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そして僕等は夜に溶ける  作者: 林 りょう
CASE4《とある犬好きの場合》
18/44

散歩




 静寂が濃い季節を越え、陽光や人々はもちろんのこと、花の蕾一つ一つをとってもやすらぎ溢れる春が訪れた。少しばかり寒さを残した風は、頭上から降り注ぐじんわりとした温かさのおかげでとても心地が良い。

 タクトは文庫本片手に、事務所近くの河川敷を散歩していた。

 しばらくすると、点在するベンチの一つに腰かける。身を粉にして人々が働いているというのに、そこにはまるで時間が存在しない。

 お気に入りな藍色のブックカバーの手触りを堪能してから、竹で作られた古風なしおりが挟まれたページを開く。

 春は好きだ。家でのんびりする冬のスタイルも嫌いではないが、外の空気を堪能できることが、タクトにとっては当たり前ではない。――未だ、そう思うことが出来ずにいる。

 聞こえるのは、鳥の鳴き声や遊具がある場所から微かに届く子供の声で、車などの人工的な音はさらに遠い場所にある。たまに混ざるジョギングの足音はまるで歌っているようだ。

 手元で固定されているタクトの目は透明度を増し、陽射しが艶を作る。ページを捲る動きが、次第に緩やかになっていった。

 小野寺まゆみの依頼を仕事納めに年を越してから、すでに四ヶ月が経つ。三年目となる今年、タクトはあまり事務所を開けなくなってきていた。

 一年目は生活が激変し、新鮮さが際立った。二年目、依頼ではなくそこに関わる人々へ目を向けていられる余裕を得て、自身の変化を実感した。そして生まれたのが葛藤だった。

 タクトは今、これからの自分を深く考えるようになっている。今の街に来てからは三年と半年ほど。そろそろ潮時だ。むしろ、今までと比べればとっくに居過ぎてしまっている。

 一年半働いたソワレを辞めた時から既に、どんな所でも必ず膨れてしまう虚無感を抱えていた。探偵業を始めたことで一旦は静まったそれは、焦燥にも似ている。各地を転々としてきたのは、その感情に従っていたからにすぎない。

 けれど、今までであればあっさりと離れられたのが、今回ばかりはそう簡単にはいかなかった。

 良くも悪くも、人との繋がりを多く結んでしまったからだろう。引っ越しをしようと思った次には、目蓋の裏に彼らの顔が浮かんでしまい、葛藤はそこからじわじわと湧き出ている。

 さらに昨日のこと。日課の朝刊を取りにメールボックスを確認した時に届いていた手紙が、綾乃のおかげで一度は治まった眩暈を再び呼んでしまう。

 白い縦長の封筒の裏には、以前とは違った丸みを帯びた文字で差出人の名が、長谷部一葉と記されていた。

 交際相手が浮気をしていると思えばあろうことか既婚者で、騙されていた事実を受け入れられず凶行に走ってしまった哀れな依頼人。手紙は律儀にも自分の結末を知らせるもので、しかしそれだけではゴミ袋の中で皺だらけとなって、収集車に回収されていただろう。

 そうならなかったのは、ひとえに最後の一文が、タクトの中を大きく強く抉ったからだ。


 『あなた()、人を殺したことがありますか?』


 尋ねているようで、まるで確信をもって書かれたその文字だけは、硬く尖っているようにみえた。

 丁寧に封筒へと戻された手紙は今、仕事机に大切にしまわれている。返事を書くつもりは毛頭ないが、おかげでタクトは気付いてしまった。

 さらに、その文字が目に飛び込んだ時に重なった声がある。


 『子供と大人の境目ってどこだと思う?』


 自分が迷子だと気付いていない、薄汚れた目をした家出猫が曝け出した精一杯の胸の内は、雪解け水と共に流れてはくれなかった。どれだけ問われたところで、答えは持ち合わせていない。

 俯いた顔に影を作る長めの前髪の隙間から差し込む光は、まるで木漏れ日のよう。タクトはいつの間にか微動だにしなくなっていて、右手はベンチの上に落ちていた。押さえのなくなったページが、風の悪戯で一気に捲られる。

 もしかすると、読んでいたのだろうか。タクトが起きた時にエンディングが飛び込んでしまわないよう、ブックカバーはさすがに持ち上げられなかったらしいが、それ以外はしっかり閉じてから風が止む。サラサラと、前髪が余韻に浸った。

