報告
愛を探してくれる探偵。タクトは自分がそう噂されていることを知っていた。どこの誰が言い始めたのか、いつから流れているのかまでは分からないが、おかげで引き受ける依頼の大抵が恋愛絡みのものだ。
探偵を頼るという時点で面倒事や厄介事も多い。恋愛でまとめてしまうのも、世の幸せなカップルたちに対しもしかしたら失礼な場合もあるだろう。男女間の問題と言っておくべきか。
今回などその典型的な例だ。付き合っている男性が浮気をしている。けれど、はっきりした証拠を掴めない。女性はそう言って、タクトへ調査を依頼したいと言った。
「浮気相手を見つける……、ということでよろしいですか?」
「はい。絶対に居るんです。でも彼、凄い器用だから」
俯き加減で携帯を握り締めながら、裏切られた悲しみからか悔しさからか唇を噛む女性を横目で、タクトは契約の用意を始める。
作った顔の裏では、何の意味があるのだろうか、そんな疑問が浮んでいた。これまでも同じような依頼を何度も受けているが、毎回思う。
男の浮気がばれやすいのは昔から続く一種の定説である。男が肉体的に勝るのならば、女は精神が遺伝子構造からしてエラーに強く、フォローだってきく。
もっと大袈裟にすれば、生きている世界が違うと言えるかもしれない。土台が違えば見える景色も違って当然だ。
そんな中で、相手が上手く〝浮気をしていないと信じる〟選択も与えてくれているというのに、自分を追い込むようなことを何故しているのか。それが不思議でならなかった。
「必要であれば、私の部屋に来て頂いても構いません。彼の物とかもありますし……」
「いえ、大丈夫です。こちらに必要事項を明記して頂き、一週間のお時間をもらえればそれで」
「そう……ですか。すいません、ドラマとかでしか知らないもので」
二枚の書類を渡しながら「大抵の方が同じ事をおっしゃられますよ」と返す姿は、物腰柔らかな丁寧な青年にしか見えないだろう。女性が訪れた際に侵入してきた緊張や戸惑いは、気付けば跡形なく消えている。
タクトには、誰にも崩せない独特の雰囲気がある。しっかりと乾かさなかったせいでうねる髪を耳の後ろへ流す姿は色気が豊満で、どれだけの女性を魅了してきたことか。
けれど不思議と、この一年で依頼人との間にトラブルが起きてしまうことはなかった。協力を仰ぐことも一度だってない。
「では、一週間後。今日と同じ時間で、よろしくお願いします」
「こちらこそ。絶対に見付かるはずなので……」
必要なやり取りが済み、女性が改めて頭を下げた時の様子が、やはりタクトには引っかかった。今回はあまり長引かせるべきではないなと、扉の前まで見送りながら考える。そうして、事務所内が普段の静けさを取り戻したとき、彼からも表情がストンと落ちた。
喋るのに疲れた。そんな様子で喉をさすりながらカップを片付け、ソファーのチェックをする。
しかし、警戒心は一向に消えない。身元の確認はしっかり行っているし、依頼そのものは何度もこなしているというのに。
「今まで会ったことのないタイプってことかな」
最低限の情報だけ書いてもらった書類を眺めながら、ソファーで横になり呟く。断るべきだっただろうか。そんな考えが頭を過ぎる。ここまで違和感を感じるのも珍しいことだ。
タクトは訪れる客の全てから依頼を受けているわけではない。元から一件入った時点でその間はすべて断りかけ持たず、話した印象によっては手が空いていても帰ってもらう。気分屋といわれてしまえばそれだけで、仕事を選り好んでいるのも否定しないが、そもそも収入は二の次なのでそれで良いのだ。
ホストを辞めて探偵をすると決めたとき、知り合いはこぞってどうしてと聞いてきた。なにせ店で二番目の稼ぎを出していたのがタクトだった。しかも、勤めていたのは街で一番ランクの高いホストクラブ。マネージャーなど卒倒しかねなかった。
だというのに本人は、いたってあっさり「色々な人を見てみたいから」そう言って店を去り、こうして事務所を構えて独特な時間を過ごしている。
何故そんなにも他人に興味を持つのか知っている者は誰もいない。タクトは一切、自分の過去を語らない人間だった。名字を知っているどころか、名前が本物なのかすら分からない。
書類をまとめ透明なファイルへ入れ、身体を起こして依頼人の名前に見入る。名は体を表すと言った気がするけれど、彼女のものから何かを感じることはなく、むしろ字の方が違和感を強めていく。
「やっぱり、さっさと終わらせよう」
でなければ、朝から読んでいた本の続きを集中して楽しめない。手が震えていたせいか、所々歪んだ線がそう感じさせた。
立ち上がったタクトはそうして仕事机に移動すると、携帯とパソコンを交互に見比べてからキーボードへと手を伸ばす。
検索エンジンから始まった画面は、背中で夜が広がる頃には何やら社外秘と記された書類へと変わっていた。
夕方近くからかけていた眼鏡を外し、眉間を揉んで疲れを癒すと、椅子を回して後ろの窓のブラインドを閉める。視界の先では、長い間泳いでいたネオンの海が煌々としており、懐かしさを覚えてか単純に眩しいからか、形の変わった目はまるで笑ったようだ。
あまり見ていて気持ちのよくない、呆れたり小馬鹿にするような笑みだった。
「結局、何も食べてないや」
ノートパソコンを閉じたことで事務所を包む暗闇。電気を付ける最中で振動した携帯の画面が端でうつした時間で気付けば、タクトのお腹が小さく抗議を挙げる。心の中で胃に謝りながら携帯片手で冷蔵庫へと向うが、彼が忘れていたのは食事だけではなかった。
食材の調達をしていなかったから、そもそも朝食を抜いていたというのに。再び鳴ったお腹はきっとそう言っていることだろう。
「……そういえば」
今から買い出しは面倒くさい。どうしようか悩んだところで、朝に見た――送られてきたのは夜中だったが――メールの中に丁度良いものがあったことを思い出し、タクトはとある人物と連絡を取った。
「タクトです」
『連絡遅っせーって。俺もう腹ペコ。後一分でも遅かったら、誰かに食べさせてもらいに行っちゃうとこだったわ』
「すいません。仕事が入っていたので」
なんとも温度差の激しい会話だったが、タクトの声もどことなくリラックスしているようではある。
話をしながらグレーのジャケットを寝室へと取りに行き、肩と首で器用に携帯を挟んで着ながら付けたばかりの明かりを消した。
「すぐ迎えに行きますから、待っていて下さい」
『乗り気なのも珍しいなー』
「僕もお腹減っているんです。丸一日、食事を忘れてて」
携帯を持ち直した時には、片手で車のキーが揺れていた。音を響かせながら足早に階段を降りるその背中には、確かに夜の気配がにじんでいた様に思う。納得したと笑う爽やかな声の相手にもまた、甘い香りが含まれていて、タクトが混じって行く夜の街とえらく調和した。
今回の仕事を受け、普段と同じであれたのはこの日だけだ。違和感は間違っていなかった。
異変は寝不足どころか一睡もしていない頭で、日課であるメールチェックを始めた翌日のこと。清楚な依頼人はどうやら、見た目とは裏腹でよほどせっかちな性格をしていたようだ。
――まだ調べ終わりませんか?
