沈黙
まるで任意同行を求められた被疑者のように、タクトは住んでいる街の隣を管轄する警察署へと連れて来られていた。車がパトカーだったなら、まさに外からは連行されているとしか見えなかっただろう。
しかし、本人はいたって暢気に何度も欠伸を繰り返し、いかつい顔をした三十代前半と思しき刑事の貧乏ゆすりを激しくさせるといったマイペースぶりを存分に発揮している。
「名前は?」
「タクトです」
「本名を、フルネームで」
「必要でしょうか」
出されたコーヒーには手を付けず、事情聴取を受けているタクトであったが、連れてこられた理由を知るより先に話が躓いていた。
刑事が苛立ち顕に舌打ちをする。性格が短気なのか、それともタクトのような人間が嫌いなのかは分からないが、事情も知らない相手に取る態度としてはいささか横暴だ。コンビニ袋を取り上げたことが、何よりそう思わせた。
欠伸のせいで潤んだ目をこすりながら小さく嘆息して、タクトは開けっぱなしな取調室の扉の先で見えるソファに対し、あれに案内されなくてよかったと安堵する。
場の圧迫感はひどくとも、今なら座った瞬間に寝れそうなほど、睡眠不足が響いていた。こんなことになるなら、仮眠を取ってしまったことをむしろ後悔してしまう。
「長谷部一葉と面識があるだろう」
「ありますよ。彼女はお客でしたから」
ジャケットの奥でさっきからひっきりなしに携帯が震え、そろそろ鬱陶しく感じたので取り出しながらあっさりと答えれば、目の前の刑事が鼻で笑っていた。
ついで、同年代なもう一人の若い刑事が寄り掛かっていた壁から背後へと周り、ディスプレイを覗き見ている。どちらに対しても文句を言える立場ではあったが、別段困ることではないので黙って流しておく。
手の中では、切れた瞬間にまた別の相手から電話がかかってきていて、自分の状況が早くも知り合いに伝わっていることを悟った。
「探偵だったか。まさか俺が、それを馬鹿正直に信じるとでも?」
「何をそんなに苛立っているのかは知りませんが、僕に当たられてもそれは筋違いでしょう」
物腰柔らかな態度をみせるタクトも、だからといって性格までそうとは限らない。特に今は、眩暈を感じるほど空腹がひどくて珍しく気が立っている上、無遠慮な詮索がなにより嫌いだ。ぶっきらぼうに答え、視線さえ合わせようとしなかった。
経歴から年配者に軽蔑されることはしょっちゅうで、それについては慣れている。自分自身、まっとうな人間だとは思っておらず態度そのものは我慢出来るが、それでもやはり苛立ちは募った。
事情を尋ねようにも目の前の刑事に対しては話をしたくない気持ちが先立ち、かといって背後の若い方が答えてくれそうにもない。
携帯を出した流れで検索をかけようとしたタクトだったが、そうしようにも電話が止まらず諦めて電源を落とす。息には鬱憤がたまり、大分重たくなってきていた。
「知らないとは言わせないぞ。昨日からニュースでやっていたはずだ」
「知りません。昨日は一日外出していて、帰ってきたのは朝でした。そのまま二時間ほど仮眠を取った後、新聞を見る前にコンビニへ行って、どこかの誰かさんに声をかけられましたし」
刑事とを挟む簡素なテーブルを蹴り倒したい衝動に駆られながら淡々と返し、タクトは心の中でこの為のメールだったのかと呆れが浮んだ。
昨日の早朝に届いていた長谷部一葉からのメール。そこには一言、『今日一日、誰かと一緒にいて下さい』そんなお願いが記されていた。あの時は首を捻ったが、それは降りかかる火の粉を払うためのものだったのだろう。
となると、あの依頼人は何かに巻き込まれたのではなくやらかしたのだなと、引き受けた事を今更になって後悔する。つめの甘さというか、メールを見ない場合などを一切考えていない自分勝手さに、もはや感嘆したくなるほどだ。
上乗せされた報酬も、現在感じている不機嫌と比べればはした金で、それで自分のことを調べられでもしたらたまったものではない。どうせ何も出てこないだろうが、この場合だとそれもまずいだろう。タクトを探ったところで、本当に何も出てこないのだ。
「粗探ししてやってもいいんだぞ?」