 そんな時だ。夢の彼方へ旅に出ていた意識が、膝に与えられた衝撃によって覚醒する。

 寝てしまっていたことに気付くより先に、タクトの目にはその正体が飛び込み、それが作る弾んだ息遣いが耳に響く。


「…………犬?」


 タクトの膝に前足を乗せ、ピンクのボールを咥えて見上げていたのは、若いジャック・ラッセル・テリアだった。友好的な目は期待たっぷりで、寝起きな状態では眩しいぐらいだ。

 首輪が青く、顔つきからしてもオスだろうか。とりあえず飼い主を探して周囲を見渡すが、近くにそれらしき人影は見当たらない。

 その間も前足を置かれたままで、しかも痺れをきらしたのか、勢いよくボールを渡してきた。激しく振られる尻尾が膝を揺らすせいで、危うく落ちてしまいそうになる。


「暢気な迷子だなー」


 慌てて手に取れば、投げてくれると勘違いして可愛らしい声で吠える。

 仕方なく本を隣に置き腕を振りかぶれば、くるくると回ってから駆け出した。フライング甚だしい。

 急いで投げると小さな身体の上をボールが追い越し、すぐさま見事な脚力を見せるも開いた口が噛んだのは空気のみ。草の上を弾むピンクを追いかけ、そのままの勢いで咥えようとして、間抜けに逃げられてしまう。

 それを何度か繰り返してやっと捕まえた時には、タクトが投げた距離から大分伸びていた。

 なるほど、そうやって迷子になったのか。納得していると、あっという間に戻ってきて足元にボールを転がし、お行儀良く座る。

 草の上を激しくスライドする尻尾に、丸い瞳の潤み具合。褒めてほしくて仕方がないらしい。タクトは草の上に膝をついて、首と顎を包むように両手で撫でてやった。耳の裏を掻けば、とろんと呆けている。


「飼い主が心配してると思うけど、いいの?」


 尋ねても返ってくるのは暢気な一声だけだ。どうしてか無条件の信頼をタクトに寄せている。

 人懐っこく元気溢れた様子はとても犬らしく、それでいて凛々しく賢そうな顔立ちは、しっかりと躾けられている安心感を漂わせた。

 首輪のタグを確認すれば連絡先が書かれていたので、暫く待ってみて現れなければ電話をしてみようと、立ち上がってボールを足元で大きく弾ませてみる。新しい遊びに、垂れた耳を器用に持ち上げて興奮する姿は、おのずと笑みを誘った。

 なにからなにまで全身を使って全力でなど、タクトには出来そうもない。無邪気になることだって難しい。自分が自分でいる間は常に、全てが二重に見えてしまう。

 ボールと戯れる犬に、思わず皮肉だとぼやいた。


「本当に飼われてるお前の方が、生き生きしてる」


 自力で餌を取ることを知らず、飼い主と離れてしまうことが危険だとも気付かず。遊ぶ時だけ外してもらえるのだろうリードは、繋がれている犬にとっては煩わしいものかもしれない。けれど、タクトからすれば、それは間違いなく自由の証だ。

 本当の鎖は目に見えない。限りがない拘束ほど厄介なものはない。


「ずっと守ってもらえれば良いな」


 一心不乱にボールを奪おうとする姿を眺めるタクトの目は、とても――とても優しい光を帯びていた。見る者の胸をどうしてか締め付ける、痛みと紙一重な眼差しは羨望でもある。

 残念ながらこの犬は、現時点で運が悪ければ悲惨な目にあっていたかもしれない状況だが、タクトが放置するはずがない。それどころか、見事ボールを手に入れると、安心させるようにか細く鳴いた。心細いのは彼であるべきだというのに、まるで慰めてくれている。


