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そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
CASE1《とあるOLの場合》
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依頼



 ひんやりとした冷たい空気が微かに残る夜を消し、光が温もりを取り戻していく。街が徐々に動き出す上空で鳥の声が優しく響き、一日の始まりとしては最高な天気だ。

 早朝、タクトは熱めのシャワーを浴び、しつこい眠気を覚ましていた。

 ただでさえ線が細いというのに着痩せするタイプで、大抵の相手へ雰囲気から何から全てにおいて薄い印象を与える身体だが、湯気が立ち上る水滴は思いのほか立派な筋肉の上を滑っていく。梅雨時期にはうねりが酷くなる薄茶色のねこっ毛が頬に張り付き、鬱陶しさからかかき上げる仕草は、それだけで多くの女性の色欲をそそるはずだ。

 名もなき探偵事務所を家に、ポツリポツリと訪れる客の依頼を消化する生活を送っているタクトは、一見するとそのまま湯気の中に霞んでしまいそうな、探偵らしからぬ儚げな青年だった。

 頭が冴えるまで思う存分シャワーを浴び、肩にかけたタオルで髪を拭きながら脱衣所から出てくるころには、外はすっかり喧騒で満ちていた。

 古びたビルの三階からは、繁盛しているのか、何を売っているのかもあやふやな店のシャッターを開ける店主の後ろ姿や、足早に会社へと向うサラリーマン。ヘッドフォンから微かに音を漏らしながら登校する学生など、様々な人が見下ろせる。タクトはそんな、人がいてこそ生まれる景色が好きで、毎朝必ず眺めていた。

 ただし、心底を映さない灰色がかった目は微動だにせず、表情が浮ぶこともない。

 しばらくして、まるで自分が生きていることを思い出したかの様に、乾き始めた瞳をまばたきで潤し、髪をあとは自然乾燥に任せてタオルを適当な場所へかけておく。

 そのままゆったりとしたペースで事務所の外、ビルに備え付けのメールボックスがある場所までおもむくと、新聞を手に一度だけ大きく朝を吸った。

 そこでやっとタクトの表情が変わる。目覚めてからここまでの間で、ピクリとも動かなかった表情筋は、彼の身体で最も目覚めるのが遅いのだろうか。もしくはただのお湯では、内側まで温めることはできないのかもしれない。

 とても淡い、人によっては泣きそうに見える微笑み。事務所に戻ろうと、朝日からビルへと振り返ったとき、タクトはか細く呟いていた。「おはよう」と――

 まるで隣に連れそう誰かが居るような、冷たくも艶やかな響きへ返ってくる声はない。タクトにとってそれは当然で、所々ひび割れた階段を上って事務所へと戻る。

 こんどは新聞片手にそのまま、奥に備え付けのこじんまりとしたキッチンへ移動し、小さな冷凍庫を開けた。

 中で並ぶのは全て、コーヒー豆を保存したビンである。ざっと数えるだけでも、二十は越えているだろうか。奥行きもあるので、実際はもっとあるだろう。

 タクトは迷うことなく手のひら大のビンの一つを取り、目線は新聞の一面へと向いていた。

 お湯を沸かしカップを温め、慣れた手付きで手動のミルを使って豆を挽く。事務所は徐々に、芳ばしい香りで満たされていった。

 まるでこの場だけ、時間の流れが違うように思えた。朝といえば慌しく、焦りを抱きやすい時間帯だが、タクトの動きは一種の儀式めいた神聖ささせある。

 コーヒーと新聞を手に、最も日あたりが良い仕事机に座れば、後は暫く立ち上がることがない。

 目覚めの一杯を楽しみながら世の中の動きを追い、カップから離れた手は一度、デスクの上にあるノートパソコンの電源を入れた。

 そこらの女性より細い足をタクトが組みかえたのは、刻まれた文字の全てを読み終えてからだった。

 興味を失ったと新聞を放り、小さな息を一つ落とせば、こんどはひっそりと置いてあった携帯のチェックを始める。が、パソコンも含め現実的なその機械は、タクトの無機質さに負けているからかどこか不釣合いだ。

 友好関係など皆無に思える雰囲気をどれだけまとっていても、それでは探偵という特殊な職は務まらないのだろう。意外にも、夜から朝にかけての数時間で届いたメールは十通を超えていた。

 その内の三割はどうやら同じ人物らしい。誰一人へも返信することなくタクトは携帯を置く。通話履歴も同様で無視した。

 そうして次の作業だと言わんばかりにパソコンへ意識を移すと、再びメールのチェックを始める。ただ、こんどは一通一通時間をかけて把握し、何通かは返信していく。

 タクトは今でこそ探偵をしているが、彼がこの仕事を始めたのは一年ほど前からのこと。それまでの五年間は、各地を転々としながら、大抵はホストとして働いていた。見た目からはそんな根無し草だったことや、夜の光に紛れていたなど想像できない。

 しかし、タクトは間違いなく元ホストの探偵という肩書きを持つ、本質が極めて不明瞭な青年だ。

 携帯を知っているのはもっぱら夜関係の人たちで、現在の仕事繋がりの相手には、いつでも楽に連絡を絶てるパソコンしか教えていない。

 確認を終えてから、数度コーヒーを入れ直す以外、タクトはずっと読書をして午前中を過ごした。

 客が訪れたり仕事がある気配は微塵もなく、これで事務所がやっていけているのか不安である。

 当の本人は、あくまでゆったりとした時間の消費を楽しみ、時折目を休ませるように窓の外へ視線を向けたりしながら活字に溺れていた。

 ページをめくる、見た目とは裏腹で何人もの女を喜ばせてきた長い指が止まったのは、タクトが朝食どころか昼食の存在も忘れていたことを思い出し、読み終わってからにしようと考えていたときだった。

