犬種
昼食というには少し遅い時間、司を起こすのに一騒動ありながら、二人は馴染みの店で食事をしていた。店の雰囲気が良い分、普通であれば男二人で寂しい光景になりそうだが、むしろ絵になっているのだから不思議だ。
ちらほらと居る女性客からは、司がホスト然としすぎているので、共に居るタクトもだと勘違いされている。それが二人の耳に入った時、司が手を止めた。
「おまえさー、店戻んねぇの?」
タクトは自然を装った意識の奥にある本心を感じながら、声の出どころへと顔を上げる。珍しく、面倒だという雰囲気を前面に押し出していた。
司もまた、今でもタクトに店へ戻ってきて欲しいと思っている一人だ。全員とは言い難くも、『soire'e』としてはタクトのロッカーはまだ残されたまま。
ただ、司の場合は、心から今のセリフを言う場合もあるが、基本的にはそうではない。彼はタクトが戻ってこないだろうことを、今の仕事を楽しんでいるのを知っている。
それでもしつこく迫るのは、ひとえにそれが司の敬愛する店のマネージャーきっての頼みだからだ。
「マネージャーも諦めが悪いですね」
「……そりゃあ、稼げるのが分かりきってるからな」
皿の中のホタテを突きながら、司がバレバレだったかと頬を掻くのを尻目に、タクトは店自慢のクリームソースがたっぷり絡んだパスタをフォークへ巻きつける作業に勤しむ。
そうやって、ここぞとばかりに拒絶を示すときのタクトは分かりやすい。下手に言葉をかけたところで、その全てを無視で返す。
けれど司も、伊達に親友をやっていなかった。それに今回は、是非とも来てもらいたい理由が自分にもある。店全体に響きそうな大きな音を出しながら、顔の前で盛大に両手を合わせ頭を下げた。
「今回は俺のためにも、頼む! ゲストって形でさ」
今度は視線のみ向け、その姿に見覚えのあったタクトは、そういえばそんな時期だったかと去年を思い出した。
木々の葉が乾き始めるこれからの季節には、司の誕生日がある。その日は彼中心で店が回り、客とスタッフで盛大に祝うのがソワレ流だ。
去年は半ば無理やり辞めた手前、連れ戻される気がしてならなかったので、司の頼みを頑なに断っていた。それを今年こそはという魂胆なのだろう。
タクトが察したのを感じ、司がさらに深く頭を下げた。これを無視するのはさすがのタクトでも腰が引け、食器を置いてどうしたものかと嘆息する。
それを降参かと期待した司が顔を上げると、牧羊犬のようなスマートさと気品を持った顔の造りが悩んだ様子で歪んでいた。
「マネージャーには、絶対に口説くなって言っとくから。な?」
「そこは全員にじゃないと困ります」
「お前の客が来ないようにも配慮する!」
このチャンスを逃してはならないと本能が告げ、司はここぞとばかりに説得を開始した。条件を出すたびに、タクトの眉間の皺が濃くなり数を増やしていく。
その様子に司はもう一度、気付かれているなと苦笑したくなった。自分の誕生日パーティーを口実に、彼は今タクトを頼っている。
タクトは依頼を受ける探偵なくせして、そこに金銭が絡まなくなると途端、頼られることに慣れていない。それが可能なほど他人と近くに居なかったのも理由の一つだが、自分の価値を知らな過ぎるのも原因だ。要は、スキル面以外での自信というものが欠けすぎていた。
その弱みに付け込んでいる自覚がある手前、偉そうな事を言える立場では無いが、司は正直言って、だからこそタクトの客が好きではなかった。
「別に、それはどうでも良いですけど」
「良くないだろ。辞める時、大分拗れてたの知ってるぞ」
肝心な事を何一つ言わない性格に、思わずムッとする。無自覚も行きすぎれば、拒絶と何ら変わらなかった。
多かれ少なかれ、接客業は自分を装わなければならないし、相手に合わせることも勿論必要だ。けれど、この仕事はけっして自分を商品にするようなものではない。司はそう思っている。
だというのに、タクトの客はタクトが好きで指名していたわけではない。彼はまるで人形のように、理想を生み出すのに長けていた。だから〝タクト遊び〟と仲間内でも称されて、一線を引かれていた。
言ってしまえば、タクトの中ではタクトの存在と言うものが、まるでどこかに落としてきてしまったかのように希薄すぎる。この仕事は自分が楽しんでこそのものだと思っている司には、到底理解できなかったし、それは今でも変わらない。
タクトの客は、自分の理想のタクトを作り上げることで勝手に楽しみ、勝手に満足していたようにしか思えない。
「そういう人は、全員切ったはずです。まさかまだお店に?」
「ちっげーよ。解決したかどうかが重要じゃなく、お前がそれを誰にも言わずにいたことが問題だって言ってんの」
あまり分かっていないのか、首を傾げたタクトは目の前のパスタに意識を戻した。
それに対する呆れと、まだ関係が続いている相手が居た事実への驚き、そしてうまく話を逸らされたやり切れなさで、司は深く溜息を吐いた。