「……それって脅しですか」
馬が合わないのだろうか。明らかに険悪となっていく雰囲気の中、刑事の言葉でタクトの目の色が変わった。
静寂を帯びた灰色に冷たさを加え、思わせぶりなゆっくりとした動作で足を組む。刑事は逆に怒りを熱くし、太い腕がタクトの胸倉へと伸びていく。
「横山さん!」
背後から若い刑事が静止をかけるが、その時には取調室で、ガタリと不穏な音が響いていた。
けれど、横暴が暴力に変わっても、タクトの冷静さが揺らぐことはない。「これって、違反なんじゃないですか?」そう指摘すれば「お前とあいつが黙っていれば問題ないだろ」と、悪役顔した刑事――横山というらしい――が答えた。
若い方が顎で指示され、扉を閉めようとする。けれど、それが閉まる直前、この気まずいタイミングで客が訪れた。
「おー、そこまでにしとけ」
ボイスレコーダーでも忍ばせていればよかったなど考えていたタクトが、唾を吐き散らかさんばかりな迫力の刑事から若い方のさらに奥、閉まろうとしていた扉から見えた手に気付く。
そして、人のやる気まで奪いそうな気の抜けた声が割って入った。
「横山よぉ、相手によって偉ぶるその態度、直せって昔言ったよな」
現れたのは、よれよれなスーツが不思議と様になる年配の男。彼は片手を上げて挨拶すると、「これ以上タクトに嫌われたらおめぇ、二度と俺の街でお姉ちゃんと遊べなくなるぞ」そうのたまう。
「嶋さん、お久しぶりです」
「悪かったな。昔の部下がちぃっとばっかし乱暴して」
この場の全員と面識があるようで、嶋と呼ばれた刑事は横山の腕を離させると、ジャケットについてしまった皺を伸ばしながらタクトへ苦笑を零した。
「いえ。少しだけ、気にならない程度でしたから」意を汲んで返せば、もう一度「わりぃな」そう言って二度、軽く胸を叩く。その手には大分待ちぼうけをくらっている、タクトの食事の入ったコンビニ袋がぶらさがっていて、食っていいと渡してくれる。
「なぜ長嶋さんが。あなたの署は隣でしょう。定年間近でボケでもしたんですか」
「俺だってこんなとこ、来たくもねぇよ。っつーのに、俺の街の奴が一人、お前に連れてかれたって聞いたもんで仕方なく、な」
本名を長嶋というその刑事に、どうやら横山は頭が上がらないらしい。文句を言いつつ渋々引き下がり、口が悪くとも人情味溢れる声によって落ち着きを取り戻していく。
ただ、その為にも取り出した煙草は、長嶋によって「タクトは煙草が嫌いだ」と取り上げられてしまった。そこからも、二人に面識があることが窺えた。
「……なにもんですか、こいつ」
「なぁに、ちょっとした街の人気者だ」
それだけ言って、長嶋は黙々とサンドイッチを頬張るタクトへと声をかける。顔を上げると、彼は少し咎めるように眉を寄せた。
「おめぇ、携帯の電源切っただろ。そのせいで署には問い合わせが殺到だ。おかげで俺が出張る羽目になったじゃねぇか」
「すいません。でも、僕だってまだ事情を飲み込めてないんですよ。ハズレを引いてしまったことは分かりましたけど。これ、事情聴取で合ってますよね」
「おう、にしても珍しいな。お前自身が原因で警察の世話になるなんて」
横山を立たせ、強引に席を奪った長嶋が笑いながら腰を下ろせば、タクトが肩を竦めて不満を表す。
袋からゴソゴソとヨーグルトを取り出している間で、自分が話をすると横山へ言った長嶋は、持参した新聞をテーブルへと放った。タクト相手だとこの方が手っ取り早い事を、彼は知っている。
それを引き寄せ、片手にプラスチックのスプーンを持つ姿は、ここが警察署内の取り調べ室だということを忘れさせた。
「刺殺事件……。物騒な世の中ですね」
「おめぇが呼ばれたのは、犯人が全く口を割らねぇからだ。安心しろ、事件と無関係なことは、俺がちゃんと証明してやったから」
「当たり前です。昨日は丸一日、アリバイがありますし」
「分かってる。だが、何か知ってるのも間違いねぇだろ? 女の財布から、おめぇの名刺が出てきてんだよ。それに、そのアリバイも都合よすぎやしねぇか?」
