尾行
「あれはどう見たって駄目ですね」
「呆れた。よりにもよってって感じね」
タクトの冷静な言葉に、ピンクのサングラスをずらしながら女性が返す。彼女の視線は一点に集中していた。
昼をそれなりに過ぎたカフェでくつろぐ客たちの中でも、観葉植物を挟んで最も距離が離れた席。そこに一組のカップルが居た。司と、彼が見て欲しいと頼んだ件の女性だ。彼らはタクト達に全く気付いていない。
司に見合うそれなりの美人だが、彼の好みを考えれば線が細すぎる気もする。
「麗華さん、見過ぎです」
「うわぁ、見てよアレ。むしろ駄目なの司じゃない?」
二人をあまりにも堂々と遠慮なく凝視していて、会話のトーンも響きやすいので思わず嗜めた。けれど、目の前の相手は全く意に介さず、子供のように笑って頬杖をつく。
金に近い明るく長い髪は緩く波打ち、大きく開いた胸元を撫でる。笑ったせいで揺れた毛先は、色に比べてあまり痛んでいない。サングラスを取れば猫のようなアーモンド型の目がタクトを見た。
生まれてこの方変えたことのない名前は、まさしく彼女のためにあるのだろう。タクトとはまた違った種類の日本人離れした顔立ちが、派手ないでたちをクドくさせず、らしさを見事に作っている。
女であること、自分に誇りがある雰囲気を存分に振り撒いていた。街一番の派手な女は、真っ直ぐな目をした人でもあるようだ。
麗華があろうことか司たちを指差したので仕方なく、タクトはその指を下ろさせながら肩越しに振り返る。
「……司さんが駄目なのは、元からでしょう」
「言えてる! タクトもたまには良いこと言うじゃない」
「麗華さんと違って、思ったことを口にしすぎないだけですよ」
すぐに視線を戻したタクトは、どうしてか不機嫌だった。麗華は理由に気付いているのか、それとも人の扱いに慣れているからか、むしろ面白そうに綺麗な笑窪を作った。
そして、シフォンケーキにトッピングされていた生クリームを付けたフォークで、なぜかタクトの頼んだコーヒーをかき混ぜる。白い泡はたちどころに溶け、全体の色が変わる。
黙って眺めていたタクトは、二色が綺麗に溶け合ったところで険しい表情を浮かべた。
「嘘吐き。思ってもないことを口にするのが上手いってだけでしょ。それに、どれだけ軽そうでも良い女はね、大事なことほど頑なに口を割らないの」
「僕が甘いもの嫌いだと知ってるくせに」
「分かっていたって、どうにもならないことってあるし。それは男も女も変わらないと思うけど?」
噛み合っていないようでそうではない会話。麗華は子供っぽい笑みを片付け、再び司へと視線を注ぐ。その姿をタクトが見つめた。
ブレンドされたものを一口啜る。こめかみに指を置いたのはその直後だ。
「で、麗華さんはどうしたいですか?」
「私は部外者でしょ。自分で決めなさいよ」
「申し訳ないですけど、司さんの女性関係は麗華さんを優先するって決めてるんです」
でなければ連絡などしない。タクトはそうして、カップを麗華へと押しやった。
麗華は肩を竦める。お人好しが過ぎると呆れを込めれば、今度はタクトが同じ仕草を返す。二人の雰囲気は、まるで姉と弟のような、下心のない親密さだ。
「前から思ってたんだけど、それって同情?」
「僕にそんな感情あると思います?」
自分から聞いたとはいえあっさり首を振られると、それはそれでおもしろくない。麗華が言うのであれば、この場で司を殴り倒すこともやぶさかではないというのに。そんな思いは口にせず、責任があるだけだとタクトは言った。
「大事なことを秘めて、せっかく良い女性になっていたところを、僕は暴いてしまったんですから」
「ちょっとそれ、今はまるで違うって言ってるんじゃないでしょうね」
「さあ? どうでしょうか」
ちょっとした仕返しではぐらかせば、麗華の長い足の先がタクトの脛を見事直撃する。躾のなっていない客で何度も効果を実証済みで、結構なダメージがあるはずなのに、それを飄々と受け流すのだから、一体今までどんな修羅場を潜り抜けてきたのやら。
麗華は髪を払いながら、司によってタクトを紹介された日のことを思い出した。ソワレに行き、いつも通り彼を指名した時に付いてきたのが最初だった。
今よりまだ少し幼くて、全く変わらない淡さを持った不思議なホストだと思った。けれど何より驚いたのは、司が席を外し二人きりになったときの一言だ。
『司さんが好きなんですか?』
グラスを差し出しながらタクトは平然と、まるで分かりきったことのように言ってのけた。
けれどそれは、麗華の中で一生誰にも言わず、伝えず、隠し続けるつもりな想いだった。その時にはもう司と何度も関係を持っていたけれど、成就させるつもりなど微塵もなく、それは今でも変わらない。
「あの時はほんと、驚いたわぁ」
