシャツであったことに安堵する。窓から押しつけると、彼女が何か言う前に後部座席のドアを開いてしまう。「もうそんなところにいる必要ないだろ」
返事を見届ける前に、リンはさっさと店の中へ足を踏み入れた。
ペプシがなかったのでコークを持って戻っても、もちろん彼女は文句なんて言わなかった。渡されたシャツを羽織った彼女は、助手席に身を埋めている。膝に乗せたカップのストローには、数度口を付けていればいい方だった。
屋敷に戻るか、と尋ねれば、そうする、と静かな頷き。そのまま残ろうかという提案は拒絶された。
「彼に電話して、それに、帰ってきたら話をしたいから」
それだけ言って、後は窓の外を流れる景色へ身を任せている。
沈黙は好ましくない。だが折られたシャツの袖から見える彼女の腕がすっかり弛緩しているのは救いだった。午後も終わりを迎え、少しずつ角度を落としている太陽が、フロントガラスに丸く反射する。州道は車も少ない。ドライブはすぐ終わりを迎えるだろう。
酸っぱいようなすえた匂いは、全開にした窓のおかげで少しずつ薄まってきている。シートは惨憺たる有様だろうが、女を責める気はなかった。そもそもリンは、最初からドーンに怒りなど抱いたことなど一度としてなかったのだ。
彼女を目にするたび感じるもどかしさは、確かに不穏な色を纏っている。けれど、今のままでいい。下手に深入りしない方がいいときもいっぱいあると、彼は仕事上よく知っていた。たとえそれが、自らの感情を対象としているときだって、それは変わらない。冷静さを取り戻した頭は、納得への道を見つけて歩み始めていた。
「さっき、ボーイフレンドなんて言ったけれど」
それなのに、傍らからゆっくりと流れてきた声が、全てを台無しにする。
もう二度とパトカーなんかに捕まらないという名目の元、リンは真正面を睨みつけた。まっすぐな道、信号はどこまでも青く続いている。このまま家へ帰るまで、車が止まることなど二度とないだろう。
「とっさに思いついて。悪気はなかったの」
そのまま溶けてしまいそうな深い吐息が、車のエンジンをかき分ける。むしろ、呼吸だけではない。彼女の身じろぎ、流れた髪が肌を擦るうねり、彼女の作る全ての音だけがリンの耳へ届けられた。
「怒らないで……でも、怒るかもしれないけれど、私、あなたのこと」
紙コップを抱えた手に滲むのは水滴だろうか、それとも汗か。濡れて午後の夕日に染まることで、固く突き出した関節の皮膚は色を抜いたような白さを際だたせていた。
「好きよ」
背けられた顔を覆うのは日差しの作る影であり、波打つ髪であり、リンの位置からは到底窺い知ることができなかった。
このゲロ臭い痩せぎす女を抱きしめることに何の苦もない。そうしたいとリンは心から思った。けれど、それで終わり。どこをどう間違ったのか、彼は普段ならたやすく女に与えるものを、ドーンと共有することが出来ないと既に気付いていた。
ハンドルがへし折れそうなほど握る手に力を込める。胸の奥でぐうっと膨らんだ塊を飲み下し、完全に消え去ってからゆっくりと口を開いた。
「けどな、ドーン」
世界で一番真剣に耳を澄ます女の体は、微かに震えている。リンはその肩に触れようとはしなかった。霞掛かったように見える青信号の点滅へしかと目を凝らす。
「俺はきっと、お前にゃ勃たないよ」
本当にいい女を前にして勃起できるなんて、キリストかテッド・バンディのどちらかでしかないのだ。
ほんの僅かな静寂の後、ドーンはふっと笑った。
「なに、それ」
微笑を発露とし、そこから声が弾ける様は、確かにどこのクラブでも拾ってくることができそうなほどありふれていた。幾ら目元がくしゃりといびつになっていたとしても。
泣くときも笑うときも同じような顔の歪め方をする、彼女もそんな女の一人だった。それが分かって良かったと心の底から思いながら、リンはアクセルを強く踏み込んだ。
普段は店の中に佇む女を、今日は逆に男が見送る。後ろ姿がドアの向こうに消えても、リンは特に不安を感じなかった。何せ彼女には、貴婦人の血が半分流れている。世間体を気にする紳士相手なら、きっと自らよりもずっと上手くあしらうことができるだろう。
屋敷の前で車から降ろしたとき、ドーンはサイズの合わないシャツの中で腕をひらりと振りながら言った。レジを挟んで向かい合ったときと変わらぬ、まっすぐな視線を突き刺しながら。
「このシャツ、洗って返すわ」
構わないとも、そうしてくれとも、リンは口にしなかったが、彼女はあまりにも真面目なので、疑うことはしなかった。
だから一週間ほどしてドラッグストアに行ったとき、彼女が店を辞めてロサンゼルスへ向かったと聞いて少し驚いた。
「やりたいことがあるとか言ってたけれど」
男のように唇をねじ曲げる更年期の薬剤師の話もそこそこに、リンは店を出た。路駐した愛車の運転席へ戻って、はたと思い至る。一体自分は、今から何をするつもりなのか。彼は彼女の電話番号はおろか、住所も車が運転できるかどうかすら知らなかった。
ハンドルへ覆い被さるようにして考えていたとき、固く不愉快極まりない音が車内の空気を揺らす。窓を開けると、そこにはしょっちゅうお世話になっている制服が突っ立っていた。
「ここは駐車禁止区域だ。移動させなさい」
「禁止区域? 大学の周りだけだろ」
「周辺住民の苦情がうるさくてね。最近適応範囲が広がったんだよ」
パイロット・サングラスと撫でつけた金髪。いかにもなマッチョ主義。どんな出で立ちでも見分けなんかつかない。ポリ公の学校には「馬鹿に見せる方法」という授業でもあるのだろうか。うんざりとため息をつき、リンは手を振った。
「分かったよ、くそったれ」
相手が何か喚き出すよりも早く、デイトナのエンジンは快い音を立てて暴れ出していた。
雑巾で拭いてアルマーニの香水を振りかけたおかげで、車の空気はすっかり平穏を取り戻している。自らが付けている分も含めて香りは少し過剰すぎる程だったが、半分も窓を開けていれば十分だ。カーステレオから聞こえてくるのがレッド・ツェペリンの「グッド・タイムズ バッド・タイムズ」なのはあまりにも出来すぎているが、良しとする。
特に行く先も考えず車を走らせていたら、いつの間にか悪目立ちする珊瑚色の建物の前に来ていた。フォースターの本を抱えたのっぽの女を彼の前に生み出した図書館前、人の気配すら感じられないほどしんと静まり返っている。そうあるべきなように。
そりゃあそうだわな。
誰にともなく一人ごち、歌を口ずさむ唇もそのままにリンは門前を通り過ぎた。
-fin-