内容に関わらず、タクトは必ず依頼を受けてから一週間の調査時間をまずもらうことにしている。たとえば一時間もあれば調べ終わることであってもだ。これは彼に頼む上で、客が守らなければならない決まり事。同意できなければ、客が依頼人へと変わることはない。
そうなると、今回の女性はルール違反を犯したということになる。けれどタクトは、7分の1が消費されただけで〝まだ〟と言われるのが面白く、なおかつ彼が昨日手に入れたものに対して、そんな依頼人がどういった反応をするのか興味がわく。
どこか淡々としてきていた仕事の中で、本来求めているものがあるのかもしれない。気を抜けば止まらない欠伸をなんとか噛み殺しながらキーボードを叩く指は、眠い目をこするもう一方と違い流れるようにスムーズだった。
とはいえ、押しかけられても困る。今の状態でもぎりぎり依頼達成となるかもしれないが、面倒事はやっかいだ。タクトは警告を兼ねた返信を送り、パソコンを閉じてベッドではなくシャワーを浴びるべく浴室へと向った。
その間でさっそく届いていた新たな一通を見たとき、睡眠時間は買い出しとの天秤にかけられ失われることになる。今度ははっきり、ルールを守らなければ依頼は無かったことにさせてもらうと告げ、必要な場所へしばらく連絡をしない旨を伝える作業を黙々とこなした。
そうしてやってきた、本来通りの約束の日。タクトが一週間ぶりにパソコンのメールをチェックしたとき、フォルダ内へ届いていた量は、大抵のことを平然と流す彼の動きすら一瞬止める威力を持っていた。
「これも愛されてるって言えるのかな」
零された感想に込められた感情はひどく冷えきり、しかしどこか楽しそうな様子を見せながら、タクトはその日も事務所を芳ばしさで満たす。
扉が開かれときに見た壁の時計は、約束より二時間も早い数字を示していた。
訪れた相手はあいかわらず清楚な装いだったが、感じる印象はこの一週間でガラリと変わっている。
約束を破っていることや、これまで届いた最初よりは控えめながらもしつこい確認のメールに対する言葉は一切出さず、タクトは前回と同様に依頼主へ温かなコーヒーを振舞う。しかし、以前と違い手を付けてもらえはしなかった。
「どうして一切、ご連絡いただけなかったのでしょうか」
「お送りしましたが。何があっても途中報告の一週間が早まることはないと」
「その後も何度か、お伺いをたてていたはずです」
自分本位な言い分へは微笑むだけに留め、書類の用意にかこつけひっそりと肩を揺らす。「何度か、ねぇ……」その呟きは、静かに手元のファイルへと落ちた。
もう一分たりとも待てない気配を背中で感じたが、ついこの間実際にそう言っていた別の者とは質が大違いである。和みはしないし、楽しくもならない。仕事とプライベートで分けたとしても同じだろう。
タクトが目を合わせると、依頼人は膝の上で鞄を強く握っていた。
「それでご依頼の件ですが。調査は終了しましたので、期間の延長は必要ないでしょう」
「では、見付かったんですね!」
嬉しそうに声を弾ませる依頼人だが、見付からない方がそうであるべきだろう。やはり彼女はどこかおかしい。
タクトは片眉を心なしか下げつつも「えぇ、浮気されてました」と、ファイルから一枚取り出しテーブルの上を滑らせた。
「あなたとです」
「……え?」
鞄に食い込んでいた長い爪は力を失い、グロスが輝く唇から困惑が漏れた。その様子をどこか虚ろな視線で捉え、タクトはもう一度言う。
「浮気相手はあなたでした」
だから不思議だ。秘密を暴いてどうなると思っていたのだろう。それは、自分の為のみに留まる独りよがりとも違うというのに。
仕事用の愛想笑いではあったが、ここ最近のタクトの中では、もっとも綺麗な表情だった。
テーブルの上に置かれた、調査対象の男性の顔写真の他は、ほとんど黒塗りで隠された一枚の紙。しかし、白い指が示した箇所にそれはなく、配偶者と書かれた項目にはしっかり『有』と記されていた。