「気にしないで。僕が捨てられたのは、とっくの昔だから」


 タクトも理解しているのかいないのか、到底一方通行とは思えない呟きと共に、小さな身体を抱きしめた。

 どうしてこんなにも温かいのだろう。ああ、そうか。

 お日様の匂いがたっぷりな犬の短い毛に頬を寄せながら、タクトは悟った。あの人も、こういうのを望んで手を差し伸べていたのかもしれない、と――


「うた! やっと見つけた!」


 大人しく身を委ねていた犬が大きく吠え、低い声が安堵たっぷり響いたのはそのすぐ後だ。

 離してやれば勢い良く腕から飛び出し、遅れて振り返れば、背後には大柄の男性が同じく大きな犬を連れてやってきていた。


「心配したんだぞ!」


 どこに行ってたの? まるでそんなことを聞いている様子な飼い犬にリードを着け、小さな身体を豪快に撫でる。

 飼い主と飼い犬は似ると良く聞くが、確かに。その男性は、隣で静かに座って一人と一匹を眺める真っ黒な大型犬と同じくらい存在感たっぷりで、そのくせとても穏やかそう。それでいて、ジャックラッセルのお茶目さたっぷりな瞳とそっくりだ。言うなれば、大きな熊のぬいぐるみだろうか。

 女性が評価するならば、結局は可愛いで丸く収まるのだろうが、同性にそう思われるのは些か哀れで失礼でもある。大型犬が敏感に察し胡乱な目を向けてきた気がして、タクトはとりあえず微笑んでおいた。

 そういえばボールを忘れている。足元の鮮やかなピンクに気付き、タクトはベンチの文庫本も回収してから彼等に近付いた。


「これ、忘れ物です」

「え……? あ、ありがとうございます!」


 男性はタクトに気がついていなかったのか、大袈裟に肩を跳ねさせてから慌てて頭を下げていた。

 なんとも気が弱そうだ。けれどそれは、不思議と頼りなさにはならずに魅力となっていて、タクトとは正反対である。


「もしかして、うちの子がご迷惑を?」

「いえ。むしろ僕に付き合ってもらって……。すぐに連絡をせず、すいませんでした」

「とんでもない! 近くのドッグランで遊ばせていたんですが、誰かが入口を閉め忘れたのか。少し目を離した隙に脱走してしまって」

「好奇心旺盛で賢そうですもんね」


 ボールを手渡し視線を下げると、褒められていると思ったのかお礼を言っているのか、一際高くジャックラッセルが吠える。もはや立派な友人だ。もしかしたら、その中の誰よりも優秀かもしれない。

 そして飼い主の男性は、こちらもこちらで可愛い飼い犬の様子に、申し訳なさと緊張を映していた相好を崩している。

 そっくりだと、思わず笑ってしまいそうになった。


「にしても、大きな子ですね」


 どうみても人見知りな相手ではあったが、そんなものとは無縁なタクトの興味は犬に向く。

 動物は好きだが、わざわざ飼う気はなく、触れ合う機会があまりないのだ。

 どうするべきか困っていた男性も相当な犬好きなのか、タクトの言葉にどこかホッとしていた。


「ニューファン……、ニューファンドランドという犬種で。大きい分、見た目は怖いですけど、すごい優しい子ですよ」

「でしょうね。そんな顔をしてる。後で小さい子をちゃんと叱ってくれそうですね」


 そう言うと、伏せながら当たり前だと、ニューファンが吠えるというよりは大きな鼻息で返事をしたようだった。タクトと男性、二人は思わず笑ってしまう。


「何か飼われてるんですか?」

「いえ。好きではあるんですが、そこまでは。僕には、一生面倒をみてあげれる自信がないんで」


 タクトからすれば、当たり前のことだった。何かを飼うとはそういうことだ。どれだけ金銭的に余裕があろうと、自分すらままらないのに出来るはずがない。

 けれど男性は驚いた様子で珍しいと、そして何も言わなかったが嬉しそうに二匹の頭を撫でた。


「こっちの小さいのは歌之助、大きいのがどんぐりです。良ければ、お気軽に店へ遊びに来てください」

「店、ですか?」

「えぇ。実は私、ドッグカフェを経営していて。あなたの様な方であれば、いつでも大歓迎です」


 ここです。男性はそう言って、かなり可愛らしい犬の足跡が散りばめられた名刺を取り出し、裏に記された地図を見せる。

 それが、久しぶりの依頼人、前原 学(まえはら まなぶ)との出会いだった。


「犬を連れていなくても大丈夫なんですね」

「もちろん。本当に犬がお好きな方であれば」

「じゃあ、近い内に」


 約束だと歌之助が吠えながら跳び、どんぐりはまたしても鼻息でタクトへ何かを言っていた。しょうがないから待っていてやる、おそらくそんな感じだろう。

 常連になるかどうかは、彼等に世話をされていそうな前原のオーナーとしての腕にかかっていた。






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