長嶋の後ろでいけ好かない奴と呟く横山を無視し、タクトは必死に笑いたい衝動を抑える。つい二週間前に話をしていた相手の顔写真が新聞に載っているのは、なんとも言えない不思議さがあった。
新聞には、有名企業の女社員による殺害事件と、それなりのスペースを用いて報じられていた。昨日のこと。白昼堂々犯人は、散歩中だったエリート会社員男性の胸を刺し、殺害したそうだ。
長谷部一葉、それが犯人の名前だった。そして、被害者の名前にも見覚えがある。
タクトの様子を観察する長嶋の前で、彼はスプーンを置いて薄い唇を動かす。
「被害に合われた方の奥さん、泣いてました?」
「てめぇ、やっぱ何か知ってるな!」
「横山、おめぇはちっとばかし黙ってろ!」
二つの野太い声が重なり、その煩さで耳に痛みを覚える。それでもタクトは好奇心を輝かせ、答えを待っていた。
管轄外なところをタクトが関わっていたからと無理やり邪魔をしている長嶋には、残念ながら大雑把な事情しか把握できていない。とりあえず、自分の署でタクトについて文句を言って騒ぐ連中をなだめ、しっかりとしたアリバイを携えて回収に来ているだけだ。
元々タクトがここに呼ばれたのは、逮捕された長谷部一葉が動機も何もかも、一切喋らないせいだった。
財布から出てきた名刺が探偵のものであったので、何かしら事情を知っているはずだと事件を担当する横山が当たりを付けたのである。それがまさか、別の署の刑事――しかもかつての上司である――が出張ってくるような人物だったのは予想外だったが。
「怒鳴り合わなくても……。簡単な話、犯人は被害者の浮気相手です」
「浮気ぃ? そんな情報どこにも」
「犯人が捕まったから喋ってもらえば済むって、調べてないだけじゃないんですか。奥さんに聞いてみれば答えてくれると思いますよ」
なんてことない様子でタクトは言うが、それはつまり被害者の妻、あの雑貨店の店員が旦那の浮気を知っていたということになる。そんなこと、一葉には一切話していなかったはずだ。
確証があるわけではない。けれどタクトは言わなかっただけで、接触した時に確信していた。そこからも、あの呟きが作られたのだから。
知っていたらこんな結果にならなかったかもしれないとは全く思わない。これがあの依頼人が選んだ結末で、タクトが感じていた違和感の正体でもあり、彼女の愛の形だった。それ以上でも以下でもない。
一葉は報告を受けた際に言っていた。〝私の彼〟と。その感情が根底にあり、自分の物を奪われるぐらいならと壊しただけのこと。自分だけの物、そう固持した。
「相変わらず、タクトの見る女は怖ぇな」
「そうですか? 僕は可愛いと思いますけど」
知る限り、自分に不都合がないように話し終えたところで長嶋がぼやくと、タクトが立ち上がりながら首を傾げる。
「これでもう十分ですよね?」横山を見ないあたり、馴れ合うつもりはないのだろう。彼が返事の代わりに鼻を鳴らすと、長嶋が「送っていく」と後に続く。
「にしても、馬鹿だと思いませんか?」
「……犯人がか? 当たり前だろう。どんな理由があっても殺しは許されない」
けれどタクトは取調室を出る際、振り返って三人の刑事へ同意を求めるよう言った。
一呼吸空けてから意外にも横山が答えるが、どうやらハズレたらしい。非難を深い息に、タクトは首を降る。
「違いますよ。殺された……、被害者の方です」
「浮気をしたからか」
すると、昼間に動くその探偵は、確かに夜を匂わせて笑う。
横山と若い刑事はそう感じた。長嶋だけがそれこそが本性だと長年の勘で知っていて、未だにタクトの魅力から離れられない連中の気持ちを察する。
「本気の女に手を出したからですよ。ほんと、馬鹿な男ですよね」
そのセリフを最後とし、今度こそ完全に、タクトは長谷部一葉との関係を終えた。
それから数時間後。横山が不機嫌な顔で、手のひらサイズの小さな紙きれ――シンプルすぎる名刺だった――を見せたとき、彼女はやっと口を開いたそうだ。ただ一言、ぽつりと声を落としながら薄く笑う。
「こうなっちゃいました」
それきり延々と黙りこくり、真意は胸の奥へと固くしまい込まれる。可哀想な女の辿り着いた場所は――狭い鉄格子の中だった。