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そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
CASE1《とあるOLの場合》
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拒絶




 長谷部一葉(はせべかずは)が最愛の人と出会ったのは、そろそろ真剣に結婚を考え始めた方が良いかもしれないと、周囲と共に焦り始めた28の夏だった。

 どうってことはない、場所は可愛がっている会社の後輩に誘われ参加した合コンで。向かい側に座る彼と目が合い、そして微笑まれた瞬間、恋に落ちた。

 一目惚れなどあり得ないと思っていられたのは始まった直後だけで、人を好きになるのに時間が必要ないという言葉は本当だったのかと、高鳴る胸を落ち着けるのに苦労したことを一葉は忘れない。相手が二次会で誘いをかけてくれた時は、夢心地すぎて笑われてしまい恥ずかしかったと何度も振り返る。

 付き合い始めてからの7ヵ月間は毎日が幸せで、まるで二度目の初恋を経験していると思えたほどだ。バレンタインやクリスマス、ほとんどのカップルが楽しむイベントも共に、一夜を過ごしてきた。

 けれど、違和感を持ったのはいつだったろうか。たしか、そう。身体を重ねたある日のこと。

 大切で仕方のない彼の肌を、たとえ与えてもらった快楽のせいであれ傷付けたくないと、一葉が握るのは常に乱れたシーツであった。だというのに、背中を走っていた三本の線。薄暗い中でもはっきりと、それは目に焼きついた。

 正面から肩甲骨のあたりのそれに指を這わせてみると、自分より小柄な相手だということが容易に分かった。しかし、この時の一葉は、今まさに自分の上で淫らな汗をにじませる人に刻まれた劣情の跡を、快楽で誤魔化し目を瞑る。

 だが、それからだ。些細な違和感に気付くようになったのは。

 会うのは常に外であり、彼の住所すら一葉は知らない。友人を紹介されたこともなければ、夜は電話に出てくれない事も何度かあった。

 人によっては極々あたり前な様子でもある。けれど、一度疑ってしまえば全てが怪しく見えてしまう。それでも一葉は別れる選択肢を取るどころか、本人へ問いつめることすら出来なかった。

 別れを切り出されることが怖かったのだ。

 いつだってそうだった。一葉はこれまで付き合ってきた男から必ず、お前は大丈夫だろうと言われてしまう。新しく好きな人が出来たと言ってふられる時など、お前は一人で生きていけるけど、彼女は守ってやらなければいけないなどと。どの口がそのようなことを言えるのか。

 そんな恋愛経歴の中で、唯一違ったのが彼である。一葉の些細な行動を仕方が無い奴だと笑ってくれた。隣に居ることが、他人によって作られた長谷部一葉の殻を脱ぎ捨てられる唯一の場所となった。

 だというのに、一体何を言っているのだろう。一葉は彼からのプレゼントであるバックを強く握り、目の前の淡白な青年を見つめる。


「相手が偽名を使っていなくて助かりました」


 不安によって心身共に疲弊していたとき、道端でふと耳へ入った噂を当てに辿り着いたのがここ。自分だけの愛を見つけてくれるという探偵事務所は、寂れた雑居ビルの三階に扉を構え一葉を迎え入れたが、その噂が彼女の期待に応えることはなかった。

 真実が知りたかったのは確かだ。けれど、噂がなければ探偵に頼るなどしなかっただろう。疑うことそのものが、一葉にとって最愛の人に対しての大きな裏切りなのだから。

 知りたかったのは、あくまで自分と彼の愛の先であり、求めていたのはこんなものではない。

 女でも勝てそうなほどひ弱に見える探偵に依頼してからの一週間というもの、何もかもが手につかなかった。そんな人の気も知らず、経過を尋ねたメールが返ってきたのは初日の二回だけで、あとは全て無視されどれだけ腹が立ったことか。