「すいません」
「別に謝る必要ないでしょ。見破るのは、後にも先にもタクトだけだろうし」
下手に装わず、大きめな一口を美味しそうに頬張り、唇の端に付いたクリームを舐める姿を、タクトは純粋に綺麗だと思う。
割り切り方など人それぞれだ。向き合い方もそう。だからこそ素直に麗華を良い女だと思っていて、可能な範囲で味方をしたい。
反面、麗華に関する司のことは、不甲斐ないと本気で呆れている。その想いをどうするかは勝手だが、簡単に同業者で楽だからと、これほどの相手に気付いていないのだ。女性好きを豪語しているくせに、同じ男としてもあり得ない。
「それに最近じゃ、タクトだから気付かれたんだと思ってるし」
「僕は別に、エスパーでも何でもないですけど」
「むしろそうだったら、胡散臭くて蹴り倒してたでしょうね」
麗華がお腹一杯だと満足気に呟き、フォークを咥えて色気たっぷりに笑った。
「私もタクトも、素直に自分を曝け出す場所が一つだけ、一緒じゃない?」
「なんですかそれ」
「しらばっくれても駄目。皆の間で、もっぱらの噂なんだから」
含んだ物言いだったが見当が付かず、そもそも事務所のこと以外でも自分に関しての噂があるのかと驚く。
麗華はどことなく陽の光には似つかわしくない気配を醸し出していた。そして首を傾げている。
「あれ、無自覚? だったら笑えるわぁ」
「あいにく僕は、だいぶ素直な方だと思っていますから」
「まあねー。じゃないとタクトじゃないだろうし。でもそうじゃなくて、曝け出し方って言った方がいいのか」
「回りくどい言い方は結構なので、はっきり言ってくれませんか?」
店員を呼び、新しくレモンティーと野菜ジュースをそれぞれ頼み手元に来てから、麗華はクスクスと珍しく控えめな笑い声を零して言った。
ずっと舌に残っていた生クリームの甘さが、濃い野菜ジュースのおかげでやっと消えていく。少しだけ機嫌が浮上した気がした。
「ベッドの中じゃあ、まるで人が違うらしいじゃん。話を聞いたら、私もちょっと興味持っちゃうぐらいには」
「何かと思えばくだらない」
身構えていた分、呆れも大きい。そんなことかと思わず呟いてしまうほどだ。
けれど麗華は重要なことでしょうと不服そうに、ストローを咥えたまま唇を尖らせる。
これといって喋られて困るようなことではないけれど、だからといって他言されていると知って気持ちのいいものでもない。正直なところ、心当たりがありすぎて相手を思い浮かべるのも面倒だった。
「安心しなよ。皆褒めてたから」
「別に心配してません」
「さっすがあ。でもま、つまりはそういうこと。分かった?」
ストローを何故かこちらに突き付け、力強く言い放つ麗華に付き合いきれず、タクトは野菜ジュースを飲む仕草で誤魔化し溜息を吐く。その一部がストローを伝ってしまい、小さくプクリとグラスの中で空気が弾けた。
そういった話は、内容の過激さはともかく男女共にお互い様なので文句は言わずにおく。
それよりも、先ほどの麗華の発言を司が聞けば、理不尽で無自覚に機嫌を損ねることを知っていて、そちらの方に再び苛立ちが募った。
「で? 話を戻しますけど。麗華さんはこの件に関して、僕にどうして欲しいですか?」
「んー……。そうねぇ、とりあえずさ」
ふと、麗華の言葉が途中で止まった。その目線はタクトの背中、奥の方へと注がれ、瞳が何かの動きを追う。それだけで司たちが席を立ったのだと分かった。
タクトは椅子にかけていたジャケットを着直し、テーブルの端で丸められていた伝票を手に取る。すぐには立ち上がらず、時計を見てタイミングを図り始めた。
麗華もまた、手早くグロスを塗り直すとサングラスをかけ、しばらくして腰を浮かせたタクトに合わせる。
けれど、二人が司たちに少し遅れ店を出た時だった。タクトの予想外の行動を麗華が取る。
「決めた。これから夜まで付き合ってよ」
「は……? ちょっと、そっちは逆方向ですけど」
「そうなると、今の格好じゃあ私好みとは言えないわね」
タクトの腕を掴むと、有無を言わせず強引にどこかへ連れて行こうとし始める。人通りが多いせいであっという間に司たちを見失ってしまった。
だというのにお構いなしに、麗華はタクトをずるずると引きずっていく。どこにそんな力があるのか、司の表現が大袈裟ではなかったことを身を持って知らされた。
「麗華さん!」
「司のお願いは、一応終わったじゃない」
「そうですけど」
「だったら次は、私を付き合わせたそのお礼を貰う番でしょ」
そうきたか。頭を抱えたタクトへ、麗華は掴んだ手は離さないまま振り返り、今日一番の彼女らしい眩しい笑みを送った。
「久しぶりにタクトをホストに戻してあげるんだから、感謝しなさい」