 事務所に響いた控えめの、恐る恐るな感情がたっぷりこもったノック音。どちらかといえば、ガタガタと扉が悲鳴を上げているだけの気もしなくはないが、古くともまだまだ現役なことはここの探偵が一番よく知っている。

 あと数ページしか残っていない本の帯をしおり代わりに、デスクのひきだしへ仕舞ったタクトは、朝のタオルがそのままであったことに気付きながら言った。


「どうぞ。開いてますよ」


 この一年、看板も何も無い事務所を訪れる客が、返事をしてすぐに入ってきたことは一度もない。それどころか、ノックをしたにも関わらず立ち去ってしまうということも日常茶飯事で、タクトは暢気に脱衣所へタオルを片付けに行っていた。扉が開いたのは、彼が応接用のソファーに置くクッションを念のためおき直している最中。

 サビを混ぜた金属音が響き、相手の緊張と共にタクトの領域へと侵入する。

 そこに居たのはいまどき珍しい、一度も染めたことがないからこそ出せる艶を持った黒髪が綺麗な、清楚さたっぷりの女性だった。

 歳は二十代後半。派手でも地味でもなく、自分のタイプをしっかりと把握している服装や醸し出す雰囲気から、それなりの企業に勤める会社員だろう。


「ようこそ、ご依頼ですか?」


 クッションを直すために曲げていた姿勢を正すあいだで相手の大まかな情報を得たタクトは、出迎えたのが自分より若い相手だったことを驚く女性へ柔らかく微笑む。一人の時の無表情さとは大違いだ。


「あの、こちらが探偵事務所だと伺ってきたのですが」

「そうですよ」

「あなたが……?」


 半信半疑、じゃっかん訪れたことを後悔するようないぶかしむ態度には慣れているのか、ペースを乱すことなく座るようすすめ、タクトは飲み物を用意するのでと一度離れる。そして、朝と同じように冷凍庫を開け、今度は別のビンを取り出す。このとき、彼は探偵の顔となって垂れ目を細めていた。

 応接用のソファー――客を座らせる場所――は、キッチンから良く観察出来るところに配置されており、逆側からは上手いこと隠れるようになっている。女性は落ち着かない様子で視線を彷徨わせ、警戒からか携帯を取り出し膝の上に置いていた。

 そういった動作や表情の変化、無意識な仕草の一つ一つを丁寧に観察しながらコーヒーを淹れ、香り立つそれを持って戻れば、タクトの姿を捉えて女性の身体が強張った。


「お口に合えば良いんですが」

「ありがとうございます」


 もう一度、緊張を解すように微笑み、向かい側へと座る。

 女性の前に一枚の名刺が差し出されたのは、自然を装い目線をずらし長い黒髪を滑らせながら頭を下げたその時だ。


「改めまして、ようこそ」

「あ、えっと……」


 名刺の白とたいして変わらない色白な指がひいてからそれを受け取った女性は、困ったように逡巡した。

 その理由を瞬時に理解したタクトが「お名前は依頼をお引き受けする時で構いませんよ」と言えば、安堵を浮かべる。

 カタカナでただ『タクト』と書かれ、住所とアドレスだけが記された名刺をもう一度見てから、女性は「他にスタッフの方とかは?」と控えめに尋ねた。「僕ひとりです」答えると、初めて目を合わせ遠慮がちに「失礼ですが、お幾つですか」と聞く。


「二十四です。ちなみに探偵歴は一年と少し」

「……お若いですね」


 これといって気分を害した様子も無いタクトにホッとしつつ、女性は素直な感想を漏らす。

 こういった態度も、これまでで何度も経験してきたものだ。タクトはどう見ても、たとえばストーカーを投げ飛ばせる男らしさや、女性を庇える頼もしさを持っていない。さらにの年齢の若さは、仕事上の信頼を得るには厳しいものがあった。

 しかし、ある種の悩みや事情を抱える者たちにとっては、扉を開くまでの戸惑いと、タクトと会ってから持つ不信感を無視してでも確かめてみたいものがこの事務所に存在する。

 探偵を始めた当初こそホストでの人脈を使い仕事を得ていたが、最近ではむしろ、とある噂を頼りに客が訪れていた。

 今回の女性も例外ではない。彼女はしばらく悩む素振りを見せていたが、温かな湯気と優しい香りを放つコーヒーをおずおずと口にし、その味に驚いた様子で目を瞠ってから意を決して口を開く。


「浮気調査をお願いできませんか?」

「ではまず、詳しいお話をお伺いしましょう」


 淡々とした声を出した女性のカップを持たないもう片方の手では、肌の色が変わるほど強く携帯が握り締められていた。

 タクトはそれに気付きながら、浅く頷き依頼を受けるべく話を続けるよう促した。


 このように、古びた怪しいビルで事務所を構える不思議な探偵の元へは、ぽつりぽつりと客が訪れる。様々な形の、自分だけの愛を見つけるために。

 今回の依頼主はどうやら、与えられるべき愛の行方を探しているらしい――




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