 押しかけるのだけは契約を解消すると脅されたせいで出来ず、やっと訪れることの出来た日に告げられた言葉は、望むものから程遠い。


「お相手の方はご結婚されています。つまり、ご依頼の通りに答えるならば、浮気相手は長谷部さんということですね」


 しかし、タクトにしてみれば、噂こそがあくまで噂である。

 そしてこれがビジネスである以上、相手がどう思っているかに関わらず、伝えるべきことは伝えなくてはならない。

 答えを教えてから言葉を変え、三度目の報告でやっと、一葉は我に返った。


「ウソよ……!」

「嘘? なぜです。浮気をしているから探ってくれとご依頼されたのは、長谷部さん、あなたです」

「私は、私の彼が浮気をしているかどうかを。私が浮気相手? 冗談じゃない! そんなこと望んでないわ」


 そして、報告に対して声を荒げる。

 興奮する一葉からカップを遠ざけながら冷静に答えるタクトの態度が、さらに神経を逆撫でするが気にする様子はない。

 タクトは先ほど見せた書類の隣へ、一枚の写真を置いた。一葉はその瞬間息を呑み、食い入るように見つめる。


「ご結婚されたのは八ヶ月前だそうです」


 どうしてそんなものを持っているのかは、さすが探偵といったところか。どうやらカラーコピーらしいが、その写真では純白のドレスが眩い女性と満面の笑みで並ぶ、タキシード姿の一葉の彼氏が映っていた。

 女性の顔を隠していることが、タクトに対して苛立ちを覚える。あなたもまた自分の味方ではないのかと。一葉はそう思いながら、写真を書類と共に払いのけた。


「私が知りたかったのは、こんなものじゃないわ!」


 激昂するのも仕方がない。浮気どころか、出会ったその時にはすでに、最愛の人は自分のものではなかったのだ。

 ただ、その感情が通じるのは、目の前で床へ舞い落ちる紙を見つめるタクトではない。


「結婚後の話をしてたもの。子供も三人は欲しいって……」


 ぎりぎり残った理性が必死に動揺を抑えようと震える指を唇へと添わせ、頭の中では楽しかった日々から希望を見出そうとする。なけなしのプライドによってか涙を流すことはなかったが、タクトへと縋る視線を向ける目は潤んでいた。

 望んでいる言葉が何なのかはとても分かりやすい。一葉の中でのタクトは、「そうですね」と微笑んで「もう一度、調べ直してみます」と言うべきなのだ。

 しかし実際は、ひどく穏やかで遠慮のないものだった。


「あいにく、事細かに法律をしっているわけではありませんが。でも、口約束なら子供でもできますね」


 そう言って、落ちた紙を拾う。騙されたと言われるより一葉の羞恥を誘ったが、彼女の怒りがタクトを標的とする前に彼は続ける。


「この事務所が、信憑性のないものと一緒に噂されているのは存じています。ですが、僕は長谷部さんを知りません。お相手の方と、どういった時間を築いてきたのかも」

「……分かるはず無いわ」

「そうでしょうね」


 呆然と力が抜けたように座った一葉へタクトは頷き、冷え切ったカップの中身を取り変える為に傍を離れた。

 それが当たり前の言葉で堪えきれず、頬を流れるものを見ないようにする気遣いだったのか、ただ単に行動通りのものなのか考える力は残されていない。鞄の中から、相手を間違うことのない着信音が聞こえてくるが、深く俯いた一葉が動くことはなかった。