傾いて色が変わり始めた陽の光を、向けてきた指の先のスパンコールが輝きを強めながら反射させる。こうなった女性に勝てる術を持たないタクトは、早々に降参し弱々しくその意を示した笑みを返す。
麗華がご満悦に頷き、腕からタクトの細く長い指が印象的な手へと掴む場所を移す。指の絡まない繋がり方が、彼女に似合わずとても可愛らしかった。
「困った……」気付かれないよう、タクトがひっそりと呟く。視線は久しぶりに感じた下心も嫌らしさも無い温もりに釘付けで、どうしてか何かを思い出すように目を細めていた。
「君もあの日はこんな風に無邪気だったよね」
その呟きを運良く拾ったのは、派手な女性に半ば無理やり先導されるタクトを不思議そうに眺めていた小学生の女の子ただ一人。タクトはそっと、その子に向けて指を一本唇に添え、微笑んだ。
そして、麗華に付き合い振り回され、どっぷりと陽が沈んでからの終電間近な深夜のこと。
何故か服装を趣味とは全く異なるものに代え、タクトは疲労感を隠しきれない様子でビルの壁を支えに立っていた。目の前にはいくつか店の看板が光りながら並んでいて、その中で一番目立つものに懐かしさを感じる。
『soire'e』と、黒を背景に白い文字で堂々と輝いていた。
「じゃ、また。気をつけて帰れよ」
タクトの前では、存在感たっぷりな男が背後に数人連れながら、一人の女性をキスで見送っている。見覚えの無い女性だったが何らおかしくはない。彼は見えなくなるまでしっかりと客を見送ってから、背中を浮かせて近づいてくるタクトに視線を移した。
「別にその日じゃなくても良かったんだぞ?」
「早い方が良いと思いまして」
司はどこか気まずげに言い、その背後では辞めて以降初めて店に近づいたタクトに驚く顔見知りたちがいた。そんな彼らに司が先に戻っていろと、けれどマネージャーにタクトのことは言うなと念を押す。
自分に頭を下げて去って行く様子がむず痒く、タクトは苦笑する。けれど、司へと視線を戻した時には、見事に表情が落ちていた。
「驚きました。まさか司さんともあろう人が嵌るなんて」
「俺だって自分にびっくりだ。初見で気付いたにも関わらずだぜ?」
無理して笑う姿を見せられても苛立ちは募る。夕方、麗華に無理やり服を変えられ、ヘトヘトになった足で嫌がらせも込めて二人揃ってわざと声を掛けた時の司の表情を思い出しても、ちっともそれは和らがなかった。
だからタクトは気遣うつもりもなく、求められた答えを口にする。
「見事に騙されてますよ。あの女性は何か目的があって司さんに取り入ろうとしてるだけだと思います」
「やっぱりか。いやあ、参った」
アルコールの臭いを漂わせる司だったが、仕事中にしてはまったく楽しそうではない。こんな様子を少なくともタクトは見たことがなく、予定していた暴言の全てを忘れてしまった。舌打ちが零れる。
その態度を見て、今度は司が不思議そうにタクトの全身を眺めた。夕方も思ったが、シンプルを好む普段からはかけ離れていた。
「それ、麗華か」
「まさかこんな形で、またホストをやるとは思いませんでしたよ。マネキンにでも変えられたかと思った」
「新鮮だわー。でも、派手なお前も結構イケるな。あと酒も入ってるか?」
「誰かさんのせいで、同伴をしなきゃいけなくなりまして。飲まなきゃ襲うって、普通女性が言います?」
「それは麗華に話したお前の責任だろ。よりにもよって、なんであいつにバラすかなぁ」
頼んだ立場な手前、強気に出られないのか控えめに非難する司だったが、それについては偶然だと白々しくも言い放つ。
そしてタクトは、先ほどとは違い威圧的に背中を壁に預けて足を組み司を睨んだ。
「本気ですか?」
「……少なくとも、店を辞めようかどうか悩むぐらいにはな」
「正直、かなり幻滅しました」
言われても仕方がないと、司はこれといって反応を返さなかった。代わりに、タクトの隣に並んで同じ姿勢を取る。それだけで二人して店で働いていた時の気持ちが蘇る。この男はどうして、こんなにも人を魅了するのだろうか。どれだけ一緒に居ても理解出来ないままだ。
「まあ、さ。幻滅しきる前に、あと少し付き合ってくれよ」
「司さんって、そこはかとなく卑怯ですよね」
「それが俺の最大の魅力だからなー」
おちゃらけると、タクトが背中を丸めて体中の酸素を吐き出した。それは微かに色を帯びたような気がするが、あっという間に消えてしまう。
それでも司は綺麗だなと思った。
「あの女が何を考えてるのか調べてくれよ、噂の探偵さん。この街きっての男の頼みだ」
顔を上げたタクトは、どこか迷いを浮かべて灰色を揺らす。彼が出した答えに、司が目を見開くのはすぐ後だ。
そしてお人好しだと笑う。その表情が麗華そっくりで、腹立たしさから思わずタクトが手を出してしまうのだが、司にはまったく理由が分からなかった。