いつもこうだ。何も考えていないような、ゆったりとした空気を周囲に感じさせながら、けれど場を支配しているのはタクトである。ひどい時には無言で成し得てしまう。
それを普段は対等に持っていける人間だけが、友人として近くに居られた。今の街にはそんな稀有な輩が多いから、タクトはここが好きだったりする。夜が濃く、けれども朝を疎まず、温かさを忘れない人情を残した街。
最後の一巻きを食べ終え、タクトは水を流し込んでから司の目を見た。
「僕を招待するだけで良いんですか?」
「……そりゃ、お前にも祝ってもらいたいし」
「本当にそれだけ?」
ウッと言葉に詰まった司へ、澄んだ灰色が容赦なく視線を浴びせる。濁りを知らない、まるで遺灰のような透明感に思わずたじろぐ。
二人の間では空になった皿が下げられ、新しく紅茶と木苺があしらわれたケーキが置かれていた。どちらが誰のものかは言わずもがなである。
目の前の甘い物に毒気を抜かれたのか、司は白旗を挙げて本心を吐露した。
「見てもらいたい女がいる」
「見る? 会う必要はないんですか?」
「ああ……。お前の目を見込んで、そいつの印象を教えて欲しいんだよ」
けれど、どこか腑に落ちないままだ。
タクトからすれば、むしろ自分より司の方が人を見る目に長けているだろう。そこは先輩、経験が違う。
「でも、毒のある女はお前の方が上だろ?」
「……そこはせめて、訳ありって言ってください。まるで僕の女運が悪いみたいじゃないですか」
呆れた様子で紅茶を口にするタクトだが、司は肩を竦めるのに留めつつ、実際そうだという言葉をケーキと共に飲み込んだ。それを言ってしまえば機嫌を損ねてしまうことぐらい、彼も弁えている。
「とりあえず、パーティーの件は保留として」タクトが言う。当日からはまだ一ヶ月と少しあり、答えるには早いと思ったからだ。
けれどその代わり、この件に関しては早いほうが良いと勘が告げる。それに、いつ仕事が舞い込んでくるとも限らない。
「お客なんでしょう? 見る分には、外でも問題はないと思います」
「まあ、そうだな。悪いな、恩に着る」
訳があるのは、その女だけではないだろう。申し訳なそうに笑う司から目を逸らしながら、タクトはカップを置いた。その中でこれからを示すように波紋が揺れる。
司が女関係でヘマをするとは到底思えないが、女性大好きな彼にここまでさせるのだから、何もなく済むこともないと思われる。なんにせよ、会わなければ何を考えているのか気付くことも難しいだろう。
それなりに騙し合いが頻繁な世界へ、未だに片足を突っ込んだままではあるが、司をその対象で見たりはしない。タクトはタクトなりに、彼を信頼しているつもりだ。
「二、三日中に、なんとか都合を付けてください」
「分かった。にしても、尾行って探偵っぽいな」
あつらえ向きに話がまとまったからか、気楽に笑う司の商売道具に痣を作ってやりたい衝動を抑え、タクトは伝票片手に立ち上がった。
昼はタクト、夜は司が払うのが、いつの間にか出来た二人のルール。今日はどこで驕ってもらおうかと考えるあたり、タクトも相当この街を熟知している。
「される側が何を暢気に……」
「なー、どこに居るか探して良いか?」
呆れるタクトを他所に、楽しそうに司が背後から抱きついてくる。
司の方が頭一つ分背が高いのでタクトの頭に顎を乗せていると、レジを担当しているスタッフと目が合った。二人の様子につられて笑っている。
「相変わらず、仲が良いですね」
「しつけのなってない犬に懐かれる身にもなって下さい」
「ひっでぇー。お前だって、犬っぽいじゃん」
「どっかの狩猟犬と違って、僕は頭が良くて大人しい部類ですから」
控えめに笑い声を混ぜるスタッフに見送られながら、二人は他愛ない口論を繰り広げ、そうして長い夜を過ごすべく人ごみに紛れた。
その影で、タクトは一人の人物と連絡を取る。
「すいません、仕事中でした?」
『うんや、大丈夫。それにタクトだったら、別に構わないしー』
奥から聞こえる喧騒に負けず劣らず必要以上に大きな声に苦笑が零れ、静かに通話の音量を下げながら、タクトは簡潔に用件だけを伝えるべく口を開いた。
あまり周囲に聞こえてしまわないよう、ひっそりと。小さなBARは声が通りやすくて困る。
「詳しい話はまた後でしますけど、とりあえず二、三日、昼過ぎから予定明けといてもらえませんか?」
『なにそれ、変なの。……ちょっとうるさい! 喋ってんだけど!』
自分と喋りたいと横から電話を奪い取ろうとしている騒ぎに気付きつつ、聞こえていないフリをする。早く切り上げなければ、そろそろ遅いトイレに司も痺れを切らしているだろう。
タクトは気持ち早口になりながら、さらに声を落とした。
「司さんのことで、少し協力してほしいことが出来まして」
『…………分かった。また明日、連絡頂戴。二、三日でいいのね?』
「ありがとうございます。――麗華さん」
当日なら構わないが、それまでにバレれば一週間は不貞腐れるだろう。そう考えながらタクトは通話を終えて、何食わぬ顔で司の元へと戻る。
次の日、事情を聞かされた麗華は、お人好しだとタクトを笑った。