 どうして、とどれだけ考えようとも自分では分からない答えを求める疑問だけが浮ぶ。

 一人でも大丈夫だろう。これまで言われた言葉が繰り返される。そんな女も、本気でそう思っている男だって本当はいないと誰だって分かっているくせに。

 一葉が次に顔を上げたのは、温かな湯気が頬を撫ぜた時だ。香りが変わっている、ぼんやりとした頭で気付きながら、弱々しく失態を拭った。


「探偵さんは、私を馬鹿な女だと笑ってくれますか?」

「お望みならば出来ますよ」


 泣いて分かったことがある。タクトは嘘を言わない。仕事だから、そんな冷たい理由であっても、一葉にとって今はそれが救いだった。

 中身だけでなくカップの取っ手からもしっかり伝わる温もりで、せっかく止めた涙がまたしても流れそうになりながら、静かに尋ねる。

 「そうですか」一葉が弱々しく笑えば、「ですが……」タクトが事務的に請求書を提示しながら言った。


「初めてお会いしたとき、お相手の方が器用だと言っていたのは長谷部さんです」

「そういえば……そうですね」

「そして、失礼ですが僕からすれば、あなたはとても不器用そうだ」


 ただ、思ってもみなかったことで一葉の目が丸くなる。自尊心を傷付けられたわけではなく、その評価をもらったことがなかったからだ。

 金銭が関わることで、途端冷静さが強くなる現実的な性格に少しばかり自己嫌悪を感じていたところだったので、驚きも一入(ひとしお)だった。


「私が、ですか?」

「もちろん、お仕事に関しては逆だと思います。でも、こと男女間の問題では、どちらかといえばそうかと」

「それは豊富な経験からでしょうか」


 今度はタクトが止まり、首を傾げる番だった。

 「僕ってそんなに、女性にだらしがなさそうでしょうか」どちらかと言えば大人しそうにみられるので意外だっただけなのだが、尋ねると慌てて一葉が弁明する。口に出してから、そうとう失礼な発言だったと気付いたらしい。


「いえ。ただ、とても落ち着いてらっしゃいますし。火のないところに煙は立たないと言いますから……、その」

「あぁ、なるほど」


 タクトの素性を知らない一葉にとっては、彼が無きにしも非ずだからこそ平然としていることなど知る由もなかった。

 その慌てぶりに失笑して大丈夫だと示しつつ、二人は支払いの手続きを間に会話を続けるが、さきほどの行き場の無い感情が薄まっていることを一葉は気付いていた。そしてそれが、目の前の不思議な探偵のおかげであることも。

 タクトの世界を崩すことは、きっと誰にもできないのだろう。どれだけ依頼結果が意にそぐわなくとも、驚きに満ちていたとしても、客が壊せるものは何も無い。


「経験はどうか、僕の口からは何とも言えませんが。でも、噂のおかげでそれなりに見てきているかと」

「じゃあ、探偵さんは私を見てどう思ったのでしょう」


 必要な分に加え、気持ちとして一枚紙幣を添えながら、一葉はタクトの灰色の瞳を覗いた。

 下心などない。無い上での行動だからこそ、こういう部分もまた可愛くないのだろう。タクトが目礼で受け取ってくれたことでホッとする。独特な空気で真実を受け止めさせてくれた、その謝礼だった。

 渡す際に細長い指と触れれば、まるで子供のように温かいことが意外だった。声や瞳から、とても冷たいものだと思っていたけれど、落ち着いている中で可愛らしいところがあって羨ましく思う。


「そうですね……。素直な長谷部さんが、この件で辿り着いた先に何を見るのか。あなたに限らず、僕はそれを知りたくてこの仕事をしてますので」


 タクトの答えで、一葉は声を出して笑った。彼女に似合う、清楚な仕草で。

 「いくつか噂を聞きましたけど、探偵さん自身からのものもあるんですね」熱を持った頬へ冷たい手の甲を添える。「僕が本当に案内できるなら、恋愛アドバイザーでもしていますよ」とタクトは肩を竦めた。


「彼の……奥さんについては、教えて頂けないのでしょうね」

「はい。ご依頼にはありませんし、引き受けもしません。長谷部さんと関わりがあるのは、あくまでお相手の男性ですので」


 予想が付いていた通りの返しに、一葉は溜め息を零し立ち上がる。

 自分がこの浮世離れした空間から一歩外に出て、これからどうするのか。今はまだ考えきれないし、真相を受け止めたからといって受け入れられたわけでもない。整理さえ付くかどうか。

 ただ、自分の愛とは、一体どんなものなのだろう。彼にとって、なんだったのか。それを知りたい。タクトへ依頼した理由がそうだったはずだが、なぜだろう。その時以上に強く思う。そんな感情と一緒に、一葉は深々と頭を下げた。


「お世話になりました」

「こちらこそ。お気をつけてお帰り下さい」

「機会があれば、私が辿り着いた先をお伝えできればと思います」


 その言葉へタクトが「楽しみにしています」そう返すと、来た時同様に扉が軋みながら閉まる。彼が一葉の愛の形と、辿り着く先を知ったのは、その二週間後のことだった。









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